黄泉平坂墓地太郎事件簿「髪切り鬼」

序「鏡の中」

夜中に起きて暗闇の、化粧台の鏡のわたしと目が合う。わたし。
本当に?
鏡の中のわたしが、にいと笑う。笑ったのはわたし?
わたし、笑ったのかしら。
じょきり、じょきり。これは鋏の音。わたしの指が操る鉄鋏。
わたしの鋏が切ったもの。
鏡の中のわたしが、わたしの髪を切っている。折角伸ばした黒髪を。
じょきり、じょきり。


第一景「公開テレビ捜査のこと」

本日、テレビ公開捜査にご登壇願ったのは……、

事件解決の情熱は誰にも負けません、S区捜査一課の星、ご存知勅使河原鬼一警部。

テレビ画面の中で司会者が紹介すると、無精髭を生やして背広の着崩れたいかつい中年が会釈をした。
更に司会者は出演者を紹介する。

それからS区で霊能探偵としてご活躍する黄泉比良坂探偵事務所の所長、黄泉比良坂墓地太郎さんです。
そう言われてカメラが写したのは身なりの整った若い男と、まだ幼さの残る女学生。
こちらの可愛らしいお嬢様はどなたですか?と、司会者が紹介を受けた若い男に尋ねた。

ええ、助手の方、可愛らしいですね……。それではこちらの下卑て不遜な、いや失礼。野趣溢れる野暮天の、いや失礼。神経の不協和音をかき鳴らす不躾けの男性は。

二人の陰に隠れるように、底意地の悪そうで、陰湿の丸眼鏡の男が立っていた。
え、こちらが黄泉比良坂先生で?
あなたも助手?

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昼間の美容室に幾人かの客が並び、首を差し出している。
美容室「髪切り虫」を営む美容師、上桐切子は並んだ首に鋏を入れてカットをしていく。
馴染みの客たちにとっては平穏の午後である。テレビからは長閑なワイドショウが流れている。
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三年前に起こった新宿区バニーガール殺人事件を皆さん覚えているでしょうか。当時バニーガールであった上山田宇佐美さん、23歳が自宅で殺されているのを同居していた実兄、上山田五十郎さんが発見。自宅に鍵は掛かったままで、争われた形跡も無いことから、犯人は身内である事が疑われ、事情聴取を要請した直後に第一発見者である上山田五十郎さんが失踪。警察は上山田五十郎さんを重要参考人として指名手配を致しました。が、三年間、上山田五十郎さんの行方は知れておりません。上山田宇佐美さんの実兄、上山田五十郎さんはいま何処にいるのでしょうか。本日の番組は生放送でお送りしています。

勅使河原警部、犯人の足取りは?

勅使河原警部と呼ばれたいかつい男が其れに答える。
「警察も犯人を追ってきましたが、犯人の所在を知る手がかりは何もありません。捜査は困難を極めます。もし、このような如何わしい輩が犯人の行方を知れるなら、警察は不要だ」

個人的に恨みがあるのか、敵意を曝露して勅使河原警部は探偵の一向を睨みつけた。探偵の助手はその敵意を苦笑いで交わした。

「フホ」
彼らの背後に隠れる探偵本人は、警部の苛立ちを冷笑した。
人の神経を逆撫でする態度だ。警部と、探偵の交差する視線に火花が散る。

司会者は喋る。
数多の難事件を解決してきたという霊能力で、犯人の手がかりを探りたいと思います。
スタジオは照明が落ちて薄暗くなった。助手を名乗る少女にスポットライトが当たる。
美しい黒髪だ。上桐切子は思った。商売柄、髪質に目がいく。
テレビ画面の少女は椅子に座り目隠しをされた。霊能探偵の助手を名乗る若い男が少女の耳元で呪言を唱える。暫く後に少女に変化が見られた。
眉根に皺が寄り少し呻き、諤々と脱力した。昏倒したようだった。
醜男の探偵が少女に名を尋ねた。スタジオの照明が赤く染まった。ドライアイスの白煙が周囲を覆う。

安っぽい月並みな演出だ。上桐切子は思う。そのように思いながらもチャンネルは変えない。

少女が名前を答えた。死んだバニーガールの名前であった。スタジオの観客から短い悲鳴が上がった。
「会場騒然!バニーガールの霊が……!!」
テロップが入った。

そして。
CM。

「みんなで旅行に行こう!」
温泉に入った美女が笑っている。温泉大好き。山海の恵み爆発、Q県Z村HG温泉郷。


そして。
スタジオの観客から短い悲鳴が上がった。
「会場騒然!バニーガールの霊が……!!」
テロップが入った。
CMの最中に、少女には兎耳が付けられていた。無駄な演出だ、と美容室髪切虫の常連にして現在はパーマネントの途中の桜田さんが言った。

「生年月日は?」
「〇年〇月×日……」
カメラは勅使河原警部のアップに切り替わった。彼の片眉が上がった。正解らしい。
「ご両親の名前は?」
「〇〇と〇〇……」 
これも正解であるらしかった。
「新しいお父さんは〇〇……」
勅使河原警部の眉根がまた動いた。

「上山田五十郎さんを知っていますか?」
犯人と目される男、バニーガールの実兄の名前である。
「知っています」
「あなたのお兄さんですか?」
「そうです」
「何処にいるか、ご存知ないですか?」
「知っています」
「知っている?」
「はい」
スタジオが不穏にざわめいた。
「スタジオが騒然としています。犯人の居場所が霊によって語られようとしています。」小声で司会者が中継した。
「何処にいますか」
「Q県Z村……HG温泉郷……」
またスタジオがざわめいた。先程見たCM?奇しくも犯人は番組スポンサーである観光温泉にいると言う。
「Q県Z村HG温泉です、霊がHG温泉の名前を口にしました。」
司会者が声を顰めて言った。
「果たして本当に霊が語っているのか、我々には確かめる術がありません。しかし、確かに少女は質問に答えています。」

「あなたを殺したお兄さんはQ県にいる?」
「いいえ」
少女、に憑依したバニーガールは首を振った。
「兄は私を殺していない」
と、少女に憑依したバニーガールは言った。
「そんな馬鹿な!」
勅使河原警部が言った。
「犯人はあなたの実兄、上山田五十郎で間違いない!」
「いいえ」
バニーガールの霊魂は言った。
「じゃあ、貴女を殺したのは誰だと言うんです」
「わたし」
「あなた?」
「わたし、自殺したんです」
とバニーガールの霊魂は言った。
「嘘だ!」
尚も、勅使河原警部は反論する。
司会者が彼を宥めた。
「落ち着いて下さい、本人がそう言ってるんですから」
「本人では、無い!」
とうとう勅使河原警部は怒鳴った。
「似非霊媒師のペテンだ!そもそも、自殺で済むような現場では無かッた…!」
「どう言う事ですか?」
「言わん…!」
捜査の件は口外出来ないようだった。
「わたしは食卓の椅子に座り、身体中を包丁で刺突して死にました」
霊魂は語った。
勅使河原警部の顔つきが変わった。どうやらそれも真実らしい。
「そしてわたしの首は切り離されて今も見つかっておりません」
霊魂は語る。
「何故…其れをッ…!」
「本人ですから……」
とバニーガールの霊は言った。

自殺した人間が自分の生首を切り離して、何処かに隠すなど出来る筈が無い。それが勅使河原警部の主張である。だから、自殺の筈がない。

「でも、本人ですから」
と、バニーガールの霊魂は語る。
「暴論だ!」
勅使河原警部は叫んだ、所に再びテロップ。
「三年前の殺人事件は自殺だった!?まさかの事件解決か!」

CM。
「名物は鯨と猪料理!」
浴衣の美女がご馳走を前に笑っている。
日本一のマグネシウム温泉。
マグネシウムならQ県Z村HG温泉郷へ!

