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『遺体を焼く仕事』

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 僕は遺体を焼く仕事をしている。火葬場には毎日たくさんの遺体がトラックで運ばれてくる。僕たち二人はそれらを次々と焼却炉の中に放り込んでいく。それが業務だ。

 遺体を運ぶトラックの運転手は遺体運送業者の男で、薄気味悪いくらい白い肌をしていた。年齢は三十代後半くらいで、目つきは鋭く、いつも不機嫌そうな表情をしていた。僕は彼が笑っている瞬間を一度も見たことがない。灰色の作業服を着ていて、それはいつも薄汚れていた。帽子も灰色で、深々とそれをかぶっていたので、日中に彼と相対しても、彼の目元は暗く、怪しげな雰囲気が常に漂っていた。

 トラックは毎日、最低一回はやってくる。まれに遺体が一度も運ばれてこない日があるが、それは2・3ヶ月に一回あるかないかだ。朝、トラックが火葬場の前に止まると、運転手の男は運転席から下りてきて、トラックの荷台にある冷凍庫を開ける。僕は専用のストレッチャーを用意し、トラックの近くへ持っていく。冷凍庫の扉が開かれると、中から冷気が勢いよく漏れ出てくる。業者の男は中に入り、遺体の入った黒いボディーバッグを僕に手渡す。僕はそれを受け取り、ストレッチャーに載せる。ベルトで遺体と台を固定してから、建物の中に押して運んでいく。遺体はだいたい複数あるので、ストレッチャーを何往復もさせないといけない。夏場になるととても大変だ。

 遺体をすべて受け取り、建物の中に収めると、今度はそれらを燃やす作業に移る。運ばれてきた遺体はその日のうちに燃やすのが決まりだ。すぐに燃やさないと腐ってしまい、大変なことになるからだ。死体袋を次々と炉に放り込んでいく。炉の熱で汗をたくさんかくし、けっこうな重労働なので、一日が終わるころにはくたくたになる。それでも、たくさんの遺体をきちんと燃やし切ることができれば、それなりに達成感を覚える。遺体を一つ残らず炉に入れて、焼却炉の蓋を閉め、建物の外に出る。頭上を見上げると、煙突から煙がもくもくと立ち上っていくのが目に入った。

 数時間後、炉の熱が冷めた頃に再び蓋を開けると、中には灰しか残っていない。薄暗い色の細かい塵だ。僕は炉から灰をかきだし、それをプラスチックの箱に収める。その箱はいずれ別の業者によって回収される。回収されるまでは建物の保管庫に安置しておく。その箱がどこに運ばれ、どのようになるのかは定かではない。

 これらが遺体を燃やす仕事の一連の作業だ。他にも、朝の内に炉を温めておく作業や、焼却炉内の清掃といった業務もある。結構な肉体労働だ。とても一人じゃやっていられないので、僕以外にももう一人、この火葬場で働く男がいた。彼は僕と異なり、人間ではなかった。天使の男だ。身長が高く、ほっそりとした体型をしている。年齢は僕と同じくらいに見えるが、実際のところ何歳かはわからない。肩くらいまで伸びている金髪をいつも後ろで結んでいる。僕に負けず劣らず寡黙な男だ。端正な顔立ちをしているが、基本的に無表情で、暑い日や雨が降っている日に、ようやく顔をしかめて「しんどいな」とつぶやくくらいだった。

 彼は天使らしく、背中には白い翼が生えていた。ロッカーで着替えるとき、たまにそれを見ることができた。翼は常に小さく折りたたまれていて、作業服を着れば、外見からは翼があることなどわからなかった。

 なぜ彼が天国から人間の世界にやってきて、こんな火葬場で働いているのか、僕にはわからなかった。何度か聞こうとしたものの、彼は毎回うまい具合に話をはぐらかした。「いろいろあったのさ」とか「事情が込み入っているんだ」などと言って、詳しいことは話さなかった。特にこの仕事が好きというわけでもなさそうだった。そもそも遺体を焼く仕事を好んでやっている者は少ない。僕だってそうだ。

 天使の男は、休憩時間には必ずタバコを吸った。外にある喫煙所のベンチに座り、煙を吐きながら、遠くを眺めた。火葬場は小高い丘の上にあって、そこから街を見下ろすことができた。彼は街をぼんやり眺めながら、考え事をしているようだった。何を考えているんだろう。謎の多い男だった。

 僕と天使の男は決して仲良しという関係ではなかったが、かと言ってお互いの間に不和のようなものは生じていないし、仕事の付き合いも長いからある程度の信頼関係を築いてもいる。作業の息はぴったりだし、少なくとも僕は彼の仕事ぶりに文句はなかった。相手が僕のことをどう思っているかはわからない。なにしろ無口な男だから。

 僕たちはあくまで賃金を得るためにこの仕事をしているのだ。給与が支払われる以上、中途半端な仕事はできない。頭を使う複雑な仕事というわけではないが、かと言って片手間にこなせる簡単なものでもない。だから手を抜かずに働く。運ばれてきた遺体はきっちりと業務時間内に燃やし切る。それが鉄則だ。

 一方で、僕はこの仕事に誇りややりがいを持っているわけでもなかった。基本的に単調な作業だし、肉体労働的な作業がほとんどだから、僕も楽しくてやっているわけではない。次々と運ばれてくる遺体を淡々と焼却炉に持っていくだけだからだ。でもこういう仕事は誰かがやらなくてはならない。それがたまたま僕だったというだけだ。

 遺体を燃やしている間は待機時間となるので、そのまま僕たちも休憩時間となる。僕は外の風を浴びるために、建物から出て、ベンチに座って休んだ。煙突から煙が空高く立ち上っていた。暗い色の煙は風に運ばれてどこか遠いところに消えていく。僕は自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながら、それをぼんやりと眺めていた。今日の遺体はどれもずいぶん軽かったので、作業としては楽だった。明日もそうなればいいのに。

 僕が死んだら、必然的に僕の遺体もここに運ばれてきて、同じように燃やされるんだろうな、とぼんやり思った。そのとき、僕の代わりとなる作業者が、僕が入った死体袋を受け取って焼却炉に入れてくれるのだろう。それは誰だろう。あの天使の男だろうか。それとも別の、名前も顔も知らない誰かが燃やしてくれるのだろうか。そんなことをよく考えた。

 自動販売機の近くに目を向けると、天使の男がタバコをふかしているのが見えた。ちょうどそこは喫煙所となっていて、吸い殻用の細長い台が設置されている。彼はいつものように憂いを帯びたような目でタバコを咥え、街の方を眺めていた。何を考えているのだろう。彼の素性はさっぱりわからないが、仕事ぶりは申し分ないし、僕も彼を詮索するつもりはまったくない。ここは遺体を焼く場所だ。面倒事さえ起きなければなんでもいい。

 なんだかんだ言って、僕はこの仕事が好きなのかもしれない。色々と理由はあるが、何よりここは静かだ。火葬場の煙突からもくもくと立ち上る煙を眺めていると、まるでここが世界の終着点のように思えてくる。限りなく平和だ。ここはこの世のどこよりも静かな場所だと思う。ここにいるのは、寡黙な作業員と遺体だけだからだ。僕はそんな場所で働いていることに充実感を覚えていた。



 ある日のことだった。遺体を運ぶ業者が、いつもと違うトラックでやってきた。普段のトラックよりもう一回り大きい。僕はそのトラックを初めて目にした。なんとなく不吉な感じがした。

 トラックが建物の前に停車すると、業者の男が車から降りて車両の後方に回り、荷台の扉を開けた。そして手に持っていた、小さなリモコンのようなものを操作した。すると車両の下側から、収納されていたリフトが半分に畳まれた状態で外へ出てきた。男は畳まれたリフトを持ち上げて開いた。さらにリモコンを使ってリフトを上に上げていった。僕はその様子を黙って眺めていた。作業の途中に口を挟まれるのを喜ぶようなタイプでないのを知っていたからだ。もちろん僕は彼に質問したかった。なぜこれまで使ってこなかった荷降ろし用リフター付きのトラックで来たのか。たまたまいつものトラックが空いていなかったのか。それとも別の理由があるのか。でも僕は疑問を喉の奥に押し込んだ。今は聞くべき時ではない。

