おはなしは死角からやってくる―『沈黙のために』解説

本稿は正井さんの短編集『新装版 沈黙のために』解説エッセイです。

 40ミリレンズは手放してしまって、もうない。
 詳しくもなければ熱心でもない、ただ好きという趣味なので、何年経ってもモード設定に頼りながらデジカメで写真を撮っている。だから、詳しい人には眉をひそめられそうでおっかなびっくり書いているけど、わたしは50ミリがいちばん好きだ。
 50ミリは人の目にいちばん近い標準レンズ、とよく写真の本に書いてある。人の目に近いからこそ平凡な写りとも言われるけれど、画角とモチーフ、画面に収める比率などを工夫すれば、広がりを感じさせたり、生々しく迫る写真も撮れるような気がする。50ミリが性に合っているから、そんな気になるのだと思う。(他のレンズをよく知らない、もしくは勘所をつかめていない可能性も十二分にあるが……。)
 一方、憧れの漫画家さんが使っていると聞いて買ってみた40ミリはどうもうまくいかなかった。
 35ミリほど広がりが出ず、50ミリほど主題と景とがはっきり分かれない。快適な距離感より、数歩詰めねばならず、ちょっと緊張感が出る。帯に短し襷に長しという感じの写真ばかりができてしまう。使いこなせず、結局友だちに譲ってしまった。
 カメラはその人の視点はもちろん、距離感や、世界の認識などが出てくるものだと思う。レンズの倍率は撮る状況や被写体に合わせるものだけれど、それ以上にその人の感覚と共鳴するものでもある。

 正井さんのお話を読んで、40ミリはこう撮るのかもしれないと思った。
 正井さんの文章には、ふしぎなもの、異質なものがよく写っている。それらはわたしたちのずっと遠くにあるのではなく、「フォスフォレッセンス」に登場する死者のメッセージ「エピタフ」のように、近寄って手を伸ばせば触れられるほどに案外近い。

 ボケはあまりなく、鮮明な像だ。しかし、主題だと思っていたものが背景になったり、背景が主題になったりする。

そう、この町の夜は深かった。そこだけ夜を虐殺するような真っ白い光を放つコンビニの周辺以外は、オレンジ色の影を地面に落とす街灯以外、光は一切ない。(「沈黙のために」)

 表題作の一節だ。夜から強烈な光の描写になり、また深い闇の中に沈む。鮮明だが、渾然一体としている。そして、描き出される像を見ているうちに、妙な安寧や不安が生まれる。こちらの想像力が動き出す。それは「映されていないもの」の力だ。画角が狭く、かといって主題も揺れ動く中で、わたしたちは「死角」を意識し始める。文章はこう続く。

だからといって治安が悪いかというとその逆で、とっぷりと音がするほどに暗い町の夜には、不審者はたいてい飲み込まれてしまう。

 死角から「不審者」が現れる。夜や闇からの連想であるので地続きではあるが、突然現れた不審者にはおどろくものだし、しかしその不審者も夜に飲み込まれて脅威ですらなくなる。連想と飛躍が軽やかに手をつないで踊り、不安を飲み込む安寧が続く。

泥棒さんは夜に捕まって翌朝、ミワ冷凍から出荷されるんだよ。だって唐揚げとかにしちゃったらわかんないもん。

 突然の口語によって、不審者は唐揚げとして出荷されてしまった。爆笑シーンである。わたしたちは真っ暗の写真をめくったその次に、「ミワ冷凍」という看板のかかった工場から、トラックが出ていく写真を見つめるしかない。「大きい会社のはずだった」けど「どこか怪しい」というミワ冷凍は、全貌がわかる広角でもなく、詳細を描く望遠でもなく、実在感の伝わる標準画角でもなく、ただ「ミワ冷凍」という圧倒的な存在感の看板をいっぱいに収めた40ミリの画角というのがしっくりくる。
 ミワ冷凍の看板はユーモアと残虐さと飛躍による不安とを、最大の瞬発力を持って同時に醸し出すが、それもまた後に続く「今日のお弁当は、ミワ冷凍のグラタンです。」という言葉で、お腹の中に収められるものとして最終的に描かれ切ってしまう。やはり安寧がある。

 正井さんの文章は、死角を含んだものとしてつくられている。そこに写っているものは、むしろ死角を描くために映されたかのようで、鮮やかなのにどこか静かだ。安心してください、わたしはあなたの目に見えているものです、裏切りませんから、とでも言われているようだ。そして、その言葉はむしろ不安をかき立てる。そして次の瞬間、死角にシャッターが切られ、死角でなくなった瞬間にわたしたちはさまざまな驚きをもたらされるのだが、写ってしまった瞬間にそれは穏やかな安寧に変わっているのが不思議だ。また、安心してください、と囁かれる。
 正井さんのおはなしは、見えていない死角の方が躍動感があり、写った瞬間に安らかになるのだ。像の安らかさで、死角が動き出すとも言える。

 『沈黙のために』の中ですこし画角が異なるように思えるのは、「冬の群、馬数ある中の」だ。これは絵巻物のようなパノラマで、時にはアップや動的なショットも多い作品だが、それでも正井さんが撮ったのだと感じさせてくれるのは最後のシーンだ。

今や私の心臓は高く高く何度も鳴っている。火掻き棒を握りしめる。(「冬の群、馬数ある中の」)

 作中でもっとも緊迫し、戦慄と生々しさを感じさせる一節だが、肝心のインパクトは物語の終幕によって語られることはない。死角の中に消え、わたしたちの想像だけが膨らむ。

 正井さんの本は新書の判型が多いが、とても似合っている。余白の多い組版で、ここにも静けさと想像の余地がある。新書判にあこがれては、いつも文庫判できっちり詰めてしまう自分の組版と対照的だと感じる。

 わたしたちはときとして、死角のスリルを追い求めてページを繰る。不安から、死角を押しつぶすように文字を読むときもある。
 だが、正井さんのおはなしは、死角の魅力を存分に語りながらも、そこに行き着くことはないということを示す。それでも、それが幸せなのだということを、そこに写った景の美しさや愛らしさとともに感じさせてくれる。あるいは、写真が写っているところこそ本当の世界で、わたしたちがいるのが死角そのものであるかもしれないということを。
 正井さんのお話を読んでいると、ときどき真っ暗の写真が紛れ込んでいる。レンズキャップを外し忘れたのかな?と思ってみていると、そこには自分の顔が写っている。おかしいな。あたりを見渡すと真っ暗だ。とにかく歩いてみる。靴裏に、紙を踏んでいるような感覚を覚える。湿った羊歯植物が、わずかな光を反射している。帰り道がわからなくなるといけないから、カメラで撮っておこう。うまく撮れない。あれっ。これ、譲ったはずの40ミリレンズじゃない?
 朝がいつか来ればいいけど、しばらくはここで40ミリの練習をしてみるのもいいかもしれない。


正井さんは現在「ブンゲイファイトクラブ」に参加中です!
すばらしい短編揃いなのでぜひご覧ください!



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