「暴論だ!」
勅使河原警部は叫んだ、所に再びテロップ。
「三年前の殺人事件は自殺だった!?まさかの事件解決か!」

「フホッ…!」
助手に隠れた探偵が笑う。
「何が可笑しい…!」
勅使河原警部が探偵に噛み付く。
「警察の捜査もザルでございますナ。」
「貴様、何処まで馬鹿にすれば気が済むんだ!」
「喋っているのは吾輩では御座いますまい」
探偵は何もしていない。ただ、少女が語っているだけだ。
「ぐ…う……ッッ…!」
勅使河原警部が唸った。
彼奴が出て来ると、「いつも」そうだ。単純明快な事件の筈が、次第に真実の糸が縺れあい、解れぬ糸玉になって捜査はひとつも前進しなくなる。
混乱の星を持つ男、迷宮探偵。それが彼奴だ。勅使河原鬼一は心底、彼奴、霊能探偵黄泉比良坂墓地太郎が嫌いだ。

「自分で身体中を滅多刺しなんて出来るか!」
「出来ましたよ?」

「死んだ人間が自分の首を隠せるか!」
例え、霊魂本人が自殺と言おうと其れだけは不可能である。
「でも」
「でも?」
「出来ちゃったので!」
霊魂は躍起に言い張った。
「自殺した後に首を切断して隠しました!」
「じゃあ一体何処に隠したんだ!」
「内緒です!」

納得出来るか!
視聴者であれば誰もが同じ思いだったろう。
番組がそれらしく演出を加えたが、これは降霊と称して女子高生に兎耳を着けて、それらしい事を言わせているだけにしか見えない。それが看破されて、論理が破綻したながら力づくで自分は霊だと言い張っている。見るも無惨。

そもそも、犯人がいると指摘したQ県Z村HG温泉郷は番組スポンサーである。子供の浅知恵でスポンサーのご機嫌取りで名前を出したに過ぎないのでは無いか。
「自分で首を切りました!」
女子高生がヒステリックに叫んだ。
「大変な状況です!」司会は言った。女学生が「自殺して自分で首を切断し、隠したと主張。疑わしい限りですが、誰にも止める事は出来ません。これは生放送です。スタジオが混沌としています!」

「大変です!」
番組スタッフが司会の元に駆け込んだ。原稿を渡す。それを見て驚愕する司会者。
「いま、Q県Z村HG温泉で…!上山田五十郎が駐在に出頭し、自供を始めました!Q県Z村です。少女が、先程指摘した場所で、犯人が見つかりました!」

「嘘よ……ッッ…!」
バニーガールが叫んだ!
「わたしは自殺よ……ッッ…!」

スタジオ騒然!?出頭し自供を開始した犯人と、自殺したと言い張るバニーガール。混乱する公開捜査、真実は何方に!?

残念ですが、本番組は生放送です!ここで番組の枠が来てしまいました。皆さん、事態は全く想定が出来ない珍事と化しています!しかし、ここで、お別れです!

再びCMはQ県Z村HG温泉郷。HG温泉郷名物、獲れたて猪解体ショーは夏休み期間、毎日実施中!


「なんだかねえ…」とパーマネントの途中の桜田さんがため息をついた。
茶番だ。ワイドショウにありがちな、それなりの。
「近所の評判も悪いみたいなのよ、この人達」と桜田さんが言った。
「ご存知なんですか?」
「確かこの近くよ、この人達のいるところ」
場所を確認すると歩いていける距離だ。そんな近くにこのような如何わしい人間たちがいたなんて、街というものはつくづく不思議だ。

テレビでは14時55分の地方ニュースが始まった。
「髪切り魔の被害が相次ぐ」
街中でいつの間にか髪を切られていた、という被害報告がS区で相次いでいます。

髪を切られた、という少女がインタビューに答えていた。
「髪を背中まで伸ばしていたんですけれど、気が付いた時には後ろ髪をバッサリ。ええ、全然気が付かなくて。」
少女の後頭部が刈り上げられてベリーショートに整えられていた。
「物騒ねえ」
パーマネントの途中の唐沢さんが言った。
「そうねえ」
パーマネントの途中の桜田さんが言った。

この数日、S区には髪切り事件が横行している。とニュースでアナウンサーが語る。

第二景「洒落神戸毒路丸探偵と無自覚殺人事件」

「髪切り」という妖怪がいたんだよ。と、有能探偵、洒落神戸毒路丸が言った。
「髪切り」、ですか。
黄泉比良坂探偵事務所に勤めて一切を取り仕切っている助手、人三化七猫之助が言った。
江戸時代に武士や下女が被害に遭ったそうだよ。明和8年に江戸、大阪では髪切り事件が多発し江戸では修験者が、大阪ではかつら屋が処罰をされている。犯人が見つからないので、目に見える形で処罰者を出して事件を治めようとしたらしい。修験者などが「髪切りを防ぐ魔除札」を売り歩いたという話もあるので妖怪の仕業と考えた人もいたのでしょう。

「妖怪というより、人間の仕業に思えますね」
「人間の仕業かもしれないね」
「武士は髷が命、髪は女の命。と言われたように髪は体裁そのものだ。私憤、怨恨から私闘によって髷を落とす武士もいたかもしれない。痴情のもつれで髪を切られる嫌がらせを受けた女性もいるかもしれない。武士が私闘によって髷が落ちれば切腹だ。生娘が痴情のもつれで何となれば里帰り。いまのように髪型が自由の時代ではないからね。妖怪とは言わないまでも怪異の所為にしてしまうこともあったのでしょう、とそんな話が幕末、大正の実業家鹿島万兵衛の著作『江戸の夕栄』の中で語られます。」
「嘘、ごまかしが妖怪を生むんですね。」
「痴情が原因となるので髪切りの怪異は都市部でしか起こらない、と語られていて面白いですよね。その他にも日本のみならず世界中で髪切り事件は多発しているんです。現代でも毎年髪切り事件が発生して逮捕者がでます。現代の髪切り事件は髪に執着する特殊性癖の人間が起こす事が多いですね」
「特殊性癖ですか?」
猫之助には理解出来ない世界だ。だが、彼の奉戴する迷惑探偵なら十二分に人間性を拗らせているので、理解が及ぶのかもしれない。
「吾輩にも分からんよ」
その人間性を十二分に拗らせた迷惑探偵は言った。
「黄泉比良坂先生なら分かるかと思いましたが」と洒落神戸探偵は言った。
眼光から陰湿の陰の抜けない迷惑探偵は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「昔から毛髪に性欲を感じるトリコフィリアと呼ばれる連中はいるそうだな。ネットで検索しても幾つかマニアを集めるサイトが出てくる。歪んだ特殊性癖が如何にも薄暗い世界だがね。」
「見るかね?」迷惑探偵が助手に尋ねた。
「いえ、いえ」助手は慌てて首を振った。その方面に明るくない助手にもアンダーグラウンドの後暗さは想像が付く。
三人が喋る中、黄泉比良坂探偵事務所の建付けの悪い木造扉がギイと開いた。
入って来たのはS区警察署捜査一課の勅使河原鬼一警部である。
「先日はどうも」
人三化七猫之助が挨拶をした。S区バニーガール殺人事件のテレビ公開捜査の生放送で同席した間柄である。