 リフトが扉の高さまで上がると、業者の男はリフトの上に乗り込み、荷台の中に入っていった。僕はトラックの後ろの方に移動し、その中を覗いてみた。そこには見慣れた死体袋はなかった。代わりに、中央あたりに大きな何かが見えた。それは荷台の中で、位置固定用のベルトによって慎重に縛られていて、男がまさにそれをほどこうとしていた。

 それが何なのかよくわからなかった。その位置から見えるのは、白い布がかぶせられている何かと、それを載せた台車だけだった。少なくとも死体袋ではなかった。

 固定用ベルトをほどき終わった男は、台車を引いてリフトの上に移動させた。そして例によってリモコンを操作し、それを地面に下ろしていった。リフトはかすかな駆動音を放ちつつ、滑らかな動きで下がっていき、地面に着地した。業者の男は慎重に台車を引いて、リフトの上から地面に移動させた。その動作から察するに、台車を用いても、載せているものは相当に重いようだった。

 彼は白い布を剥ぎ取った。

 かけられていた布の形から察していた通り、それは大きな立方体の形をしていた。それも金属の立方体だ。最初、僕にはそれが、全面がにび色に塗装された巨大なサイコロに見えた。しかしもちろん、それはサイコロではないようだった。その立方体の表面にはなんのくぼみもなかった。それどころか、一見する限り、それには何の意匠も施されていなかった。ただの金属の塊だ。表面はつるりとしていて、傷一つない。しかも丁寧に鏡面加工されているようで、周りのものをそのままに映し出していた。太陽光を強く反射させ、眩しいとさえ感じるほどだった。その大きさは、台車の高さを除いても僕のみぞおちくらいまであった。頂点の角は見るからに鋭利だ。おそらく自然界にはここまで完璧な立体は存在しないだろう。それほど丁寧で、執拗とさえ言えるほどの造りに見えた。しかしそれほどの造形物だとしても、僕にはこれが何のために造られたものかさっぱりわからなかった。

「これは何なんですか?」と僕は男に尋ねた。

「知らないよ」、男はそっけなく答えた。「俺はこいつをこのトラックに積んでここに持ってこいと指示されたんだ。それだけだ。どう処理するのかはあんたたちが知っているはずだ」

 僕は一瞬、言葉を詰まらせた。

「つまり焼けということですか? これを?」と僕は聞いた。

「さあね。かもな」

「でも……こんなもの、炉に入らないですよ。入り口のところで引っかかってしまう。うちはゴミの焼却場じゃないんだから。それにこれ、中身は何が入ってるんですか? 遺体がここに収まっているんですか?」

「俺は知らん」、男は苛立ったように言った。「上に言われて持ってきた。俺はもう帰る。次の運搬があるんだ。詳しいことはあんたたちが調べてくれ。いいな?」

 僕は何も言えなかった。業者の男は白い布を雑にかけてから、トラックに乗り込み、丘を下りていった。僕は台車に載った金属の立方体と一緒に取り残された。

 建物の中から天使の男がやってきた。彼は僕の隣に立つと、特に意外そうな表情もなく、台車を見下ろした。

「やっかいなものを押し付けられたな」と彼は言った。

「これが何なのか、知ってるのか?」と僕は尋ねた。

「さあね」、男は首を振った。

 天使の男は立方体にかけられていた白い布を取った。それを両手で畳みながら、台車の周りをゆっくりと回りつつ、金属の塊をじっくりと眺めた。途中、彼の動きがぴたりと止まった。立方体の側面を見つめている。

「おい」

 天使の男に呼ばれ、僕は彼のそばに移動した。男の視線の先をたどると、黒い長方形のようなものが、金属の塊の側面に埋め込まれているのに気がついた。長方形の大きさは縦が5cm、横10cmといったものだった。それは側面の上部に設置されていた。長方形の表面には赤い数字が表示されている。どうやらそれは小型のモニターのようだった。僕はその数字を読み取ってみた。

 0:20:14

 数字はそのままぴたりと止まっていた。

「なんだと思う?」と天使の男が尋ねた。

「さあ」と僕は返した。「現在時刻を表示していたんじゃないかな」

「あるいは残り時間かも」、彼はぽつりと言った。

「残り時間? 何の?」と僕は尋ねた。

 しかし天使の男は何も言わず、物静かな視線をモニターに注いでいるだけだった。

「何にせよ、壊れているようだね。秒の部分が動かないんだから。つまりガラクタだ」、僕はため息をついた。「どうやらこの火葬場に単なる産業廃棄物が運び込まれてしまったようだ」

 僕は事務所に戻って、遺体運送業の会社に電話し、本件の事情について質問した。得体の知れない金属の立方体が運ばれてきて、対処に困っている、と。これはどうしたらいいのか。

「そちらについては、通常通り、焼却していただいてかまいません」

 電話に出た女性は、淡々とそういった。まるで机の上にセリフが書いてあって、それを読み上げているようだった。

「通常通り?」と僕は聞き返した。「あれは遺体なんですか? つまり、あの金属の中身に人が入っているということなんですか?」

「私も詳しくは存じ上げておりませんが」とその女性は言った。「上の者からは、『通常通り燃やして欲しい』とうかがっています。『燃やせないなら燃やせないで、特にかまわない』とも」

「特にかまわない」と僕はその言葉を繰り返した。「すいません、状況が把握できていません。あれは燃やさなくていいんですか? 我々は火葬を行っています。遺体なら正規の手順に則って火葬を行いますが、ああいった金属の塊を焼却するといった業務は経験がありません。もっと詳しく事情をお聞かせ願えますか?」

「申し訳ございませんが、私からお伝えできるのは先ほど述べた通りです」

 彼女は感情のない声でそう言った。それ以上の質問を受け付ける様子は微塵もなかった。僕は諦めて受話器を置いた。

「何て言っていた?」

 天使の男が尋ねた。

「燃やせってさ」、僕はため息交じりに答えた。「そして燃やさなくても構わないとも言われたよ。どうすればいいんだか」

 彼は僕の言葉を聞いて、小さく「そうか」とだけ言った。この男がどんな感想を抱いたのか検討もつかなかった。

 僕と天使の男に立場的な上下はないわけだが、仕事の方針を決めるのはなんとなく僕の役割になっていた。それはこの火葬場で働いている期間が、僕のほうが長いからだろう。だからこの金属の立方体をどう対処するかも僕が決めなくてはならない。

 とはいえどうすればいいんだろう。まず炉に入らないし、仮に入れられたとしても、こんな金属の塊を焼却した経験がないから、きちんと燃やし切れるかもわからない。焼却炉の調子がおかしくなってしまうかもしれないし、有毒なガスが発生するかもしれない。そんな危険があるのなら安易に燃やせない。業者に突き返すことも考えたが、あの頑固なトラック運転手の男がすんなりと受け入れてくれるとは到底思えなかった。それに僕は相手の会社に電話してまで確認したのだ。その結果、金属の塊の処理はこちらに一任された。

 一旦は建物の横にある倉庫に保管することにした。その倉庫には炉のメンテナンスに使うための道具が入っているのだが、小屋みたいなものだから、金属の塊を台車ごと押し込むと、倉庫はいっぱいになってしまった。おかげで道具を取り出すときには、金属の立方体を避けるために棚まで精一杯手を伸ばしたり、いちいち台車ごと外に出してから用事を済ましたりする必要があった。こんなもの、いつまでも倉庫に置いておけない。かと言って外に野ざらしにしておくのも気が引けるし、事務所には置くためのスペースがない。だから普段施錠しているこの倉庫に押し込んでおくのが唯一考えられる手段だった。

