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『私生活』

 気が付くと俺は平たい石の上で横になっていた。背中の骨がごつごつと当って痛かった。そして目を開けて真っ先に飛び込んできたのは、高くそびえ立つ木々の間から漏れ出てくる太陽の光だった。俺は目を細くして、その力強い日の光をやり過ごした。そしてなぜこんなところで寝ていたのかを思い出そうと試みたが、駄目だった。ここに至るまでの記憶がないのだ。
 小説やドラマによくあるように、既存の記憶を一つ一つ思い出してみる。名前……年齢……身長……出身地……好物……特技。大丈夫だ、たいてい思い出せる。石の上で横たわりながら、腕を伸ばしたり足を曲げたりする。仮面ライダーみたいに屈強な体にされているわけでもない。しかしそれでも不安を感じている俺は、試しに東京事変の『私生活』の出だしを声に出して歌ってみた。
「酸素と海とガソリンとぉ――」
 どうやらまともに歌えるようなので、俺は一安心した。俺は俺のままである。
 寝たままジーンズのポケットに手を突っ込んでみた。何も入ってなかった。財布も、携帯電話も、ガムすらも入っていなかった。だいたいにおいて、外出する際にはこれらのうち最低一つを持って行くというのが俺の主義だ。体中をまさぐってみても、それらが見つかることはなかった。
 あお向けの状態で、のけ反るように頭上へ顔を向ける。三メートルほど離れたところに、奇妙な形をした岩があった。上部は平らで、そこから突き出るように三本の太い足が地面に下りていた。ちょっと見方を変えればテーブルに見えなくもない。だがテーブルとして用いるには台がいささか高すぎた。それに足を入れるところがないから、食事をするのにもひどく不自然な体勢になるはずだ。三本の足は人為的に作られたのだとしても、用途はさっぱりわからなかった。変な岩だ。
 体を起こしてみる。俺が今まで寝ていた平たい石は、形を見る限り、ベンチと表現して差し支えないようだ。二人が座れるほどのスペースで、若干いびつな細長い形をしている。表面は綺麗に磨き上げられていた。触れてみるとつるつるとした心地いい感触があった。
 周辺を見渡す。青々と茂った木々が周りを円状に取り囲んでいた。俺はどうやら森の中にいるみたいだ。ただ俺のいるこの広場にだけは木が一本も生えていない。短い草が生え所々地面が露出しているだけだ
 ベンチから十メートルほど先に崖があった。崖の高さは三階建ての家ほど。横幅はわからない。七、八メートル近くある木が所狭しに広場の外に立ち並んでいるので、崖がどこまで続いているのかわからなかった。岩肌は白く、それが何かしら神聖な空気を漂わせていた。そして崖の中央には女性の彫刻が彫られていた。
 その彫刻は壁から上半身だけを突き出している。ちょうど海賊船の船首に取り付けられた女神像みたいだ。腕の関節から先と下半身は壁の中に埋まり、あきらめのような疲れ果てた表情を浮かべていた。目は少し閉じられ、軽く開けられた口からは今にもため息が出そうである。女性は薄い衣のようなものをまとい、自分の胸元に憂うつそうな視線を落としていた。いや、胸元じゃない。女性が見下ろしているのは、ちょうど俺が座っている石のベンチだった。つまり俺は今彫像と視線を交わしているわけである。
 しばらくその彫像から目を離せなかった。俺は口を半開きにして、何分もそれを見つめていた。あまりにすごかった。彫像は息をするのもはばかられるような圧倒的な威厳を放っていた。それは俺が今まで見てきた彫刻と何から何まで次元が異なった。ひしひしと音もなく大地を震わすような幽玄さがあり、俺の感情を一気に吹き飛ばすくらい神秘的で、時の流れを忘れさせるほど幻想的だった。美しい、と俺は思った。これ以上この美しさを表現できる言葉が見つからなかった。
 土を踏みしめる音が聞こえたのは、俺がその彫刻を発見してから数分ほど経った後だった。
 その遠慮がちな足音に、俺は後ろを振り向く。そこには女の子が立っていた。
 彼女は長い髪を背中まで伸ばし、薄く青みがかったワンピースを着ていた。靴は土で汚れたワークブーツを履いている。いくらかサイズが大きいようで、少女の細い体には少し不似合いだった。そして右腕には竹で編まれたバスケットを提げていた。ずいぶん綺麗な子だ。だがその綺麗さはただの視覚的なものではなく、もっと根本的な何かだった。
 その証拠に、俺は彼女を見た瞬間、なぜか懐かしいという感情が沸き起こった。もちろん相手と面識はない。初めて見る女の子だ。だが彼女の顔立ちは、遠い思い出を呼び覚ましたみたいに、俺の心をじんわりと暖かくさせた。俺は口をつぐんだまま、食い入るようにその顔を見続けた。
 しかし当の少女は疑い深い顔で俺を見返していた。何か言おうと口を軽く開けてはいるのだが、続く言葉が見つからないようだった。どうやら少女にとって俺の存在はよほど奇異で、あり得ないことらしい。
「やあ」と俺は口許に微笑みを浮かべて声をかけた。こういう場合、年長者が話しかけるのが社会的マナーなのだ。
 しかし反応はない。長い髪の少女はそれに対してどう反応すべきか迷っているようだった。表情をこわばらせ、ぎゅっとバスケットを握っている。どうやら俺の第一印象はあまりよろしくないようだった。しかし我慢強く問いを発する。
「ちょっと聞きたいんだけど、ここってどこ?」
「あなたは悪魔?」と少女は俺の質問を無視して言った。川の水みたいに透き通った綺麗な声だった。
「悪魔?」と俺は聞き返した。「何のことだ?」
「ここに人は来ないの。でも森の悪魔がたまに彫像を見に来るって」
 彼女はそう言って俺の背後の彫刻を指さした。
「いや……たぶん俺は悪魔じゃないと思う」
 なぜだか自信のない答えになってしまった。俺は自分が悪魔ではないと胸を張って答えるだけの確証がなかったのだ。
「名前は」
「は?」
 目を丸くして俺は聞き返した。問いのイントネーションがなかったので、それが俺に対する質問なのかどうかわからなかったのだ。少女はもの静かに言葉を言い足す。
「あなたの名前。森の悪魔は名前を持たないから」
「植木和也」と俺は率直に答えた。財布を持ってないから免許証もないし、保険証もないので、これが身分証明になるなら安いものだ。「君の名前は?」
「わたしも名前がないの」
 俺はすっかり混乱した。「おいおい、名前がないのが悪魔なら、君も悪魔ってことになるぜ?」
「わたしは悪魔じゃない」と彼女は硬く主張した。「ウエキカズヤさんはどうしてここにいるの?」
「知らない。俺もよくわからないんだ。気が付いたここで居眠りしていた」
 彼女は考え込むような顔になった。この男をどう評価すべきかと思案しているようだ。俺は自分の外見が相手にどんな印象を与えるか見当もつかなかった。
「質問に答えて」と彼女は唐突に言った。「歳は」
「二十五」
「身長は」
「百七十九センチ」
「煙草は吸ってる?」
「去年まで吸ってた。今はやめてる」
「歌は歌える?」
「少しくらいは」と俺は言った。「なあ、そんなに聞きたいことがあるなら事前にアンケートでも配っといてくれ」
「信じられない」彼女は驚いたように言った。「あなたには心があるの?」
 こんな問いは生まれて初めてだ。あなたには心があるの?
「たいしたもんじゃないけど、あるんじゃないかな」と俺は言葉を選びながら言った。
 すると彼女は無言でこちらに歩み寄ってきた。
 俺は立ち上がり、少女と向き合った。歳はおよそ十四歳くらいだと俺は推測した。それ以下だと顔立ちが大人びていて矛盾するし、それ以上だと体の大きさが噛み合わなかった。
 バスケットを提げた少女は真剣な目で俺の顔を覗き込んでいる。本当に綺麗な娘だ。二十五年間生きてきてこれほど美しい女の子に出会ったことはない。しかし彼女の美しさはどことなく儚げな印象があった。ちょっと背中を押しただけで、ガラスの割れる音ともに壊れてしまいそうな、そんな脆さがあった。
 俺は咳払いした。「最初の話に戻るけど、ここはなんていうとこなの? どう見ても池袋には見えないんだけど」
「イケブクロ?」と彼女は知らない単語を発音するみたいに言った。
「池袋だよ、池袋」と俺は言った。「東京の池袋。石田衣良が書いた『池袋ウエストゲートパーク』っていう本で有名なところで――」
 少女が困ったような顔をしたので、俺は言葉を切った。嫌な予感がした。頭の中で列車の汽笛が鳴り響き、檻に入れられた猿がきーきーと鳴きわめいていた。まさか……。
「トウキョウ?」と少女は言った。「何、それ」

