働く必要がなくなったら困る「仕事人間」

昨日の「働かなければ生きていけない」がそもそもおかしいの記事の続きのような内容になります。私は基本怠け者ですし、興味のある本当にやりたいことがお金や仕事にならない分野の勉強ということもあって、働かなくていいなら働かずに勉強してたいよと思うタイプなのですが、世の中には仕事が大好きないわゆる「仕事人間」もたくさんいらっしゃいます。本当にその仕事を愛していて、情熱を持って取り組んでいるのなら良いのですが、中には仕事を言い訳にして、大切なものから目をそらそうとしている人も結構いるのではないかと思っています。

現代の日本は長時間労働や働き過ぎが非常に大きな社会問題となっていて、ここ数年になってようやく色んなところにメスが入るようになってきました。本当に仕事が激務すぎる人が大半だろうと思いつつ、中には「家庭の中に居場所がなくて」とか、「仕事から帰っても一人で過ごすのが寂しい」とか、別の理由で仕事に忙殺されている(ふりをする)人もいると思います。家庭の中に居場所がない男性とか結構多そうです。あとは、過度に男性と対等に生きようとしたり、バリバリキャリアウーマンを目指そうとする女性も、どこか大切なものから目を背けている感じがします(そういう方はだいたい子宮を病みます)。「仕事第一主義」的な社会は、人間において、人生において大切なものから目を背けさせ、本当に大切なものを破壊しているような印象を受けます。

男性の中には定年退職してからもぬけの殻のようになってしまう方もいらっしゃると聞きます。仕事人間、仕事第一で生きてきてしまうと、その「仕事」というよりどころがなくなったときに、人生というものにつまづいてしまうのかもしれません。それはこれまでの人生で仕事に没頭するあまり、本当に大切なものを見ようとしてこなかったツケなのでしょうか。「仕事」というのは、実は経済を回すとか世の中を成立させるとかそういった意味合いよりも、もしかしたら「逃げ」の要素が強いのかもしれません。仕事に打ち込むふりをしていれば、大切なことから逃げられる。余計なことを考えなくていい。そんな免罪符的な意味合いもあるのかもしれません。

長時間労働がなくならないとしたら、その原因の一つには「早く家に帰りたくない」という人が困るから、ということもあるのかもしれません。家族と向き合うのが怖い、自分と向き合うのが怖い、人生と向き合うのが怖い、世の中のおかしなところを直視するのが怖い…そんな恐れが根底にあるのでしょうか。「長時間労働をさせる会社が悪い」論に終始することもありますが、実際には「大切なものと向き合うのが怖い」という大衆意識があるようにも見えます。私はすべての人が働かなくても安心して暮らせる世の中のあり方を考えたいと思うのですが、そうなっては困る人もいるのだと思います。働くことで自分に尊厳を保っている人、世の中の役に立たない自分はダメだと思う人、家族とうまくいっていないのに見ないふりをしてきた人…。働かなくても生きていける社会になるのを恐れているのは、実はそうした一般庶民なのかもしれません。

私はもう搾取奴隷労働社会にはうんざりですし、もっと「分かち合い」をベースとした社会になってほしいと心から思います。他の一般庶民の方も当然そう思うだろうと思っていたのですが、実はそうではないのかもしれません。仕事を逃げや隠れ蓑として使っている人は、実は搾取奴隷労働社会を(潜在意識レベルで)支持していたりするのでしょうね。人生って仕事だけではないですし、あらゆる要素のうちの一つの側面にすぎないと思います。「仕事人間」の方は、働けているうちはいいですが、病気になったり失業したりして働けなくなった時に、自己の尊厳みたいなものは保てるのでしょうか?そういう方に限って働きすぎて病気になったりして、家族の大切さや、人生にはもっと他に大事なものがあったと気づいたりするものです。そういう意味では人生のピンチというのは有難いものですね。人生において本当に大切なものは何なのか、これから誰もがその問いに直面する時代がやって来るのかもしれません。

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