短編小説「夏蜜柑ポップ」

凄く下らない話なんだけど。
「蜜柑狩り」という夢を見た。
あたしは「蜜柑ハンター」で街中に隠れる蜜柑を狩っている。

「蜜柑」たちは器用に擬態している。
凶悪な奴らだ。
夜更けに誰かが寝静まった頃合いを見計らい、蜜柑たちは人間に寄生しようと企んでいる。頭頂部から脳髄へ根を張って、人間を支配しようとする。

街には「蜜柑人間」として頭に蜜柑を乗せた人々が、それなりの生活を送っている。「それなりの生活」とは、蜜柑人間は従前の人格も記憶も残っているので特段差支えなく、これまでの生活を継続できるという事だ。
蜜柑人間になって変わった事は、今までよりもちょっとだけ日なたが好きになる事と、頭の蜜柑が潰れやすいので細心の注意を払って暮らさなければならないって事。

いや、本当に下らない話なんだけど。

あたしは掃除機みたいな「蜜柑狩り機」を持って街中の蜜柑を狩るのだ。そうね。蜜柑を見つけて蜜柑狩り機のスイッチを押すと、蜜柑が吸い込まれ圧搾されるの。まるで蜜柑が潰れるような音を立てながらね。
蜜蜜蜜…と音を立てて。
爽快だわ。

でも悩みがあるのよ。一体、その時に生成される大量の蜜柑ジュースをどうしたら良いのかしら。飲めば良いって?馬鹿ね。そんなに大量の蜜柑ジュースを飲めるわけないじゃない。

味は格別なのよ、きっと。フレッシュだし。でも世の中味が良けりゃ良いってもんじゃないわ。そんなに単純じゃ無いのよ。背中のタンクに大量の蜜柑ジュースを背負って、そうね。困ったわ、とても。

と、いう夢。

目の前のアヤコは蜜柑ジュースを飲みながら嫌な顔をした。
目の前のトモコも嫌な顔をした。
あたしは手のひらを這わせて蜜柑虫の真似をした。

這う生き物って駄目ね。人気がないわ。

あたしは底に溜まっていた蜜柑ジュースを啜った。
雑雑々と音がした。

ところで、この単語って何?
「carbonated water」
「炭化した水」

炭化って燃えて炭になる事でしょう?水が燃えるの?石油?

ああ、炭酸水の事なの?
炭酸って二酸化炭素の事だものね。
へえ。

ねえ、ソーダ飲む?
オレンジジュースにソーダ入れて飲むと美味しくない?

あたしたちは学校の近くにある喫茶店で試験勉強をしていた。
こじんまりとした店内には高校生のグループで半分ほど占められている。どのグループも参考書をテーブルに広げて一見、試験勉強風であるが先ほどから雑談ばかりで勉強がはかどっているようには見えない。

パスタやドルチェを一品頼んだ後はドリンクバーで何処までも長居をすることができる気楽な店だった。気楽であるので味は全く大したことがない。パスタもドルチェも冷凍食品なんじゃないかしら。
でも、「味が全てじゃない」わけよ。あたし達の求めてる事ってそんなに単純じゃない、筈だわ。よく分からないけれど。

あたしはオレンジジュースにソーダを割ってストローで一周かき回した。沸々沸々と音がして炭酸が弾ける。

現実逃避気味の下らない話ばかりして、すっかり日が傾いていた。
家に帰る人々が駅前通りを歩いていく。

あたしは窓の外の風景を、街の風景を、オレンジソーダのコップに透かせた。
夕暮れ。
人々。
街。
それからポップ。

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「僕の話しを聞いてくれないか」

凄く下らない話なんだけど。
夢を見たんだ。
「蜜柑狩り」という夢。
僕は「蜜柑ハンター」として街中に隠れる蜜柑を狩っている。

「蜜柑」たちは器用に擬態している。
凶悪な奴らだ。
誰かが寝静まった頃合いを見計らって蜜柑たちは人間に寄生しようと企んでいる。頭頂部から脳髄へ根を張って、人間を支配しようとする。

僕は掃除機みたいな「蜜柑狩り機」を持って街中の蜜柑を狩るのだ。蜜柑を見つけて蜜柑狩り機のスイッチを押すと、蜜柑が吸い込まれ圧搾される。まるで蜜柑が潰れるような音を立てながらね。
密密密…。

