SNSの承認欲求の原点は「対親」

現代のSNSについて考察するシリーズの続きです。SNSを話題に取り上げると必ず浮かび上がってくるテーマが「承認欲求」ですよね。この件については以前に承認欲求の舞台はブランド物からSNSへ承認欲求を越えて、我が道をゆくの記事にも書いたことがあります。SNSを見ていて、自撮りを繰り返す人や投稿が多い人、かまってちゃん的な人がいると「承認欲求」の肥大を自分の内に感じてザワつく方が多いのではないのでしょうか。ばしばし投稿する人も、その投稿にザワつく人も実は同じで、反応してしまう時点で同じような要素はどちらにもあるものだと思います。わかりやすくやるか、嫌悪感を抱くかという違いです。

昨日のSNSでは拭い切れない「孤独感」という記事に、大人になって感じる孤独感の原体験は超幼少期の親子関係にあるという話を書きました。「承認欲求」って要は、「私に注目して!私に愛(いいね・反応)をください!」という行為だと思うんですよね。露骨に「承認欲求」を出してくる人に「うっ…」と思うのは、そこに底知れぬ闇を感じるからです。その「闇」というのは愛の欠乏感で、その原体験は超幼少期の親子関係にあるということ。「私に注目して!私に愛(いいね・反応)をください!」というSNS上でのアピールは、超幼少期に親に「私に注目して!私に愛をください!」と言いたかった(けど叶わなかった)体験がおおもとにあるのではないかと思います。SNS上で過剰に承認欲求を満たそうとしてしまう人というのは、超幼少期に親からの愛の欠乏感を感じていた人が多いのではないでしょうか。

誰しもが親からの条件付けの愛を受けて育っているわけなので、多かれ少なかれ傷を負っているし、愛に飢えていない人はいないはずです。そういった意味でも、「誰にでも承認欲求はあるものだ」と世間では言われているのだと思います。それがわかりやすく「私を見て!」と出るか、内にこもるか、反応はいくつかに分かれると思います。本当にすごい人はすごい人アピールしないという記事にも似たようなことを書いたことがありますが、「自分はすごい」とアピールしたがる人というのは、人からの称賛を浴びることがすべての原動力になっているようなところがある気がします。「●●をした」というその中身の素晴らしさよりも、称賛(=愛)を欲しがっているんだな、というのが透けて見えると、一部のファンは「○○さんすごい!」となる一方で、同じくらい離れる人もいるものだと思います。全方位に好かれることはできない以上、それは致し方ないことですけどね。私はやはり「すごい人アピールしないけど素敵な人」に好感を持ちますね。その辺りは相性や好みというところですね。

私は自分がSNSの反応やブログのPVなどに一喜一憂してしまうのが気になって、長い間この固定概念や思い込みを手放したいと思っていました。ブログなどを書いていらっしゃる方は共感していただけると思いますが、やっぱり他者からの反応というのは非常に気になりますし、たくさん反応があったり、多くの方に見てもらえるとやっぱり嬉しいものです。何度ヒーリングしたり、色んなメソッドを使って思い込みを手放そうとしても、かなり強固に残っている思い込みでした。何となく感じていたSNSと承認欲求、孤独感、身体性についてこうして整理して冷静に見つめ直してみると、その原点にはやはり「愛」の問題があり、超幼少期の親子関係にその根本はあるということがはっきり腑に落ちましたね。反応(=現代ネット上で得られる仮想愛)があろうがなかろうが、自分は自分でいいし、ありのままで素晴らしい存在なのだと思えれば、そんな悩みは一瞬で吹き飛ぶものです。現代で巻き起こるあらゆる問題も、すべては条件付けの愛による傷やトラウマに帰結するのではないかと思います。困難が巻き起こるたびにそれを癒して、自己肯定感や自分自身の愛の意識を拡大していくのがこの地球上での学びであり、誰しもが体験したいと願っていることであるはずです。ネット社会を生きる現代人にとって、他者の反応から解放された時、それが本当の「自由」なのかもしれませんね。

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