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あの時の悲劇はこの先の喜劇に

アメリカから帰ってきた。何度かここで書いてるんだけど、あるテレビ局がアメリカでのスタンドアップコメディの挑戦を特番で1ヶ月間密着をしたいと言われビザを取りに行く直前。僕がTwitterで「大麻を合法化したほうがいい」発言をし、それでテレビ局が番組にふさわしくないと急に仕事をキャンセルされ1ヶ月無職になった僕はとりあえずひとりでアメリカに行こうと思い7月の1ヶ月間でLA、テキサス、ニューヨークを旅をしてきた。

テキサスではオースティンという街の語学学校に通って寮で生活をした。授業は昼の2時から5時までの3時間を先生と二人きりのマンツーマンで。だいたい、午前中はネタを書き、それを友達に英語にしてもらい、昼に学校に行きマンツーマンレッスンで先生に作ったネタの発音を教えてもらった。特に芸人は教科書に載っていないスラング英語を使うらしく先生が特別に「やばい」とか「ちょー」みたいなスラングの英語を沢山教えてくれた。

ある日、先生が「せっかくだからほかのクラスに乗り込んでネタを試せばいい、これも練習だ!」と言われ、断れずに20人ぐらいのクラスに飛び込まされネタをやった。しかし、相手も外国から語学を学びにきてる学校の生徒ばかりで、特にスラングが全く通じず理解されず、最後、ひとつひとつのネタを先生が説明して「あー」とか「へー」みたいな芸人としては恥ずかしすぎる空気になった。

テキサス州オースティンには沢山のお笑いをやれる場所がある。だいたいBARの奥にステージの付いた客席があり、腕試しをしたいミュージシャンや芸人達が歌やネタを試している。BARはそこにきたお客さんの飲み代で売り上げを出しているらしいけどほぼ赤字らしく、しかし街全体がアーティストの表現をする場所をなくしてはいけない、という風潮があり、赤字の中それを残し続けてる。僕はテキサスにいる間、オープンマイクにも何度も挑戦させてもらった。朝ネタ作り昼に先生と発音などの練習、学校終わりにそこに行き、地元の芸人にまじりそこでネタを試す、そんな毎日。

ある夜、オースティンの街を散歩していたら笑い声が聞こえてきたのでいってみると芸人達がBARのテラス席の野外ステージでスタンドアップコメディをやっていた。彼らを観ていたら、なんだか自分のネタがどこまで通用するのか試したくなり司会者に「おれも出してくれ」と声をかけた。すると「今日は無理だ、また今度な」と言われたが片言の英語で「お願いします」と食い下がりネタ帳のネタをひとつ聞かせた。そしたら笑ってくれて「じゃあ5分だけね」と言われ特別に紹介してくれて出番をもらった。

緊張で受けたかどうかは覚えてないけど、終わったら主催者がきて「最高だったよ、ちなみに金曜は空いてる?もっとたくさんのお客さんが来る、よかったらそこにもでないか」と声をかけてもらった。そして金曜のショーに出演した。お客さんもたくさん。すごく笑ってもらえた。そのショーをみたよ、と街中で声もかけられた。「君の前のショー見てたよ、最高だったよ、インスタやってないの?教えてよ」と言ってインスタを交換した。ツイッターは?と聞かれたが、ツイッターは悪口が沢山あるのでそれを翻訳機で翻訳されたら気まずかったので、やってないと嘘をついた。オースティンではネタを通してすごくたくさんの友達ができた。そんな濃いいオースティンの生活を2週間過ごした。

そのあと僕はニューヨークに行った。ニューヨークにきた理由は、約一年ほど前にマンハッタンのオープンマイクでネタをやり、めちゃくちゃすべって泣きながら夜中ひとりで帰ったトラウマの場所。そのニューヨークで今度こそ笑いをとりたかった。思い出を塗り替えるために、オースティンで試したネタを沢山用意して、いろんな劇場のオープンマイクに飛び込んだ。ニューヨークは世界で一番お笑いのお客さんが厳しいとされている。そんなニューヨークには多くの有名コメディアン達を世に送り込んだ伝説の劇場がある。世界中のスタンドアップコメディアンの憧れの場所らしく、アメリカのトップ中のトップのコメディアン達しか出演できない。その劇場にでるには、その劇場のナンバー1、2の芸人2組の推薦がないとオーディションすら受けさせてもらえないらしい。