爽快だったな。

と、僕は言ったが目の前の友人、タケウチとヤマキはまともに話を聞いていない。彼らは来週のイグザムの英単語を覚えるのに必死なのだ。僕の話は全く宙に浮いてしまったが、かと言って、勉強に勤しむ彼らの手を止めさせて無理に訊かせる話でもない。

まあ良いかと僕は夢の続きを思い返していた。

一人の蜜柑人間が頭の上の蜜柑を潰してしまって嘆いていた。蜜柑は彼らに寄生しているが、彼らもまた蜜柑に依存しているのだ。
「蜜柑が潰れてしまった」と彼は言った。
「どうしていいか分からない」

「また蜜柑を乗せればいいじゃない」と僕は言った。
「捕まえてきてあげようか」

「そういうことじゃない」と男は言った。
「そういうことじゃないんだ」

「分かるよ」僕は言った。
「誰も身代わりになんてなれないんだ。」

男は悲しんでいた。蜜柑虫を愛していたのだ。蜜柑だから愛されるとか、虫だから愛されないとか。世の中はそんなに単純じゃないんだ。よく分からないけれど。

「carbonated water」ってなんだ?
タケウチが聞いた。

「carbonated water・・・炭化した水?」

「炭酸水だよ」とヤマキが言った。
「授業でやったろ?」
「そうだっけ?」
「そうだよ」

そうだっけ?僕は思った。
炭酸水。

「ソーダ飲む?」僕は言った。
「オレンジジュースにソーダ入れて飲むと美味しくない?」

現実逃避気味の下らない話ばかりしていたら、いつの間にか夕方になっていた。
窓の外には家に帰る人々が駅前通りを歩いていく。

僕は外の景色を、街の風景を、オレンジソーダのコップに透かせた。
夕暮れ。
人々。
街。
それからポップ。

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「アンタ好きな人とかいないわけ?」と学校帰りにアヤコが言った。
「あたし?」
「そうよ」
「さあ」
とあたしは首を傾げた。
そういった話に興味がないわけではないが、今一つピンとこない。

「悲しいねえ。」とアヤコが言った。
「悲しいねえ」とあたしも言った。
何が悲しいのか分からないけれど。

時間が無為に過ぎていく気がする。
あたしたちに残された時間は少ない、気がする。残された時間を使って何をすればいいのかあたしにはよく分からない。

「彼氏でも作ればいいのよ」とアヤコが言う。

彼氏でもできれば、この焦燥感は治まるのかしら。
そんなに単純なものじゃないと思うけれど。
でも何をすれば満たされるのか、やっぱりあたしには分からない。

「彼氏でも作ってデートをすれば良いじゃない」とアヤコが言う。
「アンタ、映画とか好きだったでしょう?」

興味がない訳じゃないけれど。どうなのかしらね。

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そんな話をしていた次の日。
違うクラスの男の子から告白された。

「考えとく」と返事してあたしは逃げるようにして帰ってきた。

「どうするの?」とアヤコが言った。
「分からない」とあたしは答えた。

「いつ返事するの?」とアヤコが言った。
「分からない」とあたしは答えた。

もしも付き合ったらあたしたちは同じ蜜柑人間の夢を見るだろうか。

「バカねえ」と電話口でアヤコが言った。
「いったい何を求めてるの?」

分からない。
あたしは何を求めているの?

「運命を感じない」
とあたしは言った。

「バカねえ」とアヤコが言った。
「あんた一体、何と出会うつもりなのよ」

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あたしは。

試験勉強の息抜きにゾンビ映画でも見ようかとレンタルビデオ店に行った。ゾンビ映画はやっぱりイタリアだよね、と定番ゾンビ映画三部作を借りようと思ったのに全部借りられていた。
やっぱり人気があるんだわ。

仕方ないから「裸のランチ」か「狼男アメリカン」のどちらかにしようと悩んで「裸のランチ」を借りた。ゾンビも粘液を撒き散らす昆虫型のタイプライターも似たようなものだし。

