「生活のために働く」ことで寿命を縮めているという皮肉

地震の影響で被害を受けなかった東京の私でさえ漠然とした不安を抱くようになってしまいました。この不安や恐怖感の正体はいったいなんだろうと考えるとやはり「死」への恐怖ということになります。恐怖感と向き合うとき、必ず「死」は避けて通れない概念です。私は逆転の発想で「死」は恐怖ではないのではないか?「死」が恐怖というのは、洗脳により植えつけられた価値観なのではないか?と考えてみました。

もちろん防衛本能はあるので、とっさの時に死を避ける反応というのは必ずあるものですし、死にたくないという気持ちは常に備わっています。この場合の「死」というのは肉体の「死」です。死なないためには生活をしなければならない、生活をするためにはお金が必要、お金のために働く、という構図が現代社会においてははびこっていますが、肉体の「生」に執着しすぎるあまり、「精神」や「魂」の「生」を置き去りにしているのではないかなと感じました。肉体の「生」を優先し、お金のために組織の奴隷となって働くことで、肝心の「精神」や「魂」をすり減らし、結果として肉体の「生」の寿命を縮めることになっているのではないか、そんな皮肉の状況を感じるんですね。

私はスピリチュアル系のこと、宇宙の法則なども学び腑に落とすような日々を過ごしていますが、私たちは究極「意識」「エネルギー」であり、「精神」「魂」といった、目に見えないものこそが本質であると捉えています。もちろん乗り物としての肉体のケアが大事であることは言うまでもないのですが、それにしても「精神」「魂」の「生」というものが軽視されている気がしてなりません。また、「肉体」と「精神」「魂」の「生」というのは当然密接な関係があるわけであり、私たちの本質であるエネルギーレベルの「生」をしっかりと生きることで、物質レベルの「生」も安定し、健康でいられると思うんですね。

ですから、「肉体」レベルで死にたくない、生活していきたいのであれば、必要なのは現実的にお金を稼ぐこともそうですが、何よりまず「精神」「魂」の「生」をしっかりと生ききることだと思うんです。それが私たちの本質なのですから。「精神」「魂」を殺して、「肉体」として生きることだけに執着していては、結局心身を壊してしまい、寿命が縮まってしまいます。私たちに奴隷労働を強いる支配者層は、私たちに「意識」「エネルギー」なんてない、ばかげている、と洗脳し、お金を欲しがるように誘導し、生活のために盲目的に働かせ、最も大切な私たちの「精神」「魂」を日々殺そうとしているのです。さらにそれで不調になると化学物質の薬漬けにして私たちを追い込み、医療費を吸いとります。「意識」や「エネルギー」が肉体レベルに作用するまではタイムラグがありますから、ある程度までは肉体も耐えられるので、それなりに働くことができる。そこで病気になったらお金を巻き上げる。そういう仕組みであり構造ということです。

死生観というのは人生にものすごく影響を与えます。肉体の生にこだわり、精神と魂をすり減らして働く人生を送るか、精神と魂の生を輝かせてしっかりと生ききることで、肉体も健康で楽しい人生を送るか、それは完全にその人次第です。私は今、肉体の死を怖がる本能もありながら、精神と魂が死ぬことの方が恐いと感じています。自殺の多くは精神と魂が先に死んでしまったことにより、肉体の死を選択してしまうということだと思います。私はやはり、多くの人に魂を輝かせる人生を送ってほしいです。それがひいては宇宙全体、万物の調和につながっていくからです。

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