僕はたまたまその劇場から徒歩二、三分くらいのところにあるBARでオープンマイクにでれることになり、せっかくなのでその劇場の前を通った。さすがに当日券は完売していて、キャンセル待ちの長蛇の列ができていた。開演しお客さんがみんな中に入ったその時、それを見計らったかのように関係者口からある芸人がでてきた。その人は僕は普段動画で観てる芸人だった。彼の出番はタイムスケジュールには書いてない、おそらくアメリカの劇場では芸人が全国ツアー前や、テレビでネタをやる前は飛び込みで出演してネタを試すらしい。彼に僕のネタを聞いて欲しかったけど、勇気が出ず自分の出演するオープンマイクのバーに向かった。そのバーも奥にステージがあり50席ほどの小さな場所だ。その場所はさっきの劇場と違いガラガラ。客と言っても出演者の芸人が10人ほど。入った瞬間の突き刺さるような目線。日本人は僕ひとり。なんだこいつ、という視線。前のニューヨークですべりまくった時と同じ状況。僕の順番が来た。すると我ながらなかなか盛り上がり、終わった後、沢山の芸人が、よかったよ!と声をかけてくれた。すごく嬉しかった。まえのトラウマから抜け出すことに成功した、喜びを抑えきれなくなり変なテンションになった僕はそのままその劇場を抜け出し、さっきの劇場に走り出した。このネタをさっきの売れっ子芸人に聞かせようと走り出した。もちろん、さっきからだいぶ時間は経っている。いるわけもない。しかし、いるわけがないからいかないんじゃなく、いくということをやりたい。結果ではなく行動をしたい。しかし、そこにはその芸人はいなかったが、その劇場での出番を終えた出演者の芸人がたまたま劇場の外にタバコを吸いにでてきてた。

彼もその劇場で出番をもらってる実力者の芸人。おれは彼にまた片言の英語で「おれは芸人だ、ネタを聞いて欲しい」と持ちかけた。彼は、なんかやばいやつが声をかけてきた、というひきまくった顔をして劇場の楽屋に戻ろうとした。気持ちはわかる。おれも日本でたまに変なやつが声をかけてきた時、同じ顔になる。しかしそんなのは諦める理由にならない、おれのネタの感想が知りたい。ニューヨークのトップのメンバーの彼らはどんなリアクションをするのか。無理やりネタ帳を渡した、すると彼はおれの押しに負けて「…1つだけね…」と明らかに顔がひきつりながらネタを読んでくれた。すると彼は、しばらく、無言になったあとに「ほかは?」と聞いてくれた。僕は、あとはこれ、とこれ、と。と言って何個か見せた。中には声を出して笑ってくれたものもあった。すごく嬉しかった。

するとその瞬間、下の劇場から大きな歓声が聞こえてきた。僕は思った、さっきの芸人がサプライズで登場したんだと。一目なまでみたくて、僕はネタを聞いてくれた芸人にお礼を言い急いで劇場の階段を降りた。すると受付の人が、「もうこの回はソールドアウトしたよ、次、2時間後に、あるから、それのチケットのキャンセルまちをしてくれ」と言われた。次は彼は出ない、僕は日本から来た芸人だ、と言って次は受付の人にネタ帳をみせて1つジョークを受付の人に見せた、すると彼は耳元で「特別ね」と言って中に入れてくれた。するとそこではその芸人がスタンドコメディをやってめちゃくちゃ笑いをとってた。すごい悔しさと憧れが入り混じった気持ちでライブ終わりでてくる観客を待ち伏せして「日本からきた芸人だ、ネタを聞いてくれ、ここにでてる芸人とどっちが面白いか教えてほしい」と言ってネタを聞いてもらった、「ここにもピンキリでいろんな芸人が出てる、ちょうど、真ん中ぐらいかな」と言われた。悔しくて嬉しくてなんだかこの時間がすごく楽しかった。作った笑いがパスポートのようにあっちこっちに連れてってくれる。勉強もスポーツも出来ず大して面白くない僕をこのパスポートは日本一の漫才を決める大会の頂点に連れて行ってくれて、テレビの中に連れてってくれて、大好きなテレビスターの目の前に連れてってくれて可愛い女の子とのベットの中にまで連れて行ってくれた。そして今回はそのパスポートはアメリカで見たことない景色に連れてってくれた。今回もそんなことを実感した1ヶ月だった。