長年に渡ってゾンビ映画が作られているけれど、あれってきっと視聴者が求めてるんじゃなくてゾンビ映画を作りたい人が後を絶たないんだと思うな。

「だって私だってゾンビやってみたいもの」

特殊メイクをしてみんなで一緒に。
ゾンビでピクニックしたりデモクラシーしたり。パンデミックにツイートをバズらせたり。

「友達百人できるかな。」
ゾンビなら簡単だな。
いいな、ゾンビ。

帰り道はゾンビ歩きをして帰った。

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僕は。

先程、ゾンビ歩きの人とすれ違った気がする。
気のせいだと思う、多分。

試験勉強に疲れてゾンビ映画をレンタルビデオ店で借りていた。
やっぱりゾンビ映画はイタリアだ。
定番ゾンビ映画が三部作とも揃っていたので、三部とも借りた。それを昨晩からずっと見ていた。

ぶっ通して観たのですっかり頭の中がゾンビになっている。

長年に渡ってゾンビ映画が作られているけれど、あれってきっと視聴者が求めてるんじゃなくてゾンビ映画を作りたい人が後を絶たないんだと思うな。

「だって僕だってゾンビやってみたいものな」

僕はちょっとゾンビ歩きをしてみた。
少し気分が高揚している。
段々興に乗ってすっかり「スリラー」みたいになっている。
どうせ誰も見ていない。

ゾンビは観るよりやるに限る。
集団でゾンビ歩きをするとかも気持ちよさそうだ。
所属の欲求、というのかな、あれも。
集団ゾンビに襲われると仲間になる。やはり所属の欲求なんだな。
歴史はファシズムを憎みながら、人間が時としてファッショである事は否定できない。
ゾンビはファシズム的思考快楽の究極的堕落なんだ。精神の頽廃だ。その墜ちることの心地良さよ。
僕は自動販売機の前で華麗(と、思える)ターンをした。

「スリラー」をしたままレンタルビデオ店に入店してDVDを返却し、そのまま今晩は「裸のランチ」でも借りようかと思ったけれど既に借りられていた。人気があるんだな。仕方ないから「狼男アメリカン」を借りた。昆虫型タイプライターの孤独もアメリカの狼男の孤独も似たようなものだし。

ハイチ島の呪術師がゾンビを作る。
ゾンビはブードゥー用語だ。
風土病で仮死になった人間を呪術師は攫ってくる。ゾンビパウダーを与えて自我を失わせて、一流のゾンビに育てる。
一流のゾンビは眠り男のように忠実に命令を履行する。

それ、踊れ。
ターンしろ。

僕はやっぱりスリラーをしながら帰る。
今日は疲れた。
試験勉強は止めておこう。

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名店、「わらく」のどら焼きは米粉、黒糖仕立てのどら皮にあんこバターを挟んだ逸品である。皮を米粉で作る事により皮には餅のようなもっちり感が生まれる。

その皮にほんのりと黒糖の甘みが生きている。

挟まれたあんこは素材を活かした粒餡。小豆本来の甘みを活かすため少量の和三盆糖が使われる。
あんこは練りすぎない。
小豆の形を凡そ残しており、どちかと云えば茹で小豆、に近い。

皮と、あんこ。単体では至極美味であるが、それだけでは併せて食べようとすると調和に欠ける。均質性に欠ける。
口の中に入れた時にまるで一つの果実のように、調和を促したいのだ。それは輻輳である。ハーモーニーである。一体感を味わいたいのだ。

そこで二つのファクターを繋ぎ止めるためにバターが使われる。油脂が皮と餡こを馴染ませる。
これが架け橋なのだ。どら焼きは皮と餡こという分離体ではなく、一個のどら焼きという固有性を持つ。まるでマジックだ。
究極だ。
完全だ。
どら焼きはどら焼きである。
真理だ。

僕はおつかいで「わらく」にどら焼きを買いに行った。逸る気持ちが抑えられない。

「すみません。今日はね…。」
既にどら焼きは売り切れていた。

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どら焼きを買った。名店「わらく」である。

先日、アヤコが試験に向けて勉強合宿をしようと言い出した。
そんなものを開いたら最後、勉強なんかそっちのけで一晩中、話通してしまう、だろう。結末が見えている。

あたしは全く気が乗らない。一人で蜜柑人間の夢でも見ていた方がましだ。と、思ったが結局同意した。
友情だって大切なんだ。

勉強した事の褒賞に「わらく」のどら焼きを用意した。
思いの外、勉強がはかどった。

アヤコはどら焼きを二つ。
トモコとあたしは三つずつ食べた。
感動にうち震える。

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あたし。

映画研究会に勧誘された。
先日ゾンビ歩きしている所を目撃されたのだ。
勧誘された事は実は嬉しい。
だって自分を必要と言って貰えてる訳でしょう?
「このままでは研究会は潰れてしまう。」

