「我慢しない」をループする

すべてが思うようにいくわけではないのが世の中。誰しも我慢なしではこの世を生きていくことはできません。今は食欲と睡眠欲を我慢するのが一番つらい。あと電車で死ぬほどトイレに行きたくて我慢するのもめっちゃつらいです(笑)。とにかく、生きるということは我慢と隣り合わせでもあります。

ただ、必要以上に我慢をする必要はないと思っています。そして、自分が我慢していることを、他人のせい、環境のせいにするのはちょっと筋違いだよなぁということも思っています。周りがこういう状況だから○○するのを諦めた、我慢した、みたいなことです。本当はまわりのせいで我慢しているのではなく、自分の内側の何かを見つめていないだけなんです。

何かというのは例えば恐れであったりもします。周りの目が気になる、ということであれば、人に嫌われる恐れがあるということですし、環境が悪くて、という場合は、その環境から抜け出る覚悟がなかったということです。どんなに他人のせい、環境のせい、と思えることでも、全部自分に原因があるし、その人に我慢することを誰もお願いしていないのに、勝手に我慢しているだけとも言えます。ある状況に対してどう行動するかということはその人に委ねられているわけですから、ただただその人が決断、行動できなかっただけのことなんですよね。外に理由はないと。

誰かが我慢をしてしまうと、周りも我慢しないといけないような空気になることが往々にしてあります。ざっくり言えば、それが日本社会ということだと思います。国民総監視我慢比べ大会。横並びを好み、出る杭を打ちたがる人々。私が我慢してるんだから、あの人も我慢すべき。私は我慢しているのにあの人は、自由にしている、ずるい。そういう思考パターンに陥ったことがある人は多いのではないでしょうか。公務員だったのであまり感じませんでしたが、世の中有休をとれない組織も多いようですし、組織ぐるみで我慢を強いるような風潮はあると思います。それって、本当に生きづらいと思うんですよね。自分にも他人にも厳しい、みたいな。もっと全員肩の力を抜いて生きてもいいんじゃないかと思います。我慢を美徳としない。我慢する人をほめない。そういう意識は大事だと思っています。

なにかっていうと我慢とか苦労とか、そういうことをすべし、という論調はあるし、「働くとはこういうもの」「社会とは厳しいのだ」みたいなことってよく言われますが、本当にそうなのでしょうか?我慢比べ大会から、何か創造的な価値とか、「共同創造」「ともに発展」という意識って生まれますかね?どちらかというと足の引っ張り合いやいがみ合いになると思いますし、絶対に雰囲気は悪くなるはずです。我慢を美徳とする組織からは、良いエネルギーは生まれないと思います。

ではどうするか。まず自分が我慢するのを止めれば良いと思います。自分が我慢しているから我慢していないように見える人を責めたくなるわけです。そうであれば、じゃああなたも我慢するのを止めたらいいじゃん、ということになる。私は結構前に「無理する、我慢することが良いことだ」という発想を捨て始めて、今はだいぶストレスレスで我慢しないで生きられるようになりました。それでもまだ気を遣うことはありますが、過度に我慢を良しとする気持ちはなくなりました。みんなが我慢するのを止めれば、監視社会ではなくなるし、もっとのびのびと自由な発想が生まれる土壌が整うと思います。

一度「我慢しない」のループにはまれば、それからどんどん「我慢しない」ことが当たり前になってくるので、もっともっとストレスフリーで生きられるようになっていきます。我慢しないで楽しく生きることで、本来の自分とつながりやすくなったり、いろんな道が開けていくわけですから、何も悪いことは起こらないはずなんですね。そのループに移行するためには、「我慢する本当の理由は何か」ということを自分自身で「気づ」き、腑に落としていかなければならないんです。変化が起きるのは本人の「気づき」によってのみの記事にも書きましたが、私がいくらこの記事を書いたところで、響かない人には響かないのはわかっています。とにかく本人が気づかなければ何も変わらないからです。

我慢する背景には必ずなんらかの恐れがあるはずです。それを静かに内観して見つめ直していくことで、次の意識のステージにいける。現代の日本人にとって、「我慢をやめる」っていうのは、結構な意識の変容を必要とします。その大きな壁を越えることで、また一つ新たな人生の幕が開けるのです。

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