死の淵と延命治療について考える

心の友との会話シリーズの続きです。前回の、血のつながりと心の絆の関係性という記事に、友人の身内に不幸があったという話を書きました。そのご親族は数年前に脳の病気で倒れてから、意識がなくいわゆる植物状態で延命治療を受けている状態だったそうです。そんな話をしていて、「死ぬ」ってどういうことなんだろう、とか、延命治療ってどうなんだろう、ということに考えが至りました。社会問題として「知っている」ことが、自分自身の身の回りにもあるのだということを実感する瞬間です。

友人は正直、今回のご親族の死について、あまり悲しいという感情は湧いてこなかったそうです。今回よりむしろ、意識不明になってしまい意思疎通ができなくなってしまったときの方が悲しかったと言っていました。自分の中では、その時にある種の「死」のようなものを感じたんだそうです。植物状態から肉体の死に至ったことについては、両者にあまり大きな差があるようには思えなかったとのこと。私はその感覚はわかるなぁと思いました。脳死の臓器移植問題なども一時期よく話題になりましたが、それとも似たような話だと思います。過去の「死ぬ権利」論争など、医療やテクノロジーの進歩によって、新たな倫理的問題が生じる典型例ですね。何をもって生きている、死んでいる、とするのだろうかということ。肉体を維持することにそんなに大きな意味はあるのだろうか?私たちって一体何者なのでしょうね。

私も友人も自分がそういう状態になったら、延命治療はしないでほしいと思っている派です。延命治療って誰のためにやるんだろうね、という話にもなりましたが、結局は周りのエゴなのではないか、という考えも出ました。確かに家族からしてみれば、延命治療をしないと選択するということは、なんとなく冷酷な感じもするし、自分が悪人になるのは嫌なので、無難に延命治療をするということになるのかもしれません。その是非を考えることもせず、ただ思考停止で言われるがまま、ということもあるでしょうね。正直、一番儲かるのは医療機関だと思います。患者さんの家族には大きな声で言えませんが、絶対に助からない人かけるその莫大なお金で、もっと多くの人を救えるかもしれないし、他のことにお金をかけた方が全体のためには良いということはあると思います。

私だっていつ死ぬかわからないなぁと思いながら生きているので、そろそろ「終活ノート」でも書こうかなと思ったりもしています(笑)。私自身については葬式もお墓もいらないと思っているので、そういったこともちゃんと残しておこうかなと思います。延命治療がなくならないのは、本人の意思がはっきりしているときに、本人の意向を確認できなかったから、ということも大きな理由としてあるようです。残された家族にもいろんな考えの人がいるので、故人の意思がわからないと揉め事にもつながりやすいと思います。生きているうちに周囲の人に意思を伝えておくことは大切だし、面倒に思いがちだけれども大事なことは早めに話し合っておいた方が良いなぁと感じました。

やはり、人はいずれ死ぬとわかっていても、それでも「自分だけは死なない」と思っているところがあるので、あまり日頃から「死」と向き合うということはないのだなと感じます。「死」をタブー視し、遠ざけるような社会ですし、なるべく問題は先送りにしようという姿勢も垣間見られます。身近な人の病気や死というのは、周囲にとても影響を与えますし、死生観について考えを深める良い機会ととらえれば、必ずしも悪いことではないのかもしれません。生きていればいつか必ず、「死」について深く向き合わざるを得ない状況が来るものだと思います。「死」について向き合えば向き合うほど、今のこの「生」が生き生きと輝きを増すというのは、皮肉なようでいてこの世の真実なのではないかなと思っています。

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