「みんなそう思ってるだろうな」という幻想に振り回されていた

昨日の進学校はコンプレックスの温床でしたの記事とも少し関連する話になります。私たちは普段、マスや大衆の意識、常識をざっくりと思い浮かべることがありますよね。たとえば今の私だったら、「スピリチュアルとかエネルギーとか目に見えないものって、怪しいと思われるかな」とか、高校生のときだったら「部活も勉強も文化祭も頑張って東大に受かるのがあるべき姿なのかな」とか、そういう独りよがりな考えが全体・集合の意識であると認識してしまいがちです。そして、その「みんなそう思ってるだろうな」という幻想に振り回されていることが多々あるんだなと気づきました。

特に最近感じるのは、スピリチュアルとかエネルギーとかの話って、怪しいと思われると思ってあんまりオープンにはできないし、しない方が良いかなと思っていたのですが、「手をかざしてヒーリング、エネルギーワークなどできるんだよ」と話をすると、目に見えない世界なんてないとかそんなのできるわけない、という反応をされたことはなく、「見て見て~」とか「やってやって~」という割と好意的な反応を頂くことが多いです。多くの方が程度の差こそあれ、「目に見えないエネルギーは存在しているようである」ということに心を開いているのではないかな、と感じます。「怪しいと思われるかな」と私が感じてしまったのは、世論操作により全体がそういう風潮であると思わされてしまっていたからであり、エネルギーの話をおおっぴらにできない環境を形成されてしまっているのかなと気づきました。昨今ではどこの本屋さんに行ってもスピ系の本や引き寄せの本などが並んでいて、だいぶ市民権を得ているのだなと感じます。それでもやはり「みんな怪しいと思ってるんだろうな」というもやっとした幻想が頭に浮かんでしまうため、周りに言わずひっそりと本やブログを読んだりしている人が多いのでしょうね。カミングアウトすれば同じような人が集まるので「実は私もそう思ってた」という人が意外に多いことに気づくのではないでしょうか。

高校時代にしても、当たり前ですがみんながみんな同じような考えを持っているわけではないし、そのことはわかっていました。ただそこには「みんなはそういう人をあるべき姿ととらえているんだろうな」という「みんなの」意識だけが存在していて、実際に「それがあるべき姿だ」と本気で思っていた人は少なかったのではないだろうかと、振り返ると思います。「そう思う」ことと「みんなそう思っているだろうなと思う」ことは違うのに、その違いがよくわかっていなかったというか、「みんなそう思っているだろうな」を軸に人生を生きてしまっていたのかなと感じます。それはやはり他人の人生を生きていることに他ならず、他人軸で生きている限りは自分の人生が満たされたものにはならないし、どこか不足感やもやもやした気持ちで生きることにつながるのではないかと思います。

「みんなそう思っているだろう」とか「大衆ってこんな感じ」というざっくりとしたことってすごく思い浮かべやすいのですが、やはり実体はないし、完全なる私の思いこみです。そして、一人一人がその思いこみの世界を生きていて、その人その人の世界を想像し、創造しているんですね。どうしても人は主観的に生きているので、自分が生きている世界が絶対だと思ってしまうのですが、実はそうではないと。どんな意識で生きているかによってそれ相応の現実を体験する、それだけなんです。「多くの人はエネルギー的なものに懐疑的」という思いこみから「いや、意外とそういうのあるな、って思っている人も多い」という思いこみに変わり、体験する現実がこれからどう変わっていくか、今から楽しみです。

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