家庭内の息苦しさと「無縁社会」

昨日の「通勤」エネルギーロスと職住近接の記事で、通勤や働くことと住むこと、家や世帯の話に触れました。実はこのテーマは今の私が一番直面していることだったりもします。4月に実家に帰ることになりそうで、今そのための引っ越し準備などを始めています。2月は意識面での「生まれ変わり」、「破壊と創造」を経験していると感じますが、3~4月はいよいよそれが現実に現象化してきそうな感じです。休み&充電モードから外に出て仕事するモードへ。一人暮らしから実家暮らしへ。大きな転換期を迎えています。

実家に帰ると言っても、今の家から自転車で15分くらいなので物理的にはそんなに変わりません。それでも一人暮らしから実家暮らしに戻るにあたり「うっ」と思うのは、一人暮らしが楽すぎて、また他人(家族)と一緒に暮らすのはストレスだな、と思う面があるからだと思います。ペットのうさぎと毎日一緒にいられるのが唯一の救いですが(笑)。これまで、テクノロジーの進歩が世帯人数を減らし単身世帯が増えたこと、人々の「個」の意識が強まり、閉じた意識になってきていることなどを書いてきましたが、もちろん私も例外ではなく、一人暮らしに慣れてしまうと他人と一緒に暮らすのって面倒だなという気持ちが湧くのだなということがよくわかりました。「共同創造」を理想としつつも、やはり他人との一定の距離を保っていたい気持ちはあるし、一人の時空間を大切にしたいという思いが強いんだなと感じました。

以前にも書いたことがありますが、「恋人たるもの、夫婦たるもの、家族たるもの、かくあるべし!」的なものって人それぞれ違いますよね。何でも包み隠さず言えるのが良いとか、いつまでも恋人同士みたいな夫婦でいたいとか、家族はいつも一緒に住むべきとか、まぁいろんな価値観があると思います。その辺りの価値観の相違がすれ違いを生み、人間関係の不和や別離の原因になることは多々あるでしょう。そして、その不和で苦しんでいることが外部に漏れにくく、むしろ隠そうとするような意識があることが余計大きな苦しみを生んでいるような気もします。

江戸時代的なあり方と今の違いをイメージしてみて今ちらっと思ったのが、現代の「無縁社会」では世帯自体が閉じているため、その内部がものすごく閉塞的で息苦しいものになっているのではないかということ。共同体やコミュニティの中の各世帯、という意識は現代にはほとんどないと思います。となり近所にどんな人が住んでいるかもわからないですし、世帯世帯が「個」として独立している感覚があります。「最近○○さんの姿を見かけないけど、元気にしているかねぇ」といった、ある種のおせっかい的なものが全く機能していないような社会のように感じます。そして、その舞台はもしかしたらネット上やSNSに移っているのかもしれません。「最近○○さん全然投稿しないけど、元気にしているかねぇ」といった思いを抱いたことがある人は、結構多いのではないでしょうか。こういった変化も、私たちの「身体性」のあり方、捉え方に大きく関わっていると思います。まだ言葉ではうまく説明できないんですけどね。

「身体的」に「個」の意識が強い「無縁社会」で生きていることと、家庭内での息苦しさ、悩みや不和を一人で抱え込んでしまう感覚というのは、切っても切れない関係があるように思います。自分の家や住んでいるところに対する「身体性」がごく狭い「家」や「家族」に限定されている感じ、と言えば良いのでしょうか。一歩外に出たら、そこは分離を強く感じる世界(=敵=身を守らないといけない)になっていて、グラデーション感がないイメージ。言葉足らずですがおそらく私のnoteを気に入ってくださる感性の方には言っていることが伝わると思います(笑)。私は実家周辺には割と広い身体性がある気がしていて、「ホーム」だなと感じますし、ちょっと行けばすぐに今も仲の良い友人たちの家があるのでなんか安心感があるんですよね。住んでいる地域全体にどのくらい心を開けているかによって、家庭内だけでの閉塞感が違ってくるのではないかと思った話をしてみました。いつにも増して全くまとまっておらず、大変失礼いたしました(笑)。

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