 この金属の立方体をどうするかについては保留せざるを得なかった。対処方法はこちらに一任されて(あるいは押し付けられて)いるんだし、遺体みたいにおそらく腐るものでもないようだから、良い案が思いつくまで放っておくのが良さそうだった。だから僕は普段の業務に戻ることにした。運ばれてくる遺体を炉に運び、それを燃やした。立方体の出現はかなりイレギュラーではあったが、それだけでここの業務が滞るわけにはいかない。次々と運ばれてくる遺体は腐敗する前に燃やしていかなくてはならない。

 しかし、作業中に僕の頭にしつこく浮かんでくるのは、あの金属の立方体だった。あれが気になって仕方ないのだ。手を動かしながらもそのことばかり考えてしまう。あれがどうしてここに運ばれてきたのか、あれはどんな目的のもとに作られたものなのか、あの中には何が入っているのか、色々と想像してしまうのだ。死体袋を抱えて炉に入れるときも、休憩中に缶コーヒーを飲んでいるときも。気になるあまり、僕は意味もなく倉庫の鍵を開けて、その中に金属の塊がきちんとあるか、事あるごとに確認してしまうほどだった。僕が何度見に行っても、金属の塊はきちんとそこに置かれていた。運ばれてきたときの白い布をかぶせられたまま、音もなくじっとしていた。それを認めると、僕は安心する反面、言いようのないざわざわとした心持ちを覚えてしまう。これはここにあってはいけないような気がするのだ。

 あるとき、僕は仕事の休憩時間に倉庫へ行き、扉の鍵を開けた。埃っぽい臭いが鼻をついた。金属の塊と、それを載せた台車が狭い小屋の大部分を占めていた。僕は台車の取っ手を引いて、それを小屋の外に出した。

 白い布を取ってみる。実物を目にするのはあの日以来だ。変わっていない。金属の表面は光沢を放ち、頭上から降り注ぐ陽の光を反射させていた。本当に鏡のようだった。自分の顔をまじまじと眺めることさえできた。これを見ながら朝のひげ剃りを済ませそうだ。

 どうしてこんなものが火葬場に運ばれてきたのだろう。どうしてこれが燃やされることになったのだろう。この金属の立方体は、用途は不明だが、決して安価に作られたものではないのは明らかだった。つなぎ目がまったく見当たらず、表面はピカピカに磨き上げられ、傷一つ見当たらない。

 この中には何が入っているのだろう。死んだ人間の体が入っているのだろうか。だとしたら焼却の対象になるのもうなずける。どんな背景があったにせよ、ここは遺体の焼却場である以上、この中に遺体があるのならそれを燃やす必要がある。

 しかし、なぜこんな金属の立方体に遺体を収める必要があったのだろう。そしてなぜ運送業者はそのことをはっきりと僕に示してくれなかったのだろう。

 僕はあの事務所の女が言った言葉が気になっていた。『上の者からは、『通常通り燃やして欲しい』とうかがっています。『燃やせないなら燃やせないで、特にかまわない』とも』と彼女は言っていた。燃やせないなら燃やせないで、特にかまわない。それはなぜだろう。

 首を伸ばし、側面に取り付けられたモニターを見た。

 0:20:14

 数字はそのままだった。届いたあの日から全く変わっていない。これは何を意味していたのだろう。表記方法から察するに、これは時刻を示していたはずだ。それは何の時刻だったのだろう。現在の時間だったのだろうか、それとも天使の男が言っていたように何かの残り時間なのだろうか。わからない。

 金属の鏡面に映る自分の顔を眺めた。その顔は無表情で、瞳には光がなかった。そこに映る僕の姿は紛れもない僕自身だった。嘘偽りのない僕そのものだった。日々遺体を焼く、名もなき作業者の顔だ。金属の表面は、毎朝洗面台で目にする鏡よりも、ずっと本来の僕を映し出しているように見えた。

 この金属の中に入っているであろうものを想像してみた。精緻で複雑な機械がぎっしりと詰め込まれているのかもしれない。それはかつて高度かつ難解な計算を瞬時にこなせる計算機だったのかもしれない。いや、仮にそうだったとしたら、その計算によって得られたものを出力する口が必要だ。一見する限り、USBメモリや外部モニター用の接続口は見当たらなかった。あるのは時刻を示していたであろう小さなディスプレイだけだった。ひょっとしたら接続口は(日常的に利用するにはひどく不便だろうが)底面に存在しているのかもしれないが、わざわざこの重そうな金属の塊をひっくり返してまでそれを確認しようとは思えなかった。

 あるいはこれは厳重で堅固な金庫であって、中に入っていた高価な金品はとっくの昔に回収されていて、今は空っぽの哀れな不用品に過ぎないのかもしれない。もしこれが金庫であれば、たしかに空き巣の意欲を大きく減退させるような造りであるのは明らかだった。これをこじ開けようとか、持って帰ろうとは微塵も思わないだろう。

 しかし、僕にはこれが単なる機械や金庫だとかには思えなかった。これはもっと重要な意味を持っていた何かなのだ。そうでなければ、ここまで完璧で傷一つない金属の立方体を作る意味がない。これがどのような用途で用いられていたかは定かではないが、少なくとも誰かにとって貴重で大切なものであったのは間違いない。だからこそこれは傷一つついていないのだ。

 僕の想像はそこで限界を迎えた。それ以上深く考察するのは不可能だった。情報が極めて少ない。これを運んできた遺体運送業者も教えてはくれなかった。だから僕はため息をついて、あれこれ思案するのをやめた。僕みたいな単なる作業者が考えることではないのだろう。この金属の塊はとにかく不要なものなのだ。もはやこの世に存在する意味はないのだ。だからこの火葬場に運び込まれた。そして悲しいことに、燃やしても燃やさなくてもかまわないらしい。誰もこのガラクタの行く先を案じていないのだ。

 僕は心の中に一抹の不安を抱えながらも、なるべくこれを気にしないよう毎日を過ごすしかなさそうだった。どこかで時間を見つけて、この金属の塊の処理方法を考え、なんとか処分することにしよう。それまではできる限り頭からこれを追い払う努力をしなくてはならない。

 僕はそう決心し、金属の塊に白い布をかけた後、物置小屋の中に台車を押し込んだ。そして扉を施錠し、建物の中に戻った。今は目の前にある多くの遺体を焼き尽くさなくてはならないのだ。



 僕は事務室で、パソコンを前に事務作業をしていた。火葬場では遺体だけ焼いていればいいというわけではない。焼却作業のスケジュール管理や、焼却炉のメンテナンス、施設の備品発注など、やることはたくさんある。だからわずかな時間を見つけては、こういう事務作業をなるべくするようにしている。この火葬場には僕と天使の男の二人しかいないから、二人で分担してこういう雑務をやっているのだ。

「なあ」

 天使が立ったまま話しかけてきた。僕はパソコンから目を離さずに答えた。

「何?」

 彼は言った。

「あのやっかいなものをどうにかする手段を見つけた」

 僕は手を止めて、顔を上げた。そして天使の顔を見た。彼は相変わらず、感情の乏しい表情をしていた。

「……どうやって?」と僕は聞いた。

「地獄で燃やそう」、彼は率直に言った。

 僕は顔をしかめた。「地獄で?」

「そうだ」

「……地獄の炎で、ってことだよね?」

 彼はうなずいた。「地獄にいる知り合いのツテを頼ってみたんだ。そいつの友達に、あっちで産業廃棄物処理場に勤めているやつがいてね。たいていのゴミは全部燃やせてしまうんだと。なんせ地獄の炎だからな。きっとあの金属の塊も燃やせるはずだ」

 この男がなぜ地獄に知り合いを持っているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。彼は天使だ。地獄に関わりがあるはずがない。

 僕は言った。「確かに、うちでは燃やせない以上、他の処理施設で焼却をお願いしたほうがいいかもしれない。でも、どうして地獄なんだ? わざわざそんなところに行かなくても、どこかの処理施設にお願いして、燃やしてもらったほうが楽だと思うんだけど」