 思い出すことのできる最後の記憶を掘り起こしてみる。金曜日のことだ。それが昨日なのか、先週なのか、それとも一世紀前の金曜なのか、さっぱりわからない。とにかくその詳細不明な金曜日の朝、俺は七時に起床し、顔を洗い、歯を磨いて、朝のニュース番組を見ながらありあわせの朝食を取って、マツダアテンザに乗って会社に向かった。ここまでのことは毎日の繰り返しなので、いちいち思い出すまでもない。会社のホワイトボードに書かれたスケジュールを確認してから、車で二件の病院を回り、そこで使われている会社製の医療機器の使用状況をチェックした。そして不具合などなかったか看護師に訊ね、大事なことはメモする。そして出来れば医師とも会っておく。しかし彼らはまず多忙なので、会えない時も多い。まあ異常があれば向こうから電話をかけてくるので、それほど神経質になる必要はないのだが。
 帰社後は倉庫で機器の状態検査を行う。検査と言っても、ちゃんと作動するかをチェックするだけの簡単なものだ。埃のせいで機械に問題が生じればいざという時使用できない。それを避けるため、定期的に念入りにテストを行う。社員はあまり多くないから、こういうことをこまめに行う必要があるのだ。
 後は書類整理。これでだいぶ体力を持っていかれる。机に座ると、俺の頭上に体力メーターなるものが現れる。満タン時は緑だが、書類整理を終えるとメーター残量が著しく低下しており、赤く点滅している。俺は干乾びたミミズみたいになる。そこでようやく帰宅できる。檻から放たれた熊みたいに、俺は一目散に池袋のアパートへ帰る。
 帰宅後、俺は確かコンビニで購入した生姜焼き弁当を平らげ、缶ビールを飲みながらテレビを見ていたはずだ。日本テレビの放送した『ファンタスティック・フォー』の映画を、ピーナッツをつまみながら鑑賞した。それが終わるとシャワーを浴び、寝間着に着替えて布団に潜り込んだ。そして深い眠りに落ちた。俺の意識は混濁の中へ誘われたのだ。だがそれより先の記憶がない。翌日目を覚ましたのだろうか? 金曜日の次の日は必然的に土曜日である。だが今日がその土曜日なのかはわからない。日曜日かもしれないし、月曜日かもしれない。何しろ携帯電話は持っていないうえ、どれくらい眠っていたのかもわからないのだ。そして俺がここにいる理由も、原因も、意図もわからない。
 なぜ俺はここにいるんだろう?

「少なくとも、ここはニホンっていう場所じゃないよ」
 少女は確信を持ってそう言った。
 我々は、俺がさっき目を覚ました平たい石のベンチに座り、話をしていた。娘はどうやら俺を信用してくれたみたいで、ぽつりぽつりとではあるが、質問に答えてくれるようになった。
「じゃあなんていうところなんだ」と俺は聞いてみた。
「さあ、わたしにもわからない」
 俺は組んでいる足を組み替えた。「わかんねぇってことないだろ。そこに住んでいれば、自然と国名とか地名がわかってくるもんじゃないのか? 俺だって物心つく前から日本に住んでるってことが漠然と分かっていたもんだけど」
「国名も昔はあったかもしれない」と彼女は言った。「でも今はない」
「昔はあった?」と俺はやや大きな声で聞いた。「どういう意味だ? それ」
「ウエキカズヤさんはここのことをまったく知らないのね」
「ああ、知らないよ。ところで、その『ウエキカズヤ』って言うのやめようぜ。呼びにくいだろ。和也でいいよ」
「カズヤは」となぜか敬称まで除外されたので俺は少し驚いた。「わたしのことを何て呼ぶ?」
「……どういうことだかお兄さんにもわかるように説明してくれ」
「わたしはあなたのことをカズヤって呼べるけど、カズヤはわたしのことを何て呼べるのかしら? わたしには名前がないから」
「名前がないっていうのが、よくわからん。近所の人は君のことをどういう風に呼ぶんだよ。なけりゃいろいろ不便だろうに」
「私は一人暮らしだから。家の周りにも住んでいる人は一切いないの」
 俺はしばらく言葉を発せないまま、少女の横顔を見つめていた。その表情にはこれといった感情はなかった。彼女にとっては、当り前のことなのかもしれない。
「……親は?」
「いるよ。今もいる」彼女はなんでもなさそうに言った。「でも二人は街に住んでる。わたしは十一の時から街の外れに住んでるの。冬になると街に戻って、春が来たらまたそこで生活する。それをくり返してきた」
「何のために?」
 少女は立ち上がり、歩き出した。俺も反射的に腰を上げ、彼女の後に続いた。しかしすぐに止まる。彼女が前にしているのは、ベンチから約三メートル離れた位置にある奇妙な形の岩だった。何のためにあるかわからない岩。
 しかし近づいてわかったのだが、俺が岩だと思っていたものは岩ではなかった。少女が蓋を開ける。その下に黒と白の鍵盤が見えた。それはピアノだったのだ。鍵は全て揃っているし、ペダルだってちゃんとついてる。れっきとしたグランドピアノだ。
 とは言えこれを一目見てピアノだと表現するには少し説得力がなかった。あまりにもボロいのだ。ピアノの足には蔦がからみ、 屋根には苔が生えている。それはすでに植物と同化していて、森の一部と化していた。
「これ、ちゃんと動くの?」
 俺は疑問に思って訊ねた。彼女は淡々と答える。
「もちろん。わたしは毎日、ここでピアノを弾いて、歌を歌っているから」
「歌?」と俺はびっくりして聞き返した。「ここで?」
「そう」彼女は俺の顔を見てうなずいた。「それが『歌い手』の仕事なの」

 少女はピアノの下から木製のピアノ椅子を引き出して、そこに座った。
「『歌い手』って、何?」と俺は質問した。
「『歌い手』は、歌をあの彫刻に歌い続けるのが仕事なの。毎日ここへ来て、ピアノを弾き、歌を歌う。それは母の時も行われた。あるいは母の母も。これは何年も前から行われてきた職務なのよ」
 俺は崖の彫像に目を向けた。彫像は何も言わず、何も口を挟まなかった。彼女はとくに意見がないようだ。俺は視線を戻して、再び問いを投げかけた。
「何のために?」
「正しい歌を見つけるため」と少女は言った。「わたしは他にも母からいろんな歌を教えてもらったし、図書館にある膨大な本の中から歌を拾い出して、それを歌うこともあった。でもどれも本当の歌じゃなかった。歌い手の真の仕事は、正しい歌を見つけることなの」
「正しい歌?」
 歌い手の少女はうなずいた。「正しい歌は図書館の本のどこにもかかれてなかったし、母も知らなかった。きっと母の母も知らないんだと思う。つまり誰も知らないってことなのね。今までずっと、その歌はこの世界で歌われてこなかった。でも私は――正確には私たち歌い手は、それをずっと探している。そして正しい歌を歌えると、何かが起こる。それだけはわかってる。でも私はまだ正しい歌を見つけていない。これからもずっと探し続ける。そしてそれを見つけだし、ここで歌うことで、ようやくわたしたちは本来の仕事を全うすることができるの」
 彼女はそれだけ言い切ると息を吸い込んで、一気に吐き出した。これらの言葉は少女の中にずっと溜めこまれてきたようだった。心なしか、表情がいくらか緩んでいるように見えた。
「なんだかよくわからないけど、君はその『歌い手』って仕事を任されていて、それを代々続けてきているってことだな?」
 少女はうなずいた。
「他の人間にはできないのか?」
「街で歌を歌えるのは、わたしと、母しかいない。だからわたしたちは『歌い手』としての仕事を任せられている。他の人は『歌い手』にはなれないの」
「つまり君とお母さんは街の中でも特別歌が上手いってことなのか?」
 首を振る少女。「街の人は、歌そのものが歌えないの。誰もリズムを取ろうとは思わないし、メロディを口ずさむこともしない。まともに歌えるのはわたしたちだけ」
「歌えないってどういうことだよ? 誰だって――幼稚園児だって歌が歌えるんだぜ。それこそ俺だって」
「歌えない、っていうより、歌わないのかな。街の人は誰一人として歌を愛さないの」
 今度は俺が首を振った。「そんなばかな。ラジオとか、テレビとかから歌が流れたりしないのか? 普通街中でも聞こえるぜ」
「街にはラジオもテレビもない」
 俺は愕然として何も言えなかった。歌い手と名乗る少女は続ける。
「昔はあったみたいだけど、今はない。自動車もないし、飛行機もない。図書館の本ではそういうことがたくさん載っていたけどね。ただ今では、図書館で本を読む人すら、誰もいない」
「いったい何があったんだ?」
 少女は口を閉ざした。わからないのかもしれないし、言いたくないのかもしれない。果たしてどちらに該当するのか、俺は彼女の表情からは判断できなかった。
「街の人は毎日何をして暮らしているんだ?」と俺は別の切り口から聞いた。
 彼女は子猫に触れるみたいに、鍵盤の表面を優しく撫でた。「畑を持っている人はそれを耕したり、元修理工の人は家財の修理をしたり、元大工の人は家の修繕をしたり。森の奥にある川から魚を取ってくる人がいて、それを街人全員に配給している」
「その時、金の移動はあるのか?」
「そもそも街には通貨が存在しないの。みんながみんな、支え合って生きている。誰一人として犯罪を起こさないし、誰かをひがんだりしない。まるで時計の部品みたいに、何一つ欠落したものがないのよ」
 俺は黙ったまま、ピアノを見つめていた。こんなに疲れ果てた代物がちゃんと音を出せるのだろうか。少なくとも十年近くは放置されているようだ。ピアノの屋根の上には、どんぐりとまつぼっくりが四個ずつ並べられていた。
 俺は彼女の言う街を想像してみた。音楽のない、金のない、罪のない社会。歯車に手足が生えたような無口な街人。だがそれは我らが池袋の街とは根底から異なっていた。そんなものが存在していいはずがない。少なくとも俺は耐えきれないだろう。
 俺が熱心に想像力を働かせていると、少女は突然顔を上げた。
「ねえ、カズヤ。もし泊まるところがなければ、わたしの家に来ない?」
「君の?」と俺は驚いて言った。
「うん。夜の森は冷えるから。それに森の悪魔がいたずらするかもしれないし」
「それはぜひご遠慮願いたいね」と俺は笑って言った。「でも、いいのか? 俺みたいな見知らぬ人間を家に入れて」
「大丈夫だよ。家は広いし、ベッドも二つあるから。食料だって食べきれないほどたくさんあるし」
 しかし俺だって男だ。いくらなんでも十四歳の女の子の家に泊まることはできない。たとえ右も左も知らないような土地にいたとしても、それだけは社会人として避けなくてはならないのだ。
 俺が断ろうと口を開きかけた直後、彼女はにっこりと笑った。初めての笑顔だった。まるで北極の永久凍土が一瞬にして溶け出し、エジプトのミイラが跳ね起きそうなくらいの明るい笑いだった。俺の心臓がどきん、という音を立てた。
 この笑顔――俺はどこかで見たことがある。
「なあ」と俺は言った。
「なに?」
 だが俺は口を中途半端に開けたまま、言葉を発せなかった。たった今声にしようとしていたものは、割れたシャボン玉のようにその場に飛散した。
「――いや、何でもない」
 彼女の笑顔は、残り香となっていつまでも俺の中を漂った。