黄泉比良坂探偵事務所に出入りする霊媒少女、夜蝶アゲハの力を借り、被害者の霊を降霊させ、有力な手がかりを得られるかに見えたが、霊が語る事が支離滅裂で、また犯人が番組途中で自首するという想定外の事態もあり、公開捜査は収拾のつかない混乱に陥った。生放送ではその混乱に対処出来ず、開局以来のの放送事故として噴飯の扱いを受けた。黄泉比良坂探偵事務所も、警察も。

「貴様が出て来ると滅茶苦茶になるんだよ」
勅使河原警部は冷ややかな視線を奥の男に向けた。
「お前が呼んだ霊が嘘ばかりついて」
墓地太郎が降霊した被害者の霊は、被害者を殺害した犯人、実兄を死後も愛していた。罪を庇うため、自殺をしたと嘘をついていたのだ。
「Z村に犯人がいることを当てたのは吾輩ぞよ。それで犯人が自首したのだ。事件解決は吾輩の手柄だ。」
奥に座る男は再た、不愉快そうに鼻を鳴らすのであった。

「それで、警察が吾輩に捜査協力とは如何なる了見かお聞かせ願おう」
黄泉比良坂探偵事務所の所長、黄泉比良坂墓地太郎は言った。
「警察が捜査協力を頼んだのは洒落神戸先生だ。お前じゃないよ」
「その洒落神戸君が吾輩に協力を頼むんだ。警察が頼むのと変わらないじゃないか。きっちり頭を下げ給え」
勅使河原警部の顔が怒気に紅潮した。

「すみません」
助手の猫之助が謝った。
「いや……」
勅使河原警部は溜まった怒気を溜息に変えて祓った。彼奴の論法をまともに相手するなど大人気ない事であった。
「分かれば良いのだ、警部君」
黄泉比良坂墓地太郎が言った。
再び勅使河原警部の顔が赤く染まった。警部の前額に太い血管が浮いた。
「マアマア」
洒落神戸探偵が勅使河原警部を宥めた。
勅使河原警部は洒落神戸達に事件の概要を説明した。
「先の公開捜査とも関係しています。バニーガール殺人事件の犯人上山田五十郎はZ村の駐在で自供を始めましたが、内容は一貫性が無く支離滅裂。」
「どういう事ですか?」
「覚えてないのですよ、自身の犯行について」
「我々はこれを無自覚殺人事件と命名した」
「無自覚殺人事件……?」
「そう」
この数ヶ月の間に上がった死体は五つある。捜査で状況証拠を集めて犯人を逮捕する。しかし、捕まえた犯人が事件に関する記憶が無い。だから殺した自覚が無い。
「それなら犯人じゃ無いんじゃ」

勅使河原警部は暗くした部屋の壁にモバイル端末のプロジェクター機能を使って動画を映し出した。そこには取り調べを受ける容疑者の姿があった。
「*7-:&*7 さんが亡くなった事をご存知ですか?」
「?いや……?」
「あなたの恋人ですよね……?」
「最近は会ってません。連絡が無いので心配しています」
「あなたが殺したのでは?」
「私が?何故?」

勅使河原警部は一度動画を停めた。
「どう思う?」
「嘘は言ってない」
明察の推理に定評のある洒落神戸探偵は言った。
確かに、嘘は言っていないように見える。黄泉比良坂探偵事務所の助手、人三化七猫之助は思う。其れなら、矢張り犯人では無い。

次の映像は先程の容疑者が街角で恋人らしき女性と腕を組んで歩く姿を防犯カメラが捉えたものだった。
ふと、容疑者が女性から離れ、取り出した包丁で女性を滅多刺し、倒れた女性の頭部を切り落として持ち去った。
突然のことに周囲の通行人が悲鳴を上げて、人が輪となって首の無い死体を囲んだ。

映像は逆再生されて、防犯カメラの容疑者の顔のアップと取り調べ室の男の顔と比較された。
同じ人物。


「目撃者もいて、確たる証拠もある」
だが、殺した本人が全く覚えていない。
「この場合、どうなるんですか?」猫之助は尋ねた。
「心神喪失で責任能力が問えず、起訴出来ない」
勅使河原警部は言った。
「……場合もあれば無理矢理供述書をまとめる場合もある」

「嫌だね、官憲は」
墓地太郎が冷笑した。

殺した人間が本当の犯人なのか、殺すよう操る人間がいるのか。
もしも、人を操って殺人させることができる人間がいるとすれば、本当の犯人はその者だ。
実行犯をいくら逮捕しても、黒幕を逮捕しない限り事件は終わらない。

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勅使河原警部、洒落神戸探偵との合同打ち合わせが終わり、人三化七猫之助は黄泉比良坂探偵事務所の入る雑居ビルの屋上に上がった。
夕方の風が涼しくなった。風がそよ、と猫之助の頬を撫でる。その上空を、風の速度で雲が流れた。
高層ビルと雑居ビル、タワーマンション。多くの人間たちが密集して暮らしている。壁で区切られていたとして、5メートルも離れず、見知らぬ人間が暮らしている。異常な人口密集だ、と猫之助は思うが猫之助自身もすっかり其れに慣れてしまった。
無自覚殺人。
平凡で平穏の生活が或る日、血の惨劇に変わる。
もしかしたらそれは、明日のわが身にも起こる事かもしれない。
壁を隔てたすぐ其処に、忘れ去られた死体が転がっているかもしれない。
マンションの各戸に死体が転がっている。そんな想像を、猫之助はした。

第三景 「閑古鳥の鳴く黄泉平坂探偵事務所に客が現ること」

テレビの公開捜査で愚図愚図の展開になり、生き恥を晒した黄泉比良坂探偵事務所は益々客が遠ざかり、今日も閑古鳥が啼いている。
猫之助は窓際の日向でうつらうつらと昼寝をしている。
墓地太郎は机のPCで動画を見ている。
「ギイ」
木扉が開いて現れたのは制服を着た女子学生である。
「なんだ」墓地太郎はつまらなそうに言った。
「なんだ、とは何よ」女子高生は言った。
「客かと思ったじゃないか」
「墓地太郎は相変わらず、景気の悪い人相ね」
と、女学生。性格が捻じれた墓地太郎に憎まれ口とは肝が据わっている。
「帰れ帰れ、お前に出す茶なんて無いぞ。」と墓地太郎は掌を返す。
「何せ吾輩の事務所は景気が悪いからな」
邪険にされても女子高生は帰らない。
「猫さんは?」日向で昼寝をしている猫之助を起こす。
「ああ、アゲハちゃん」猫之助は掌で目を擦った。

