世の中を知るほど「社会のせい」を悟る現実

これまで世の中のあらゆることについて、興味があるもの見境なく勉強したり本を読んだりしてきて、この世の社会問題の根深さや深刻さを実感しているのですが、日に日に強くなるのが「これって社会のしくみのせいだよね」という思いでした。バッシングを受けることの多い社会的弱者、貧困層の人々に対する心ない「自己責任論」、減らないうつ病、過労死、ブラック労働、待機児童……問題しかないくらいどこもかしこも問題だらけで、世の中を知れば知るほどこの社会の異常さを感じずにはいられなくなります。

私自身、「なんでもかんでも他人のせいや環境のせいにするのは良くない。しっかり自分を見つめて、他人に振り回されずに、自分の人生は自分で切り拓いていかないと。」という思いを持っているし、確かに今もそう思っています。しかし、あまりにもひどい貧困に苦しむ人々、借金や病気などで八方塞であったり本当に辛い状況にある人にはそんなことは言えません。飢える人々の前で一番に宗教的説教をするのではなく、まずはパンを与えるべきという話があったかなかったか…忘れましたが、「いかに生きるか」を説くのはまずは目の前の飢えを取り除いてからが筋だろうと、私もそう思うのです。

一番大きな問題はやはり「お金」でしょう。誰もがお金の心配をせずに暮らせる社会が理想ですが、今はその正反対で、誰もがお金の不安を抱えながら生活しています。貧困やDVの家庭に生まれてしまうと、その後の人生を平穏無事に生きられる可能性はとても低くなってしまうという現実があり、貧困や虐待の連鎖、それに伴う精神的トラウマ等に対する抜本的な解決策や希望はなかなか見いだせないものです。なんとか奨学金を借りて大学に行っても、その後の就職先がブラックだとすぐに仕事を辞めざるをえなかったり、心身を壊してしまったりして、苦しい生活を強いられることもあります。

そういった貧困や社会的弱者に対するビジネスというのはこの資本主義社会ではあり得ず(お金のない人は相手にされない)、だからこそ国や自治体の福祉事業が大きな役割を果たすべく存在しているのですが、その福祉ですらも「(生保の)水際作戦」などと言って申請させなかったり、必要な手当てを支給しなかったりと、ひどい運用をしている現実も一部であるようです。困っている人々は、貧困・DV家庭など毒親のもとで育っている可能性も高く、その人たちが本当に「自己責任」でそうなったのかというと、そうではない可能性が高いのではないかと思います。「社会のせい」「しくみのせい」「制度の欠陥」…他人のせいにはしたくないものですが、社会的弱者に対する扱いがひどすぎること、あまりにも救いがないのを見るとそうとしか考えられない現実があります。

もちろん一番悪いのは富や権力を握る支配層ですし、彼らが善良な心で政治をし、富を分配すれば解決することも多いです。しかし、私たち一般市民の在り方にもかなり問題があると思っています。あまりにも世の中のことを知らず無知であること、精神的に幼く感情論でしか物を見られないことというのが、偏見を助長し、誤った価値観を抱く原因になっているように感じます。物理的に表面に現れていることを見れば確かに「社会のせい」でもあるのですが、その「社会」を下支えしている私たちの思想や認識、価値観にまず問題があるということです。貧困や社会的弱者の問題に向き合って、ありのままの現実を見ようとしている人は、「自己責任だ」と彼らを責めることはまずないと思います。あらゆる貧困の本を読んでみても、そのような論調は見たことがありません。まずは現実を知り、学ぶこと。そして本当に悪いのは何なのか?ということを感情に流されずにフラットな目で見極めていく姿勢が大事なのだろうなと思いました。

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