文系・理系のタテ割り教育にモノ申す

私がおたく気質で勉強好きなのは今までこのnoteを読んでくださっていた方ならお分かりかと思うのですが、いろんな分野を学んでいると、世の中のあらゆる事象は「文系・理系」のくくりでは全体を把握できないことばかりで、多面的な視点というのが必要なのだなと痛感します。

たとえば私が目下勉強中の「縄文文化」などについても、考古学、民俗学的なことから、やまとことばという観点では国文学、言語系、大きな歴史という意味では史学、岩石や地層については地学、はたまたスピリチュアル的な側面など、いかようにも分析、勉強できますよね。基本的には考古学者の方は考古学的な観点からしか見ないし、言語学者は言語的な観点からというように、一つの分野を掘り下げる人はたくさんいらっしゃいますが、すべてを統括的に見ている人は少ないと感じます。私はあらゆる視点から研究したいと考えているため、一つに特化した研究者にはなりませんが、複数の分野から見てこそ、その全体像が見えるのではないかと強く感じます。

私は以前から書いているように、受験対策の一切ない国立高校出身で、高校2年までは全員必修で全科目を一通り学習するカリキュラムでした。ですので、社会系科目(日本史、世界史、地理、現代社会)も理系科目(数学、物理、地学、化学、生物)も一応全部やりました。いちいち真面目に勉強していたので(笑)、どの科目もある程度の教養は身についたなと感じます。その後、高校3年から文系理系に分かれるのですが、数学と物理苦手だからなんとなく文系だろうな~というくらいで、将来のことなんて全く考えずに文系を選びました。

今や、私の興味の対象は結構理系よりで、ホリスティック医療、植物、自然、農業、薬理学、栄養学、量子力学など、本棚をパッと見ても理系の本が多いです。その他波動、エネルギーやスピ系、占星術、縄文時代の本もあります。高校生当時は想像もつかなかったことに興味関心が向いていて、今は本当に高校時代の理系の基礎知識が役に立っています。高校の頃の受験対策一切なし教育が、今になって有用だったと気づきました。非効率なようでいて、人生全体で見たらとても有意義だったんですね。その点、本当にあの高校出身で幅広い教育を受けられたことは良かったなぁと感じます。

何か研究対象があったときに、今の大学の教育システムでは、学部を超えた研究や、ましてや文系と理系の合同研究なんて不可能に近いです。ある対象について、かなり偏った視点からしか研究できないわけですよね。私はこんなに勉強好き勉強好きと言っているのだから、研究者にでもなればいいじゃんという気もするのですが、今の大学教育のしくみでは、私のやりたいような幅広い視点での研究というのは不可能です。ですから、趣味で独自に研究するのが一番なんですね。研究者って競争とか派閥とか先生同士のあれこれとか面倒なことがたくさんありそうですし、そういう本筋と違うことにエネルギーを割くのはもったいないなぁと感じますしね。

ある対象を分割してとらえてしまう考え方というのは、非常に西洋的で、医学の領域でも西洋医学というのは臓器を機械のようにとらえていますよね。病院に行っても、のどが痛かったら呼吸器系、お腹が痛かったら消化器系のお医者様にかかるわけで、身体全体のシステムやその人の人生全般について見てくれるわけではありません。私が興味のあるホリスティック医療はその方全体を見て、あらゆる観点から適切な対処をしていこうというものであり、私は何においてもそういったものの見方、考え方を支持しています。すべてはつながっていて、決して分割できるものではないからです。

今の大学教育では真の賢さや教養というものは身につかないと感じます。ましてや高校の早い段階で文系・理系と分けてしまうのは早すぎるし、モノを知らない人を量産するだけです。その時点で既になりたい職業やはっきりとした目標がある人は別で、そういう方はモラトリアム期間なく専門学校などに行かれた方が賢明ですね。西洋医学にしても大学教育にしても、分断することによって非効率なタテ割り問題が生じてしまっています。あらゆる事象をホリスティックに、統合的な視点でとらえられる人や教育というものが、今後の社会に求められているような気がします。

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