「聞いてよ、猫さん。墓地太郎が相変わらず最低なのよ」
この女学生は先日のテレビで黄泉比良坂探偵事務所の助手として紹介された霊媒少女、夜蝶アゲハである。

「それはまあ、」以前から、と言いかけて猫之助は口を噤んだ。彼には分別がある。
「先生はお仕事の最中だから」
と女子高生に言ってきかせる。
「変な動画ばっかり見てる癖に」
「先生のアレも仕事だから……」
「何の動画を観てるのか言ってみなさいよ」
「髪フェチ動画だ」と墓地太郎は言った。
「変態!」

夜蝶アゲハの後から、一人の女性が事務所に入った。
「髪フェチ動画……」
長い黒髪の、まさにフェティッシュな。
トリコマニア垂涎の女性である。
と、猫之助は思った。そして、同時に不味い、と思う。このような女性が来ると、例の如く。猫之助の背後にいつの間にか、黄泉比良坂墓地太郎がいる。机に座って怪しい動画鑑賞をしていた筈なのに、妖怪じみて素早い。猫之助の背後でぶつぶつと何事かを呟いているが、決してロクでもない発言であろうから、敢えて聞かない。

「黄泉比良坂、先生でございますか?」女性は言った。
「ああ、僕は助手の……」と猫之助は釈明をしようとした。
当該事務所の探偵は人見知りで、大抵初対面の人間の前では猫之助の背後に隠れている。依頼人は猫之助(身なりがしっかりして清潔そうな)を探偵と思い込むことが多いのだ。
「存じてます」
と女性は言った。
「この前のテレビを見たそうなのよ」とアゲハが言った。
「ああ、」と猫之助は合点した。
「それは、とんだお目汚しを」

「おっぱいのサイズを聞け」
猫之助の背後で墓地太郎が言った。墓地太郎は凡そ社交性に関わる能力が皆無である。その為、見知らぬ人に直接話をする事は出来ない。だが、それはある意味幸いである。社交性の無い墓地太郎は口を開けば災いを呼ぶ。
今も猫之助の背後で頻りと女性の乳房のサイズを聞くよう呟いている。彼にとっては気さくな世間話のつもりなのだ。それを猫之助は懸命に聞こえない振りをする。だが、ここに墓地太郎のもう1つ残念な能力が付け加わる。人と話慣れていない彼は、声量の調整が上手でない。
その為、当人に聞こえないよう声音を弱めて話をしているつもりが、無用に声量が強まって、相手に筒抜ける。そのような悪癖がある。
つまり、墓地太郎が猫之助に頻りと女性のおっぱいのサイズは何だと呟いている事は、女性にも丸聞こえである。
猫之助は何とか女性が墓地太郎の声を聞かぬよう、何やかやと時候の挨拶を述べている。が、猫之助が自分の話を聞いてくれぬと、墓地太郎もまた躍起となって声量は益々大きく。

「つまり、あなたの姉の行方を探して欲しい、と」
「そうです」
依頼人は近郷で美容室を営む上桐切子と名乗った。
一緒に美容師をしていた双子の姉がいたが、一年前に行方不明となっている。

「テレビで拝見した先生のお力なら」
と上桐切子は言うのであった。
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第四景 「切子の夢」

上桐切子は深夜の、他に誰も無い美容室の鏡に囲まれていた。
鏡はドロステを生み出して鏡面世界は奥へ奥へ続いている。
上桐切子の視点が無限回廊の奥へと進む。どの鏡世界にも上桐切子と同じ顔が並んでいるが、最も奥にいる鏡像だけが違う顔。
「姉を探しているの」切子は言った。
「姉を探しているの」最奥の鏡像は言った。
眼球が落窪み死体のようだ。肌は土気色をしているのに口の中だけが赤い。赤い口の鏡像が「わたし」を見据えた。

コロり。
鏡像の首が落ちる。

他の鏡像の首も落ち始めた。
コロり、コロり、鏡像世界が噴出する血液で赤く染まる。
鏡から鏡を渡って鉄鋏を持ったわたしと同じ顔の人間がやってくる。
鏡像の首を切り落としながら。私を目掛けてやってくる。

ア、

斬られる……。
逃げようとして切子は後ろを振り向いた。

じょきり、
鉄鋏の断つ音が聞こえた。

上桐切子は目を覚ました。
夢だ。
切子は胸元を拭った。全身に汗をかいている。夢で良かった。

パサ、

と何かが布団の上に落ちた。
灯りを点けると布団の上に零れたものは、上桐切子の髪束である。
切子は思わず戦慄っとした。自らの手が、握っているもの。
それは夢の中で見た鉄鋏である。
何故、鋏が寝所に。
不気味の連続に、切子は冷たい汗を流した。

「ギャアーーーッッ…ーー!!」

外から、おぞましい悲鳴が聞こえた。


第五景 「閑古鳥の鳴く黄泉平坂探偵事務所に客が現ること、その後」

「テレビで拝見した先生のお力なら」と上桐切子は言うのであった。
「それはつまり?」猫之助が尋ねた。
「お姉さんと交霊したいと言うことですか?」
「はい」上桐切子は言った。

「お姉さんは死んでいる?」
「恐らく、そして姉の霊は私を殺そうとしています。」
「ブラジャーのサイズを聞いてくれ」墓地太郎が言った。
「どう言う事ですか?」猫之助が尋ねた。
「だからEカップくらいあるんじゃないか、と言う事だよ」墓地太郎が言った。
「夢を見るんです」上桐切子が言った。夢の中では姉は鏡の中に住んでいて、いつも私を殺そうと。
「夢、ですよね?単なる」

「違うかも、しれません」
「というと?」
「昨日、姉に襲われる夢を見て、起きたらわたしの髪が切られていました。」
「ほう」
「それから外で大きな叫び声が」
すぐ外で、女子大生が殺されていた。刃物で滅多刺しされた後に断首されて。

「私、このままでは本当に殺されてしまう」
このまま夢を見続けると私は死んでしまう気がします。
「もしかしたらFカップはあるかもしれないぞ」墓地太郎は言った。
「分かりました」猫之助は言った。
「分かったの?」墓地太郎は言った。

「夜蝶アゲハちゃんは霊媒体質で、あなたのお姉さんをアゲハちゃんの中に呼んでみます。」
説明の後、猫之助はアゲハを椅子に座らせた。アゲハの目を黒布で覆う。そして上桐切子の双子の姉、上桐初子を呼ぼうとした。アゲハの眉根に皺が寄り、アゲハが軽く振戦した。

「げ…え……」
アゲハが苦しそうにえずいた。

「上桐初子さん?」と猫之助は尋ねた。

「いいえ……」
アゲハは、アゲハに宿った霊魂は言った。
「上桐初子さんは私の恋人の妹の友達が通う美容室……」
なんですって?
「上桐初子さんは私の恋人の妹の友達が通う美容室……」
上桐初子を呼ぶつもりが、ずいぶん複雑な関係の霊が出てきてしまった。
恋人?妹?友達?関係性が理解しがたい。

「あなたのお名前を教えてください」
猫之助が尋ねた。
「外道達夫」
と、霊魂が言った。

猫之助は上桐切子に尋ねた。
「お姉さんとは別の方が降霊したようです。お姉さんの事は知っているようですが。外道達夫さん、この名前を知っていますか?」

「誰……?」
上桐切子は言った。

外道達夫にとって上桐切子は恋人の、妹の、友達が通う美容室の美容師である。つまり、上桐初子にとってはお客の友人の姉にあたる人物の恋人???

