「正義感」と「被害者意識」は表裏一体

幼稚園とか保育園くらいのごく幼い頃には、誰しも「将来の夢は?」と聞かれたことがあると思います。私が今でも覚えているのは、保育園の卒園時に「婦人警官になりたい」と言ったことがあるということです。なんでそう思ったのかは今となっては不明なのですが、おそらく交通整理的な仕事(?)をするところを見て何か憧れを抱いたのではないかと思います。周りが○○ライダーとかお花屋さん、ケーキ屋さん、と言うところを、婦人警官と言うあたり、当時から真面目でお堅い気質があったことが伺えます(笑)。

小学校に入ってからも真面目で正義感が強い方だったと思います。給食当番とか掃除とかどのクラスにも絶対サボる人がいるんですけど、私はいつでもサボらず真面目に取り組んでいましたね。昼休みの時間が終わっても遊んでいて教室に戻らない人が遅れて入ってきて先生に怒られたりすることもありましたが、当時から「5分前の鐘が鳴るんだから戻ればいいじゃん」と思っていました。なんで一部の人が時間を守らないだけなのに、ちゃんとしていた自分も怒られる現場にいないといけないのだと感じることが多かったです(時間の無駄ですよね)。真面目にいい子にしているからこそ、とばっちりを食らうような経験を昔からずっと自分のパターンとして持っていました。

これを第3チャクラの問題と関連させてみると、「正義感」と「被害者意識」の問題が見えてきますね。確かに小学校のころからよく「胃がむかむかして気持ち悪い」と言っていたので、不満が多かったのでしょう。第3チャクラは過剰に働きすぎると正義感が強く、何でも自分が正しいと思ってジャッジする傾向が強く出ますし、活性が不足していると自己犠牲気味だったり、他人のせいにしたり、被害者意識を持ちがちだったりします。幼少期から私はこのバランスについて学んできたように思います。常に「正しさ」の呪縛に苦しむエゴがあり、人や自分をさばいては苦しめる習慣がありました。今でもともすれば過剰な正義感が働きそうになることもありますが、以前よりそのことに自覚的なのでちょっと俯瞰してみると、「あぁ、ちょっと過剰だったわ…」と内観することができるようになりました。これが「丸くなる」ってやつですかね。

被害者意識というのは、自分は正しい、相手が悪い、というジャッジによって生み出されます。「掃除をサボる人が悪い」、「怒られるようなことをする人が悪い」、だから真面目にやる私は被害者なのだと。正義感が強いと被害者面をすることも多くなるでしょうね。正義感と被害者意識は表裏一体なのですからね。どちらも第3チャクラのバランスが悪いです。小学校時代の私の場合は、なんとなくやらされ感や自己犠牲的な意識があったように思います。みんながやらないなら私がやるよ…みたいな。掃除をしたらきれいになって気持ちが良いからやろう!という前向きな意識ではなかったんですよね。英語で言うと「willing to do」的な意識でいればよかったわけです。また、時間をオーバーして遊ぶ人に対して苛立ったとしても、じゃあ私もそうしたいかというとしたくはなく、ただ自分がそうしたくて時間を守っていただけだったんですよね。時間を守ることで先生や周囲の人からの「真面目で信頼できる人である」という認識を得られると思ったからその行動を選択していたのです。

このパターンは大人になってからも癒えずに持っていますね。公務員時代も同じようなことで苦しみ、それで辞めてしまったわけですからね。第3チャクラのバランスをうまく取るというのは、私にとっては幼少期からずっと持っている課題です。今でこそ過剰に正義感を振りかざして誰かをジャッジして批判することも、常に自己犠牲的で被害者意識を持って生きることもだいぶなくなってきたと感じますが、昔はこの傾向がとてもありましたね。ここ数年は「○○すべき」という表現を意識的に使わないようにしていて、noteを読んでいただいてもわかるように、ほとんど言っていません。私がべきべき言ってしまうとすごいキツイ印象になるのでやめました(笑)。この世に「正しい」「間違っている」ことなど一つもありません。他人や自分を裁くヒマがあったら自分の人生に集中して第3チャクラのバランスをしっかり整えていこうと思いました。

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