「確実に燃やすためだ」と彼は言った。「地獄の炎ならなんでも燃やせる。あれはそうでもしないと燃えないぜ。このあたりの中途半端な焼却施設じゃ燃やしきれないよ」

 僕は何も言えなかった。彼の言葉には妙な説得力があった。

「でも、あんなに大きいものを運ぶのに、どうすればいいか……」

「昇降台付きのトラックを借りよう。俺が用意しておく。免許も持っている。あんたは当日、俺と一緒にあれを積んで、現地で燃やすだけでいい。他は全部俺が準備する」

「……」

 僕は言葉を失っていた。この男がここまで精力的になっている姿を初めて見たからだ。寡黙で、どちらかというと判断を他人に委ねるタイプのはずだ。なぜこんなにも前のめりになっているのだろう。彼は今も物静かな視線を僕に向けていたが、その瞳はかすかに熱意のようなものをはらんでいた。

 とは言え、あの金属の塊を処分する方法について、行き詰まっていたのも事実だった。外部の焼却施設に処分を委託するしかないのだが、正直日々の業務に追われていて、そのあたりの手続きをするのを先送りにしていたのだ。

 しばらく考えた末に、僕は言った。

「わかった。そうしよう」

 スケジュールを確認したところ、翌週珍しく遺体が運ばれてこない日があったので、その日に地獄へ行くことになった。おそらく天使の男はそれを見越して僕に打診してきたのだろう。僕が安易に却下するのを防ぐために、ぎりぎりまで相談するのを止めておいたのだ。どうやらかなり計画的に事を進めているようだった。僕も特に反抗する意味もないので、彼の提案に素直に従ったほうが良さそうだった。

 当日、天使の男はレンタルしたトラックを車を運転して火葬場にやってきた。彼は大型トラックの扱いに慣れているようで、難なくハンドルを扱っていた。ますます彼が何者なのかわからなくなった。

 運転席から降りると、彼は荷台のところへやってきて扉を開けた。トラックの側面に備わっているリモコンのようなものを手に取り、そのスイッチを操作した。するとトラックの下に収まっていた昇降台が外側へ開いていき、地面に下りた。台の先は尖っていて、地面にぴたりとくっついていた。僕は金属の塊が載った台車を押して、自分ごと昇降台の上に移動させた。天使の男が再びスイッチを押すと、昇降台はゆっくりと上昇していき、扉の高さのところで停止した。僕は再び台車を押し出して、荷台の中に収めた。天使の男も乗り込んできて、専用のベルトを使って、台車と壁のくぼみをうまいことつなげて、台車が不用意に動かないよう、しっかりと固定した。ずいぶんと慣れた手付きだった。

「ずいぶん大きなトラックだね」、僕は荷台の中を見渡しながら言った。

「ああ。パワーゲート付きのトラックはこれしか借りられなかった」、彼は作業をしながら言った。パワーゲートというのは、おそらくあの昇降台を示しているのだろう。

 積み込みが終わったのでトラックの座席に座った。助手席に乗ると、こちらの席と運転席との間にもう一人分座れるスペースがあるのに気がついた。大型トラックなので、前の席に最大三人座れるようになっているのだろう。僕はこういった車両に乗るのが初めてなので、やけに広々とした空間にいまいちしっくりこなかった。まるで巨人が住む家に誤って招かれてしまったような心持ちだった。

 天使の男はカーナビで目的地を登録すると、車を発進させた。彼はこういった大型車両の運転に慣れているようだった。車両はゆっくりと静かに進み出した。大型トラックの乗り心地は、普段僕が運転しているような乗用車ほど優れたものではなかったが、高い目線で道路を見渡す光景はなかなか新鮮だった。車は火葬場がある丘を下っていき、大通りに出た。そのまま十数分ほど走った後、高速道路に乗った。

 その日の空は晴れ渡っていて、時々なりそこないみたいな小さな雲を見かけるほどだった。春のぽかぽかとした陽気をガラス越しに顔に感じられた。

 僕は地獄に行くのは初めてだった。行こうと思った試しがなかった。地獄なんて、おそらく特別な用事でもない限り好んで行く場所でもないだろう。だから僕は雑誌とかテレビで見かける程度の情報しか持ち合わせていなかった。どんな観光地があって、主な産業は何で、どういった人が住んでいるのかということも知らなかった。そのため、今回仕事の一環とはいえ、そんな知らない土地に足を踏み入れるのに若干の楽しみを覚えていた。

 車内ではラジオが流れていた。僕は窓の外を眺めながら、ラジオの音楽をぼんやりと聞いていた。天使の男は黙って運転を続けた。時々タバコを吸い、煙を窓から逃してやっていた。移動中も特に会話は生まれなかった。

 この男はどうして今回、ここまで積極的になってあれを燃やそうとするのだろうか。彼の素性ははっきり言って何もわからないが、普段おとなしい様子を見ている分、この意欲的な態度は意外だった。確かに、僕たちの職場であれを燃やせないし、かと言っていつまでも置いておくわけにはいかないので、なんとかして処分しようとする気持ちもわかる。だが、あまり自分の意見を表明したがらない彼が、地獄にいるつてを頼ってまで金属の塊を処分しようとするのは、いまいち解せなかった。つまりこの男は金属の塊をどうしても処分したいのだ。判断を保留していた僕と違う。僕はその理由を聞いてみたかった。どうして君はそこまでしてこれを燃やしたいんだ、と。でもそんな質問をしても無駄なのはわかっていた。たぶん彼は、いつもの当たり障りのない回答を口にするだけだろう。だから僕は尋ねなかった。まあいいさ。僕だってあれが職場からいなくなれば気分がいくぶん良くなるんだ。ここは同僚の意志を尊重しよう。そう思い直して、僕は考えるのをやめた。

 途中、高速道路のサービスエリアで昼食を取った。僕はラーメンを、天使の男はサンドイッチを食べた。食事中も我々は特に会話をしなかったが、気まずい雰囲気ではなかった。それはお互いがあまり話したがらない性分だからだろう。食事が終わると彼は喫煙スペースに行ってタバコを吸い、僕は温かいコーヒーを買って飲んだ。

 昼休憩の後、僕たちは再びトラックに乗り込み、地獄へ向かった。出発から二時間が経過していた。僕は車に揺られながら、後ろに積まれている金属の塊のことを思った。あれが今日燃やされるのだと思うと、厄介事が一つ減ってほっとする反面、言いようのない不安が心の中に渦巻くのを感じた。結局のところ、最後まであれの正体がわからなかった。あの立方体は何のために作られ、どうやって用いられてきたのか。そしてなぜ壊れてしまったのか。あれこれ考えたけれど答えにたどり着けなかった。それに多少のもやもやを感じているのも事実だった。

 トラックはやがてトンネルに入った。そのトンネルはあまりに長く、まるで永遠にこの中へ閉じ込められてしまうのではないかと思えるほどだった。もしこの中で交通事故が起こったら大変な事態になるだろうな、とぼんやり思った。何台もの乗用車がトラックを追い越していった。地獄へ向かう人は思いのほか多いようだった。彼らはどんな目的で地獄へ行くのだろうか。ひょっとしたら僕が思っている以上に、地獄は観光地として栄えているのかもしれない。

 ようやくトンネルを抜けると、僕はすでに自分たちが地獄の領域に入っているのに気がついた。目前に広がる風景が、トンネルに入る前と大きく異なっていたからだ。窓越しに空を見ると、そこには濁ったような色の赤い空が広がっていた。太陽らしきものは黄色い光を放ち、おそらく晴天なのだろうがそれほどの明るさは感じられなかった。

