「干渉しない」という思いやり

昨日のいかに他者への「期待」をなくせるかという記事に関連したような内容となります。身近な人間関係におけるあらゆる不和の原因の一つに、他者への「期待」があるという話を書きました。「他人を変えることはできない」とはよく言いますが本当にその通りで、他人を自分の思い通りに変えようと働きかけることは、多くの場合徒労に終わるか、関係が悪化することさえあります。当noteでも何度も出てくる「北風と太陽」の寓話がそのまま当てはまる事例ですよね。

家族や身近な人からの過干渉に苦しめられていることは多いのではないかと思います。たいていの親子関係は過干渉が原因で不仲に陥っているような気すらしています(それは自分がそうだから?)。私も公務員を辞めようと思ったときに、一番面倒なのが「親に何と言うか」ということでしたし、実家にいたら仕事を辞められないと思ったため一人暮らしをしたいと申し出たんですよね。常識に染まっている親には「公務員を辞めるなんて」とやはり言われましたが、それでも最終的にはわかってくれました。その時私が思ったことは、「結局親は私のことを思ってと言うよりは、自分の安心のために公務員を辞めるなと言っているのではないか?」ということや「今自分の心身が悲鳴を上げているわけだから、その反応をよく見てよ」ということでした。親に対して、自分の都合を押しつけられているのでは?、私のことをよく見ていないのでは?、と思ってしまったんですよね。

こういう出来事が起こった場合、私の中にも公務員を辞めることに対する罪悪感や迷いがあるからこそ、親の口を通してそういったことを言われるのだろうなぁとわかっていました。親に対して不満に思う表面的な意識の他に、内側ではそんな(公務員を辞める)自分のことを否定的に見ている気持ちがあるんだなぁと気づいていて、本当に見つめるべきは自分の内側の世界であると認識していました。それと同時に、他人を変えることはできないので、私自身は他人に必要以上に干渉することなく生きていきたいと思いましたし、それが今の私がカウンセリングや話を聴く際に心がけている大きな柱(アドバイスはしない)の一つになりました。

相手に期待したり、思い通りにしたいと思うエゴがあると、なかなか相手に干渉せずにはいられないもので、ついつい口出ししたくなってしまいます。こと親子関係ではそれが顕著のように思うし、逆効果であるにもかかわらずそれをまったくわかっていない大人がほとんどだと思います。そのベースには「信頼」、「忍耐」の欠如があると思っていて、相手が自分で気づくことを「信頼」していなかったり、本人が気づくまで辛抱強く「忍耐」できないからこそ口出ししてしまうように見えます。そしてそれは自分に対して「信頼」していないことであり、「忍耐」できないということでもあると思います。要は深い愛の意識に達していないということなのでしょうね。「期待」も「干渉」も愛とはかけ離れた行為のように思いますが、それを愛だと勘違いしている人も多いのかもしれません。

他人に「期待」しないのと同じく「干渉」しないというのも、多くの人にとってなかなか難しいことのように思います。「相手のためを思って」と言って、とやかく口出しするのは愛ではないと思います。本当に相手のためを思うなら、相手を信頼して、なかなか変わらなくても忍耐して、そっと見守ることの方が大切なのではないかと思います。相手を変えたい、思い通りにしたいと思ったときは、そう思ってしまう自分の内側を見つめることが大切で、外の世界は内面の世界の投影であることを、一人一人が深く腑に落としていくことが重要なのではないでしょうか。

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