勝ち負けが あっていいのは 遊びだけ

たまに書いてしまう五七五タイトル(笑)。資本主義に毒された社会において、何でもかんでも勝ち負けが大事という洗脳は凄まじく、学校でもスポーツ礼賛、「勝つ=正義」というブラック部活が問題となっているし、早く死語になってくれよと思う「勝ち組・負け組」といった思想もまだまだ根深く残っています。今も昔も勝ち負けに本気になって興じる人々を冷めた目で見てきた身としては、「猫も杓子も、いい加減勝ち負けにこだわるのやめたら?」と思わざるを得ません。

たとえば、AIの発達・普及により人々の仕事がなくなる、AIに負けない仕事は!?といった言説も見かけるようになりましたが、AIが発達してきた今こそ「働かなければ生きていけない社会」に疑問を呈するときであって、AI社会でも生き残る!といった資本主義的発想は根本的に何か違うのではと感じてしまいます。AIができることはAIにやってもらうことにして、そうなったときに人間は何をして生きていくのか、経済システムをどうするのかというのを真剣に考えることが大切なのであって、AIに勝つとか負けるといった考え方はどうにも理解できない部分があります。

私もボードゲームが好きですし、遊ぶときは真剣に楽しんでやっています。それでも、それは「遊び」なんですよね。基本的に、人間社会においては勝ち負けが決められるようなことというのは「遊び」なのだろうと思っています。本気になるようなものでもないという意味でもあり、大事なこと(命・人生)に勝ち負けをつけるのはおかしいということでもあります。動物は弱肉強食の世界で生きているので、食うか食われるかの勝ち負け・サバイバルの世界だとは思いますが、人間の社会でもいまだに弱肉強食をやっているというのは、人間の精神性の低さを物語っていますよね。スポーツも私にとっては遊びの範疇なのですが、それにお金が絡んだりすると人々の目が変わり、不正や暴力の温床になったりもしています。資本主義社会における「勝ち組」とは、基本的には財力(男性はそれがいい女に直結)のことを指しますが、命・人生に勝ち負けはない、いや、あってはならないと思いますし、経済的格差(と異性格差)は極力なくすべきものだと感じます。

過度に勝ち負けにこだわることは悪しき選民思想につながり、ある基準に照らして人を見下したり、過度に崇拝するような態度にどうしても傾いてしまいます。以前から書いているように、これは本当に大きな問題だと思っています。近年ではSNSの発達により、「フォロワー数の多い人=是」という価値観も生まれてきてしまっています。仮にSNSの時代が終わっても、仮にベーシック・インカム等が施行されて経済的格差が少なくなったとしても、人々の心に選民思想、優越感や劣等感がしぶとく残り続ける限り、なんらかの別の基準や指標を持ち出しては「勝ち組・負け組」と言い出すのでしょうね。結局のところ、私たちの心の中にある選民思想を見つめて、ものの見方や考え方を変えていかない限りは解決しないことなのだと思います。

私たちが今すぐにでもできることは、差別心・優越感・劣等感を抱くことがあったときに、自分の内側にある価値観や指標に気づいていくことですね。「お金持ちはすごい」「学歴の高い人はすごい」「有名な人はすごい」「でもこんな自分はダメだ」…いろいろあると思います。一番わかりやすいのは「うらやましい」という感情でしょうか。自分の中の選民思想をなくしていくことが、自己肯定感にもつながり、愛の拡大に直結していくように感じます。また、世の中をフラットに見ることができるようになり、物事の本質にも辿り着きやすくなるのではないかと思います。人々がなんでもかんでも勝ち負けや優劣で判断する悪い癖を断ち切ることができるようになるにつれ、少しずつ世の中も変わっていくはずです。より良い社会システムを考えるのと同時に、一人一人が内面の浄化にも取り組んでいくことが大切ですね。

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