 森を出るとそこは丘になっていた。なだらかな丘陵は動物の背中みたいに丸まり、そのまま麓まで下りていた。麓から先は草木のない平地が少し続き、その向こうには街が見えた。
「けっこうでかい街だな」と俺は言った。「人口はどれくらい?」
「さあ? 正確な数はわからないけど、ざっと百五十人くらいかな」
 街は全体として古い印象があった。そして民家が極端に少ない。いや、ほとんどなかった。奧の方にマンションらしき建物が三棟ほど並んでいる。街の左手には工場とおぼしきドーム場の建造物があった。家は手前――この丘を下りていけばちょうどさしかかるところに、一つあるだけだった。その家も一世帯が住むには少し小さすぎる。街の奧の方にも三角屋根がちらほらと見えるが、ここからではいまいち大きさがわからない。よって民家かどうかも判断できなかった。
「君の両親はどこに住んでるんだ?」と俺は少女に聞いた。
 マンションの建物を指さす少女。「多くの街人はあそこで暮らしている。他には工場で鉄鋼を溶かしたり廃棄物を再利用したりするために住み込みで働いている人や、魚を捕るために川の近くで住んでいる人とか」
 街にはコンビニも、TSUTAYAも、西友もない。もちろん車も通ってないし、信号機もない。一見してヨーロッパの古き良き街並み的趣がある。NHK辺りの旅番組でよく紹介されているアレだ。石畳が敷かれていて、人々はうっすらと微笑みを浮かべながら暮らしている。しかしいくら古き良き街でも信号機くらいあるはずだ。しかしあそこにはない。
 街の中央部分に高い時計塔が見えた。その足下は広場になっているようで、建物は一つとしてなかった。時計塔は天空から落とされた神の槍みたいに、毅然として地面に直立していた。
「街が必要とする人間だけが、街にいることができる。不必要なものは何もないし、余計なものもない」と少女は丘を注意深く下りながら言った。
「不便なこととかないのか?」と俺は訊ねた。
「ないと思う」と少女は言った。「全てが完結しているから」
 全てが完結している。
 街はまるで精巧に造られた巨大な模型のようだった。そこには動きというものがないのだ。俺はあの街に果たして百五十人もの人間がいるかどうかも不安になってきた。
 やがて少女の住んでいる家に着いた。そこは森と街の中間的な場所に位置していた。丘の唯一平らとなっているところだ。家はこざっぱりとした煉瓦造りで、大きすぎもせず小さすぎもしない。やはりここも必要最低限というコンセプトに基づいて造られたのだろう。
 家に入ると靴を履いたままリビングに向かい、テーブルの椅子に座った。少女は台所で湯を沸かし、コーヒーを淹れてくれた。電気は通っているらしく、室内の照明にはちゃんと明かりが灯った。ただ家の外に電柱が見当たらなかったので、もしかしたら地下に電線を通しているのかもしれない。
「全部一人でやってるのか?」と俺は湯を沸かしている少女に聞いた。
「うん。料理とか洗濯とかは全部一人でやってる」と少女は答えた。「もうすっかり慣れたよ」
 彼女の淹れてくれたコーヒーは格別にうまかった。少なくともマクドナルドのコーヒーよりは数万倍も飲む価値があった。かつてとある友人にマクドナルドのコーヒーはおいしいかと質問して、怒らせてしまったことがあった。彼は駅員をやっていた。
 部屋の隅にはシングルベッドが二台置いてあった。ここだけは必要最低限というコンセプトから背いている。気になったので聞いてると、歌い手の少女はこう答えた。
「以前は父と母がここで暮らしていたの」
 彼女は向かいの椅子に座った。
「母が歌い手だったころの話ね。両親はここで暮らしていた。私が生まれるまで」
「どうして君の父親も?」と俺は訊ねた。
「たぶん母が歌い手を任される前から、親しかったんじゃないかしら」
 そこで沈黙が舞い降りた。しばらく経ってから、俺は口を開いた。 
「ところで俺の話なんだけど。実を言うと、俺はどうしてさっきの場所にいたのか、全然わからないんだ。気が付いたあそこにいた。たぶん自分の意思で来たわけじゃないんだと思う。だって地名も知らないような場所に来るわけないもの」
「ここには地名なんてないよ」と少女は言った。
「まあ、それは置いといてだな。俺は元いた場所――東京都の池袋に帰らなくちゃならない。会社だって行かなくちゃならない」
「どうして?」
「どうして?」と俺は大げさに聞き返した。「いや、普通に考えてみろよ。仕事すっぽかしていつまでもここに居られるわけないだろ? 有給取ってるわけでもなければ、社長に連絡を入れてるわけでもない。下手するとクビになっちゃうよ」
「だったらここで働けばいいじゃない」
「……何だって?」と俺は穏やかに言った。
「街の人と一緒に、ここで働くのよ。そうすればあなたの望んでいる通り、ずうっと働くことができるじゃない」
「そういうわけにもいかんのだよ」と俺は我慢強く言った。「なぜなら――」
 しかし俺の意に反して、言葉は出てこなかった。さっきまで喉元にあった言葉は、いざ口に出そうとすると、それはかたちをなくしてどこかに消え去ってしまった。
「俺がいなくなると、同僚が困ってしまう。他の人間に迷惑がかかるから」と俺は何とか言葉をつなげた。しかし自分でも納得のいかない理由だ。
「大丈夫だよ。何かが欠けてもそれを補うものが必ず存在するから」と少女は言ってコーヒーを一口飲んだ。
 俺は頭がくらくらしてきた。考えてみれば、俺の置かれている状況は満塁サヨナラホームラン級におかしな状況なのだ。知らない土地にいて、初めてあった女の子とコーヒーを飲んでいる。携帯電話はないし、財布もない。俺は荒野に全裸で放り出されたみたいに心細い気持ちになった。
 俺は心を落ち着かせるためにコーヒーを飲んだ。やはりうまい。
「うまいね、このコーヒー」と俺は言った。
「ありがとう」少女はうれしそうに笑った。
それから俺たち二人は丘の斜面を下って街まで下りた。街は人っ子一人いなかった。石畳の道を歩き回っても、街人と会うことはなかった。所々に立つ建物は埃をかぶり、核戦争後みたいに廃れていた。反応しない自動ドア。かすれて文字の読めない看板。人気のない室内。俺はそれらを覗きながら、街の中心部に進んでいった。その間、少女は黙って俺の横を歩いた。
「全然人がいないみたいだけど」
 俺は三階建てのビルを見上げながら少女に言った。
「ここ近辺に人は住んでないの。ここは打ち捨てられた区画」彼女は静かに言った。「居住区や工場区はもっと奥」
 まるで世界が滅亡したかのような雰囲気だった。ときどき乾いた風が建物の間を抜けていった。街は静寂のコートを着てうずくまっているようだった。確かに少女の言うとおり、街のどこからも音楽は聞こえてこなかった。そんな空間を歩いたのはずいぶん久しぶりだったから、俺は辺りをきょろきょろしながらポケットに両手を突っ込んで歩き続けた。そして公衆電話も探してみる。万一見つかったとしても、お金を持っていないので電話はかけられない。だが探さずにはいられない。外界とのつながりを持つ電話というものを一目見て安心したかったのかもしれない。しかし今や時代遅れの電話ボックスは、一向に見つからなかった。
 やがて俺たちは時計塔の広場にたどり着いた。広場も他と同じように、人の気配はなかった。しかし一つだけ奇妙なものを見つけた。それはピンク色の小さなゴムボールだった。ボールは時計塔の下に転がっていた。俺はそれを手にとって、よく見てみた。土埃で汚れた、かなり年季の入っているボールだった。それは時代の変化に適応できなかった古代生物を思わせた。俺は首をひねって後ろの少女に言った。
「子供はいるのか?」
「いるよ。家族と一緒に居住区で住んでいる」
 俺はひとしきりゴムボールを観察した後、元の場所にそっと戻しておいた。そして背中に手をやり、時計塔を見上げた。かなり高い時計塔だ。これもまた煉瓦造りで、先端に行くほど先が細くなっている。そして一番上には文字盤が四つあり、それぞれ違う四方向を向いていた。おそらく方位を示しているのだろう。だがどれが北でどれが南か、それを示す記号なり文字なりは見当たらなかった。
「ねえ、もう帰らない?」
 後ろで少女が言った。
「でも……」
「街人に会うのなら、明日にだって出来るでしょう? ほら、日が暮れてきたみたい」
 確かに太陽は西に沈みかけていた。時計塔の鋭い影が広場を分断している。この時間に尋ねていったら失礼かもしれない。しかし失礼だのなんだの言っている状況だろうか? 一刻も早く池袋に帰らなくてはならないのに。だが頭のどこかで何かを急かすような声が聞こえた。それは実態のない手で一生懸命俺の背中を押していた。どうしてだろう、俺はこのまま彼女の家に帰ったほうがいいような気がする。理由はわからない。しかし俺はこの街にいても結局何かを得ることができないように思えるのだ。ここはあまりに静か過ぎるし、あまりに無感動的過ぎる。
 俺はうなずいた。「ああ。帰ろう」
 少女と広場から去る際に、後ろを向いて時計塔を見上げた。四面ある文字盤は全て同じ時間を示して、止まっていた。そこで初めて気付いたが、時計は止まっていたのだ。時間は十時三十二分を示していた。