アメリカでやったネタは色々あるけど一番盛り上がったのは「日本で大麻を合法化したほうがいいという発言をして、仕事をクビになった、1ヶ月無職。発言だけで。それが日本だ、おい日本、お前ら一度、大麻吸ってリラックスしろ」ってネタ。

正直、あの時、仕事がなくなった時はテレビ局の名前も出してSNSで書いてやろうと思った、だけど踏みとどまった。それはおれのやることじゃない、と、おれのやることは自分の場所で自分のやり方で、じゃなきゃおれがおれでなくなる。と。アメリカの劇場の支配人が言ってた。「うちの劇場に出す芸人はなにか言いたいことがあるやつだ」と。そのネタは他のどのネタとも違い、おれの片言の英語を飛び越えて、表情、言葉の温度はリアルな空気を作り、その空気は客席を巻き込み、ネタをしてるという空気から、怒りをコメディにして本気で叫んでるという空気になり客席が爆発するように盛り上がった。

だけど多分、このネタは1ヶ月後はもうウケない。なぜなら「おれがいま言いたい」という気持ちがあるからいまウケるんだ。不思議なものでそれは絶対にお客さんに伝わる。今回はSNSでも言わず、舞台の上まで我慢し続けた分より強く表現できた。

ユダヤ人の芸人がアウシュビッツをネタにする、彼は「悲劇と喜劇はルームメイトだ」と言っていた。悲しいことは笑えることでもある、と。アメリカで黒人の芸人が自分が人種差別されたことを笑いにしてた、女の芸人は男に暴力振るわれたことをネタにしてた。そして僕は1ヶ月前に起きたまさかの出来事。自分の発言で仕事がなくなり、3年前からいままでやってたテレビの仕事に興味を感じなくなり舞台上の表現に興味を持った僕は親にいまなにをやってるか、何をやりたいかをみせるいい機会になるはずの番組だった。

だからそれがなくなったことは僕には悲劇だった。しかしその悲劇は大きな喜びになった。その喜びは喜劇だと思えた。黒だらけのオセロがひっくり返っていく、そんなものを見た気がした。

芸人はいい仕事だ。吉本のニュースに対し「村本何で黙ってるんだ」というコメントもきた。しかし本当に興味がない。自分はワイドショーのコメンテーターではない。誰かが自分の目の前に置いた食材をさばいて仕事するつもりはない。自分の言いたいことは自分の心が動いたものだけ。ワイドショーにふりまわされるほど、おれは暇ではない。人はいつ死ぬかわからない、まだまだ乗りたいアトラクションがある、だからアメリカで過ごした1ヶ月はテーマパークの中を走りまわってるようだった。

人種とはなんだろう、宗教とは、様々な問題、いやそれらも表面的な問題かもしれない。毎日、考え、表現し、ウケたりすべったり喜んだり悲しんだり、テキサスのオープンマイクで初めて笑いをとった夜は、町外れの劇場から学校の寮まで真夜中のオースティンの街を60分歩いて帰った。

途中、急にやってくる喜びの感情に時折、「おぉぉ!」と声を漏らしながら。真夜中の誰もいない寝静まったオースティンの街はそこはもう自分の世界。そこを歩き、時には軽くスキップをする、気分はもう劇場から部屋までのウイニングランのようだった。

大麻発言は仕事をなくして笑いを生んだ。しかしおれが仕事で見る予定だった景色以上のものを見せてくれた。あの時の悲劇はこの先の喜劇に。あの時の実感はその次の実感に、そしてこれらすべての実感は再構築し笑いに仕上げて漫才や独演会という自分の場所へ。




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