「見られていたらやらないこと」と倫理観

最近の記事では、嘘や不正などの倫理観や道徳、良心などについて、人間とロボットの違いなどを例に出しながら考えてきました。そこから、人間と動植物、モノとの違いはどんなところにあるのか、どんなところにあるととらえているのか、ということまで考察してきたのですが、一つの仮説としてそこには「見る」という要素が重要なのではないか、という考えが浮かんだので少し書いてみたいと思います。

動物と植物の違いはいろいろあると思いますが、「目」があるかどうかというのは結構大きな違いなのではないかと感じます。前回の「モノ扱い」という言葉に見る人間の心理という記事に、モノはモノでも人形やぬいぐるみは「生き物感」があるので、なんとなく傷つく気がして雑に扱えないような感覚があるという話を書きました。アニメキャラやゆるキャラなど、ありとあらゆるキャラクターを想像してみても、鼻や口や耳がないキャラはいても「目」がないキャラというのはいないのではないでしょうか。100円ショップなどで売られている「目玉シール」というものがあり、貼るとあらゆるモノが擬人化されかわいく見えるらしいのですが、「目」があるだけで「生き物感」が出て、愛着が湧いたりすることって結構ありますよね。

こういったことから、私たちは「目」があるかないか、というところで「生き物感」を認識しているのではないか?とちょっと考えてみました。よく、防犯のシールなどで歌舞伎みたいな怖い目をしたものが街に貼ってあったりしますし、防犯と言えば「防犯レコーダー」ではなく「防犯カメラ」ですよね。「見られている」ことが犯罪の抑止力になるのは確実で、それはつまり、悪いことは見られているとできないということになります。物事の善悪の判断は、「人に見られていてもできるかどうか」というのが大きなカギになっているようです。

動物に善悪の判断があるのかというのは微妙なところかと思うのですが、ある程度知能の発達した動物であれば「これをすると人に怒られる」というのがわかっていて、人の目を盗んで何かをしたり、見られているとやらない、といったことはできるのではないかと思います。しかしそれは人間の「良心」といったものとは異なり、「しつけ」によって「条件付け」されただけなのではないかという気がします。そういった意味で言うと、AIやロボットにもなんらかの条件付けをさせることはできると思うのですが、人間のように生まれながらにして物事の善悪の判断ができるというわけではないように思います。

人間だって小さい頃に、大人に「お店のものを盗んではいけないよ」と言われ「しつけ」をされたから、お店ではお金を払わないといけないのだということを覚えるのだ、という風にも見えるかもしれません。哲学や倫理を学ぶとこの辺りが難しいなぁと思うのですが、法律があるからそれを守るのか、道徳的にNGだと良心でわかるからしないのか、その辺りのことはどちらもあると思うんですよね。法律があるから守るという人は、絶対に誰にも見つからないし罰せられないとしたら盗みを働く確率が高いと思いますが、良心に従って生きている人は、誰にも見られていなくて罰せられないとしてもやらないと思います。

それは「見られている」という意識にも関係があって、前者は物理的な人間の目に「見られている」かどうかを重視していて、後者は物理的な人間のみならず、「神様」や「おてんとうさま」や「大いなる存在」のような、もっと大局的な視点によっていつも「見られている」という意識でいる(常に意識していなくとも)ということがあるのではないでしょうか。動植物やモノは人間のわかる言葉を話さないので、アリバイを供述することはありませんからね。その人がこの世界をどのようにとらえているかということと倫理観というのは本当に密接に関係があって、街中が防犯カメラ、監視社会とならざるを得ないのは、私たちの倫理観・道徳観の欠如とも大いに関係があるんだなぁと少しさみしい気持ちにもなりました。

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