 夜――この家には時計がないので正確な時間がわからないが腹時計的に考えて午後七時ごろ――彼女は料理を振る舞ってくれた。じゃがいもの入ったシチューと、ほうれん草のサラダと、クルミパンだった。
「うまいね」と俺は言った。本当にうまいのだ。少なくとも――いや、これ以上俺の粗雑な比喩表現はしつこくなるのでやめておこう。とにかくおいしい。
「お肉は入ってないの。野菜だけ」
「でもすごいうまいぜ。料理評論家だって後頭部からひっくり返るくらいだ」
 彼女はさっきから俺が料理を貪るのを興味深そうに眺めている。自分は一口も手を付けていない。あまり見られていると居心地が悪いので、話題提起をすることにした。
「じゃあもちろん、この街にはポテチとかもないんだな?」
「ポテチ?」
「ポテトチップのことだよ。ジャガイモを薄く切ったものを油で揚げるんだ」
「フライドポテトは作れるよ。街の人もたまに食べるから」
「ふうん」と俺は相槌を打った。「ところで君は――」
「ねえ、その君って言うのやめてくれないかな?」と少女は俺の言葉を遮って言った。「あなたの名前はカズヤだけど、私には名前がないから。それって不公平でしょう?」
「確かに」と俺はうなずいた。「俺も名前がない女の子と会話なんてしたことがないから、いささか変な感じになったかもしれない。じゃあ何て呼べばいいんだ?」
「カズヤに任せるよ」
「あだ名とかないの?」
「ない。カズヤはあだ名があるの?」
 俺はたっぷり五秒黙った。「あるにはあるけど、教えたくないな。ガムテープでぐるぐる巻きにして川に放り投げたいくらいひどいあだ名だから」
 少女は楽しそうに笑った。
「名前、考えとくよ」と俺は言った。そして話を戻そうと思ったが、何を言おうか忘れてしまった。いいさ、どうせ大したことじゃないだろうから。
「カズヤの話を聞かせて」彼女はシチューを口に運んだ。「何でもいいから」
「特別な話は何もないさ。毎日会社に通って、家に帰って寝る。その繰り返し。休みの日は家でゲームをやっているか、近所を散歩したり、映画を見に行ったりしてる。金はあんまり使わないから、そこそこある。でも使う予定は今のところない。貯金して老後はギリシャに移住してゆっくりと余生を過ごそうとでも思っているが、明確な目標はない。マツダアテンザに乗っていて、いつもイチゴミルクの飴をなめながら出社する。ルービックキューブを一分十秒で全色揃えられる。今年の冬に五回転んだ。それだけだよ」
「とても楽しそう」
「そりゃよかった」
 俺はクルミパンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。事態はまったく進展していない。

 食後、俺は少女と皿洗いをした。水道水もどうやら供給しているらしい。いったいどこからなんだろう?しかし俺はそのことを彼女に聞かないでおいた。どうせあまり納得のいかない答えが返ってくるだろうから。
「君はまだ十四歳なのに、何でも出来るんだな」
 俺は皿を布巾で拭きながら言った。少女は蛇口をひねって水を止め、皿を棚に入れていった。
「そう?」
「ああ。俺が十四歳の頃は料理なんて出来なかった。一人暮らしなんてとても、ね」
「十四歳の時は、カズヤはどんなことをしてたの?」
「口から炎を吐く練習をしてた」
「本当?」
「冗談だよ。十四歳っていうと、中学生か」
「何か思い出せることはある?」
 俺は手を止めて、少し考えた。「本ばっかり読んでたからなあ。友達はまあまあいたけど、学校が嫌いでね。いつも行きたくなかった。教師は間違ったことばっかり教えているし、生徒もまともなやつは右手で数えられるほどしかいなかった。下らない規則をこの世の真理とでも言わんばかりに唱えているし、正しいやつを駄目にするのが流行っていた。いつも反吐が出るような気持ちだった。で、その時の俺はこう思った。何も学校に限ったことじゃないんだ、と。社会に出ても、きっと同じようなことが繰り返される。そう思うと、俺は――何ていうか、ぞっとするような……」
「絶望?」と言葉を繋いでくれる歌い手の少女。
「そうだな――そうか、絶望か。全くだね、絶望してた。世界中どこを歩いてもこんな連中が下らないシステムを築いて、我が物顔で支配してるんだって、子供ながらに恐怖したね」
「今はどうなの?」
 俺はまた考え込んだ。難しい問題だ。「確かに当時の俺の言うとおりだった。下らない社会だ。でも俺は何となく、そのシステムに組み込まれて、順応しちゃっているみたいなんだ。適応し、進化する。あるいは退化したのかもしれない。どちらにせよ、それほど昔みたいにそれほどストレスを抱え込まずに生きている。時にはストレスが溜まっても、酒を飲んで忘れる。みじめな生活」
「でもそうする以外に方法がないんでしょう?」
「その通り」と俺は少し笑いながら言った。「絶望的だ」

 眠るとき、よほどベッドに縄でくくりつけてもらおうかと思った。一応俺の意思が存在している時は自制できるかもしれないが、そこに性欲というものが関与すると話は別だ。高校時代、化学教師が女子更衣室にカメラを設置したことがばれて懲戒免職をくらった。人間何をするかわからない。
「大丈夫だよ。カズヤはそんなことしないから」と少女は言った。
「いやいや、わからないぜ。君ね、男をそんなに信用しちゃいけないよ。神様は馬鹿なのかもしれないけど、男に腕力と性欲というとんでもないものを与えたんだ。だから夜中に君を襲ってしまうかもしれない」
「神様は馬鹿なの?」
「ああ、馬鹿だぜ。絵画に出てくるような天使を見てみると分かる。みんな頭悪そうな顔しているもの」
「私は絵画を本でしか見たことないの」
「まあ俺だってそうだ。ところで話を戻すと、襲ってきた俺を撃退するために手元に武器を――」
「おやすみなさい」
 その一言で、室内の電気は消えた。少女がベッドにもぐりこむ音が聞こえた。俺の言いかけた言葉はちぎれた雲みたいにその場をしばらく漂っていたが、沈黙が家の中を覆ってからはしぼんでいって消えた。俺はため息をついて、布団を頭から被った。
 俺は絶対に女性を襲ったりしない。たとえ内閣総理大臣に命令されたとしても、しない。でも誰かを傷つけないために、俺は社会人として女性と距離を置かなければならない。俺は相手に嫌われたくないのだ。嫌われると、俺はまた絶望する。絶望しないために、女性には近づかない。
 しかし不思議なことに、ここに来てからはそういった欲はおろか、酒が吞みたいとか、ゲームをやりたいとかの欲望は一切感じなかった。普通の俺だった今ごろ缶ビールを開けているはずなのに。どうしたんだろう? あるいはこの世界の静けさが、俺の欲望を瞬間冷凍してしまったのかもしれない。なんにせよそれは実に助かった。
組んだ腕に頭を乗せ、天井を見つめながら考える。俺は池袋に帰れるのだろうか? この奇妙な街から帰還できるのだろうか。電話もなく、テレビもなく、音楽もない街。俺の知らない空間。果たして俺は缶ビールとゲームと仕事の日常に戻ることができるのだろうか。この静けさが嫌いというわけじゃないんだけど。
 やがて俺は砂山にうもれるようにして眠り込んだ。夢のない、深い眠りだった。

