物欲がなくなった先に残るもの

昨日の「持っていること」に価値のある時代の終焉の記事と関連した話です。ブランド物、高級品などをステイタスとする物理的なモノで自分を満たすことをやめた時、人はどこへ向かうのだろうかということを考えていました。私が思うに、人間の営みとして最後まで残るのは「表現」ではないかと思っています。私の中で、「人生そのものが自己表現である」、という感覚が日に日に強まっています。

人は表現することをストップすることができず、何らかの形で自己を表現したいという欲求は常にあります。芸術的、クリエイティブな仕事をしている人を「表現者」と思いがちですが、仕事にしているか、お金を得て活動しているかに関わらず、すべての生きとし生けるものが「表現者」であると感じます。音楽でも、お芝居でも、美術でも、文芸でも、写真でも、映像でも、料理でも何でも良いのですが、誰しも日常になんらかの「表現」の場を持っているはずです。日常から表現する場を奪われてしまったら、生きる気力を失ってしまう方も多いのではないでしょうか。お金がなくても生きていけるとは思いますが、表現せずには生きていけない、それが人間の本質なのではないでしょうか。

なぜそうまでして「表現」することを求めてしまうのか、それは、人には「自分のことを知りたい」という根源的な欲求があるからです。この三次元の分離の世界で生きていることの究極的な目的や意味というのは、「外の世界を通じて自分を知る」ということだと思っています。起こる出来事を通じて、体調不良を通じて、人間関係を通じて、自分とは何かを知る旅。それこそが人生です。

「感情不感症」を克服したいの記事に、感情を味わうことの大切さ、自分にはこんな感情があったんだ、こんな感情があるとこんな風になるのだ、ということに気づけたと書きました。私の場合、○○というテーマについて、「こう表現したい!」という思いがあるというよりは、「私はこう表現するのか!」ということを知りたい、という感覚です。自分の中にないものは絶対に出てこないので、出てくるものはすべて自分の表現ということになります。そういう意味では、いわゆる芸術とか文芸とかモノ作りとかそういう分野に限らず、日常生活で起こることすべてが表現とも言えますよね。

「創造力」を養うことで風邪予防の記事にも似たようなことを書いていますが、組織のコマとして働いていると、創造力や表現力を発揮できる場というのはそう多くはないと思います。日本全体が総病み社会に突入しているのも、人が一人の人として扱われない奴隷労働に疲弊し、個性を発揮し自己表現することができなくなっていることと大いに関係があるでしょう。物欲がなくなった先にも残るのは「自己表現」。人生がつらいと感じたら、いま私は人生において自分を表現できているのか、問いかけてみると新たな気づきが得られるかもしれませんね。

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