批判の種を待っている人々へ

相変わらず世間(ネット界隈)では某キュレーションメディアと運営会社への批判で大騒ぎ中。会社や人が何か問題を起こすと降ってわいたように批判する人々が出てきますよね。今年の初めは人気タレントとミュージシャンの不倫ネタが話題となり、別に放っておけばいいことなのにやたらと非難されていました。キュレーションメディアについては、これまで多くの人々が「記事を量産してSEO対策してとにかくPVを稼ぎ広告収入を得る」モデルについて賛同しているように見えましたし、たまたまあの会社が炎上してしまっただけで、どのサイトも似たようなことをしています。今はすごく叩かれていますが、絶対掌返しの人もいるでしょ…とこれまた穿った目で見てしまう私なのでした。

世の中には「批判の種を待っている人々」が潜在的にたくさんいるのだということを感じていて、何かあると便乗して批判しようとする人が多いようです。表だって批判したり攻撃したりすることはありませんが、私にもそういう傾向はあると感じています。このエゴとハートの見直し月間で思い直したことは、「他人を批判するように見えて実はそれは自分を批判しているのだ」ということ。今までもそう思っていたけれど、今回の一件でますますそのことが実体験として腑に落ちてきました。何度も書いているように、この世は内面の投影で、すべてが自分の鏡になっているわけです。他人を批判する=自分を批判することにほかならず、他人の嫌な点、ムカつく点は、必ず自分にもあるということなんですよね。

そのことは「己の傲慢さを認める苦しみ」を味わい尽くすという記事にも詳しく書いてあります。悪いのは某運営会社だ、と批判するのは簡単なのですが、それは自分自身にもあるのだと認めるのは苦しいですよね。今回の事件でのストーリーは、思い上がると転落するのが世の常迷走の原因は「早く」と「もっと」の記事に書いたようなことだと思います。やたらと批判したがる人は、自分を見つめ直さないと同じ轍を踏む可能性がありますね。誰しもエゴはあるし、「早く」と「もっと」の欲はあるものです。今回の問題が他人事ではなく、自分にも起こりうるし自分も同じ立場だったらそうしたかもしれない…と謙虚に学ぶ姿勢は大切だなと感じます。私はむしろ、「早く」と「もっと」のエゴが暴走するとやっぱりうまくいかなくなるんだな…ということを身体を張って見せてくれた某会社さんは有難い存在とすら思いました(笑)。自分自身のエゴにも気づきましたし、「信頼」について考えるきっかけにもなりましたからね。

本人の意識次第では、身の回りに起こることすべてから学ぶことができるし、教訓を得ることができます。例えば身近にいる傲慢で上から目線で支配欲が強くいつも威張っている人…その人はそういう態度だと周りから信頼されず嫌われ者になって何事もうまくいかないということを教えてくれる有難い存在とも言えますよね。その人が悪い、その人がムカつく!と言うのは簡単で、誰でもできることです。そこから一歩進んで、自分の糧にできるかどうかは完全にその人の意識次第ということになりますね。

他人を批判するたびに自分を批判することになると腑に落とせば、自然と傲慢さがなくなり、謙虚な姿勢で生きられるようになるのではないでしょうか。最近の私はこのことを腑に落とせるようになってきたので、誰かを批判したくなった時は冷静になって「自分もそうなんだな」と思うようになりました。また、誰かに批判されたとしても、ただその人はその人自身の嫌な面を私に投影しただけなんだなと思うようにもなりました。批判して傷つくのは批判した人で、批判された人には実は何も関係ないことなんですよね。批判されることへの恐れもなくなってきたので良い傾向です。何をやっても批判される社会は生きづらいもの。事件や炎上を機に自分自身を見つめ直す人が増えると、世の中はもっと生きやすくなるのではないかと感じました。

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