 翌日は一日中雨だった。雲はホットケーキみたいに厚くなり、細かく鋭利な雨粒が大地を刺し貫いた。『歌い手』の仕事は雨の日は出来ない、と少女は言った。この家には傘がないのだ。だから俺も街に行くことができない。したがって我々二人は家の中で一日中引きこもっていた。
「ねえ、私の料理、おいしい?」
 昼食を食べ終えてから、彼女は聞いてきた。
「本当にうまいよ。それこそ料理評論家が開脚前転宙返りしながら転ぶほど――」
「カズヤは自分でご飯を作るの?」と彼女は俺の比喩表現を途中で中断して質問した。
「いや、恥ずかしながら、コンビニ弁当がほとんどだな。たまに自分で作ることもあるけど、なかなかやる気が出なくてね」
「ふうん」と少女は頬杖をして言った。「カズヤはポテチが好きなの?」
「いや、フライドポテトの方が好きだね。ただしマクドナルドに限る」
「まくどなるど?」と少女は例のごとく異国言語を口にするみたいに言った。
「ハンバーガーを売ってるところ。ポテトだけは異様な中毒性がある」
 俺は急にマクドナルドの味が懐かしくなった。時々いやに食べたくなるのだ。あれだけ否定しておきながら、俺はマクドナルドが恋しくなってきた。
「聞きたいことがある」と俺はその邪念を振り払うように言った。「街人のことだけど、その人たちはみんな音楽を聴かないらしいが、それはなぜだ?」
「あの人たちは心がないから」と少女は言った。
「それは比喩的な意味で? それともそのままの意味か?」
「両方。あの人たちは何をも愛さないから心がないと言えるし、心がないから何も好きになれないと言える」
「どうしてだ? なぜ街の人は心がない?」
 少女はカップを口に運んだ。「わからない。母がそう言ってたから」
 俺はううむと唸り、黙り込んだ。俺が知りたいことはウナギみたいにするすると逃げていく。真実はそこにあるのに、手が届かない。俺は大した情報も得られないまま、見知らぬ街の外れにいるのだ。泣きたくなっている。ダイ・ハードのマクレーンだったら今ごろ膝をついて泣き叫んでいることだろう。
 歌い手の少女はテーブルの上に両手を重ね、じっと自分の手の甲を見つめていた。時折何かを確かめるみたいにコーヒーを口に運んだ。その仕草を見ていると、俺は少女の存在が危うく儚いもののように思えた。彼女はとても美しい。それは指をちょっと触れるだけで壊れてしまいそうな細く繊細な美しさなのだ。俺は急に少女の手を握りしめたい衝動に駆られた。しかしいきなりそんなことやったら、さすがに嫌われる。利口な大人は突然相手の手を握ったりしない。
「君はどうなんだ? 心があるのか?」と俺は聞いた。
「カズヤはあるの?」と少女は俺の問いを無視して言った。「本当に?」
 俺は果たして自分の中に心というシステムが存在するのかどうかを考えてみたが、あると確信を持って言えるだけの根拠がなかった。何に基づいて、自分に心があると言えるのだろう? 昨日は安易にあんな答えを述べてしまったが、今となっては軽々しくあんなことは言えない。
「わからない」と俺は言った。
 家の中に、雨が屋根を打ち付ける音が響いている。コーヒーカップからは湯気が立っていて、濃厚な香りを室内に充満させていた。少女は壊れやすいものを扱うみたいに、そっとカップに口をつけて、少し飲んだ。
「ここはたぶん、日本じゃないんだろうな」と俺はつぶやいた。
「ここはそのニホンって場所じゃないよ」と少女は言った。そして俺の目を見た。「ここは世界の終着点なの」

 おそらく夜の十二時プラスマイナス一時間ごろ。少女は隣のベッドで安らかな寝息を立てている。俺は寝ながら仰向けになって天井を見つめていた。まったく眠気がしなかった。すでに雨はやんでいて、奇妙な沈黙が家全体を覆っていた。
 その時、外から音がした。
 ずず、ずず。
 何かを引きずるような感じだった。
 俺は最初、空耳かと思い、体を起こしたままじっとドアの方を眺めていた。ドアは一ミリたりとも動かず、ただそこに直立していた。
 そしてまた、ずず、ずず、という音が聞こえた。
 俺は意を決してベッドから下りて、靴を履いた。隣では少女が安らかな睡眠を取っている。足音を立てないように、静かにドアへ歩いていった。扉の前に立ち、ノブをつかむ。そして一呼吸してから、思い切ってノブを回し、ドアを開いた。
 外の冷えた風が家の中に入り込み、俺の顔の横を通っていった。そこには誰もいなかった。人がいた痕跡もなかった。目の前には月の光を受けた夜の丘だけがあった。草は葉の上にのった雨水に月光を反射させ、木々は風の訪れとともにざわざわと揺れた。
 そして遠くから規則的に聞こえる、音。
 俺は耳を澄ます。ずず、ずず、という土との摩擦によって生じる音だ。俺は何も考えないまま、音の聞こえる方へと歩き出した。
 丘を上がっていく。その音は俺の耳に一定間隔で届いていた。俺は息を切らしながら、神経を集中させて、歩みを進めていった。
 一つの大きなこぶを登り切ると、やや平らな草原が広がっていた。その中心に人影があった。そいつは俺の方を向き、足下にふっくらと丸い形のものを置いていた。暗いからそいつの顔や、足下の丸いものが何なのかはわからなかった。
「誰だ」と俺は低い声で言った。
 相手は何も言わない。じっと俺を見つめている。俺は険しい顔のまま、声を大きくして訊ねた。
「何を持っている?」
 するとやつは足下の丸いものをつかんだ。それは袋だった。持ちあげると、袋の形が大きく歪んだ。相手は俺に袋を見せつけるように持った。
「心だ」とやつは言った。男の声だった。「街人の心だ」
「それをどうする気なんだ?」と俺は厳しい口調で質問した。
「彫像の広場に持って行く」袋を下ろし、簡潔に男は言った。「そしてそこでこの袋を解き放つのだ。彫像はそれを喰い、自らの胃に収める。そうすることで街人の心を封じ込めることになるのだ」
 だが、と男は続けた。
「歌い手が邪魔をする。歌い手が歌うことで、彫像にため込まれた心が解放されてしまうのだ。解放された心は時計塔に飛んでいき、一週間そこの周りを浮遊する。そして八日目には街人それぞれのところに帰って行ってしまう。だから私がそうさせないために、時計塔をさまよう心を網で捕まえ、また広場に持って行くのだ。だからずっと、この無駄な作業を繰り返している。まるで蛇が自らの尾を噛むような作業を」
「どうして歌い手を始末しない?」
 男は一瞬だけ間をあけた。暗くて見えないが、笑ったのかもしれない。「私には彼らを始末することはできない。なぜなら彼らには心があるから。街人の心を奪ったのは私ではないのだ。私はあくまで配達人に過ぎない。真の首謀者は彫像なのだ。彫像は自らの体内に心をため込むことを好む」
「何の目的がある?」
「この街を完璧にするためだ」
 そこで俺の意識は遠退いた。

翌日、俺はベッドの上で目を覚ました。彼女はすでに起きていて、朝食の準備をしていた。鳥の朗らかなさえずりが耳に入った。俺は頭を乱暴に掻きながら体を起こし、昨夜の出来事を一から思い出した。だがそれを夢か現実か判断することはできなかった。
 二人で朝食を取った後、少女は森へ行くと言った。
「それが私の仕事だからね」
 今日はよく晴れていた。太陽がらんらんと家を照らし、草木は水を得た魚みたいに喜びに打ち震えていた。世界がくるりと身をひるがえしたような真新しさを感じた。俺はふと手のひらをじっと見つめた。それが俺自身の手であるという実感がなかった。頭や心臓から足の小指まで、全てが新品に取り換えられたような気がした。雨の降りしきる夜を過ごして、まるで他人に生まれ変わったような感じがした。
 午前中は歌い手の少女と一緒に丘を散歩した。湿っぽい土のにおいがした。ところどころに水たまりができ、鳥は水を飲んでいた。草原は起伏をもってどこまでも続いていた。街の方へ目を向けたが、相変わらず人が住んでいそうな雰囲気はなかった。
「まるで死んでるみたいだな、あの街は」と俺は足を止めて言った。
「ある意味では死んでるのよ」と少女は言った。「根拠はないけれど、逆に生きているという根拠もない。人々は食事をして労働をするけれど、そこには感動がないし喜びがない。そんなのを生きていると言えるのかしら?」
「でも――」
 俺は反論しようとしたが、どう反論すればいいかわからなかった。それに彼女の言ったことも筋が通っていた。ここから見る限りでは、街は老いた像の死体みたいに横たわっていた。感動がなく喜びのない人間は死んでいるのだろうか?
「カズヤの住んでいた街は、生きていたの?」
 俺はぼんやりと池袋の風景を思い出した。車がマグロみたいに行き来していて、人々は殺人鬼に追われるような勢いで道を歩き、建物は狭そうに屹立している。あの街には感動や喜びがあるのだろうか。あるいはあの街――池袋は死んだ街なのだろうか? 
「さあね、わからない」
 池袋。俺の住んでいる街。人々はせわしなく歩き回り、個々の目的を持って毎日を生きている。最初彼らを見た時は、どうしてそんなに真剣な顔で歩いているのだろうと不思議に思ったものだ。しかし気付けば、俺も真剣な顔で池袋の街を歩いていた。客観的に表現すれば、それはあまり健全な状態ではなかった。まるでロボットみたいに生きる俺。そこには感動や混乱はない。無目的な生。だが俺はあの街で生きていると、そういった異常が気にならなくなってきた。なぜなら周りの人間全員がみんな異常だから。異常性はしだいに形をゆがめていき、それは普通と呼ばれるようになった。学校の教科書で教えているタイプの普通だ。
 この静かな街にいると、それがどれだけ不自然なことかを思い知った。俺はロボットではないのだ。こうやって鳥のせせらぎに耳を澄ます権利もあるし、美しい少女と視線を交わす権利もある。少なくともあの池袋には鳥のせせらぎはない。おおかた夕暮れに何かを告知するように鳴くカラスがいるぐらいだ。
 じゃあなんで俺はあの街にいたんだろう? さっさと荷物をまとめて、実家に帰るなりなんなりすればよかったのだ。仕事だって見つけようと思えば見つけられる。とくに彼女がいるわけでもないし、夢があるわけでもないのだ。あんなにうるさいところに、どうして俺は今まで住んでいたんだろう?
俺が歩みを止めて考えていると、歌い手の少女が後ろを振り返った。
「何を考えているの?」
「ツキノワグマとシマアジとフクロウとで麻雀をしていた時のことを思い出してたんだ」
「とても楽しそう」
 彼女はくすりともせずにそう言った。