「初めて来たよ」と僕は言った。「地獄にね」

「そうか」と天使の男は言った。

「君は来たことあるんだろう?」

「ああ」と彼は答えた。「ここに住みたいとは思えない」

「そうだね」、僕は同意した。澄み切った青空が懐かしく感じられた。

 車は高速道路の料金所にたどり着いた。天使の男はETC付きのトラックをレンタルしたらしく、車は一時停止することなくゲートを通過していった。

 料金所を通ったトラックは、そのまま大通りに出た。通りには多くの車が往来していた。トラックは車の流れに混じり、街の中心部へと進んでいった。

 やがて前方に巨大な門が見えた。十階建てのビルよりさらに高いように見えた。その門は開け放たれ、多くの車の往来を受け入れていた。有名な地獄の門だ。重厚で巨大で、見ているだけで息苦しさを感じる。観光客は車から降りて、道路の端から楽しげに門を写真に収めていた。

「毎年何人かはあそこで轢かれるよ」

 天使の男は門を過ぎてからそう言った。

「だろうね」と僕は言った。おおかた道路に出て、正面から写真を撮ろうとした連中がいるのだろう。

 門の先は街が広がっていた。一見すると、その土地は僕たちが住んでいる土地とほとんど変わりがないようだった。ただ、車が進んでいくと、徐々に地獄特有の風景が目に入るようになってきた。

 例えば、枯れた樹らしき植物が道路脇に生えていた。それは街路樹のようで、どうやら枯れているのが正しい状態のようだった。葉のない、幹と枝だけの樹を眺めていると、なんだか寒々しい心持ちがした。他にも、人間でも天使でもない異型の姿をした人々が目に入った。足が数本生えたタコのような生き物や、肌が岩のようにゴツゴツとした大柄な人物がいた。彼らはみなここの住人だ。仕事があり、所帯を持ち、税金を収めていて、株や投資信託のやりくりに熱を注いでいる。僕たち人間と何ら変わりのない生活を送っているはずだ。違うのは外見や文化といった点くらいだ。僕は地獄の住人たちが普段何を食べているのかを想像した。ひょっとしたら、目にしただけで吐き気を催してしまうような、おぞましい食べ物を食べているのかもしれない。あるいは反対に、僕が日頃食べているものと大して変わらないものを口にしているのかもしれない。ラーメンとか、スパゲティとか、天丼とか、ピザとか。

 天使の男はカーナビを頼りにトラックを進めていった。産業廃棄物の焼却場は街の中心部から離れたところにあった。川沿いに建っていて、大きな煙突から薄暗い煙がもくもくと立ち上っていた。施設は大きく、僕たちの職場とは規模が違った。当然だ。僕たちの仕事は遺体の火葬だから、大量のゴミを焼くような大きな焼却炉は必要ない。きっとこの建物は小学生たちが社会科見学で訪れることもあるのだろう。

 焼却場にある一般向けの駐車場に車を止めた後、我々は施設の受付に向かい、そこにいる女性(角が生え、赤い肌をしていた)に声をかけた。アポイントメントがあることを伝えると、彼女はどこかに電話をかけた。

「少々お待ち下さい。すぐに担当のものが来ます」と彼女は言った。

 僕たちはお礼を言って、受付の近くで待った。待っている間、僕は壁に飾られている施設の概略図を見たり、ゴミが運ばれて燃やされるまでの一連の流れを図解した絵を眺めたりして過ごした。僕たちの職場と異なり、ゴミは何段階もの処理工程を経て念入りに処分されるようだった。遺体の焼却とはまったく違う。僕が時間を潰している間、天使の男は柱によりかかり、腕を組んでじっとしていた。

 数分後、誰かがやってきた。

 彼は悪魔だった。頭に角を生やし、獣の下半身を持っていた。カモシカのような足だ。全身に短い体毛を生やしていて、その色は濃紺だった。メガネをかけており、上着に作業着を着ていた。作業着の胸ポケットは四角い形に膨らんでいたので、おそらくタバコが入っているのだろう。彼が近づくと、作業着に染み付いたタバコの酸っぱい臭いが鼻に届いた。大きな図体の割にはおとなしそうな悪魔だった。休みの日に、精巧な何かの模型を作るのを趣味としているように見えた。

 天使の男はその悪魔と言葉を交わした。その会話ぶりから察するに、二人はあくまで知り合いの知り合いというだけで、友人関係を築いているわけではなさそうだった。

「で、何を燃やしたいんだ?」、悪魔は天使の男に聞いた。

 僕たちは受付を出て、トラックを停めている駐車場に向かった。そして積み込んだときと同じように、僕は天使の男と共同で金属の塊を地面に下ろした。僕が白い布を取り去ると、悪魔の男は興味深そうに、首を突き出して金属の塊を眺めた。

「何だいこれは?」、彼は眼鏡の位置を調整しながら尋ねた。

「ガラクタだよ」と天使の男が答えた。

「何が入っているんだ?」

「わからん。どうせロクでもないものだよ。わけもわからず上の連中に押し付けられたのさ」

 処理施設の男はいまいち納得しかねるような表情を浮かべた。

「おたくは火葬場なんだろう。いったいどうしてこんなものが運ばれてくるんだ?」

「いろんな手違いというやつさ。焼却炉を持っているから何でも燃やせると思われているのさ」

「ふうん」、悪魔はうなった。「うちにもね、いろんなもんが運ばれてくるんだ。ヨソでは燃やせなかったものがね。ここなら全部燃やせる。もちろんこいつもな」

 彼は金属の塊の周りをぐるりと回った。最初の日に我々がやったのと同じように。するとやはり、側面にあるモニターに気がついた。

「これは時刻か?」、施設の男は指を指して言った。

「よくわからないんです。現在時刻を示していたのか、それとも残り時間を教えていたのか。とにかくうちに運び込まれたときから止まっていて」と僕は言った。

 彼はしばらく、眉をひそめてそのモニターをにらんでいたが、やがて興味を失ったのか、顔を上げた。

「いずれ灰になるものだ。持っていこう」

 我々は再び施設の中に入った。僕が台車を押した。金属の塊はやはり重く、台車の力を借りても運ぶのは一苦労だった。特に通路の曲がり角を曲がるときは慎重に台車を扱った。これから焼くものだから多少乱暴に扱ってもかまわないのだろうが、なぜかそうすることに気が引けた。

 施設の男の案内で、従業員用の通路を通っていった。そこは清潔でゴミ一つ落ちていなかった。床はピカピカで、歩くたびに靴の擦れるキュッキュッという音が聞こえた。通路の左右には多くの扉があり、扉の上部には部屋の用途を示したプレートが埋め込まれていた。その内容を読み取っても、それぞれの部屋でどんな作業が行われるのかさっぱり検討もつかなかった。何から何まで、僕らの職場とは異なっていた。それも当然だ。ここは産業廃棄物処理場であって、僕たちの働く場所は火葬場だからだ。

「その、答えにくかったら良いんだが」、悪魔の男はもごもごと言った。「あんたたち、普段遺体を焼いているんだろう? そういう仕事なんだよな」

「そうだよ」と天使の男は答えた。

「どんな気分なんだ? 遺体を焼くというのは。ほら、イメージが湧かないんだよ。俺たちは産業廃棄物を燃やしているから」

「どんな気分というのもないよ」と天使の男は言った。「次から次へと、運ばれてきた死体袋を炉に放り込んでいくだけだ。考えるも何もない。そうだよな?」

「ああ」と僕は返事をした。彼の言う通りだ。遺体を焼く上で考えることなんて何一つないのだ。

「ふうん」、悪魔の男は理解しかねるという風に唸った。「慣れの問題なんだろうか。確かに、俺たちもガラクタを焼却しているときは特に考えてなんかないよ。まあ、炉の状態だとか焼却の効率とかは折に触れて考えているけれどね」

「ここでは死体は燃やさないのか?」と天使の男は尋ねた。

 悪魔の男は眉を潜めて、訝しげに彼を見た。

「当然だろう。ここは産業廃棄物の焼却場だぜ。火葬場じゃないんだ」

「でもゴミの中に死体が混じっている可能性もあるだろう?」

「……」、悪魔は少し考え込んだ。「あるいは俺達が燃やしてきたものの中に、あったかもな。俺達が気が付かなかっただけで。俺たちもゴミの中を詳細に確認なんてしていないからな。だがそういうのは考えないようにしてるよ。燃やしてしまえばみんな同じだ。灰になる」

