一瞬の「闇」への恐れを乗り越えて

旅行から帰ってきた後は内省的モードに。本来の自分らしくいることの妨げとなる思い込みやブロックが浮上し、まだまだ幼少期の癒されていないトラウマがうずいているのだなぁと実感しました。トラウマや傷は普段は気づかれないように闇に潜んでいるものなので、何かの拍子に浮上するというのは実はとても良いことです。闇にいる限りは気づかずに悩みのもとになっていることが多いので、解放することもできませんからね。

やっぱり人間は闇を直視するのは怖いと思ってしまうもので、なかなか自分から見ようとはしないし、浮上しても見てみぬふりをしたり、逃げようとしたりしてしまう防衛反応はあると思います。しかしながらそれを繰り返していてはいつまでも同じパターンを引きずることになってしまって、本来の自分らしく生きられない不満を抱えながらなんとなく漫然と日々を過ごすことになってしまうんですよね。我が身を振り返ってもそうですが、人間何か困難や試練、辛いこと、悩みなどがないと次のステージへ進めないものなので、どこかで壁や行き詰まりを感じた時に、その闇をしっかり見つめて解放するプロセスというのはどなたの人生にも組み込まれた一種の定例プログラムでもあるでしょう。

私は今も昔もあまり運動は好きではないのですが、その原因となったかもしれない体験を思い出しました。いつからかは忘れてしまいましたが、小学校低学年の頃スイミングスクールに通っていて、おそらく小3くらいまで行っていたと思います。私はスイミングが本当に嫌で、毎週その曜日になると憂鬱でしょうがなかったんですよね。もう行きたくなくて行きたくなくて(笑)。先生が嫌とか友達が嫌とか思ったことはないのですが、普通にただ運動して苦しくて体力を使うのが嫌だったのではないかと思います。当時から行きたくない旨は家族にも主張していたのですが、親の意向で通わされていたという感じです。そもそも通っていることが不本意なのに、行きたくないと言うとわがままとかだだこねてとか怒られるので、しぶしぶ通っていたんです。当時はバタフライまで泳げるようになりましたが、今や25mクロールも泳げないと思います。

この経験が今の私にどんな影響を与えているかを端的に説明することはできませんが、良かったことも、トラウマとなってしまったことも両方あると思います。私には「親に怒られるのが嫌だからしぶしぶ言いなりになる」のパターンが昔からありますし、それが今の私の「本音は言わないで自分が我慢しよう」という本来の自分らしくいられないパターンの原因でもあると思います。この頃の「運動=苦しい、苦痛」という記憶が、私の今の運動嫌いにつながっているのかもしれませんし、人生に「もし」はないにしても、もし過去に自分の好きな運動を見つけられていたら、今も運動好きな人になっていたかもしれません。昨日の「弱点」を「才能」に変換して生きるに書いたような、自分の体力のなさや虚弱体質を振り返ったときに、「かといって運動するのも嫌なのだよなー」と思い、振り返ったのがこの思い出なのですね。

私の胃腸の弱さというのも、「言いたいことを我慢する」ことと関係があります。「胃」というのは「満足感」に関わる臓器なので、「不満」があるということは、胃の不調の根本原因と考えられるんですね。まぁそういった面から言っても、過去の満たされなかった思いが胃腸の不調となってたびたび浮上しているとも言えるし、とにかく「はやく気づいて解放して楽になって!」と身体から訴えかけられているような気持ちです。やっぱり「気づき」がすべてだなぁ、癒しって大事だなぁと、壁にぶつかるたびに思うものですね。

傷やトラウマ、問題が浮上したら、あとはその部分を丁寧に見つめて、さまざまなツールやワークで癒すのみ。闇に直面しているときは、嫌な気持ちもするし、辛いことを思い出して泣くこともある。それでもその後は確実に本来の自分に一歩近づけて、楽に生きられるようになるものです。その一瞬の痛みを恐れて見てみぬふりをするのは実はもったいないこと。しばらく自分の闇を見つめて、丁寧に解放していく作業に取り組んでいこうと思います。

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