「自己責任」を正しく理解すること

前回、「弱肉強食社会」を支持する愚か者という記事に、「弱者は自己責任」という論理はおかしいのではないかということを書きました。強欲支配層がトップに立っているせいで、社会のしくみ・システムが狂っているから(経済的)弱者が生まれるのであって、それを「自己責任」と言って切り捨てるのはおかしいだろうと誰もが思うのではないでしょうか。問題の本質に目を向けさせず、弱者への差別意識を募らせるような世論に誘導しているようにも見えます。

その一方で、いつも言っているように「起きることはすべて自己責任」という考え方も正しいだろうと思っています。なんでもかんでも他人のせい、環境のせい、生まれのせいにするなどして、自分自身を見つめることなく生きていくのも、これまた適切でない生き方だと思います。自分の内面を変えようとせず外の世界のせいにして生きている限り、周囲で巻き起こる出来事や出会う人が変わることもありません。そういった意味では、自分の生き方、考え方、価値観次第ではこの世の中はどうとでも生きられるのであって、「私は弱者です!」という悲劇のヒロインごっこをしている限り、弱者的な生き方からは逃れられないということも言えると思います。経済的には豊かでないけれど心豊かに生きられているから幸せ、という考え方ももちろんできますよね。

そうは言っても、あまりにも生活が困窮していると、なかなかそういった考え方に及ぶのは難しいのかもしれません。生きるのに精いっぱいだと心に余裕が持てなくなりがちですし、自分とじっくり向き合う時間が取れないこともあると思います。どうしても被害者意識が強くなりがちになるので、他人のせいにしたがる傾向が強まり、いつも愚痴っぽく、相手が悪い相手が悪いと言うので、一般的に性格が悪い人と見られがちになることもあるのではないでしょうか。そうすると人間関係がうまく築けなくなり、働いている職場でも他人とうまくやっていくことができない…といった問題が起きることもあるかもしれません。せっかく親切にしてくれる人がいても、心が荒んでいるとそういった方にも攻撃的になったりして、自らで自らを苦しめようとしたりもします。そうでない人も多いと思いますが、あくまで一般的な傾向性の話として、こういうことはあるのではないかと感じます。見方によっては、そうした荒んだ内面がその人自身を苦しめているだけなのかもしれないんですよね。その人の荒んだ内面が幼少期の親子関係に起因しているとすると、安易にその人が悪いとも言いきれない部分があり、単純に責められるものでもないというのがまた難しいところです。

社会システムという意味では、強欲支配層によるグローバリズムをベースとする現在の資本主義の在り方自体に問題があるという前提のもと、1%が富を独占するようなしくみを改め、すべての人・生き物が安心して暮らせるような社会の在り方を模索する必要があるのは間違いありません。経済的弱者が生まれざるを得ないシステムを改めないといけないということです。そして、それを踏まえた上で、一人一人が内面を見つめて、もう少し精神的に成熟していく必要があると思います。経済的に余裕がなくなればなくなるほど、人々の心にも余裕がなくなって殺伐としてきてしまいます。そうすると、ますますなんでもかんでも外の世界のせいにしようとする意識も高まるのは容易に想像できますよね。自分自身の生き方、心の在り方を考える上では、「起きることはすべて自己責任」の思想をベースに、内面を浄化していくことが大事なのではないかと思います。言葉というのはとても多次元的なもので、言う人によっても、使うシチュエーションや文脈によっても意味が変わってきてしまいます。どんな言葉であっても、その言葉じりにとらわれることなく、その言葉がどんな意味で使われているのかということを正しく理解していく必要があると思います。

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