降霊術を試みて、別の霊が降りる事もあるにはある。だが、それにしても縁が遠過ぎる。いや、最早他人と言っても過言でない。何故、この霊は出て来たのだろう?

「上桐初子は死んだ」
アゲハ、に憑依した霊の口が開いた。
「死んで彼女は悪霊になってしまった」

「待て、どう言う事だ。何故、あなたがそれを知っている?」
猫之助は霊に尋ねた。
「姉の霊は何処にいるの?」同時に切子も霊に尋ねた。
霊は切子に質問にのみ答えた。

「Q県Z村HG温泉郷……」
そう言って霊は消えた。

「Q県Z村HG温泉郷……」
切子の目が猫之助を見据える。
「本当……?」

疑われるのも仕方無かった。
得られた情報が少な過ぎる。それに、出てきた地名が悪い。Q県Z村HG温泉郷は、先の番組スポンサーで、霊の依代となったアゲハが番組の中で連発した地名だ。僕たちがQ県Z村HG温泉郷から宣伝料でも貰っているのではないかと疑われても詮無い。
猫之助は苦々しく思った。
だが猫之助にとって、この結果はアゲハの「出任せ」ではない。猫之助はアゲハの霊媒が本物である事を知っている。だが、クライアントにそれを信じて頂くには途轍もなく塩梅が悪い。

「本当です」
逡巡はさておき、猫之助は切子に言った。
「デートを申し込んでくれ」
墓地太郎が言ったが、猫之助は無視をした。
「行くわ」
切子が言った。

「姉に会いに」
切子の姉が出る夢に怯え、何もせずにいるよりも、姉の御縁を追って真実を知る方が良い。と、切子は思った。
「デートに?」
墓地太郎は言った。
猫之助は無視をした。

第六景「一行がQ県Z村HG温泉に行くこと」

Q県Z村は墓地太郎達が居所するS区からは特急で1時間半、バスで30分ほどの旅程になる。
上桐切子に頼まれて猫之助はQ県Z村HG温泉郷に同行する事になった。切子と猫之助は特急席に並んで座った。猫之助が切子の荷物を荷台に上げた。「ありがとう」切子が言った。
「いえ」猫之助が言った。
「吾輩の荷物も頼む」その隣に座った墓地太郎が言った。
「私たちの分も」その背後に座った夜蝶アゲハとその学友、紬屋凛子と響子の姉妹が言った。
先日の探偵事務所で切子はアゲハと猫之助に同行を依頼した。
だが、当日になったら何故か墓地太郎が付いてきてしまった。
「この人の経費は要りませんから」猫之助が言った。
「吾輩が行かなくてどうする」墓地太郎が言った。

後部座席ではアゲハ達がトランプを始めた。
アゲハの友人紬屋凛子姉妹の親戚がQ県Z村HG温泉郷に旅館を営んでいるというので、アゲハ達は夏休み旅行も兼ねて同行すると言う。
特急は鉄輪を軋ませながら、緩やかに出発した。
「猪の解体ショーが名物なんだよ!」
紬屋凛子の妹の小学生紬屋響子が言った。

Q県Z村HG温泉郷は六町程の広さの村落に大小様々の温泉旅館が六十軒並ぶ観光村である。村民は約三千人。労働人口の半分が農林水産業に従事し、残りの半分が旅館の従業員である。一時は温泉マニアがオススメする温泉郷ベストテンに入る程の人気を得たスポットであったが、近年の衰退は著しく、廃墟になってしまった旅館も少なからずある。観光名所は落差百十メートルの大瀑布と、滝面の上辺に祀られた天狗神社。それから緩やかな弧を描く赤砂海岸。

その温泉郷にある老舗旅館「紬屋」に宿を取り、上桐切子はひとり露天風呂に浸かっている。
こんな所まで来てしまった。
近所でも評判の似非霊能者に誘われて二時間の旅程をかけてQ県Z村まで。

温泉に入って上桐切子は冷静に考えた。

本当に姉の霊が此処にいるのだろうか。真っ当な感覚では信じられない、だが切子の状況は真っ当でない。髪切りの怪異に遭遇しているのだ。初子の夢はやがて本当に自分の首を切り落とすだろう。次は髪では済まないかもしれない、と考えると恐ろしかった。
露天風呂から月が見える。旅館の脇を流れる渓谷がどうどうと音を立てる。月影が森の輪郭を象っていた。その森と空の境界を蝙蝠が飛ぶ。

蝙蝠。
熱病患者が夢遊病に侵されるように、訳の分からないまま、このような僻村に来てしまった。のぼせて身体が火照る。上桐切子は立って露天風呂を囲む岩に腰掛けた。上桐切子の肌から玉となって湯が滴る。

イソップ物語に出て来るコウモリは鳥と動物が争いをした時に、ある時は自分は鳥だと訴え、ある時はそれを翻して自らが獣だと訴える。最終的に鳥からも獣からも相手にされなくなる。鳥でも獣でもある蝙蝠は、鳥でも獣でも無い。
日本にイソップ物語を紹介した「伊曽保物語」の同話では、蝙蝠が獣族に翻意した事を鷲将軍が非難し、合戦が和睦した後も蝙蝠は、白日の下での活動を禁じられ、鳥族との交わりも絶たれた。それまで蝙蝠は鳥族の翼を持っていたが、それも剥奪されて下賎の翼に替えられてしまう。
オーストラリアの昔話にはこれによく似た話がある。鳥と獣が戦争をした時に、蝙蝠は鳥でも獣でもないため、嫌われて洞窟に隠れて暮らした。その後に、いつまでも仲違いをする鳥獣達に愛想をつかした太陽が天球に昇ることを止めてしまった。困った鳥獣たちは洞窟で隠遁する蝙蝠に頼むと、蝙蝠は天に向かって三回ブーメランを放ち、雲の中に隠れていた太陽を見つける。オーストラリアで薄暮に活発になる動物は少ない事から、日蝕神話では太陽を探し出す英雄の役を与えられたのだろう。英雄と叛臣にもなるトリックスター。矛盾の存在。

姉は意地悪い所があって、友人は少なかった。だが、私にはとても優しくしてくれた。行方不明になった理由も、死んだ原因も私は何も知らない。行方不明になった姉が死んだのか。殺された姉が行方不明とされたのか。真実は蝙蝠のようにわたしを翻弄している。

姉は何処にいるのだろうか。姉がQ県Z村HG温泉郷に縁があるなどと聞いた事がない。切子にしても初めて来る土地である。
アゲハが呼び出した霊、外道達夫を名乗る姉の?友達の姉妹の恋人に再び尋ねる必要がある。
切子は湯から上がった。
風が吹いて、切子の裸体を冷やした。

第七景「二回目の降霊会」

二回目の降霊会は旅館の夕食の後に行われる事になったが、夕食は女将の親戚の御学友一行が来館したとの事で盛大な歓待を受けることになった。紬屋は泉質と料理自慢の老舗旅館である。

「叔母さんにはなんて言ったの?」
アゲハは学友、当旅館女将の姪である紬屋凛子に尋ねた。

いま紬屋を訪れたのは姪御二人とその学友、その学友がアルバイトしている霊能探偵事務所とその依頼人……。

詰まる所は怪訝で胡乱で奇々怪々の御一行である。
墓地太郎らの素性を正直に伝えて、斯様な歓待を受けるとは思われない。

「ああ、部活の合宿って嘘言っちゃった」
風呂上がりで旅館の色浴衣を着た紬屋凛子は飄々と云った。

嘘。
夜蝶アゲハは驚いた。
そのようなあからさまな嘘をつく人間がいるものか。
「みんな、そうだよ」紬屋凛子は言った。

「ちなみに部活の名前は受験勉強部」

そうとなると、この霊能探偵とその助手、その依頼人と霊感少女以下学友からなる団体は、女将の目に受験勉強に勤しむ少女三人と、引率する受験エキスパート三人に見えている事になる。夜蝶アゲハは目眩がした。嘘が発覚してしまったらどうしよう!