と映画研究会会長にして唯一の会員であるヒラマサ先輩は言った。

「僕もゾンビものは好きなんだよ。いつか自分でも撮りたいと思ってる。」

少し興味をそそられたが、話し込むうちにヒラマサ先輩の好きなゾンビものがアメリカものだと言うことが分かり、それが契機にあたしの不機嫌症が爆発して口論となり、研究会勧誘の話もあたしが主演女優兼助監督兼脚本家をやる件も立ち消えた。

これもゾンビ歩きという生命力への冒涜行為が招いた結果なのかと自省して、その日は学校から家まで走って帰った。

が、試験勉強は気分が乗らずロクロクやらなかった。

あたしが覚えた事と言えばcarbonated waterが炭酸水だって事くらいだ。
いや、それは例えば文学的表現であって本当はもっとそれなりに勉強したつもりもあるのだが、あると思うが。誰に対してか分からないけど一応弁明。

冷蔵庫開けて炭酸水でも飲もう。

そう言えば。
あの男の子への返事は一体いつしようかしら。
どんな形で?あたしは何て返事をするの?

ああ、なんだってこんな。面倒事ばかり多いのだろう。

炭酸水の気泡のように憂慮が浮かんでは消える。

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映画研究会に誘われた。
先日スリラーをしながらレンタルビデオ店に入店した所を見られていたのだ。
勧誘された事は実は少し嬉しい。
少なくとも僕という存在が誰かに必要とされているのだ。
「このままでは研究会は潰されてしまう」
と映画研究会会長にして唯一の会員であるヒラマサ先輩は言った。

「僕もゾンビものは好きなんだよ。いつか自分でも撮りたいと思っている。」

少し興味をそそられたが、話し込むうちにヒラマサ先輩の好きなゾンビものがアメリカものだと言うことが分かり、それが契機に僕の不機嫌症が爆発して口論となり、研究会勧誘の話も僕が主演男優兼美術兼脚本家をやる件も立ち消えた。

これもスリラー歩きという生命力への冒涜行為が招いた結果なのかと自省して、その日は学校から家まで走って帰った。

が、試験勉強は気が乗らずロクロクやらなかった。

僕が覚えた事と言えばcarbonated waterが炭酸水だって事くらいだ。
いや、それは例えば文学的表現であって本当はもっとそれなりに勉強したつもりもあるのだが、あると思うが。誰に対してか分からないけど一応弁明。

冷蔵庫を開けて炭酸水でも飲もう。

と、思ったけれど何もかもやる気がでない。ベッドの上に寝っ転がって天井を眺めていた。

何もかも億劫だ。
漠然とした不安感に駆られる。

炭酸水の気泡のように憂慮が浮かんでは消える。

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学校でウサギの抽選会が行われた。生物部の飼っていたウサギが子どもを産んだのだ。アヤコトモコに誘われて抽選会の様子を観に行った。

抽選はジャンケンだった。
生物部の人が壇上に立って号令をかける。

「ジャンケン…」

パーだ。

落選した者たちの溜息と、勝った者の勝鬨と、ギャラリーの笑い声が入り乱れた。
およそ半分の者が負け、半分の者が残った。

「おおい」
あの男の子だった。
こちらに手を振っている。
ウサギの抽選会に参加している。
先程のジャンケンに勝ち残ったらしい。

アヤコが肘であたしをつついた。

手を振り返せばいいのか、応援すればいいのか分からずにあたしは曖昧に会釈をした。

その中途半端なあたしの対応をアヤコが笑った。
その時にあたしは自分が耳まで赤くなっている事に気付いた。

ウサギみたいよ、まるで。
アヤコが揶揄かった。

次のジャンケンもその男の子は勝ち残った。

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学校でウサギの抽選会が行われた。生物部の飼っていたウサギが子どもを産んだのだ。
生物部部長のオクタニが是非観にくるようにと言っていたので、丁度暇をしていた僕は抽選会の様子を観に行った。

