「性」は社会の本質であり、宇宙の本質

前回の「性」のタブー感と資本主義の記事は、結構根本的な部分に切り込んでいった感があり、書いていて楽しかったです(笑)。やはり根本的な原理や大きな宇宙の歴史から見た「現代」という時代を知るということはものすごく大切なように思いますし、ここ数十年・数百年だけ見ても、宇宙の歴史から見れば瞬きにも満たないくらいなもんです。性の抑圧と資本主義に関係があるなんて、そう簡単には思い浮かばない発想でしたからね(少なくとも私にとっては)。先人が解き明かした叡智を学べることに感謝でいっぱいな毎日です。

「性」というと、どうしても男女の性とか、セクシャリティ、交わりなどを想像してしまうものですが、『タオ・コード』(千賀一生著)内で老子が語ったことの真意とされている意味を読んでみると、どうもそういった狭い意味の話だけではないようなんですよね。語られた言葉の中で、男女の性的な交わりのことを言ってもいるのですが、「性エネルギー」というのは、「創造エネルギー」とも言え、万物を創りあげる最も根源的、基本的なエネルギーの最小単位という意味でとらえられてもいるようなのです。「性エネルギー」と「創造エネルギー」のことについては、第2チャクラ・創造性・親子・恋愛・性を見つめるマガジンの中にある記事でも触れています。万物全て(このパソコンもいすも植物も私も)が「性エネルギー」=「創造エネルギー」でできているという思想なんですよね。「性」という言葉が実に多次元的に使われていることがわかります。

本にあった印象的なフレーズを少し引用します。(今日のタイトルにもしてしまいました。)

性は人間の本質であるだけではない。それは社会の本質であり、宇宙の本質だ。

つまりはこういうことらしいのです。その社会での性の扱われ方、認識され方を見れば、どんな社会かがわかるということ。それは昨日の記事でも書いたように、性を抑圧しているからこそ、エゴ欲まみれの資本主義という社会が成り立っているということそのものです。反対に、性がオープンであることと、愛と調和に満ち、自然や宇宙と一体になって生きることもまた関係があるということになります。自然と調和して生きている先住民の暮らしなどを少しイメージしてみると、性への抑圧ってなさそうな感じがしませんか。普通に女性も上半身裸で水浴びしているような、そんなイメージです。私たちがこれから先住民の方のようにほぼ裸で暮らすようになるということはまずないでしょうが(寒いし)、このことは頭に入れておくと良いかなと思っています。

私はいつも資本主義のピラミッド社会ではなく、共同創造のコミュニティをつくりたい!と言っていますが、この性の根本原理を押さえずしてその取り組みを進めても、やっぱりそれは結果を結果で対処するようなやり方にもなりかねません。大きな方向性的に言うと、「性の抑圧→資本主義的社会」なのであれば、「性がオープン→共同創造的社会」という構図になるはずで、そうなってくるとどうしても「性」というものと向き合わざるを得なくなるんですよね。そして、その「性」というのは「身体性」とも関係が深いわけです。VRや機械で性欲処理できればいいのか、仮想現実に人が住むようになるとまことしやかに言われているがそれはどういうことか、AIにはできない人間ならではの身体性とは何か…そういったことを真剣に見つめ直す必要があると思います。この現代社会において「性をオープンにする」というのは、具体的にどんなことを指すのかというのも私にはよくわかりませんし、やはりエゴまみれの精神性では欲望処理のことしか思い浮かばないような気がしてなりません。エゴの意識からハートの意識へ、性の抑圧から性の解放へ、資本主義から共同創造へ、この流れはすべて同時進行で起こるものなのでしょうね。時代の移行の大きなカギとなるのは「精神性」、それに尽きますね。私もまだまだ学び途中、皆様と意見交換しながら、考えを深めていけたら嬉しく思います。

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