「生きづらさ」の本当の原因

6月17日はオフ会の日でしたが、この日は参加申し込みがありませんでしたので(何気に初めて!)、別の予定を入れて楽しい時間を過ごしました。なんだか本当に最近楽しいことばかりで、心の葛藤もなく、ずいぶんと生きやすくなったなぁと感じています。一方で私のnoteを読んでくださる方、私の思想や考えを知っている方の中には、「この人はなんて生きづらそうなんだ」と思われる方もたくさんいらっしゃることと思いますし、そう思われるのも非常に納得がいきます。そのいわゆる「生きづらさ」って一体なんなんだろう?とちょっと思いを馳せてみました。

確かに私も「生きづらさ」を感じる場面は多々あります。世の中のおかしなことにあれこれ気づいたりするし、不条理、理不尽なことや曲がったことが許せない的な性格なので、面倒くさい奴だなぁと自分でも思います。頭空っぽで世の中のことに目を向けず、思考停止で生きていけたらどんなに楽だろうかと何度も思ったことがありました。それでもやっぱりそんな風に生きるのは嫌で、おかしなことはおかしいと言いたいし、組織や権力に迎合せず、弱者の味方でいたいと常々思っています。世間一般のものの考え方とずれている部分もあるので、「こんな考えはなかなか理解されないんだろうなぁ」という孤独感や寂しさみたいなものも確かに感じています。だからこそnoteを通じて同じ考えの方に出会ったり、内容にご共感いただけると、とても嬉しく思います。

そういった「生きづらさ」は確かにあるなぁと感じつつ、それでも実感レベルでは日に日に生きやすくなっているのはなぜだろう?と思うと、やはり自分の生き方、価値観、思想が固まってきたことが大きいんだなぁと感じます。他人の意見に振り回されて「そういうもんかなぁ?」と揺れ動くことが極端に減って、自分の生きる上での軸みたいなものの輪郭が定まりつつある感じがします。世間の風潮とか常識といったものから自由になりつつあり、「自分はこう思うからこうする、こう生きる」という思想に自信を持てるようになってきたのかなぁと思います。以前はかなり世間の目、他人の目に敏感で、他人からの評価を気にして心が乱れることが多かったように思いますが、最近はそういったこともものすごく減り、だいぶ心が軽くなりました。

世の中の多くの人は、生き方の価値観や思想といったものが定まっていないように思えていて、「周りがそうしているから」「それが当たり前だから」「それが他人から評価されることだから」といったことで人生におけるあらゆる選択をしているように感じます。生きる上で本当に大事にしたいものは何か、何を優先して生きるのか…そういった人生における重要な価値観が定まっていないと、常に周りに流され続けてしまうように思います。価値観のすり合わせをしないまま適齢期だからと結婚してしまったりして、あとあとの人生で苦労する、なんてことも多そうです。自分自身の生きる上での価値観、思想が定まった上で、それからぴったり合うパートナーと出会って結婚する、というのが一番理想的なのかなと感じますね。

あらゆる常識や固定概念、世間の風潮といったものから自由になり、自分の生き方の価値観・思想が定まってくると、とても生きやすくなる、というのが私の実体験からの気づきです。他人と比べることが減り、他人の評価を気にすることが減り、「自分にとっての幸せとは何か?」ということに意識を向けることができるようになったことが大きいと思います。私がnoteに書いているような内容は、今はまだ世間的に見て少数派の思想かもしれませんが、これはそのうちひっくり返ると思っていて、私が今感じているような「わかってもらえないなぁ」という思いや孤独感といったものは一時的な感覚、もしくは錯覚なのかなと思ったりもします。多くの方が感じていることと思われる「生きづらさ」というのは実は、自分の確固たる生き方・価値観・思想が定まらず、周りに流されて生きていることによるものなのではないでしょうか。

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