 歌い手の少女は昼食のサンドイッチを作りながら、口笛を吹いていた。とてもうまい口笛だった。パンを切り分けながら口笛を吹く光景は、とても家庭的だった。だが相手は十四歳かそこらの女の子だ。そんな少女に家庭を求めるわけにもいかない。独身の苦しみ。二十五歳の焦り。
 俺はその間、テーブルの椅子に座り、コーヒーを飲んで考え事をしていた。何か手伝おうと思ったのだけど、少女に断られた。「一人の方がうまくいくし、それにここの台所は広くないから」
 だから俺はうまいコーヒーを時々胃に送り込みながら、昨日のことを考えていた。あの男は悪魔だったのだろうか? もしくは悪魔を模した人間なのか。やつは街人の心を集めていた。それは彫像のためだと彼は言う。そして彫像は街を完璧にするために、自分の体内に心をため込む、と。あほらしい。星新一だってこれほどユニークな短編小説は書かないだろう。
 しかし俺は想像せずにはいられない。あの男が虫採り網で、時計塔を浮遊する街人の心を捕え、袋に詰める場面を。心はゲゲゲの鬼太郎に出てくるような青白い霊魂の形をしていて、時計塔の周りをぐるぐると回っているのだ。男はそれを慣れた手付きで一つ一つ回収していく。無表情に、ため息一つ漏らさないでそれらの作業を淡々とこなすのだ。そして心が入ってぱんぱんになった袋を手に、当たり前のように森まで引きずっていく。いつ終わるともわからない永遠のような作業。『まるで蛇が自らの尾を噛むような作業』と男は言った。
 彼女の口笛が美しい旋律を奏でている。知らないメロディだったが、聞くには申し分なかった。俺はぼんやりと口笛のことを思った。最後に口笛を吹いたのはいつだっけ? 俺は割と頻繁に口笛を吹くような気がする。ちょっと気分が良くなれば、つい吹いてしまうのだ。たとえば音楽を聞いているときとか、車を運転している――
 運転?
「そうだ」と俺は声に出して言った。心臓が高鳴り、脳にアドレナリンとかいう脳内物質が分泌されるのを感じた。
 少女が振り返る。「どうしたの?」
「そうだよ、そうだ」俺は興奮のあまり立ちあがった。「俺は運転していた。車を。夜だ。たぶん会社帰りのことだ。土曜日なのに、俺はいつも通り会社に行ったんだ。たぶん休日出勤。そして帰り道、俺はカーステレオにかかっていた音楽で口笛を吹いていたんだ。思い出した」
 包丁をまな板の上に置いた。「本当に?」
「間違いない。肝臓を賭けてもいい。俺は運転していた。一人だった……そうだ。口笛を吹きながら、俺はどこかに向かっていた」
 まるでもつれた糸が解きほぐされたみたいに、俺の記憶のピースが次々とはまり込んでいった。俺は呼吸が荒くなり、一気にコーヒーを飲み干した。乾いた喉が潤う。
「それで……」
 だがそこが限界だった。それ以上は思い出せない。頭を手で支え目をつむるが、ここから先の記憶を掘り起こすことがどうしてもできなかった。
 ハンドルを持ちアクセルを踏んでいる情景さえ思い出すことができる。俺はスーツを着て、疲れた顔をして口笛を吹いているのだ。そしてそれが、俺がこの奇妙な土地へ来る直前の記憶だということもわかる。だがその記憶のしっぽとも呼べるべき部分と、あの森の中で寝ていたという事実がまったく結びつかないのだ。俺は運転していたのだが、どこへ向かっていたんだろう? 
「だめだ、思い出せない」
 俺はこぶしを握りしめた。もどかしさといらだちが俺の頭を巡った。なぜ肝心なことを思い出せないのだ。あとちょっとで手が届きそうなのに。ほんの少しで肩をつかめるのに。
 少女は無言でテーブル越しに俺の手を握った。彼女の手のひらの温もりが、俺の火照った精神を落ち着かせてくれた。俺の呼吸は規則性を取り戻した。
「ありがとう、落ち着いたよ」と俺は感謝した。
「うん」少女は優しく微笑んだ。「ゆっくり思い出そうね」
 俺はうなずいて、苦笑した。これでは母親から諭される子供ではないか。

 十一時ごろ――たぶんそれぐらいの時間――に俺たちは山の中へ向かった。険しい丘の斜面を登り、山の入り口をくぐる。地面に描かれる木の影を踏みしめながら、俺はしゃべった。
「昨日の夜、悪魔と会った」
「うん」
 その素っ気のない返事に俺は思わず転びそうになった。 
「知ってたのか?」
 彼女はこちらに顔を向けた。「ううん。私は知らないし、見たこともない。ただわかっていることは、悪魔は私と母には決して手を出さないってこと。カズヤは実際に会ったの?」
「ああ。……いや、どうかな」俺はぽりぽりと顔を掻いた。「正直夢だか現実だかよくわからないし、相手が悪魔だってことも確信がない」
「悪魔はね、心のない人間にしか会いに来ないの」と少女は言った。「カズヤには心があるから、それはきっと夢だよ」
 俺は何も言わず、折れた木の枝を乗り越えた。
 しばらくして、一昨日の半円状の広場へ着いた。
「やっぱりすげーな」
 俺は崖の彫刻を見上げながら言った。神の悪戯を思わせるような緻密かつ精巧な造りと非現実的な造形は、俺に時の流れを忘れさせた。この広場に入ると、空気が重くなったように感じるのだ。周りの音は扉越しに聞こえるみたいで、気が付けば俺と彫像だけ世界に取り残されたような錯覚に陥った。全ての感覚は剥奪され、意識だけがむき出しになる。そして湖面に広がる波紋のように、静かに俺の中を振動させた。
「あれはね、大昔に作られたの」
 彼女の声で、俺ははっとした。いくつもの窓が一瞬にして開け放たれたみたいに、音が鮮明になって俺の耳に届いた。少女は一昨日俺が寝ていた石のベンチに、昼食の入ったバスケットを置いた。
「昔の人は心があった。だからああいう美しい彫刻を彫ることができたのね。当時の人間はすばらしいものをこよなく愛して、それを追求してきた」
「どうして追求しなくなったんだろうな」と俺はさりげなく言ってみた。
「わからない」と少女は感情のこもっていない声で言った。
 俺は彫像を見上げる。昨日の男が、この彫像は街人の心を喰う、と言っていた。それが何を意味しているのか、俺にはわからない。何かの比喩なのか、それとも事実なのか。たぶんあの男は嘘を言っていなかったんだと思う。だがだからと言って何かの解決の足しになるわけではない。この街の解明にはつながらないのだ。
 俺はベンチに座り、歌い手の少女はピアノの方へ向かった。ピアノの屋根には二匹のリスがどんぐりをかじっていたが、彼女がやって来ると近くの木へ逃げた。歌い手の少女はピアノ椅子を引き出して座り、蓋を開けた。そして鍵盤を叩きながら、歌を歌い始めた。
 知らない歌だ。日本語でもないし、英語でもない。それは俺の知っているどの言語にも当てはまらなかった。だがそこには深いメッセージが込められていた。複雑な思いが織り込まれていた。俺は何かを考えるのをやめて、その奇蹟のような歌声に耳を傾けた。
 少女の声はとてもすばらしいものだった。声量もあり、あの小さなからだからどうやって出ているのかと疑問に思うほどだった。綺麗に透き通った歌声だ。その上ピアノもうまかった。歌と平行して素早く動く指先は、美しい音色を奏でていった。あんなぼろぼろのピアノだが、音はちゃんと出るのだ。まるでベテランの調律師によって調律されたみたいだ。まあ実際のところ、調律する前と後の音を聞かされても、俺には違いがわからないと思う。
 歌が終わると、俺はすかさず拍手した。
「すばらしい。めちゃくちゃうまいじゃないか」
 彼女はとてもうれしそうに笑った。「ありがとう。得意な歌なの」
 少女はこちらに来て俺の隣に座った。そして二人でバスケットの中から水筒を取り出してコーヒーを飲んだ。この三日間コーヒーばかり飲んでいたが、いくら飲んでも最高にうまかった。俺は一口飲んだ後、少女に回した。彼女は小さな両手で水筒を持ち、少しだけ飲んだ。
「あれはなんていう歌なんだ?」と俺は質問した。
「名前はわからない。わたしが生まれる何百年も前の歌。母が教えてくれた」
「へえ」
「世界の理不尽を歌っているの。不条理だとか、その手のこと」
「内容は?」
 彼女は静かに語りだした。「人が剣で斬られ血を流していく中、シルクハットの少女は眺めている。いかなる力であろうとも、あらゆる涙を流そうとも、シルクハットの少女は音もなく現れて、神々を沈黙させる。そして世界を傷つけていく。たとえどんな暴力であっても、仮に神が拳を振るっても、あの子を消し去ることはできない」
 そして彼女は言った。
「ダージリンとともにあらんことを」

 俺は何をするでもなく彫刻を眺めていた。大きく、そして神秘的な彫刻だ。彫像の女性は何かを言いたそうに、唇をわずかに開けていた。だがそこから言葉が漏れることはなかった。俺は彼女が何を考え、何を悲しんでいるのか、予想もつかなかった。しかし壁の彫刻は、俺だけにわかる何かを伝えようとしていた。だが俺は――その資格がないのか、あるいはただの俺の勘違いなのか、それを聞き取ることができなかった。
 俺は歌い手の少女が言っている、正しい歌のことを考える。歌い手はそれを見つけるために何世代にもわたって、美しい音色を奏で続けている。だがそのどれもが正しい歌ではなかった。この世界で誰もが知らない歌を、彼女たちは見つけようとしてきたが、見つからなかった。彫像に正しい歌を聴かせることができなかったのだ。とは言え、正しくない歌を歌うことは、必ずしも無意味な行為ではない。彫像がむさぼった街人の心を解放するのだ。蓄積された心は彼女たちの歌によって、水を泳ぐ魚みたいに放たれ、時計塔まで飛んでいく。しかしそれが持ち主に還る前に、悪魔が網で捕える。それをまた彫像まで持って行く。『まるで蛇が自らの尾を噛むような作業』。

