「青さ」「情熱」を失った組織の末路

昨日の「大欲は無欲に似たり」は希望の言葉の記事に、自分の中にあるピュアな内なる情熱に気づいたという自分語り記事を書きましたが、それと同時に大学生の頃や組織に入庁したての頃に感じていた「青さ」「情熱」みたいなものを思い出していました。会社や組織に入りたての頃は誰しも熱い気持ちを持っていたり、根本的におかしいと思うところがあればカーッとなったり、上司に意見してみようと思ったりすることはあると思います。しかし、一年、また一年と働くうちに、その気持ちは次第にどこかへ消え去り、いつの間にか後輩の新入社員を見て「青いな」と思わずつぶやきたくなる気持ちになるものです。

新入社員、新入職員が一番、一般の消費者や市民に近い感覚を持っているし、変な先入観がないからこそ思いつくアイディアや意見というのはあると思います。年を取れば取るほど、入ったころの思いや情熱、本質的にお客様の役に立ちたいとか社会に貢献したいというピュアな気持ちが失われ、だんだんと組織に染まってしまうものです。どうすれば早く出世できるか?同期のライバルに勝てるか?競合他社に勝てるか?…いつの間にか、権力争いや派閥争い、出世レース、競争…そういったエゴの欲望に飲み込まれ、本質的なことが見えなくなってしまいます。上に行けば行くほど、部下の従業員やお客様のことよりも、権力やお金、自分の立場のことしか考えなくなり、その下にいる従業員は疲弊していきます。本質的な意見も握りつぶされてしまい、若者はものを言うのをやめ、「何を言っても無駄だから、余計なこと考えずに言われたことだけやろう」と自分で考えることすらしなくなっていきます。

私は無事に組織に染まらずに抜け出すことができたので、今も(忘れかけてたけど)内なる情熱を思い出し、そのためにできることをやろうと思えるようになりました。どんな人でも内なる情熱の炎というのは必ずあるので、その火を「青い」とか言って消してしまうような上司や先輩がいる組織はさっさと抜け出し、自分の情熱を燃やせるフィールドに移行していくのが賢明だと思います。「青い」のは「未熟」なのではなく、新鮮でフレッシュということです。本質的な意見を言ってもうまく流れていかない淀んだ組織にいては、せっかくの青々とした草の水も腐ってしまいます。みずみずしさは、流れてこそ清らかに保てるもの。「青さ」を保つためにも、エネルギーや気の流れがスムーズで、風通しの良い場所に移動した方が絶対に良いのです。

自分のことを思い返してみても、全体に流れるどうしようもなさ、変えられなさに、仕事への態度も若干なげやりな部分があったように思います。自分ではどうしようもないことに直面すると、人はやる気を失い、情熱の火は一瞬で消えていきます。心のシャッターを完全に閉ざし、言われたことだけをやるロボットになっていくのです。そうすることでしか、自分を保つことができなくなるのですから。こうしたらいい、この決まりはおかしいと思えば思うほどつらくなります。気持ちなんて、ない方が楽。うつ病や精神を病む人が多いのもある意味納得です。

枯れた人、情熱を失った人ばかりがいる組織にいて、きれいな花が咲くはずありません。よどんだ空気、場所から、新しい価値を生み出すことは不可能です。ここで、大好きなflumpoolのデビュー曲『花になれ』の歌詞を引用します。(作詞作曲:百田留衣 2008年)
「永遠に咲くドライフラワーよりも僕らは
 散りゆくとも 一心不乱な桜になろう」
ちょっと違うかもしれませんが、この歌詞を思い出しましたね。半乾きの状態で心をなくして長く組織に勤めるよりも、勢いよく咲いて、たまには玉砕しつつも心からの情熱をもって「今」を懸命に生きたい。それが「生きる」ということでしょうと。「生」「みずみずしさ」という輝き。今の職場の方、周囲の方、自分自身はいかがでしょうか。枯れているか、みずみずしさを保っているか。情熱を持って生きている人は周りにいますか?私は情熱を持って生きている人と一緒にいたいです。そして、しおれかけのつぼみのお花に清らかな水を注いで、その人自身の美しい花を咲かせられるお手伝いができる仕事がしたいと思っています。私にとってはそれが情熱を注げる仕事であり、生き方だからです。

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