大学に通う意味と金銭的負担のしわ寄せ

2月に入り受験シーズンもいよいよ本番。これまでも受験、勉強、大学などをテーマに色々と書いてきました。前回は、奨学金が「就職するための借金」になっているという記事を書き、大学で学ぶためではなく、就職で有利なように大学卒という肩書が欲しいがために、若いうちに借金を背負わなければならない現状をやや批判的に見てみました。低賃金で借金返済の負担もあれば、晩婚化になるのも頷けます。少子化問題も耳にタコができるほど言われてきていることですが、親になる世代が奨学金返済に追われていること、教育費がかかりすぎるために子を産むのを躊躇することも少子化の原因の一つであることは間違いないと思います。

4年間大学で学ぶのに数百万円というお金がかかり、そのために良い高校や塾に入ろうと思うとまたさらにお金がかかり、最終的な目標である「良い会社に就職する」(給料の高い仕事に就く)ためにいったいいくらかかるんだろう?と眩暈がしてきます(汗)。昔のように終身雇用が確立されている時代ではなく、右も左もブラック企業、一寸先はうつ病という社会において、就職する、つまりは生きていくためにこれだけお金がかかるというのは本当に苦しい社会だなと感じます。私は中学・高校と国立で、私立に比べれば学費も安かったはずですが、周りは高収入な親の子がほとんどで、私のようなサラリーマン家庭は少数派だったかもしれない、という気もします。親の所得格差による教育格差問題もよく指摘されていますが、まさにそうだなと身をもって実感しています。

学校も存続していくためにはお金がないといけません。高校までと大学はまた存在意義が変わってくるので一概には語れないですし、国公立と私立でも事情が違いますね。先生や教授、職員の人件費、研究費、維持管理費など、運営にお金がかかるのはわかります。それでも学費が数百万円というのは高すぎる気がします。先ほど書いた「存在意義」という意味でも曖昧な部分が多く、現状は「就職するために大卒の肩書を得る」というのが、最大の大学進学の理由ではないでしょうか。

問題の論点はたくさんありますが、どうやっても「存在意義」については避けて通ることができません。大学は「大学教授」のポスト確保のためにあるわけではありませんし、中学レベルの内容を教える機関でもないと思っています。大学全入時代においては、学費さえ払えば入れるような大学も存在していますが、そこで行なわれる教育が「高等教育」であるとは思えません。大学はお金さえ入ってくればいいのでしょうか。学生は「大卒」の肩書が得られればいいのでしょうか。また、一般に難関大学と言われる大学でも、AO入試や推薦入試、内部生が存在しており(その中に優秀な人はたくさんいますが)、大学名=必ずしもテストでいい成績を取れる人というわけではありません。じゃあ大学名とか学歴って何?という話にもなってきます。

またしても全くまとまりのない話になってしまいました(汗)。教育にお金がかかりすぎることは問題だけれども、かといって今の大学に公的資金を投入してまで存続させる意義があるのかも疑問です。研究を主とするなら研究所にすればいいし、就職のためというなら職業訓練所みたいなところの方が役に立つのではないかという気もします。研究にしても教育にしても職業訓練にしても中途半端で、「大学名・大卒の肩書を得られる」ことだけに価値があるのが今の大学という見方もできるのではないでしょうか。そんな大学に行かせるために、多くの親がお金の工面に苦しみ、共働きを強いられ、そのしわ寄せが当の子どもにいっている…そういう家庭も多いのかもしれません。何が本当に幸せなのか、考えてしまいます。

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