「それと同じだよ」、天使の男は言った。「遺体に限らず、この世界にあるものはみんな同じ結末を辿る」

 悪魔の男はもう一度唸り声を上げ、それ以上はしゃべらなくなった。彼は思っていたよりも繊細な人物のようだった。

 やがて目的の部屋の前に到着した。

「通常のゴミはゴミ収集車で運ばれてくるから、プラットフォームでゴミの移動を行うんだが、今回は持ち込みなんで、持ち込み専用の運搬室でこいつを炉に送る」と悪魔の男は言った。「そこの部屋だ」

 我々は運搬室の中に入った。大きな部屋だった。部屋の中央にはベルトコンベアーが見えた。それは部屋の壁に開いている四角い穴へと続いていた。穴の奥は真っ暗で、何も見えなかった。それがどれくらい奥まで伸びていて、どれくらい運ばれたら炉に到達するのか、僕にはわからなかった。きっと長い時間運ばれるのだろう。僕はさっき施設の受付で見た、建物の概略図を思い出した。巨大な焼却炉はこの建物の中心部分にあった。このベルトコンベアーはそこまで続いているはずだ。

「そこの昇降台に乗せてくれ」と悪魔の男が言った。「ここに乗せれば焼却炉まで運搬される」

 彼が指差したその先には、床に接している台があった。ちょうど僕たちが乗ってきたトラックの昇降台と似ていた。一見する限り、その機械は相当重いものも昇降できるようだった。

「ちなみに燃やし切るまでに一時間以上はかかるぜ」と悪魔の男が言った。「堆積量にもよるんだが……うん、今日は少なくとも一時間はかかるはずだよ」

「大丈夫だ。それまで待っているよ」と天使の男は言った。

 彼はちらりと天使の男を見た。何か言いたげだった。僕は彼が言わんとしていることを察した。この産業廃棄物処理場は地獄の炎を使ってゴミを燃やしているのだ。おそらくあらゆるゴミを燃やし切ることができるのだろう。だからいちいち、自分たちが持ち込んだゴミがきちんと焼却されたかを確認する必要なんてないのだ。それなのに僕の同僚は、この金属の塊が完全に消却されるのをきちんと確認したいのだ。目の前でその消し炭を見られないのだとしても(なにしろ他の大量のゴミと区別がつかなくなっているだろうから)、焼却できたかどうかという事実はなんとしても得たいらしい。

 僕は台車を押して、昇降台の近くまで運んでいった。台の先端は鋭利になっていて、台車の車輪が滑らかに乗るように工夫されていた。ベルトコンベアの近くに機械の操作盤があるから、あれを操作して持ち上げるのだろう。その後、台車からベルトコンベアにうまい具合に金属の塊を載せるはずだ。きっとその作業も骨が折れるだろう。この重い物体を、安全に台車から離して載せるというのは決して楽ではないはずだ。三人で力を合わせる必要があるかもしれない。

 しかし僕は、昇降台の手前で台車をぴたりと止めた。その状態で、2人に背を向けながら数秒ほど沈黙した。背中で2人の視線を感じた。

 僕は顔を上げて、ベルトコンベアーが続いている穴の中を見た。穴の中は闇が充満していた。それは僕がいまだかつて目にしてきた闇に比べて、最も濃厚で息苦しい暗黒だった。僕はその果てにある地獄の業火を想像した。それは大いなる存在の激しい怒りのように、うねり、暴れ、あらゆる物体を燃やし尽くそうとしていた。

 僕は振り返り、天使の男を見た。同僚は特に驚いたような表情もなく、僕を軽く見つめ返した。その隣では、悪魔の男が不思議そうに僕を見ていた。彼は台車に載せようとしない僕に声をかけようと、口を開きかけた。だがその前に僕は言った。

「本当に燃やしてしまっていいんだろうか?」

 悪魔の男は、開きかけた口をゆっくりと閉じていった。僕の問いかけが自分に発せられたものでないのを理解したからだ。

 僕の同僚は黙っていた。彼の物静かな目線は、僕の真意を推し量ろうとしているように見えた。

「どういうことだ?」と彼は尋ねた。「躊躇しているのか?」

「ああ」と僕は答えた。

 彼は少しだけ考えてから、言葉を選ぶように言った。「ここまで来たんだ。何もせずに帰るわけにもいかないだろう」

「でも……」と僕は言った。「これは大切なものなんじゃないか、と思うんだ」

「大切なもの?」と彼は聞き返した。

「わからない。でもそんな気がするんだ」

 天使の男は深く息を吐いた。なんとなく、彼はタバコを吸いたそうにしているように見えた。でもここでは吸えない。

「火葬場に運ばれてきたんだ。大切なものであるはずがない。俺たちはこの世で不要になったものを燃やしてきたはずだ。これも例外じゃない。遺体じゃないにせよ、な」

「たしかにそうだ」、と僕は言った。「僕たちはこれまでずっと、おそらく大切ではなくなったであろうものを燃やしてきた。魂の抜け殻に誰も関心なんてないから。だから僕はなんの疑問も抱かず、何も考えずに遺体を焼却してきた。でも問題なのは、その淡々とした作業の中に、これが混ざり込んできたということなんじゃないかな」

「同じだよ」と天使は言った。「これも遺体なんだ。見た目は違えどな。中身に何が入っているのかも知らん。たぶんロクでもないものだよ。そういったものが俺たちの火葬場に運ばれてくる。そうだろ? これも燃やすんだよ。例外なく」

 僕は首を振った。まだ納得できなかった。「どうしてこれがいらないものだなんて言えるんだ? どうしてこれが遺体と同じって言えるんだ。僕にはわからない。これはひょっとしたら大切なものかもしれない。燃やしてはならないものかもしれない。それがきっと、何かの手違いでここまで運ばれてきたんだ。きっと手違いの連続だった」

「それを判断するのは俺たちじゃない」、天使の男は毅然とした様子で言った。「判断するのはこいつをあの火葬場に運ぼうとしてきた連中のやることだ。おい忘れるなよ、俺たちは末端の作業者だ。俺たちはこれをなんとかして燃やすしかない。責任問題が発生したとしても上の連中が困るだけだ。俺たちには関係ない」

「君はどうしてそこまでこれを燃やしたいんだ?」

「燃やすべきものだからだ」と彼は言った。「それ以外に理由はないよ」

 僕たちの議論は平行線をたどっていた。もはやどちらも自分の主張を譲ろうという気はなかった。僕はこの男と初めて、真っ向から意見が対立していた。天使の男の顔には感情の起伏のようなものはまったく見受けられなかったが、その淡白な瞳はまっすぐに僕を捉えていた。そして僕も、自らの視線を一直線に彼に返していた。

「なあ」

 今まで僕たちの会話を静観していた悪魔が、おずおずと口を開いた。僕と天使は一斉に彼の顔を見た。

「議論が白熱しているところ悪いんだが……」と彼は言った。「開けてみればいいんじゃないか、それ?」

 僕と天使は何も言わなかった。呆然と悪魔の顔を眺めていた。

 悪魔は言い訳するように話し始めた。

「つまりだよ。この金属の塊を開けてみればいいんじゃないかって思うんだ」

「開ける? どうやって?」と天使が尋ねた。「つなぎ目もないんだぜ」

「うちには大型の廃棄物を細かくするために、特別な切断機があるんだよ。こういうわけのわからないデカブツをぶった切って燃やすためにね。まあ、あまり使う機会はないんだが。多少デカくても問題なく燃やせるからな」

 僕は言った。「でも、これは見る限り相当頑丈そうだけど」

「大丈夫だよ。うちの切断機の刃は特別性でね。ケルベロスの歯を加工して作ってあるんだ。ほら、あいつらって時々、歯が抜けて入れ替わるだろ? それを使ってるんだ」と悪魔は説明した。「私がここで働いている間で、あれで切れなかったものはなかったよ。たぶんこれも切断できるんじゃないかな、うん」