「ねえ、カズヤ」と少女は言った。「カズヤの最後の記憶では、口笛を吹きながら自動車を運転していたんだよね?」
「ああ」と俺は言った。「だがそれ以上思い出せないんだ」
「カズヤは口笛で何を吹いていたの?」
「……たぶん君の知らない歌だよ」
「教えて」
 彼女は真剣な表情で俺の顔を見つめてきた。俺は少しどきどきし始めた。
「いや、日本のバンドグループでさ。東京事変の『私生活』っていう歌なんだ。もう解散しちゃったんだけど。その歌が好きでさ。ずっと聞いてる。椎名林檎が好きなんだ。昔はソロだったんだが、そのころはすばらしい歌を歌っていた。とびっきりにな。でも東京事変になってからは、彼女独特の何かが少し薄れてしまった。でもその中で一曲だけ、すごく好きな歌があって、それが『私生活』なんだ」
「どんな歌なの?」と少女は聞いた。
「誰かがとっても疲れている歌だよ」と俺は言った。「とってもね、この上ないくらい」
「わたし、それを歌おうと思う」
「歌う?」俺は目をしばたたかせた。「『私生活』を?」
「だから教えて」
 俺はうーん、と唸った。「俺は教えるのはあまり得意じゃないんだが……」
「大丈夫だよ。わたしは歌い手だから」
 彼女はそう言って立ち上がり、座ったままの俺に顔を近づけた。俺は何が起こるのかと心配になりながらも、彼女の次の行動を待っていた。彼女は自分の前髪を手でよけて、額を俺のおでこにくっつけた。吐息が俺の鼻辺りにかかった。ささやかにコーヒーの香りがした。何をやっているんだろう、と俺は思った。しかし俺は詮索をすることをやめた。この世界において、理由や構造を求めるのは間違いなのだ。およそ既成概念が通用しない空間では、俺の思考は意味を持たない。じっと時を待つのみである。
「わかった」
 彼女は唐突に顔を離し、わずかに微笑んだ。そしてしっかりとした足取りでピアノの方へ歩いて行った。俺はよくわからないまま、彼女の背中を見つめていた。
 考えてみれば、俺の知っていることや感じていることは、世界にとってはうさぎのフン並に些末なことだった。俺が一を知っていれば社会は十を求めてくるし、俺が哀しいと表現した小説は社会にとってただの無意味な文章と見なされた。要するに俺の視線や、感情や、痛みは社会を形成する上で何の意味も持たないのだ。
 しかし歌い手の少女が俺と額を合わせたことで、俺というちっぽけな存在が少し救われたような気がした。道端に転がる石ころは誰の目にもとまらないし、石自体も自らの存在意義を証明することはできない。だが彼女はそんな救いのない存在に、手を伸ばしてくれた。どこの誰が口笛で吹いた曲のことを訊ねてくれるんだろう? いったい誰が東京事変の『私生活』を真剣に受け止めてくれるんだろう? 誰があの歌の哀しみを理解してくれるというのだ。 
 彼女はピアノ椅子に座り、鍵盤の上に指を置いた。そして自分の指先を凝視している。まるで鍵盤に浮かんでいる、普通の人には見えないとくべつな文字を読み取っているようだった。だがふと思い出したみたいに、口を開いて、ピアノの音色とともに、歌い始めた。
『私生活』。
 俺は息を呑んだ。心臓が硬くこわばった。間違いない。『私生活』だ。俺が何年も聴いてきた歌だ。歌詞も音程も全てそうだった。俺は今知らない土地で少女の歌う『私生活』を聴いているのだ。あまりにも奇妙な出来事に声を出して笑いたくなった。だが笑い声は出てこなかった。
 軽くパニックに陥っていた俺の心は、次第に穏やかになっていき、心臓の鼓動も落ち着いていった。俺の混乱や疑問は一瞬にして全部吹っ飛んだ。あっという間に俺の中で巨大な空洞が出来上がった。ピアノの音はその空洞内を反響し、歌詞は実際にかたちとなって中を満たした。俺はジーンズのポケットに手を突っ込み、足を組んで、目を閉じた。そして彼女の歌声に心を浸した。
 彼女の声が森の中へ、先ほどの歌よりもずっと染みこんでいった。木々のざわめきも、鳥の鳴き声も、風すらも止んだ。この時ばかりは世界が静止した。まるで歌い手の少女以外の時が止まってしまったみたいだ。地球上の全ての物体が動くのをやめて、少女の歌に耳を傾けていた。壊れているものも、泣いているものも、絶望しているものも、例外なく『私生活』を聴いていた。
 広大な森の真ん中、女性の彫刻を前にして、俺たち二人は一つの歌を共有し合った。歌を通して一つになった。枝の隙間から届く陽の光が、彫像の顔を強く照らしていた。ピアノの美しい旋律と奇蹟的な少女の歌声が、ありとあらゆるものを包み込んでいった。これは間違いなく、何よりも優しく、何よりも神聖なものだった。世界があの子の歌声で安らいでいるのだ。そして『私生活』は誰かの哀しみを訴えている。
 視界がぼんやりとかすんだ。眼球の表面を涙が覆っていた。最後に泣いたのはいつだったのかを思い出そうし、そしてなぜ泣いているのかを考えた。だが答えは出なかった。手で作った器から水がこぼれ出るみたいに、俺の両目から涙がとめどなく溢れた。彫像のかたちが歪んでいく。あの彫刻の女性はもしかしたら、俺の代わりに悲しんでくれていたのかもしれない。俺が今まで泣けなかったから。
 俺は少女の言った言葉を思い出す。
『街が必要とする人間だけが、街にいることができる。不必要なものは何もないし、余計なものもない』。そうだ、街は俺を必要としていた。正確には、俺が街を必要としていたのだ。俺はこの森の中で少女の歌声を――『私生活』を聴くために、ここへ来た。俺が涙を流せるように、何かを哀しむことができるように。自分に何が足りないのかを理解するために。
 この世界の住人には心がないし、俺にもなかった。
 なぜなくしてしまったのか?
 俺がそう望んだからだ。
 俺は自らの心の喪失を望んだ。他の誰でもない、この俺だ。例えば仕事が忙しいからだとか、お金がないからだとか、そういう理由じゃない。俺はすすんで心を捨て去った。もう絶望したくなかったから。もう何かに失望したくなかったから。希望なんていらなかった。もう哀しみたくなかったのだ。だから心を捨てたのだ。しかし、俺は完全に捨て切れなかった。だから今こうして、『私生活』を聴いて涙を流しているのだ。街は俺自身だった。悪魔も俺自身だった。俺は自分で自分の心を捨て去ろうと努力した。だが俺の中のどこかで、それを阻止するものが存在していた。それは『歌い手の少女』という明確な形をとって、俺が自分から心をなくそうとしていることに気付かせようとしたのだ。そしてたった今、ようやく気付いた。こんなにも哀しいのは、俺が自らロボットになりたいと願っていたからなのだ。
 胸の中で何かがうごめき、暴れ回っていた。それは鋭い爪や巨大な牙を使って、俺の心をむしばんだ。激しい痛みを伴わせた。そして涙が流れ続けた。それは足下の落ち葉に大きな音を立てて落下した。俺は目をつむり、思考を閉じた。
 
 あなたが元気な日はそっと傍に居たい
 あとどれくらい生きられるんだろう?
 行かないで!
 追い付かせて
 待ってあと少しだけ
 生きているあなたは何時でも遠退いて僕を生かす

