「通勤」エネルギーロスと職住近接

昨日の「無秩序なまちづくり」と通販の活況という記事の続きになります。少し話は変わりますが、私がもう週5フルタイムで組織で働くの無理だぁと思った大きな要因の一つに「通勤のストレス」というのがあったんですね。そのことについては、「通勤ラッシュが嫌」というのは立派な退職な理由だと思うの記事にも書きました。「通勤」ってものすごくエネルギーを使うし、行くだけでくたくたでしたし、満員電車に乗るのが苦痛で仕方ありませんでした。これもやっぱり人間の「身体性」に関わる問題ですよね。家と職場が近いことってすごく快適で、時間が有効に使えますし、効率・(今話題の)生産性が高いと思います。災害時などに家に帰れないかも、という心配も少ないですし「職住近接」はやはり理想的だなと感じますね。

「通勤」のことをテーマにするたびに、「無秩序なまちづくり」の弱点にフォーカスされる感覚になります。都市機能&人口一極集中の弊害ですね。一歩離れた立場で朝の通勤ラッシュの電車とか乗ると、「これが”高度文明社会”なのかよ」と思ってしまいます(口が悪い)。「通勤」で消費するものは歩いたり動いたりする労力、運賃、時間、電車やバスを動かすエネルギー、そして何より精神的ストレスが大きいです。そこに割く(広義の)エネルギーを創造的活動や家族や友人と過ごす時間に充てられたら、もっと生活が充実してくると思うんですよね。「通勤」によるエネルギーロスの社会的損失ってものすごい量(量なのか額なのか)だと思います。

現代は共働きが主流になりつつあるので、夫婦で勤務先が異なる場合、どちらの勤務先にも通える中間地点的なところに住む場合が多いと思います。そうなってくると、どちらも通勤に1時間かかる、とかはざらにあるし、ちょっと終業が遅れるだけで夫婦や家族で過ごす時間が一気に減るということにもなるでしょう。これはもう価値観の問題としか言いようがないので、何を優先して住む場所を選ぶかということになるのですが、「仕事=お金」に重きを置きすぎるあまりに、他の大事なものがほったらかしになるケースは結構あるのではないでしょうか。その意識の表れが如実に表れているのが待機児童問題なのではないかなと思いますね。

先日、仲の良い友人と話していて、お互い最近周りで転職を考える人や仕事を辞める人が多いよねという話になり、やっぱり22歳そこそこで一生の仕事なんてわからないよねという結論に至りました。それと同じく、30歳そこそこで一生住む場所なんて決められないと思う、という話になり(主に私)、住む場所だって最初の決断がベストとは限らないから、無理に家を持とうとしなくてもいいんじゃないかという自説を唱えました(笑)。このまま世の中の社会構造が変わらないとも限らないし(むしろ絶対変わる)、仕事や住む場所(家)を早いうちにFIXしない方が良いんじゃないか、というのが私の考えです。上記の話で言うと、夫婦ともに通勤に1時間かかり、どちらの実家も遠く、共働きで子育て…とかってなると、保育園に入れたとしてもかなりきつい日々になるのではないかと思うんですよね。そのひずみがお子さんの人格に影響を与えるのは確実なので、すべてを思い通りに両立・連立させるというのはかなりの無理難題なのではないかと感じます。

「所有」の概念の変容とともに、より身軽に、シンプルに、柔軟に、変化に対応しやすい状態を整えることがキモなのかなと思うようになりました。それと同時に、「通勤」「職住近接」「家を持つこと」「住む場所を選ぶ際の優先順位」といったテーマも気になってきたんですね。もちろんそれは共同創造のコミュニティを考える上でも非常に重要なテーマです。むしろ、「共同創造のコミュニティ=まちづくり」と言ってもいいくらいなので、最重要テーマとも言えると思います。情報はインターネットで得られるし、交通手段もあるからどこへでも行ける。それでも生活に必要なものはすべて半径数m以内で賄える。そして、仲の良い友人たちとアクティビティやボードゲームをして楽しく過ごす(笑)。そんな暮らしが理想だなと感じますね。

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