「いい人」に潜む深い闇

昨日の「ない」と「見ないようにしている」は大違いの記事の続きになります。この一週間くらいは、楽しく過ごしている反面、闇の部分がかなり出てきて、どろどろとした感情や思考が自分の中にあったのだということに気づかされております。究極「愛想のよさ」が身を助ける(2016年3月22日)や退職してから「楽しさの閾値」が格段と上がりました(2016年3月27日)の記事を書いていたころは、光の強まりを感じていたので、その反動なのかなと思ったりもしています。

NOと言えない人、付き合いのいい人、流されやすい人、いつもポジティブワードしか言わない人…などなど、いわゆる「いい人」というのはそれ相応の闇を抱えていると思うんですね。人間誰しも光と闇を抱えていて、どの部分を対外的に出していくか、そのバランスだけだと思うんです。「気が利く人」ほど癒しが必要の記事にも似てきますが、「いい人」は「いい人」であるがゆえに、自身の深い闇に無自覚なことが問題なんですよね。社会や周囲への不満や愚痴、我慢を溜めこみがちで、どこかで発散していかなければつぶれてしまうのは目に見えています。メンタルになってしまう人には、「いい人」で断りきれないがんばり屋さんが多いと思いますが、このピラミッド社会は特に「いい人」には酷な社会で、傍若無人で神経太いような人の方がのうのうと生きている印象があります。小心者で「いい人」な私は、「いいな、私もあんな風に神経太く生きられたらもっと楽だろうに…(でもあぁはなりたくないしなれない)」と思うことが常で、自身の神経のか細さを嘆いていたものです。そこでも決してそういう人を悪く言うことはなく、自分の「そうでないこと」を嘆き落ち込むというのがこういう人によく見られる思考パターンです。

私も今まではそこどまりだったのですが、ここ最近の闇はそれではおさまらず、傍若無人で身勝手な振る舞いをする人に対して完全なる「怒り」や「憎悪」の感情が湧きあがってきて、「あぁ、そうだよね、そりゃ怒りたくもなるよね」と自身の感情を見つめるもう一人の存在を確認しています。イライラした時は掃除したりしてみて、少し落ち着いたら静かに内観するようにしています。身体のコリなんかも、怒りに気づいて発散するとふっと治るときもありますよ。

自分の感情に素直になることって、現代の日本人、特に「いい人」が美徳と思わされてそういう思考パターンになっている人にとってはかなり難しいことだと思います。しかしながら、私は対人関係においては「いい人」であることもやはり重要だろうと考えており、自分の感情を周囲にまき散らしたり、あえて相手を不快にするのは良くないだろう、と個人的には思います。ですから、今後とも対人関係において私の「いい人」的振る舞いが突然変わることはないでしょう。大事なのは、自分一人のときにそういった感情があることに気づき、認めて出しきって内観すること、そして時には信頼できる人だけに不満や愚痴を言うのも悪くないと思います。ブログなどで発散するのも良いでしょう。「いい人」ほど深い闇がある。そのことを自覚し、心身を崩してしまう前に、適宜発散する習慣をつけておくことが大切かなと思います。

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