実績・作品と自己価値を同一視する苦しみ

資本主義社会は競争社会で、どこへいっても競争競争、勝つために、1位になるために頑張ることが良しとされる風潮があります。前回、過度な競争心をあおる教育・スポーツの記事にも書きましたが、私たちは物心ついたころからずっと他人と比較され、上位のものが称賛され、他人に認められるのだという洗脳にがんじがらめになっていますよね。それは「私たちはありのままで価値がある」という無条件の愛とは正反対の「私たちは才能がなければ、実績がなければ、結果を残さなければ価値がない」という条件付けの愛の思い込みに人々を誘導する、本当に悪しきパターンのように思います。

学校教育が始まる前の超幼少期の親子のかかわりの時点からこの思い込みは始まっていて、何かをしたから褒められるという経験や、才能のある他の子どもや兄弟と比較されたことなどから、そういった悪しき思い込みの原点は作られると思われます。ほとんどすべての人が親からそのようなことをされた(言われた)ことがあるのではないでしょうか。その原体験は大人になると、「自分の価値は実績や結果、作品の評価で決まる」という潜在意識レベルでの思い込みに変わっていき、多くの人々が仕事で実績や結果を残そうと、作品を評価されようと、お金を稼いで成功しようと、有名になろうと、躍起になるのだと思います。

「それが原動力になるからいいじゃないか」と思う方もいるかもしれませんが、私はそうは思っておらず、他人からの評価に一喜一憂する人生が一生続くのはとても苦しく、辛いものだろうと感じています。実績や結果や評価というのは永続的なものではなく、一度達成して評価されてもまた次の人が出てきたり、人気が落ちたり、体力や美貌も衰えるものなので、幸福感が感じられるのは一瞬、大きな目標を達成した後はまた次の目標を…といった感じで「目標ジプシー」になり、結局いつまでも何かを追い求めることに変わりがない人生を歩むことになると思います。そんなことではいつまでたっても本当に心が満たされることはないでしょうね。

それは、仕事の実績、結果や自分の作品を自分の価値(自己価値)と同一視するからこそ生まれる苦しみだろうと思っています。自分の好きなことを仕事にしていたりしても苦しむことがあるのは、その仕事の実績や結果と自己価値を同一視しているからで、過度に評価に一喜一憂したりプレッシャーを感じてしまうことが多いからだと思います。特に芸術系(音楽、演劇、美術など)で個人で活動されている方は特にその傾向が強いかもしれません。組織で働いていると自分個人の実績や結果がわかりにくい場合も多いですからね。他人からの評価=自分の価値だと思ってしまうと、他人からの評価を得ようとして自分の表現が心からの純粋なものでなくなってしまったり、どうしても他人軸的な生き方にもなってしまいます。

私自身はこれを仕事にはしていませんが、文章を書くことが好きでいくつかブログを書いています。ブログやSNSあるあるとして、他人からの評価(=フォロワー数、PV数、いいね数など)を気にしてしまうとしたら、それは他人からの評価を自分の価値だと思い込んでしまっているからなのだろうと思います。本当は他人からの評価と自己価値というのは何も関係がなくて、本当に心から無条件に「ありのままの自分には価値がある」と思うことができれば、他人からの評価なんて何も気にならなくなるのでしょうね。他人からの評価を求めてしまうのは、自己価値感、自己肯定感の低さの現れでしょうし、ほとんどすべての人が大なり小なり抱えている心の闇だろうと思います。その心の闇を刺激するのが昨今のSNSブームなのかもしれません。他人からの評価を得ることで心の隙間(=愛の欠乏感)を埋めるようとするのではなく、まず自分自身を見つめて心の隙間を埋めてから、本当にやりたいことに純粋な気持ちで取り組んでいくことが幸せのカギなのではないでしょうか。私自身もまだまだ内面を癒す旅の途中ですが、だいぶこのことが実感として腑に落とせるようになってきて、以前よりさらにのびのびと文章を書けるようになってきました。何をするにしても、自分の内面を見つめて癒していくことは何よりも大切だなと心から思います。

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