「先生、この度はよろしくお願いします」女将が言った。
「ああ、先生はこちら」と猫之助がいつもの通り墓地太郎を紹介した。
今はお前も先生役なんだよ、と夜蝶アゲハは生肝の潰れる思いで、その遣り取りを見ている。

「何でも優秀な先生との事で」女将が言った。
「フホ」褒められて墓地太郎の顔が緩む。
「吾輩の手にかかれば解けぬ問題など御座いませんよ」
墓地太郎は鼻の穴を広げて言った。
「心強いですわねえ」
と、運良く会話が成立しているが、いつ破綻するのか考えるだに恐ろしい。
崖上の綱渡りよりも危うい均衡である。

事前に状況を知っていれば、猫之助と口裏を合わせる事も出来たのに。紬屋凛子は久々に味わう山海の幸尽くしの御膳に舌づつみを打っている。その横で紬屋響子もまた舌鼓を売っている。生き胆を潰しているアゲハとは対照にすっかり親戚宅でくつろぐ気楽な姉妹だ。

誰の所為でこうなっていると思ってる。
夜蝶アゲハはいま、奇矯の状況に巻き込まれて、精神を削りながら窮乏しているのが自分だけだと知った。損な性分だ。

「アゲハさんも優秀なんですって?」女将が言った。
「あたし?」
「凛子が言ってましたよ」
「アゲハちゃんは凄いんだよ」
旅館の姪御、紬屋凛子が天真爛漫に言った。
夜蝶アゲハの学力は中の中。紬屋凛子は学年の上位グループ。少なくとも紬屋凛子がアゲハの学力を凄いと言っている訳ではない。

「アゲハちゃんは霊感が凄いから」猫之助が言った。
一般人に霊感とか言わないで!
霊媒少女とか言うと女将が引いてしまう!
「左様、インスピレーションですな」
墓地太郎が相槌を打った。
「ああ、インスピレーション。」
と女将が納得している。
天才は99%の努力と1%の……的な言葉と勘違いしている。

「吾輩が育てたのですよ」
「それではウチの凛子と響子にも是非ご教授を」
「ふほほ、御意御意」
お願いだからその話題はそろそろ止めて!
このままではオカルト指南の話になってしまう。

「早速この後にやるんだよ」
アゲハの心労も厭わず紬屋響子が言った。
この後に行われるのは降霊会である。
この集団は受験勉強部などではないのだから。
「まあ、こんな初日から。熱心ですわねえ」
この集団が受験勉強部だと思っている女将さんは上機嫌に微笑んだ。

「さあ、それではHG温泉郷名物、恒例の猪解体ショウ!」
襖が開くと天井から逆さに吊られた猪が下がっている。
既に血抜きが終わったらしく畳の上に敷かれたビニールシートには血溜まりが出来ている。
鉈を持った狩人が控えている。
「それでは解体しちゃいまショー!」
リズミカルな南国音楽が流れた。
鉈で猪の皮が器用に剥がされていく。名人芸だ。これなら名物になる理由も分かる。
皮を剥いだら、今度は鉈で腹を割く。
内臓が零れ落ちた。
生鮮に対して拍手が起こる。
内臓を丁寧に掻き出す作業中に、狩人の手が止まった。
そして、狩人は鉈を振り回し突然墓地太郎に襲いかかる。

「ひぃぃ」
頓狂の声を墓地太郎が上げた。
「先生!」
猫之助が間に入って、凶刃を止める。そして猟友会を取り押さえる事に成功した。
取り押さえられた猟友会は暫く凶暴であったが、直きに昏倒してしまった。
そして目が覚めれば鉈を振るって墓地太郎に襲いかかった記憶が無い。
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一行の宿泊は三室に分かれる。墓地太郎と猫之助の部屋。上桐切子の部屋。アゲハ達の四人部屋。

二回目の降霊会はアゲハ達の部屋で行われた。
アゲハは降霊を試みる前に部屋の中を見回した。
一同が浴衣を着ている。
紬屋で貸し出されるのは色浴衣で、多種多様の柄の中から選ぶ事ができる。アゲハの学友である紬屋凛子、響子姉妹はうら若い乙女らしいパステル調。上桐切子は大人びた深い赤紅。
上桐切子の成熟した肉体が色浴衣に艶と映える。
学友の乙女らはこれから眼前に起こる怪奇現象への期待に胸を膨らませて昂奮している。墓地太郎は女将に進められた日本酒に酔いが回って弛緩している。
様子は温泉旅館の宴会の二次会そのものである。このような浮ついた雰囲気でまともな降霊ができるんだろうか?

行燈に火が点いた。円座が組まれた中心にアゲハが座す。

これより外道達夫氏をお呼びする降霊会を行いたいと思います。
人三化七猫之助が厳かに言った。

いつものように、後ろにいる猫之助が耳元で呪言を唱える。目を塞がれたアゲハは其れを聞いている。猫之助の声が遠のいていく、やがてアゲハは正体を無くし、蒙昧の中を漂う。霊魂を受け入れる器となる……筈であったが、今晩は一向にアゲハに霊魂が降りて来ない。

感度の高い霊媒体質である夜蝶アゲハは自らが望まなくとも、霊に憑依される事もしばしばである。であるからして、このような全く霊魂の降りぬ事など無い。原因は分からないが不調だ。
このような状態で続けては良くない事が起こる気がする。中止した方が良いのではないだろうか。目隠しを外して、猫之助に訴えるべきでないだろうか。

だがしかし、とアゲハは考える。

降りない、と諦めて良いのだろうか。

上桐切子はそれ相応の思いを抱えて此処に来ている。費用もそれなりの負担である。それも夜蝶アゲハに降りた霊、外道達夫の助言に従っての事だ。いまアゲハが霊を呼べずに、この会を終えるとなれば、それは上桐初子にとって落胆するばかりでは済まないのでは無いか。
契約不履行とか、詐欺とか、賠償とか返金とか何か大人の事情を帯びるのではあるまいか。
一同が固唾を飲んで降霊の神秘を見守る中心で、降霊の肝たるアゲハは生臭い権利と義務と金勘定について考えている。そのような難しい事を考えているので、余計に今日は霊魂が降りる気配がない。