 歌が終わると、激しい地震が起こった。この世の終わりかと思うくらい強い揺れだった。視界が縦に揺れている。俺はベンチに座ってすらいられず、地面に尻餅をついた。何が起こっている? 
 その時だ。正面の彫刻が――女性のまぶたがゆっくりと開いたのだ。まるで重いシャッターを力ずく開けるみたいに、それは緩慢な速度で開いていった。そこには何かしら超自然的な力が働いているように見えた。この世のものでない力。神からの恩寵(おんちよう)。
 一対の乾いた瞳が俺の顔を見下ろしている。大地が強く揺れる中、彫刻の女性はじっと俺を見つめていた。俺は草を握りしめながら、同じように彫像を見つめ返した。頭のどこかでかちん、という音がした。
 やがて彫像はがらがらと音を立てて地面に落下した。その衝撃は想像を絶するほど大きく、どしん、と森を震わせ、俺はその場から数センチほど浮いた。あるいは浮いた気がしたというだけかもしれない。だがその落下とともに、地震はぴたりと止まった。ぎこちない静寂が広場に訪れた。あたかも地震なんて起こってなかったとさえ思えるほど、急な静けさだった。
「何が起こったんだ?」
 そう呟いてから、はっと少女のことを思い出す。
 彼女は無事だった。ピアノにしがみついている。俺と違って立ったままだった。俺は自分が犬みたいな格好で地面に這いつくばっているのに気がつき、恥ずかしくなって立ちあがった。まったく、二十五の男が十四歳の女の子に負けてどうする?
「大丈夫? カズヤ?」
 彼女は俺の元に走り寄ってきた。
「ああ、大丈夫だ。君も怪我はないか?」
「うん。大丈夫」
 さっきまでだらだらと涙を流したものだから、顔がみっともなく見えたかもしれない。だが歌い手の少女は気にしていないようだった。
 彫刻は無残な残骸となって崖の前に転がっていた。あの細密に刻まれた彫刻は今では石くれになっていた。美の破壊というものは実に唐突なものだ。
 彫刻があった崖の位置には今ではぽっかりと巨大な穴が空いていた。かなり深いらしく、暗くて先は見えなかった。トンネルみたいな洞穴だ。待てよ、穴が空いている? だとしたら彫像は今までどうやって壁にくっついていたのだ?
 疑問に思っていると、視界の端に彫像の残骸へ歩み寄る少女が映った。
「おい! 危ないって!」
 少女は石の塊の前で立ち止まり、後ろを振り向いた。興奮したように言う。
「カズヤ、来て」
 俺はため息をつき、あきらめて彼女の元へ向かった。
 少女は散在した彫刻の破片の中央に立っていた。辺りに砂煙が舞い、視界がやや白く濁っている。彼女は俺が来ると足元にある何か指さした。
「これ」
 その指の先を見て、俺は目を疑った。なんだこれは?
 岩石の塊の前にあったのは、大きな金属の立方体だった。
 それは見るからにかなりの質量を持った、金属製の六面体だった。高さは俺の腰ぐらい。ぱっと見る限り穴のないサイコロにも見える。その立方体の表面には俺の顔さえ映った。まるでついさっき造られたばかりのようだ。どうみてもこの世界の終わりみたいな土地とは不釣り合いだ。
「何だよこれ」と俺は立方体を見つめながら少女に訊ねた。
「彫像の中から出てきたみたい」
「これが? 中から?」
 歌い手の少女は重々しく首を縦に振った。
 俺は唾をごくんと飲み込んで、その金属の立方体に触れてみた。表面は氷で冷やしたみたいに冷たく、生命の温もりなどは一切感じなかった。表情なき無機物。つなぎ目も見当たらなければ、傷一つない。一点の曇りもない。そこには何もかかれていなかった。何も示していなかった。ランチのメニューが記されているわけでもないし、三角比の表が書き連ねられているわけでもない。正真正銘、金属の立方体だ。俺は周りをぐるぐると回って全体をよく観察してみた。するとあるものに気付いた。
 立方体の側面の上側に、ディスプレイがはめ込まれていたのだ。大きさは長方形で細長く、そこには赤い数字が羅列されていた。
 0:20:14
 数字はこのまま止まっていた。増えもせず、止まりもしなかった。
「この数字は何を意味しているんだろう?」と俺は思ったままのことを口にした。
「さあ? でも彫像ははるか昔のものだから、これも当時に造られたみたい」
「ふうん」と俺は言った。納得したわけではない。雰囲気的にふうんと言った方がいいと思ったのだ。「で、どうすんだ、これ?」
 少女は首を振った。口元は緩んでいるが、目には今にも涙がこぼれ出そうだった。
「もういいの」
 震える声でそう告げた。俺は不安になって説明を求める。
「もういいってなんだよ、どういうことだよ」
「もうわたしの仕事はおしまい。『歌い手』としての役目は終わったの。わたしはこれ以上何もできない。これから山を下りて、街へ行ってこのことを知らせる。それ以上は私にはどうしようもないの」
 気持ちを落ち着かせるために、俺は深呼吸をした。そしてまた立方体に目をやった。金属の塊は何も語らず、何も示さなかった。ここには彫像が喰った街人の心が入っているのだろうか? そして俺の心も――? いや、と俺は自分を否定する。ここに俺の心は絶対に入っていない。揺るぎない確信があった。たとえこの中に街人の心があろうとも、俺の心は確実にない。あってはならないのだ。
「ありがとう、カズヤ」
 少女はそう言って俺に抱きついてきた。腹に顔をうずめ、泣くのをこらえるように震え出した。俺は何も言わずに彼女の背中に手を回し、力を入れ過ぎないようにそっと抱きしめた。
 俺は壁を見上げた。そこには直径二メートルほどの穴が空いている。先ほど少女の歌を聴いて俺の中にも空洞ができたのと同じように、そこにも洞穴があった。穴の中は濃密な闇が広がっていた。
「俺はあの穴に入ってみようと思う」と俺は言った。自分でもびっくりするぐらい自信のある声だった。
 少女は顔を上げ、口を閉じたままじっと俺の顔を見つめた。彼女はもう震えていなかった。
 俺は言う。
「たぶん、あれは俺の元いた世界に繋がっているんだと思う。なぜかわからないけど、そういう確信があるんだ」
「ここで住む気はないの?」と少女は訊ねた。
「ああ。元の世界はここと違ってひどいもので、俺も褒められた生活をしていたわけじゃないけど、戻らなくちゃいけないんだ。戻って俺はなくしたものを見つけなくてはならない」
「きっと見つかるよ」と少女は優しい声で言った。まるで息子を励ます母親のように。
「ありがとう」と俺は微笑んで言った。「君は心を持っていた。街人にはなくても、君と君の母親はそれを持ち合わせている。だからあんなに綺麗な歌を歌えるんだ。『私生活』――あんなにすばらしいもの、俺は今までに出会ったことはない。ずっと覚えているよ。いつまでも忘れない」
 俺は彼女の体を離して、壁に迫った。両手に十四歳の女の子の感触が残っていた。俺は目をつむり、壁の前でゆっくりと手の平を握った。忘れない。
 崩れた彫刻の残骸などを足場にして、三メートルばかりの壁をよじ登った。ふちに手をかけて、一気に登った。穴の入口に立ち、下にいる少女に向かって感謝の言葉をかける。
「おいしいコーヒーをありがとう。そして食事も。とてもうまかった。料理評論家がにっこりと笑うくらいにね」
 少女は両手を胸の前に置き、俺を優しげな表情で見上げていた。彼女の横には金属の立方体があった。あの街はこれで変化し、再興する。人々は心を取り戻す。俺はそれを望んでいる。
「お礼を言うのは私の方。あなたのおかげで――あなたの歌のおかげで、歌い手としての役目を果たすことができた。本当にありがとう」
 彼女の言葉に、俺は声をつまらせた。この場にひどく留まりたくなった。上から見下ろす少女は何よりも儚げで、誰かが支えてやらねば壊れてしまいそうだった。この場所で少女と暮らしてみたいとさえ思った。この世界では俺の足りないものが補われているのだから。しかし俺は自らを思いとどまらせる。そんなんじゃ前に進めないじゃないか。
「名前、考えてあげられなくて、ごめんな」と俺は言った。
「いいよ」と少女は言った。「また来たときに、考えてくれればいいよ」
 また来たときに、考えてくれればいいよ。
 俺はまた来られるのだろうか。
「じゃあな」
 俺は後ろを振り返らずに、真っ暗な穴の奧へ進んでいった。

 しばらく進むと、悪魔がいた。穴の中は何も見えないほど暗かったが、悪魔の姿だけはしっかりと視認出来た。彼はポケットに手を突っ込み、壁に背中をついていた。そして俺をじっと見ている。俺は立ち止まり、悪魔と視線を交わした。
 悪魔は言った。
「お前が心をなくした理由は知っているか」
「ああ」と俺は言った。「絶望だろう?」
 彼はうなずいた。「そうだ。お前が昔から抱いていた絶望だ。それはまるで巨大なクレパスのように、お前を一直線に裂いていた。深い深い絶望だ。お前の絶望と普通の人間の絶望は違う。他人の絶望は実にインスタント的で、その場その場によって発生する。早い話が、その手の絶望なんていつでもできるし、誰にだって感じられる。だがお前の絶望はひと味違った。お前が子供のころから感じていた虚無。体と精神が成長しても、影みたいにくっついてきた暗黒――神が定めた真理。それは――」
「俺が幸せになれないという事実」
「そうだ。お前は幸せになれない。子供のころからもそう思っていたし、今でもそうなんだろう? 自分は幸福を得られない。なぜなら人を愛することができないし、愛される方法も知らないから。そしてお前は自分自身さえ愛していない。そんな人間が、幸福になれると思うかね。あのアドルフ・ヒトラーでさえ、自殺を遂げる直前に妻と結婚式を挙げた。愛なくして人は死ねないのだ。愛されないで息絶えた人間が誰の記憶にも残らないのと同じように」
「でも俺はあの少女を愛することが出来る」と俺は言った。「俺はあの子が好きになった。心の底からあの子を求めている。こんな気持ちは初めてなんだ。あの子は俺の心に手を伸ばしてくれたし、俺に涙を流させてくれた」
「ならあそこで暮らせばよかったんだ」
 俺は黙っていた。しばらく沈黙が闇の中に漂った。
「街への扉は何時でも開いている」悪魔は壁から背中を離した。「お前が心を取り戻せば、あの街はもっと違う形になっているだろう。街人は生きる意味を取り戻し、絶望を捨て去り希望を感じる。だがあの少女だけは変わらないだろう。歌い手の少女はお前のためにいつまでも歌を歌い続けるのだ」
 悪魔はそう言い残して、闇の中へと姿を消した。その場に残ったのは重厚な虚無だけだった。俺はしばらくその場に立ち尽くした。そして目をつむり、肺一杯に空気を吸い込んだ。湿ったにおいがした。前に進まなくては。
俺は洞穴の奧へと歩き出した。少し歩くと、ずっと先の方にかすかな光が見えた。そこには俺の生きるべき世界が広がっているのだ。俺はその光溢れる世界へ足を進めた。後ろの方でかすかにピアノの音が聞こえた。

<終>

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