「こいつを開けてみれば、本当に燃やすべきかどうかを判断できるってわけか?」、天使の男は尋ねた。

「一つの案だよ」と悪魔は言った。「どうするかはあんたたちが決めてくれ。なるべく早く決断してくれると助かるんだが。こっちにも仕事があるんでね」

 僕と天使の男は互いの顔を見交わした。二人とも声には出さなかったが、どうすべきかはそれぞれの心の中で決まっていた。

 僕たちはベルトコンベアーの部屋を離れ、切断機のある場所へと移動した。その場所へたどり着くのに少なくとも5分はかかった。切断機の置いてある部屋は大きく、天井から機械のアームが伸びていた。アームの端にはギザギザの回転刃がついていて、僕にのこぎりの刃を思わせた。あれがケルベロスの歯を加工してできているらしい。アームの真下あたりには、切断する対象を固定するらしき台があった。

 悪魔の男にヘルメットをかぶるよう指示された。切断中に断片が飛来して、怪我をするのを防ぐためだ。僕たちは部屋の壁に提げられているヘルメットを手に取った。僕と天使の男は通常サイズ(ここではこれが最小サイズなのかもしれない)のヘルメットをかぶり、悪魔の男はずいぶんと大振りなヘルメットを頭に載せて、大きな手を器用に使い、ヘルメットのバンド部分を顎下に留めた。

 ヘルメットをかぶった後、僕は台車を部屋の中央に移動させた。そして切断中に台車が動いてしまわないよう車輪にストッパーをかけた。その後、台車の持ち手に力を込め、それでも車輪が動かないのを確認し、そこから離れた。

 我々は切断機の操作盤の周りに集まった。操作盤は部屋の中央から離れたところにあった。その前あたりの床には、黄色いテープが部屋の端から端まで一直線に貼られていた。テープには手書きのマジックペンで「操作中はこれより先に進まない!」と文字が書かれてあった。どうやらそれ以上先に行ってしまうと、切断機の歯が届く範囲に入ってしまうらしい。非常に危険だ。僕はそのテープから十分に距離を取ったところに立った。

 悪魔は尋ねた。

「念の為聞くんだが、この中に何か危険なものが入っているわけじゃないよな? 爆薬とか有毒なガスとか」

「大丈夫だ」と天使の男は言った。「俺にはわかる」

 僕はちらりと天使の男を見た。この男は何かを知っているのだ。僕の預かり知らないところで、この金属の塊に関する情報を握っているのだ。しかしおそらく、彼はその肝心な中身を知らない。だからこそこうやって、何も事情を把握していない僕と同じように、この中身が何であるかを知りたがっているのだ。

「どの方向から切ってもらいたいとか、そういう要望はないよな?」

「ああ。やりやすいようにやってもらってかまわない」と天使の男が答えた。

 悪魔の男が、切断機を動かすために、その操作盤をいじっているときだった。

「俺がなぜ、人間の土地でこんなことをしているのか、話してなかったよな」、天使の男はぽつりと言った。

 彼の顔を見た。彼は金属の塊の方をぼんやりと見ていた。やはり感情に乏しいいつもの表情を浮かべてはいたが、僕はそこに普段なら見受けられない何かがあるのに気がついた。彼の瞳に、わずかな光が灯っていたのだ。彼の言う「こんなこと」とはつまり、人間の遺体を焼く仕事を指していた。

 僕は言った。「ああ。いつもはぐらかされた」

「俺にもよくわからないんだが」と彼は言った。「俺はこの瞬間に立ち会うために、遺体を焼き続けてきたと思う」

 悪魔の男がスイッチを入れると、切断機の刃が回転し始めた。モーターが駆動する音が部屋に鳴り響いた。刃はすぐに高速回転に達した。悪魔が操作盤のレバーを動かすと、それに合わせて機械のアームが動いた。彼は慎重に、少しずつレバーを操作して、刃を対象に近づけていった。誤って台車の取っ手に刃先が触れてしまわないよう気をつけているようだった。高速回転する刃が金属の塊に近づいていく。刃はと台車の取っ手と平行になるような位置で一旦停止した後、下へと降りていき、金属の表面に触れた。甲高い音が室内に響き、切断機の歯先から火花が飛び散った。

 我々三人は黙って切断機の刃のあたりを見つめていた。金属の塊を切断した時、我々は一体何を目にするのだろう。それは見てはいけないものかもしれない。僕たちが知るべきことではないのかもしれない。それでも、もう僕に躊躇はなかった。僕はあの中身を見たいのだ。そしてその正体を知った上で、あれを焼くかどうか、自信を持って判断したいのだ。それは天使の男もそうだろう。僕たちは末端の作業者かもしれないが、少なくともあれが本当に遺体なのかどうかをわかっていなくてはならないのだ。

 切断機の刃が、金属の表面に切り込んでまだ間もないときだった。鋭い音が室内に響いた。まるで巨大な岸壁に大きなヒビが入ったときのような乾いた音だった。それは切断機の切断音が鳴り響く中、異質なものとして確かに聞こえた。そしてその音は僕以外の二人の耳にも届いたようだった。

「あん?」

 悪魔の男がうなった。彼はレバーを操作し、アームを上に上げていった。刃が金属の塊から離れていき、甲高い音が鳴り止んだ。そして切断機の停止ボタンを押した。刃はゆっくりと勢いを失っていき、やがて鈍い音を放ちつつ止まった。

 我々は刃の回転が完全に止まっているのを確認してから、金属の塊に近づいた。

 金属の立方体に亀裂が走っていた。切断機によって断ち切られようとした荒々しい跡を起点に、まっすぐな切れ目が出来ていた。その切れ目は立方体を縦に分断しているようだった。

「亀裂が入っている」と僕は言った。

「ああ」、天使の男がうなずいた。「だが不自然な入り方だ」

 彼の言う通りだった。切断機の刃の跡はともかく、金属の箱を縦に断ち切っている切れ目はあまりにも精緻だった。まるで限界まで研いだ包丁で果物を切ったときのようだった。

 金属の塊はひとりでに割れたのだ。

 切れ目ができているものの、まだその中身が見えるほどに隙間は空いていなかった。薄い紙が一枚かろうじて入り込めそうなほどの僅かな隙間だ。

 我々はわずかな間、言葉を失ったままその切れ目を眺めていた。目の前で起きている状況を理解するのに、頭が追いついていなかった。しかしやがて、悪魔の男が両手を伸ばし、金属の立方体に触れた。

「ふん」

 彼は2つに割れた金属の片方を両手で押しのけようとした。断片だけでもかなり重そうに見えたが、彼も相当な力持ちのようで、力を込めるとすぐに断片同士に隙間ができた。

「ん?」

 彼はその隙間から何かが見えたようだった。僕も覗いてみたかったが、その前に悪魔の男は力を込め直し、断片同士をさらに引き離した。それによって、中にあるものを十分見られるほどに隙間は大きくなった。

 すると、箱の中から何かが姿を覗かせた。それは人だった。小さな人だ。膝を抱えるようにして座り込み、引き離された片方の断片の中に右肩を預けていた。どうやら金属の箱の中は小さな人が収まるほどの空間があり、そこに誰かが入っていたようだった。

 僕は最初、それが死体だと思った。それも体の大きさからして子供だ。火葬場に運ばれてきて、おそらく長い間金属の箱に閉じ込められていたのだから、死体に違いない。

 しかしそれは死体ではなかった。その子供の閉じたまぶたが、わずかに動いたのが見えたからだ。口元もかすかに動いている。肌はみずみずしく、生命力に溢れていた。明らかに生きている。

 子供は綿でできた上着とズボンを着ていた。年齢はまだ五歳くらいに見えた。栗色の髪が肩くらいまで伸びている。一見する限りは女の子のようだったが、実際のところどうなのかはわからなかった。来ている上着の背中部分には小さな穴が空いていて、そこから小ぶりな純白の羽が見えた。この子供は天使のようだった。

