何でも「ストレス」「遺伝」で片付ける思考停止

「ストレス」って便利な言葉だなと思います。最近自然療法系に興味を持って勉強し始めた友人と話していても、何でもかんでも「原因はストレス」で片付けすぎだよね、という話題になりましたし、それ以上の原因を考えずにただ薬を飲むだけ、といった対症療法的な今の医療の在り方に疑問を感じます。また、「遺伝」というのも確かにあるのでしょうが、何でもかんでも「遺伝だから仕方ない」、で片付けてしまうのもどうなんだろう?と思います。先天的な病気や難病もあると思うので一概には言えないのですけどね。

昨日の仕事も恋愛も健康も「幼少期」が肝という記事で、あまり健康と幼少期のブロックの関係性を書かなかったので少し書こうと思います。もしも、病気や体調不良の原因が「ストレス」だというのであれば、その「ストレス」がなぜ生じるのか、なぜ減らせないのか、そのストレス下にずっと耐えなければならないのかを掘り下げていくと、必ず幼少期に受けたトラウマによるブロックにぶち当たります。現代社会においてはストレスはあって当たり前で、それを減らすとかなぜストレスに感じるかを考えるのではなく、ストレス発散法や解消法に目を向けさせ、それを消費活動につなげているきらいがあります。ストレス発散商法とでも言うのでしょうか?ストレスがあるからこそ、買い物をしたり、旅行をしたり、たくさん食べたりすることで発散しよう、と言うことになり、モノが売れる…そんなサイクルがあるように思います。

「ストレス」の大きな原因は主に対人関係だと思います。対人関係ストレスは間違いなく幼少期のトラウマが大きく関わっているので、相手を鏡だと思って自分を見つめる大きなチャンスでもあります。しかし、相手が悪い、環境が悪いと外の世界のせいにしていると、いつまでもその世界から抜け出せず、どこへ行っても同じような人や状況に苦しめられるパターンを繰り返すだけです。自分を見つめて原因となるブロックに気づき、癒して解放して意識を変えない限り、そのストレスから根本的に逃れることはできないんですね。自分が癒されて変わっていくと、周りの対応が驚くほど変わるという経験をする人も多いですが、そうして一つずつ丁寧に自分を見つめてストレスの大もとを軽減することはすごく大切だと思っています。

「遺伝」という話にしても、もちろん親が○○病になってたからとか○○病の家系で…ということはあるのだと思いますが、それは本当に遺伝なのかはわかりません。もしかしたら、家族の食べ物の傾向が関係するのかもしれませんし、環境も関係があるかもしれません。それこそ親から受け継いだ幼少期のブロックが脈々と悪さをしているかもしれません。「遺伝」と言うと、「だからどうすることもできなかった、不可避だった」という自己正当化にもつながると言うか、生活習慣や幼少期のブロックの問題に目を向けさせないことになると思うんですね。生活習慣の非や後ろめたい部分を認めたくない、自分は悪くないとさも言いたげなのです。私自身は生活習慣の改善や自分の内面を深く見つめることなしに、体調不良や病気は完全には良くならないと考えているので、(特に大人になってからの病気で)「遺伝だから仕方ない」と片づけてしまうことについては疑問に思ってしまいます。

現代社会においては、インスタントな解決策が重宝される傾向が強く、なんでもかんでも対症療法的です。ストレスがあるなら発散しよう、病気になったら薬を飲もう、待機児童が増えたら保育園を建てよう、長時間労働が多いなら禁止しよう…全部そうです。そもそもなぜそうなったか?ということには目を向けないのです。そして根本解決に至らないまま、付け焼刃的にその場をやり過ごして何となく満足した気になる。その繰り返しです。この宇宙はマクロコスモス、ミクロコスモスと言われるように、すべてが相似形であり、私たち個人に起きることと社会全体で起きることは相似形。いつまでも対症療法では人間も社会も地球もいつかは我慢の限界がくるのは目に見えています。まずは個人でできること…対症療法に頼らず、ストレスや病気の根本原因はなんだろう?と深く自分自身を見つめてみること…に目を向ける人がもっと増えると良いなと思っています。

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

「note見た」で友達申請→村上遥のFacebook

Twitter再開しました!→Twitter

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?