「抽選はジャンケンでやるんだ。」
と、オクタニが鼻の穴を膨らませた。

生物部と云えば校内でも辺境の住人で、その存在を知らぬ者が多い。僕はオクタニの友人であるが、生物部等とは架空の名前で実態は帰宅部なのかと思っていたら、実はウサギとハムスターとミドリガメを飼育している愛玩動物同好会であった事がこの度判明した。顧問は生物科の教師が面倒臭がったため、去年より書道部の非常勤講師であるニシキノ先生が担当しているそうだ。

この度の抽選会は校内で初めて彼らが注目をされた事案となった。それだけにオクタニがこの抽選会にかける熱意は並々ならぬ物がある。

「ジャンケン…」と
壇上で声を張り上げ、拳を振るう、彼の勇姿を見よ。
僕は心から彼に声援を送る。

オクタニはパーを出した。
何故、パーを最初に出すのか、昨日オクタニは僕に力説した。
「みんな最初はグーを出すんだ。」
根拠の乏しい学術的見解。
「生物学的に」
と取ってつける。
何かそれっぽい事を言いたいらしい。
うん、よく分かるよ、その気持ち。
でも、お前の目的はジャンケンで勝つことじゃないだろう?

「ジャンケン…」
尚一層の声を張り上げてオクタニのウサギ抽選会は続く。
彼は今や学内の神なのだ。誰もが彼に羨望の眼差しを送っている。
これもまたファッショだな。
僕たちはファッショの中に暮らしているんだ。

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「ウサギが好きなの?」
と男の子が言った。
好き、と答えることに何故か危機管理意識が働いてあたしは黙っていた。

「今度、うちにウサギを観においでよ。」と男の子が言った。

「変態じゃん」と後ろのアヤコが揶揄かった。
「バババ」と男の子が言った。

「試験終わったらみんなで遊ぼうよ」とアヤコガ言った。
「公園でウサギの散歩でもしよう」
ピクニックだな。
あたしは思った。
楽しそうだ。

草原とピクニック。
ララバイと機関銃。

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「ウサギが好きなの?」

映画研究会のヒラマサ先輩もウサギの抽選会を観ていたらしい。

好き、と答えることに何故か危機管理意識が働いて「ええ、まあ」と僕は曖昧に返事をした。

「俺もウサギを飼っているんだ。」
ヒラマサ先輩は言った。
「飼い始めてもう二年になる。」とヒラマサは言った。
「はあ、まあ」と僕は言った。
「今度家に観に来ないか」
とヒラマサは言った。

「はあ、まあ」と僕は言った。

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その日は試験前につき、学校は半日で終わった。ホームルーム後にプールサイドの清掃をしていて、僕は足を滑らせ水中に落ちた。

太陽光が水中に入射し、光の粒が煌めいていた。その粒が、僕の起こした水中の力動に沿って撹拌されている。撹拌は大きなうねりになって奔流に変わって、川となって。川の中に光の粒子が流れていた。
視界がスローモーションになって僕は数多の気泡が水面に上っていくのを見た。

この一つ一つが僕の記憶なのだ、と僕は夢想してみる。
泡の中には思い出が詰まっていて破沈、破沈と音立てて弾ける。
思い出が空に還っていく。

破沈。

破沈。

破沈。

若しくはこの一つ一つが人生なのだ、と。

泡と僕たちの類似性は?

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僕のこと。

本日、試験が終わった。
何故か昨日の夜から部屋の大掃除を始めた僕は、全くの睡眠不足から頭脳も不明瞭で物理の試験を解きながらも何故か「carbonated water」というフレーズとラベルのボレロばかりが反芻されて、散々な結果に終わった。

いつもの喫茶店は客が少ない。試験の終わった開放感から今日はみんな他所へと遊びに出たのだろう。

テーブルの上の夏蜜柑を転がした。
ヒラマサ先輩がくれたのだ。
先輩の祖父母の田舎が夏蜜柑を作っているのだという。
転がされて周囲に夏蜜柑の香気が仄かに漂う。
鮮やかな黄色が疲れ目に眩しい。
軽い深呼吸をして周囲を見回した。

