「知識偏重型」って本当に問題なの?

進学校はコンプレックスの温床でしたの記事にも書きましたが、私は中学受験、高校受験、大学受験を経験してきて、大切な青春時代をほぼ勉強に注ぐというガリ勉っ子でした。詰め込み教育を見直そうということで始まった「ゆとり教育」の最初の世代に入るか入らないかくらいです。私の育ってきた環境はゆとりとは程遠いものでしたのでどこ吹く風なのですが、詰め込みや知識偏重型がそんなに問題なのか、ということをふと思うと、そう問題ばかりでもないという気がしています。

確かに詰め込み型、丸暗記だけを必死でやれ、という教育は思考停止を生むし、それこそ言われたことに従順な奴隷を量産することにつながる、という見方もあると思います。就活で自己PRを覚えて行くとか、臨機応変な対応ができないとか、そういったこととも関係があるかもしれません。覚える内容も、社会に出て使えないものばかりに思えてきます。こうして世の中の構造や仕組みを知ってしまうと、学校で教わった歴史は嘘で塗り固められた虚構だったことがわかるし、ダーウィンの進化論も嘘だし、学校教育での洗脳の根深さに気づきます。ですから、虚構を学ぶのに膨大なエネルギーを注ぐというのも確かに無駄であり、詰め込み教育の弊害とも言えると思います。

学校や受験における知識詰め込み型、知識偏重型教育は「覚えればそれでいい」という思考停止、思考力の低下につながるという批判はよくわかります。私独自の視点として、教わっている内容が支配者にとって都合の良い内容だから良くないという考えもあります。一方で、これをやりたいとかこの道でやりたいと思う人、専門的なプロフェッショナルになりたい人にとっては知識は必須だとも思うわけです。私たちが「プロ」と思う人はその道の知識・経験が豊富な人であり、そうであるからこそ「プロ」と言えるわけですよね。大切な情報は隠されている昨今において、無知なことこそ思考停止を生むわけであり、「知ってたら選ばなかったのに」ということは結構あります。世の中的にも知識があることに対する価値ってもっと上がっても良いのになと思うんですけどね。それこそ、支配層にとっては知られたら困ることがたくさんあるわけなので、人々を思考停止にするための3S政策(スポーツ、スクリーン、セックスによる愚民化政策)を推し進めたり、知識偏重型批判的世論を作っているのもそのためかもしれません。

何か新しい価値を創造するにあたり、既存の知識の詰め込みは絶対に必要だろうと考えています。今わかっていることをまずは可能な限りインプットして、そこから知識を「知恵」に変える新たな価値創造が始まると思うんです。ですから、何も知らないところから新たな価値なんて生まれないし、世の中を変えることはできないんですね。「お気に入りの組み合わせ」が新しい価値を生むの記事にも書いたんですが、あらゆる知識・経験をその人なりに組み合わせて新しい価値を創造していく、というのがこれからの共同創造の時代のあり方だと思っています。まずは、興味のある分野の専門性を高めていき、他の興味のある分野も徐々に詳しくなり、その組み合わせでできた新しい価値というのはその方にしかできないオリジナルの価値になります。好きなことだったら「詰め込み」という意識ではなく「気づいてたらすごい詳しくなってた」という感じで、全然苦ではないと思いますしね。

自分の身を守る意味でも知識武装をしていくことは重要だと思います。特に私のやっている自然療法や食べ物、有害物質のことなどについては、これほど実生活に役立つ知識武装はないと思っています。知らないから搾取される、知らないから危険な目に遭っている…ということは日常茶飯事です。私が特に知っておいた方が良いと思うのは大きな枠組みでの「この世の仕組み」や「構造」「成り立ち」です。陰謀論だ、オカルトだ、と言っている場合ではないと切に思います。

詰め込み型の学校教育、受験への疑問は残りますが、この社会で生きていくのに知識は必須。自分でも知的好奇心旺盛に生まれて良かった♪と思っています。世の中を生き抜く「知恵」、新しい価値を創造する大前提となるのが「知識」。身を守る知識武装、好きなことややりたいことに関する知識は身を助けます。絶対に損しない「知識への投資」を始める方が増え、新しい価値を世に送り出す人がたくさん現れるような社会になることを願っています。

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