 悪魔の男は天使の子供を抱き抱えた。その優しい抱き方から、彼が子供を扱い慣れているのがうかがえた。

「あんたら、俺に殺しをさせるところだったぞ」

 彼は僕たちは軽くにらんだが、すぐに表情を緩ませ、子供の顔を見下ろした。悪魔の男の大きな体に比べると、天使の子供は本当に小さかった。

 子供は閉じていたまぶたをゆっくりと上げて、僕たちを見た。その瞳は虚ろな様子ではあったが、憔悴しているようには見えなかった。居眠りしているときに、たまたま目を覚ましただけのように見えた。

「ほらね」と僕は言った。「燃やさなくて良かった」

 天使の男はしばらく、何も言わずに子供を眺めていた。彼は呆然としているようだった。しかし、やがて観念したようにふっと笑った。

「ああ。そのようだな」

 僕と天使の男は、その子供を自分たちの職場に連れて帰ることに決めた。子供が入っていた金属の塊の残骸は、やはり地獄の焼却炉で燃やしてもらった。先程のベルトコンベアーの部屋に持っていき、残骸をベルトの上に載せた。悪魔の男がスイッチを押すと、ベルトコンベアーが動き出し、残骸が穴の奥へと運ばれていった。その間、子供は悪魔の男の腕の中に収まり、静かに眠っていた。僕はこんな小さな子どもを抱いた経験がないし、たぶん天使の男もそうだろうから、悪魔が子供の扱いに慣れているのはとてもありがたかった。

 残骸が穴の中に吸い込まれていくのを確認すると、我々はその部屋を後にし、施設の外に出た。地獄の空は、来たときと同じように赤い色を発していた。黄色い太陽がまったく同じ位置に浮かんでいるように見えたが、さすがにそれは僕の勘違いかもしれない。

 悪魔は腕の中にいる子供に優しく声をかけて起こした。子供は何も言わずにゆっくりと目を開けた。まだ眠り足りないように見えた。子供の目線はおぼろげに遠くを向いていた。

 悪魔の男に頼んで、子供をトラックの座席に載せてもらった。自力で座らせるには子供は小柄過ぎた。おまけに靴も履いていない。天使の子供は、助手席と運転席の中間にある場所に座らせた。このトラックが三人乗りであるのが役に立ったわけだ。もし二人乗りだったら、僕の膝の上に載せて連れて行かなければならないところだった。

「ここで働いて長い間が経つが」と悪魔の男は言った。「今日みたいな出来事は初めてだよ。あんたたちみたいな連中が奇妙な金属の箱を持ってきて、中身を開けたら天使の子供が入っていたなんてな」

 そして彼は続けた。

「でもなぜか、素晴らしい瞬間に立ち会えた気がするよ」

 悪魔の男に感謝を述べた後、僕たちはトラックに乗り込み、帰路を辿った。天使の子供は助手席と運転席の真ん中あたりに座った。彼は(あるいは彼女は)すぐに眠ってしまった。まだまだ眠り足りないようだった。その寝顔はあどけなく、汚れを知らない無垢な表情だった。僕は生まれてこの方、ここまで清らかなものを見たことがなかった。

 長いトンネルを抜けると、馴染み深い青空が視界に入った。僕はようやくホッとできた。我々は地獄から人間の世界へ戻って来たんだ、と。無事に帰って来られたんだ。僕は天使の男の発言を思い出した。「ここに住みたいとは思えない」と。僕はその言葉に改めて同意した。

 途中、休憩のため、我々は行きと同じサービスエリアに寄った。

「トイレは? 行きたい?」、僕は子供に尋ねた。

 子供は首を振った。

「じゃあお腹は空いてる? 何か食べない?」

 子供は少し考えた後、小さく首を縦に振った。少し恥ずかしそうな表情を浮かべていた。

 僕はサービスエリアの食堂で、試しにグラタンを注文し、天使の子供に与えてやった。子供はグラタンをおいしそうに食べ始めた。お腹を空かしているようだった。

「話せないのかな」、僕は天使の男に言った。

 この子供をあの金属の塊から取り出して一時間以上が経過するが、まだ一度も声を発していなかった。話をしようと試みるそぶりも見受けられなかった。

「今はな。いずれ話せるようになる」と彼は答えた。

「君はなんでも知ってるな」と僕は言った。「初めからこの子が入っているのを知っていたんじゃないか?」

 彼は首を振りながら、コーラを口に含んだ。「わかるわけがないさ。あんたの言う通り、こいつは手違いの連続でここに来たんだよ」

「手違いがあって、金属の塊に閉じ込められて、危うく火葬場で燃やされそうになったわけだ」

「そうだ」

 天使の子供は、僕たちの会話に耳を貸さず、熱心にグラタンを食べていた。

「不思議だ」と僕はつぶやいた。「この子はもう何日も飲み食いしていないはずなのに、とても元気そうだ。体もきれいだ」

 同僚は何も言わなかった。無言で子供の横顔を眺めていた。僕は天使の男の表情を見て、いつもと違う何かがそこにあるのを感じ取った。どこか、慈しみのような感情が生じているような気がした。僕は彼がそんな顔をするのを初めて見た。

 休憩を終えた我々は、トラックに戻り、再び帰路を辿った。職場に到着するころにはすっかり夕方になっていた。駐車場に車を停めると、天使の男はハンドルに手をおいたまま、じっと何かを考え始めた。僕は彼の言葉を待った。それまでトラックから降りるつもりはなかった。隣では子供がまだまどろんでいた。僕も言いようのない疲労を全身に感じていた。今すぐ家に帰って布団にもぐりたかった。だが妙に、清々しい疲労感だった。

 やがて彼は口を開いた。

「今日は一旦、俺の家にこの子を泊める。明日、飛行機に乗せて天国まで連れて行くよ」と彼は言った。

「わかった」と僕は言った。「助かるよ」

「たぶんもうここには戻ってこないだろう。悪いが、遺体を焼く仕事は今度からあんたが一人でやってくれ」

 僕はなんとなく、そうなるのを予想できていたので、特に驚かなかった。

「ああ。大丈夫だよ。求人も出すし」と僕は言った。「連れて帰ってどうするの?」

 彼は首を振った。「さあな。上の連中に会わせてみるよ。どうなるかはわからんが」

「大切にしてあげて欲しい」と僕は言った。「おそらくかけがえのないものだ」

「当然だ」、天使の男が言った。「あんたが必死に守ったものだしな」

 僕は天使の子供に目を向けた。ちょうどそのとき、子供も目を開けて、ぼんやりと僕を見つめ返していた。こんな子があの金属の立方体の中にいたなんて信じられない。手違いの連続、と僕は思った。果たして本当にそうなのだろうか? この子があの金属の箱に閉じ込められたのは偶然なのか? 誰かが意図して、この天使の子供を閉じ込めたのではないだろうか? そう考えると、僕は苦々しく、嫌な気持ちになった。僕たちはあと一歩のところで、この子を焼き殺すところだったのだ。そんなこと絶対にあってはならない。なぜならこの子供は死体ではないからだ。



 天使の男がいなくなり、僕は一人で遺体を焼くようになった。さすがに僕しかいないのはしんどいので、彼に言ったように求人を出してみた。すると、さっそく来週から一人来てくれることとなったので、僕は安心した。これでもし僕が死んでも、僕の遺体を燃やしてくれる人がいる。遺体を焼く仕事は継続されるのだ。 金属の箱が職場から消えて、以前のように集中力をかき乱されなくなった。おかげできちんと作業に専念できる。考えないというのは非常に楽だった。遺体は毎日運ばれてくる。余計な考えに囚われている余裕はないのだ。僕は何も考えずに、次々と運ばれている黒い死体袋を、焼却炉の中に放り込んでいった。 

一通りの作業が終わり、僕は休憩のために建物の外に出た。ふと空を見上げると、火葬場の煙突からもくもくと煙が立ち上っていた。それは天高く伸びていき、はるか上空で消えた。僕はそれを見上げながら、天使の男と、金属の塊に入っていた子供を思った。

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