嘘。
という言葉がアゲハの右の顬から左の顬に抜ける。
紬屋凛子の先程の言葉。「みんな、そうだよ」と天真爛漫の紬屋凛子の顔と共に彼女の台詞がプレイバックされた。
このような難局を社会の人々は嘘で乗り切るのだろうか。あたしも、いま霊魂の降りた振りをして出任せで誤魔化せば良いのだろうか。

だが、上桐初子にも外道達夫にも面識が無いアゲハが、彼らの降霊した振りをすれば、少なくとも上桐初子をよく知る上桐切子にはその虚飾が看破される恐れがある。それならば切子も知らないような、初子にとって御縁の薄い第三者を創造する必要が。
例えば外道達夫のお母さんなどはどうだろう?名前はきっと佳代子だ。年齢は70歳の設定。趣味は料理と裁縫で、好物は水ようかん。達夫はいま体調が悪くて出てこれないのよねえ。
アゲハの顔が苦悶に歪む。額髪が汗で張り付いた。
そんな事、できる訳がないわ……。
暗がりの降霊会の円座の中心でアゲハは思った。
アゲハはため息をついて、目隠しを取りかぶりを振った。

「今日は駄目です」上桐切子に力なく謝った。
「そうですか……」上桐切子は言った。
落胆する上桐切子と、それ以上に落ち込むアゲハを見て猫之助は反省した。アゲハ嬢に負担を掛け過ぎていたかもしれない。いかに能力が突出しているとはいえ彼女はまだ子供だ。商売の主軸に据えてはいけなかった。

「残念ですがこのような事もあります。」猫之助は取り繕った。
アゲハが顔を上げた。
その時、彼女のツインテールの片翅がぱさりと、落ちた。
瞬時にその状況を理解できる者はいなかった。
ぱさり、という音の余韻の中に、一同は唖然とした。
そして次の瞬間に、その意味する所を理解した。

何かが、この場にいる。

「ヒイッ…!」
女子が悲鳴をあげた。
行燈に照らされた影達が慌てふためいて交錯する。

「姉さん、止めて!」
思わず上桐切子は叫んだ。
髪を切ったのは姉に相違ない。確信にも似た予感がある。
何故か分からないが姉は私を恨んでいるのだ。生前使っていた理美容の鋏を凶刃に変えて、初子は切子を殺そうとしている。

アゲハの髪を切り落とした者を猫之助は即座に探した。だが夜目に強い猫之助の目にも、怪異の正体は写らない。

「先生」
猫之助は墓地太郎を呼んだ。
悔しいが、怪異を前にして頼れるのは迷惑探偵墓地太郎しかいない。

「先生」
猫之助は墓地太郎を呼んだ。

墓地太郎は動かない。
気配がない。
猫之助は墓地太郎を注視した。

墓地太郎は眠っていた。
お酒を飲んだことと、降霊に時間がかかり過ぎた事で眠ってしまった様子だ。

平時から頼りにならない人間とは、斯様にまで頼りにならないものか。
探偵のこの体たらくを依頼人に悟られてはいけない。猫之助は何とかこの場を収めようと一同に声をかけた。

「落ち着いて下さい、大丈夫。霊は去りました。」
と言ったものの猫之助には霊がいたのかどうかも分からない。
だが、この場の混乱を収める為にはそのように言うしかない。

だが。
今度は猫之助の猫耳型の癖毛が宙を舞った。

パサリ、
癖毛が落ちた。

凶刃に狙われている!
女子達の悲鳴は、恐怖の色を更に濃くした。

「先生!」
猫之助は尚も墓地太郎を呼んだ。

この状況で女子達を助けることは猫之助には出来ない。

第八景 「墓地太郎の夢」

時は少し遡って此処は墓地太郎の夢の中。
墓地太郎は紬屋の美人女将の晩酌に頗る上機嫌であった。
夢心地が夢遊して、いつしか墓地太郎は提灯を片手に、折り詰めを指にぶら下げ、千鳥足で渓谷沿いの山道を歩いている。
美人女将付きの寄り合いが終えて、これから自分の村へと帰るのだ。

と、その道中の薮の中から墓地太郎に声を掛けるものがある。

「もうしもうし」
甲高い、声。
「誰そ」と応える墓地太郎。

「その折り詰めを下さらぬか」
「呉れてやっても良いが、名を名乗れ」
「故あって名前を申し上げる事は出来ませぬが、この山に住む天狗で御座る」
「天狗という事であれば、折り詰めくらい呉れてやるが、その代わりにお前様は何を呉れなさる」
「それならば天狗の鏡を呉れましょう。この鏡は三つの願いが叶う鏡」
「良かろう、貰っておこう」
「願いを叶えるには代償が必要でござる。使い方には気をつけなされよ」
「苦しうない、御意御意」
と墓地太郎は上機嫌。

村に帰ったら何を願おうか。
とりあえず吾輩を馬鹿にする蒙昧無知な村人共を懲らしめてくれようか。生まれ持った霊媒体質で、労せずして吾輩よりも人気のある生意気な小娘と、吾輩の小使でありながら、訳知り顔して吾輩の邪魔ばかりする猫男。彼奴等がぎゃふんと云う姿を見たら、天にも昇る程に爽快であろう。天罰覿面、余の偉大さを知るが良い。
と、低俗人種の墓地太郎は独り笑むのであった。

第九景「現れた外道達夫の霊」


そして。

「先生!」
猫之助に呼ばれた墓地太郎は眼前の惨状を知る。

狂乱して泣き喚く少女たち。
蹲って震える依頼人。
何かを追い払おうと暴れる猫之助。

「待て待て」
墓地太郎は慌てて猫之助を制止した。
「どうした」
「先生、何者かがいます!」
猫之助は見えない魔を追い払うかのように両腕を振り回す。

「いない」
墓地太郎は断言した。
墓地太郎は、人間の世から目を背けるあまり霊眼の開眼に至ったという霊能者である。
人間世界で満足なコミュニケーションを取れぬ彼は半身を彼岸に置いて浮世の孤独を慰めている。
その墓地太郎がいないと言うなら、その場に悪鬼はいないのだ。
俗世でついた渾名は「ひとりぼっちの墓地太郎」
それだけ彼の霊眼の信憑性は高い。

「もう、いない」
墓地太郎は言った。少女たち、依頼人は落ち着きを取り戻した。もう、怪異は何も起こらない。怪異は終わった。

それからは興奮も冷めて、誰とも無く三々五々自室に帰り、安堵と疲弊の中で降霊会は終わった。

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上桐切子は降霊会が失敗に終わった後に自室に戻り、暫くテレビを見ていた。

「都市伝説を解明する」とキャプションが入った。

深夜特番恒例の公開捜査番組だ。そして出演はS区の勅使河原鬼一警部。

テレビ番組の中で公開捜査が多く行われるようになった事には理由がある。
ひとつに事件が増したこと。ひとつに公権力に携わる人員が削減され、警察の捜査力が落ちたこと。ひとつに私的な動画配信が拡大し、テレビの役割が変わったこと。ひとつに人口減少が進むことで娯楽が倫理化したこと。
私的動画配信が拡大し、テレビの視聴率は年々下がった。かつてのテレビは放映に関して放送倫理委員会を設けて情報に規制をかけていたが、それがテレビ衰退の理由ともなった。テレビ復権のために、放送倫理は徐々に権能を失い、緩やかながら娯楽と倫理は調和して、番組的に盛り上がればある程度の迷惑、虚偽、逸脱を認めるに至った。

