活発な意見の「シェア」が起きる場・起きない場

以前から、現代は「シェア」の時代で、今後ますます所有の概念が崩れ、物理的なモノを共有したり、感じたこと、情報などを「シェア」する文化が盛んになるだろうということを書いています。現にシェアリングエコノミーの取組も行われていますし、SNSでの情報の「シェア」も完全に一般化していますよね。「シェア・分かち合い」がこれからの時代の共通言語シェアの楽しみは「自分を知ること」の焼き直しのような記事になりますが、今思うことを言語化してみようと思うのでお付き合いくださいませ。

私たち人間には自分の感じたこと、考え、意見などを他人とただシェアしたい、という欲求が備わっているように思います。ただシェアしたい、というのは「無条件に受け入れられたい」ということとも言えます。「私もそう思う!」と共感してほしい(という気持ちもあるけど)わけではなく、「そう思っている自分」そのものをただ受け入れてほしいということです。相手も自分と同じ考えでなくてもいいから、そう思う自分も許されている、愛されている、価値があるという感覚を味わいたいという思い。それって案外見逃されているけれど、非常に根源的な「無条件の愛」に直結しているので、大事なことだなと思います。

現代日本では、「会議」という儀式が日常的に多数行われていますが、その多くは形骸化していたり、立場を気にしてものも言えない雰囲気だったり、結論ありきで進む茶番だったりと、自由に活発に意見交換できる場ではないことがほとんどだと思います。ビジネスの場での会議と人間の根源的欲求の話をごっちゃにしてはいけないのかもしれませんが、それでも会議が意見交換の場のしてきちんと機能しているとすれば、それは「自分の意見が否定されず、受け入れられる土壌」のようなものが整っている場であるはずです。自分の発言が否定・批判される恐れや、発言によりその後の人間関係が危うくなる恐れがあったりすると、人はその場にハートを閉ざし、ありのままの自分でいられなくなってしまいます。

会議での発言が少ないからと、表面的な部分だけを取り繕って「積極的に発言しましょう」などと言っても、全く効果はないと言えます。結局、場に参加している人々が「恐れ」からその場にハートを閉ざし、委縮してありのままの自分でいられない状態では、発言などする気にならないからです。したとしても、空気を読んだなんてことない意見しか言えません。本当に本当に会議や意見交換の場で発言してほしいと主催側が思うのであれば、参加者の方のハートを開けるような場をまず作らなければならないと思います。「何を言っても受けいれてもらえるのだ」と参加者側に思ってもらえない限り、発言は増えませんし、活発な意見交換、「風通しの良い」場の実現はありません。

「批判を恐れていたら発言などできない」というのも確かにそうですし、私自信も発信する身としては、批判を恐れず勇気をもって自分の意見を言っていくことは大事だなと痛感しています。ただ、そうは言っても、適切なコミュニケーション方法というものはあると思いますし、特に「身体性」を持って顔を合わせている場でのコミュニケーションには配慮が必要な面も多々あります。相手と違う意見を持っている場合はとりわけ、言い方には気をつけたいところですね。自分が「否定された」と感じると、ハートを閉ざしがちになってしまいますし、多少なりとも傷ついたりするものです。

違いは違いとして認めたうえで、自分の意見を述べていく。相手を一人の存在として尊重する意識があれば、自然とそんなコミュニケーションがとれるようになると思います。「シェア」の楽しみは、相手を批判し打ち負かすのを良しとする勝敗や白黒をはっきりつけるような意識とは対極のところにあり、ありのままの自分そのものが無条件に受け入れられているという、愛や尊重の意識に満ちた意識が根底にあります。私が主催するオフ会やワークショップなどでは、この意識を大前提に、参加者の方がハートを開いて楽しめるような場づくりを念頭に置いて取り組んでいこうと思っています。

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