人がまばらの喫茶店が好きだ。
本当言うとウサギも好きだ。
抽選会にだって出たかったのだが、結局気後れして出れなかった。

オレンジジュースが好きだ。
ソーダ水を混ぜるのも好きだ。
夕焼けが好きだ。
人が街を歩くのを見るのが好きだ。
友人たちが好きだ。
学校も好きだ。

それでも心に空虚がある。
この穴を埋めるものが分からない。

僕はオレンジジュースにソーダ水を混ぜてストローで軽く撹拌した。

気泡が上る。
沸々沸々と水面で気泡が弾ける。

気泡と僕たちの類似性は?

僕はオレンジジュースごしに窓ガラスの外の世界を見る。
夕焼けを見る。

手のひらに夏蜜柑。
夕暮れ。
人々。
街。
それからポップ。

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夏蜜柑を貰った。
「田舎で夏蜜柑を作っているんだ」とヒラマサ先輩が言った。
試験が終わった後も、相変わらずあたしは映画研究会に誘われていて、告白された男の子への返事も猶予している。

「夏蜜柑っていつ実がなるか知ってる?」
とヒラマサ先輩が言った。
「夏でしょうか。」とあたしが言った。
「夏蜜柑って言うくらいだし。」

「江戸時代にね、何処からか見たこともない果実が流れ着いたんだよ。海岸にね。きっと南の方から。」

その果実が夏蜜柑であった。漂着した果実の種子を撒いた事から、夏蜜柑の栽培が始まったのだという。
他の蜜柑と同じく夏蜜柑の果実も、夏の終り頃に生って晩秋に色付く。通常の蜜柑はそこで収穫となるが、夏蜜柑はその頃にはまだ酸っぱくて食べられないのだそうだ。そのまま放って越冬させて春になり、夏になり、また新たな夏蜜柑が生る頃に酸味が消えて甘くなる。

だから夏に於いて夏蜜柑の果樹は前年の実と今年の実の両方が生っている。
つまり果実が生るのは前年の夏で、それから一年の歳月をかけて収穫をするのだ、とヒラマサ先輩が言っていた。

ふうん、とあたしは夏蜜柑を受け取って帰り道を歩いている。

この夏蜜柑が実ったのは去年なのね。
去年ってあたし何をしていたかな。

少なくとも去年の今頃は「carbonated water」の訳語が炭酸水である事は知らなかったわ。

何故かあたしは昨晩から大掃除を始めてしまって、睡眠不足のまま受けた地理の試験は、頭脳不明瞭に陥り、頭の中で「carbonated water」というフレーズとラベルのボレロばかりが繰り返されて散々な結果に終わった。

夏蜜柑の香気が仄かに周囲に漂っている。
鮮やかな黄色が目に眩しい。

途中喫茶店にでも寄ろうかと考えた。
アヤコトモコから街場へ遊びに誘われたが寝不足だからと断っていた。

しかし、試験が終わって開放感に満ちている時に、このまま帰るのも惜しい気がする。

あたし達はいつも何かが物足りない。
でもそれが何なのか分からない。

果樹の夏蜜柑は一年をかけて酸味が抜けて糖度を増していく。
来年は何をしているんだろう、あたしは。
誰かの隣にいるのかな。
それともやっぱり一人なのかな。

あのいつもの喫茶店。

あたしは窓際の席に座ってオレンジジュースとソーダ水を混ぜながら、夕暮れの街をコップに透かせて眺めるんだ。

手のひらに夏蜜柑。
夕暮れ。
人々。
街。
それからポップ。

泡の中にあたし達が浮いている。
弾ける泡とあたし達はきっと似ている。

(短編小説「夏蜜柑ポップ」村崎懐炉)

#夏蜜柑 #小説 #ネムキリスペクト #詩人
#炭酸水

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追記。

本小説は今回のアンソロジーにご参加下さったmary ann pianoplayerさんの作品「ないものねだり」に捧げるファンアートです。
(曲のポップなイメージを踏襲したかったのですが、蜜柑虫とかゾンビの話ばかりですみません。一応、私に出来うる限りの爽やか小説を目指して頑張ったんです。)

本小説の読後には是非、曲を聴いてみて下さい。
とても良い曲です。