「モノ扱い」という言葉に見る人間の心理

前回、「人はモノではない」ことがわかる内部告発という記事を書きました。その記事でちらっと、「人をモノ扱いするな」と言う時の「モノ扱い」という言葉には、「モノだったら雑に扱っても良い」という意識が垣間見られるけれど、本当はモノであっても雑に扱って良いわけではない、というような話題に触れました。社会派の話題から突然哲学的な話に飛んでしまいますが、人とモノは何が違うのか?、人間と動物の違いは?、生き物の定義とは何か?、といった疑問が湧いてきます。

「人を雑に扱ってはいけないが、モノを雑に扱うのは良い」という意識がもし多くの人の集合無意識の中にあるとすると、おそらくそこには、「人には心があるから」とか「人は傷つくから」といった概念があると思います。逆に言えば「モノには心がない」「モノは傷つかない(気持ち的な面で)」と考えられているとも見ることができます。この認識は割と多くの人の中にあるような気がします。これが動植物くらいになってくると、「生き物感」が出てくるので「動植物にも心はある、傷つく」と考える人が増え、動物愛護や環境保護活動をする人々がたくさん現れてきます。「モノを大切にしよう」と言う人ももちろんいます。ただ、それはごみを出さないようにしようとかもったいないというレベルの話が多く、「モノにも心はある、傷つく」という視点で、本当にモノも人間と同じように心があると考えてそう言う人は少数派なのではないでしょうか。

いわゆるスピリチュアルな世界観で生きている方は、「モノにも意識がある、心がある」という考えを持っている人が比較的多いと思います。多くの人間には動植物と会話したり、モノの話を聞くことができる能力は備わっていませんが、中にはそういった能力のある人もいらっしゃるようですし、そういった方だったら当たり前にわかることなのかもしれません。人間というのは本当に自分スタンダードの世界観で生きているので、自分の感覚至上主義みたいなところがあり、自分の目に見えないものは”ない”とか、自分の耳に聞こえないものは”ない”とか、すぐに決めつけようとします。動植物は人間にはわからないレベルでコミュニケーションを取る力があるのかもしれませんし、私自身はそう思っています。実は、「生き物感」がないPCや机などのモノにもそういった能力があるのかもしれません。人間に感知できないからと言って”ない”と決めつけるのは、非常に人間本位な考え方ですし、「人間は優れている」という傲慢さや思い上がりのたまものかなと感じます。

たまにフィクションで、動物やモノが話し出すような世界観が描かれることがあります。ある装置を動植物やモノにくっつけたら、人間にわかる言葉を話すようになる、といったお話です。ドラえもんのひみつ道具とかにありそうですね(そういえば昔ひみつ道具の本をよく読んでました)。ああいった話が面白く感じてつい引き込まれるのは、完全なフィクションとしてではなく、「彼らは本当にそう思っているかもしれないなぁ」と思いながら見ている節があるからではないかと思ったりします。モノのなかでも人形やぬいぐるみなど、「生き物感」のあるものは特に雑に扱ったりすることはためらわれますし、「人形供養」といったものも行われていますね。同じ「うつわ」であっても、博物館で展示されている「うつわ」と100円ショップで売られている「うつわ」はなんとなく人格(「うつわ」格?)が違うんじゃないかとか、そういう感覚ってありますよね。たぶん装置をつけたら、話す言葉が全然違うと思いますよ。こういう話は大人ほど馬鹿にしそうなものですが、心が純粋な子どもにはすんなり受け入れられることだと思います。

「人をモノ扱いする」という言葉からここまで広げて書いてみましたが、何気なく使っている言葉に隠された人間の意識、傲慢さというものに気づき、日々の価値観を改めていかないとなぁと反省させられました。人をモノ扱いする組織や企業はこれからどんどん廃れていくと思いますが、「人をモノ扱いしてはいけない」という一見真っ当な人であっても、「モノを雑に扱ってはいけない」という意識までは至っていない場合もあるかもしれません。私もこうして考えるまでは、何の疑問も持たずに「モノ扱い」という言葉を使っていたので、ここはまだ心の伸びしろがあると思って意識改革を進めます。本当は「モノ扱い」という言葉自体を撲滅しなければならないくらいなのでしょうね。

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