ありのままの自分を認め、未熟な自分を磨いていく

世の中的にもスピリチュアル界隈でも「ありのままの自分を認めよう」といったメッセージは耳にタコができるくらい聞いてきました。その言葉だけ見るとあまりにもありふれていて、かえって薄っぺらさすら感じる部分もありますが(笑)、自己肯定感が低いのがデフォルトの現代人にとってかなり胸に染みるメッセージだと思います。自己否定や自己嫌悪に陥ってどうしようもないとき、心が本当に苦しい時にそういった言葉をかけてくれる人がいたり、本やネットのメッセージを見つけて励まされることはあると思います。

私自身も何回か人生の底時代と思われる時期がありました(笑)。一つは就活の時期、一つは仕事を辞める前に休職するほど心身の不調を感じていた時期です。その頃は本当に自己嫌悪感がひどくて、なんて自分はダメなんだろうと落ち込んで泣いてばかりの日々もあったように思います。そういう時に「ありのままの自分で良いんだよ、ありのままの自分を認めよう」と言われると、緊張していた心がゆるんで、肩の力が抜けるようなリラックス感を感じることがありました。そういう意味で、スピリチュアル的なメッセージというのは、ひどく弱っている人の心には染みるものがあるし、そういった言葉やそう言ってくれる人に救われて立ち直る人がいるのは確かだろうなと思っています。

そんな時期から数年たって、自分なりに内面の探求を進めていくと、やはり自分が変わってきているのがよくわかり、当時のようなひどい自己否定、自己嫌悪感に襲われ、囚われ、巻き込まれる感覚というのはほとんどなくなりました。今もこんな自分はダメだなと思うことはありますが、その思いに振り回されずに、どこか客観視している自分がいる感じがします。表面的には自分はダメだなと思っていても、それは幼少期からのパターンがそういった感覚に陥らせているのだということがわかっているということだと思います。メソメソ泣くことはあっても(泣いて浄化する)、本当にその感情に振り回されてはいないという感じです。

今は「ありのままの自分を認める」ということは大前提としてそうなんだけど、とはいえ何でもOKではなく、未熟な自分もしっかりと見つめて、磨いていきたいという気持ちが強いです。本当に自分を変えて、人生をより良いものにしていきたいという思いがあるのであれば、未熟な自分を見つめて反省して改善していこうという意識は、やはりどうしても必要なのではないかと思うようになりました。未熟な自分から目をそらさずにしっかり見つめて、向き合っていくという痛みを経ずして、「自分はこのままでいいのだ」と開き直って生きていっていいのだろうかと思っています。そういう思いが根底にあったからこそ、いわゆる俗世のスピリチュアル的なものにはそこまで深くハマらなかったのかもしれません。

内面の探求、意識の変容というのは、段階があるのだろうなと感じました。本当に自己否定感が強くて悩んでいる人には「ありのままの自分を認めよう」が染みると思いますが、ある程度内面を見つめてくると、そういったメッセージにはピンと来なくなるものなのかもしれません。正直、今の人間の精神性というのは、客観的に見て「ありのままでいい」と言っていいほど高いものではないと思っています(笑)。己の欲望のままに支配、搾取、環境破壊、人権侵害、性暴力…そういったことが公然と行われている社会です。未熟な自分を見つめて反省するのって本当に苦しいし、自分の表面的なエゴが猛反発することも多々あります。それでも、日々の生活の中でコツコツと続けていくと、その努力が報われていると感じる瞬間があるのもまた事実です。欲望の道に進んで、他人との競争や比較の中で限りない欲望を追い求めて翻弄されて生きるのか、内面を磨く道に進んで自分を見つめ、限りなく自分を磨いていくのか、その選択によってその人の人生は全く違ったものになると思います。また、後者の人が増えることで、世の中全体も大きく良い方へ変わっていくのではないかと思います。

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