善なる顔して近づく悪魔に気をつけろ

前回の、進んで身銭を切れる人はカッコイイという記事に、「お金」が最も重要とされるこの資本主義社会において、自分は質素でもいいからと世のため人のためにお金を回せる(使える)人はカッコイイという話を書きました。「自分さえよければ、今さえよければ」という強欲エゴ意識が蔓延している社会において、そういった志で生きている人というのは本当に魅力的で、頼もしく心強い存在です。数値化できない「意識」の変化こそ最重要その人の「背中」から学ぶことの記事にも似たようなことを書きましたが、そういった人は存在しているだけで周囲に影響を与えていて、物理的変化を起こせるか以上に、その意識を持って生きていることが本当に価値があるのだと思います。

スピ系などでは「自己犠牲」はあまり良くないとされているようにも見えますが、それは常識や他人の意見に縛られて自己犠牲に陥ることを言っているのであって、この場合の自己犠牲とは違うと思います。自らの清々しい気持ちや奉仕の心をもとに自己犠牲的に生きるのは、相当精神的に成熟していないとできないことですし、人間としての目指す生き方の一つかなと感じます。最初はほめられたいとか認められたいという気持ち、見返りを求める気持ちがあって始めたとしても、奉仕を続けるうちに心が磨かれ、完全に見返りを求めずに善をなすことができるようになっていくのではないでしょうか。自分はまだ見返りを求める気持ちがあるなぁと感じるので、ここは精神的に磨いていく伸びしろがあると見ています。

私の場合は体力に自信がなく、あまり物理的次元でわしわし行動して何かを成し遂げることには向いていないと思っていて、そうなると「募金」というのは割と始めやすい奉仕の一つのように思われます。ここで考えるのは「じゃあどこに募金しようか」ということです。募金や寄付を募集している慈善団体というのはごまんとあり、どこにお金を投じるのかというのは非常に重要だと感じます。何かを信じる純粋さ、すべてを疑う賢さという記事にも書きましたが、何かを信じることと同時にすべてを疑ってかかることも大切で、「なんか良さそう」なことをしている団体であっても、実態はどうだかわかりません。本当にあくどいことをしている団体ほど、表面的には「善」を装っていたりするものです。自分はピュアな奉仕の気持ちで募金をしていたとしても、それが悪魔的活動に使われていたとしたら、その落ち込みは半端なものではありません。

世の中的に「なんか良さそう」なことをしている人、言っている人を批判するのは難しいという風潮があって、疑ってかかる人ほど「性格が悪い」みたいなレッテルを貼られることもあります。そうやって多くの人は「善なる顔した悪魔」に騙され、真実を追求する賢者を排斥してしまいます。イメージ戦略に長けた表面的な「なんか良さそう」は本当に信用ならないので、特に警戒が必要です。悪の顔した悪魔はまだましで、本当に厄介なのは「善なる顔した悪魔」であることは常に心にとどめておきたいところです。テクノロジーの発達と「識別力」「倫理観」という記事にも書きましたが、嘘か真実か、善か悪かを見分ける「識別力」というのは、とにかく重要だと思います。

奉仕の心を抱き始めた善良な人がまず始めようとする「募金」ですが、その団体等については本当に慎重に見極めなければならないと感じます。もし自分の識別力に自信が持てないのであれば、別の口座を作るなどして自分で積み立てておくのも手です。その間に本当に素晴らしいと思える活動をしている団体を探しておき、まとまったお金ができた頃に寄付することも可能ですからね。世の中は本当に「善なる顔した悪魔」がひしめき合う混沌の世界なので、識別力がなければ簡単に騙されてしまいます。安易な情報を信じないように、警戒して生きていく必要がありますね。

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