この世は自作自演のドラマであるということ

昨日の祝300記事&無執着の心地よさの記事の最後に、「自分で自分を苦しめる執着という名の自作自演の罠からさっさと抜け出して、」と書きましたが、この世の中は完全に自分自身の自作自演のドラマでしかないのだなぁと最近つくづく感じています。スピ系のブログとか本にはよく、「あなたは自分が主演の映画の監督、キャスティング、脚本、主演すべてをやっているのです。それを本当の自分(スピリット)が楽しんで体験しているのです。」みたいなことが書いてありますが、うーん、まさにその通りと思わざるを得ない(笑)。自分が主役で生涯に渡る長編大作を創っているということ。不満に思うこともすべては自作自演なんですよね。

今までにも「ドラマ性」の話は少し書いてきました。「金持ち・貧乏」の二元論を俯瞰するの記事には、お芝居と実生活の相似構造の話を書いていますし、「人間にしかできないこと」の価値は高まるの記事には、人間とAIを分けるものは「ドラマ性」であるということを書きました。やはりこの「ドラマ性」というのは、人間がこの地球に生まれてきたことの大きなカギになると思いますし、どんなドラマにしようか、ということについては生まれる前の魂レベルでの計画がある程度あると見ています。そしてその計画を解き明かすための占星術、数秘術などの叡智があったりするわけですが。本当は自分で計画してきたことなのに、その計画をすっかり忘れてしまっているがために、目の前に起きる事象に一喜一憂したり、外の世界が悪い、みたいな考えに陥ってしまうんですよね。

人の人生、そして世の物語ってすべて、「起承転結」をベースに作られていますし、「文脈・コンテクスト」が超重要ですよね。先日価値のあるものは宣伝されるの記事にPrayers Studioさんのお芝居を観に行ったと書いたのですが、上演作品は『ダム・ウェイター』(ハロルド・ピンター作)という作品で、こちらはいわゆる「不条理劇」のジャンルに入り、見終った後も「よくわからなかったね」と思うような作品だったんですね。その面白さにハマって何度も観てしまうわけですが(笑)、起承転結や文脈、因果関係がわからないものって、観ていて「?」となってしまうわけです。どうしても人は文脈や因果関係を見つけようとするし、それで頭で納得、理解しようとする習慣がありますからね。「あのくだりはなんだったの?伏線回収されてないし」みたいなことがあると、モヤモヤモヤモヤしてしまう(笑)。わかりやすさ第一のテレビドラマなんかだとそういう作品はまずないでしょうが。

そして、私たちは人生においても、文脈やコンテクストを重要視していて、自分の人生の中のお決まりパターンというものは、だいたい文脈やコンテクストで語られると思います。偉人の伝記や誰かを題材にしたドラマをやる、となったときに、そこには何らかの文脈があって、何かの教訓めいたこと、学びがあるはずです。必ずどこかで主人公は困難に直面してもがき苦しみ、葛藤します。それを乗り越えて何かを成し遂げたり、人様の役に立ったりするといったストーリーが定番でしょう。それを一人一人が現在進行形でプレイしている(演じている)最中なんですね。そして同時に私たちは監督、脚本、キャスティングまでやっています。だから、何か困難なことが生じたとしても、それは何であろうと自分で創った作品には欠かせない要素なんですよね。ムカつく相手も実は自分でキャスティングしているわけです(笑)。

ちょっと自分の人生を俯瞰して、ドラマみたいな人物相関図を作ってみたらどんな人が出てくるでしょう?どんなストーリーや学びがあるでしょうか?幼少期編、学生編、社会人編、老人編…それぞれにドラマがあるはず。ちょっと自分のことを語ろうとするだけでも、ストーリー仕立てになることに気づきます。すべてが思い通りになるドラマの主人公だとしたら、どんな人生を送りたいでしょうか。どんな学びを得たいでしょうか。今この瞬間は人生のストーリーのどの位置にいるでしょうか。そんなことに思いを馳せてみると、少し客観的に、自分の人生を俯瞰して楽しむことができそうです。

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