大人の嘘や欺瞞を見破る子どもたち

前回、道徳を 教えられない 大人たちという記事に、子どもたちに身をもって道徳を教えられる大人があまりにもいないのではないかという話を書きました。大人は「子どもには○○な子に育ってほしい」など、いろんな願望を投影するものですが(そして子どもはそれに苦しめられるものですが)、子どもにそうなってほしいなら、まずは自分がそのよい手本となるような人間になるのが先なのではないかと思います。子どもは本当に親や教師など、身のまわりの大人の言動を非常によく見ているので、表面的な言葉や態度でいくら取り繕っても、ばれるものはばれるし、見透かされるものは見透かされています。

よくあるのが、子どもには「好き嫌いしないで食べなさい」と言うのに、親には好き嫌いがあって、嫌いな食べ物を残しているのを子どもに見つかった、などというケース。つっこみどころは二つあって、一つは「好き嫌いせずに何でも食べるのが良いこと」というのは本当か?ということと、もう一つは、自分が守れていないのに子どもに言うなよ、ということですよね。前者は単なる私の思想ですが、後者はいろんなことにあてはまる問題かと思います。スマホやゲームの規制などについても似たようなことが言えるかもしれません。他人の悪口を言うなと言いながら、いつも他人の愚痴ばかり言う親…そんな人もいるかもしれません。

言ってることとやってることが違う、というのはかなり人間としての信用・信頼を下げるものだと思います。ほとんどの人間が最初に失望するのが、親に嘘をつかれていたと感じることではないでしょうか。以前に性のあり方について勉強していた時に読んだ本に書いてあったことで印象に残っていたものがあります。その本には、性教育の最大の間違いは、子どもに嘘を教えることだ、というようなことが書いてありました。大人は子どもに「赤ちゃんはどうして生まれるの?」と聞かれて、本当のことを言わず、「コウノトリが運んでくるんだよ」などとごまかしたりします。これは結構一般的につかれている嘘だと思います。いつか必ずこの話は嘘だったと気づく時が来るのですが、大人はよかれと思ってこういった嘘をつくものです。こうした嘘が、性への罪悪感や過度な抑圧につながる最初の一歩なのではないかと思います。

少し論点がずれました。大人のこうした嘘をたびたび見て育った子どもには、思春期になるにつれて大人への諦め感、反抗心などが芽生えてきて、徐々にスれ始めてきます。小学校高学年くらいから高校・大学生くらいまでって、なんかこう独特の子どもらしい純粋さとずる賢さ、生意気さ、考えの浅い感じがあるなぁと感じるのですが、まっすぐ純粋に誠実に正直に育たない子がいるとすれば、やはりそれは周りの大人の影響、大人のせいなのではないかと思います。大人にたくさん裏切られて、傷ついてきたからこその、あぁいった独特の闇を抱えた感じになってしまうのではないかと感じるんですよね。正義・道徳よりも「自分さえよければいい」、平等・博愛よりも「他人と比べて優越感」。そんな意識は思春期にはもう固まってきてしまっています。

ちゃんとしていない大人が子どもを育て「教育」するわけなので、そんな人間に育てられた子どもがちゃんとした大人に育つはずはありません。逆に言えば、大人がちゃんとしていれば、子どもを「教育」なんてしなくても、子どもはまっすぐ育っていくものだと思います。その人の「背中」から学ぶことという記事にも書きましたが、一番大切なことというのは言葉ではなく、生き方や姿勢から学ぶものでしょうし、それは押しつけなくても子どもが勝手に学びとってくれるのではないでしょうか。逆説的ですが、ものがわかっている人ほどあえて「教育」なんてしなくていいということがわかっていて、生き方そのものがお手本になる人だったりします。子どもや他人にとやかく言う前に、自分自身を振り返ってみなければいけませんね。

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