親の「いい子」の基準がおかしい

ここ数回の記事では、闇を抱える子どもたちについて考えてきました。親が子どもに願望や期待を押し付けてしまうと、子どもはその期待に応えなければ愛されないと思い、「いい子」になろうとして自分を押し殺してしまったり、反対に反抗的な態度をとったりするようになると思います。親の意に沿うことをすれば褒められるけれども、そうでないと否定されたり、怒られたりしたことがある人はたくさんいると思います。それがまさに条件付けですよね。「子どもは褒めて育てよう」という人もいますが、条件付けの褒め方はかえって害にもなるなぁと思ったりもします。

よっぽどおかしな家庭でなければ、我が子が悪い子に育ちますように、と思っている親はいないはずです。ほとんどの親は子どもには「いい子」に育ってほしいと願っていると思います。では、その「いい子」って具体的にはどんな子なのでしょうか?これも心の友と話していた時に話題になったことです。一般的に親の思う「いい子」は、世間体が「いい子」だったり、勉強ができるという意味での頭の「いい子」だったり、立派な職に就いて稼ぎが「いい子」だったり…スポーツや芸術の結果が「いい子」とかもありそうですが…そういったものであることが多いのではないかと思います。あとは、ちゃんと自分の言うことを聞くとか、自分の老後の面倒を見てくれるとか、そういった面で都合の「いい子」という意味もあると思います。

親が自分の思う「いい子」像を子どもに押し付けるのは、どんな「いい子」像であっても望ましいことではないと思うし、ありのままにその子を愛する姿勢とは正反対だなと感じています。しかし、せめて「いい子」であってほしいと願うのであれば、もう少し視点を変えて、別の「いい子」像の価値観があってもいいと思うのです。それはもっと内面的なことです。弱い者いじめではなく弱い者を助ける心、慈しみや慈悲の心、高い道徳心や倫理観、正直、思いやりや優しさ、自分の考えや意見に基づいて生きられること、他人を喜ばせるために自分を磨こうとすること、仕事を愛し誇りを持っていること…人格や人徳というのでしょうか…今の世の中はそういったものがあまりにも軽視されているように思います。

世の中で評価される人のあり方というのもあまりに偏っていて、西洋的なものの考え方の影響を受けて、「外向的で社交的、はったりをきかせられトークが上手く、上司にゴマすりできる人=仕事ができる」みたいな傾向もあるように思います。実際にそういうタイプの方が出世する社会です。反対に、内向的で思慮深く、地味で言葉少ないけれども真面目でコツコツ努力し、正直で誠実な人…こういったタイプの人は目立つことを嫌い、野心や欲が薄いこともあり、あまり表立って評価されることはないように思います。親もどちらかというと我が子には前者タイプに育ってほしいと思う人が多そうです。

西洋的な価値観というのは「性格重視」と言われることもあり、「人格」は軽視されています。資本主義でバリバリ出世するためには、ある意味「人格」は捨てなければならないこともあります。不正に目をつぶらなければならない、悪事に加担しなければならない…そういった機会も多いです。親は子に稼ぎの「いい子」になってほしいと思っているかもしれません。子どもが労働者の富を収奪することで稼ぎの良い、人格としては最低な人間になったとしたら、親はそれで我が子を誇りに思うのでしょうか?試験の成績は飛び抜けて良いけれども、クラスメイトをいじめる子になったとしたら?結婚し子も生まれ世間体には泥はつかないけれど、配偶者や子どもに暴力をふるう人間になったとしたら?……大事なのは外面ではなく、やはり内面だと思います。親は子どもの考え、心を理解し、尊重しているのでしょうか。どんな子が本当に「いい子」なのでしょうか。どなたにとっても自らに問い直す価値のある、とても大切なことだと思います。

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