前前時代的なテレビ時代全盛期の勢いを取り戻そうと云うのである。
世間の注目は私的動画配信者たちの過激で不道徳な逸脱行為に集まっており、今更テレビが何をやろうと問題視されない。それがテレビ放送の倫理が緩和した事の理由になっている。

テレビ公開捜査は、人気のある番組企画で各局がよく用いた。

リアルタイムに進行するドキュメンタリーが視聴者を魅了した。
スポンサーが付きにくいご時世の中で番組制作費の一部を警察が担ってくれるという特典もある。
警察の事件解決能力は人員削減によって著しく低下した。しかし、被害届が簡素に作成できるようになった事に起因して届出される被害届、即ち警察の抱える事件数は寧ろ増加した。いつまでも事件を解決できない警察の権威は地に落ちた。権威の復権のためには事件を解決するしかない。警察にとっても民力を頼りにしての公開捜査は、警察権力を維持するために必要な手段と化したのである。

警察が体裁を保つために、公開捜査というバラエティ番組に登場しては世間に揶揄される人身御供がS区の勅使河原警部であった。無骨で事件解決に真摯な性格はお茶の間で人気がある。

今回の本日の番組で勅使河原警部に相対するのは洒落神戸毒路丸探偵とその助手閻魔ドロン。
洒落神戸毒路丸探偵の明快な推理力はやはりテレビ視聴者から人気が高い。

事件の概要が語られる。

或るアマチュアロックバンドが地方巡業で遠征した際のこと。
無事にステージが終了し、簡素に打ち上げを終えて、宿泊先の温泉旅館で眠りについた。
真夜中にメンバーの一人が違和感を感じて目を覚ます。

くちゃくちゃと音がした、のだと云う。

起き上がって部屋を見回すとメンバーの一人が起きている。

何をしているのかと近付いて携帯端末のライトで照らした。

メンバーの一人が首を切り落とされていた。起きているメンバーは落とした首の長髪を梳っている。血に塗れた髪に櫛を通す度に、くちくちと小さな音を立てる。

目が合った。
濁った眼色である。
殺されると思って慌てて部屋から逃げ出し駐在を呼んだ。

駆けつけた駐在によってメンバーは逮捕された。
しかし、その後不思議なことが起こる。

逮捕されたメンバーの取調べが始まったが、その時の記憶が全く無いらしい。

犯行の残虐さも相まって事件発生当時は悪魔憑依事件として週刊誌が連日書き立てた事件だ。

更に番組は次々殺人事件を紹介する。首を落として持ち去る。だが目撃者が多く、犯人は直ぐに現行犯逮捕される。犯人は犯行の記憶を無くしている。共通点が多い。それぞれの事件の被害者も犯人も、他の事件の関係者に面識は無い。だが、状況は余りに似ている。

「我々はこれを連続無自覚殺人事件と呼んでいます。」

それぞれの事件は犯人が逮捕されて解決しているように見えても、一連の事件の繋がりは見えない。

「ある日、突然自分自身が、或いは近しい人が殺人鬼に変わる、そのような危険な状況に私たちが晒されているということですか?」
司会者が尋ねた。

「薬物や特定宗教など、犯人に共通する点が無かったか探しています。もしかしたら殺人衝動に駆り立てられるウイルスなどもいるのかもしれない。多岐の可能性について警察も検討している。」
勅使河原警部が答えた。

「悪霊の仕業です。」
隣の探偵が言った。ワイシャツの襟が立っている。隣の助手は顔の彫りが深い。こちらのワイシャツは開襟されて胸毛が見えている。
「悪霊の仕業です。」
助手も繰り返した。ふさりと胸毛が揺れた。

「悪霊の仕業です」
今度は勅使河原警部が言った。
行ってから勅使河原警部の首がころんと落ちた。
探偵と、助手の首もころんと落ちた。

落ちた勅使河原警部の首が語る。
「明日の殺人鬼はあなたかもしれない」

背後に立っているのは鋏を持った初子の姿。


いつの間にか夢を見ていた。
上桐切子は目を覚ました。
また、姉の夢。
切子は周囲を見回した。

あった。

枕元に鋏が。
姉の夢を見ると必ず、傍には身に覚えのない鋏が置かれている。

鋏を拾った切子の手がぬるりと滑る。鋏が血で汚れている。

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旅館の一室に上桐切子は一人寝している。
時刻は深夜、和室も暗闇の中にある。

上桐切子は暗闇に目を凝らした。暗闇が象形に分かたれる。床の間と柱、壁と天井。
柱の前に人間が座している。

誰かがいる。
上桐切子は目を疑った。夢の殺人鬼が現れたのだろうか。
悪夢に魘された寝汗が瞬時に引いた。
戦慄して、寒気が全身を駆けた。

上桐切子の緊張を察して、人影が半歩前に身を乗り出すと、暗闇の造形がまた分かたれて人物の顔が知れた。
先程、降霊を試みた女子。夜蝶アゲハである。

「ご就寝中にすみません」
彼女は言った。
「ああ、いいのよ」
切子は言った。先程の失敗を改めて謝罪に来たのだ。
降霊の失敗に切子は落胆した。
だが、相手は機械ではない。
霊だ。
その時々の巡りあわせもあるのだろう。
「気にしないで頂戴」
と言いかけた切子を、少女が制した。

「先日ご挨拶頂いた外道達夫でございます」
少女の口が、霊を名乗った。

外道達夫は、上桐切子の姉を降霊しようとした時に、姉の代わりに現れた霊魂である。姉の友人の姉妹の恋人であり、先程の降霊会で呼ぼうとした霊その人であった。

「本当は既に現れていたのです」
と外道達夫の霊魂は言った。
降霊会は失敗では無かった。

「どうして現れていたのに隠れるような真似をしたのかしら」
最初から名乗っていれば、夜蝶アゲハを恨めしく思う必要も無かった。彼女が落胆する必要も無かった。

外道達夫の霊が答える。
「皆様の髪を切ったのは私ではございません。髪を切ったものは他にいるのです。それが恐ろしくて」

「どういう事?」

「あの場にお姉様の初子さんがいらしておりましたので、恐ろしくて隠れるよりありませんでした」
と霊は語った。

「皆が恐ろしい思いをしているのでございます。」
「どうして姉は変わってしまったのでしょう」
「さあ、死ねば人間の本性が出ますれば」
「姉は何処にいるのでしょうか」
「渓谷に沿って見縊山の山道を登りますと、滝があってその上辺に赧神社というお社がございます。お姉様はそちらで悪鬼となってございます。」

「悪鬼」
「そう、お姉様は恐ろしき悪鬼。巷を騒がす髪切り鬼でございます。ご浄霊できるのは血を分けたあなた様だけ……」
そう言って夜蝶アゲハはふらふらと立ち上がり部屋から出て行った。

上桐切子は一人暗室に残された。

切子は先程の外道達夫の言った言葉を反芻した。
姉が髪切り鬼になったと言う。
上桐切子の髪を切り、また先程は降霊中の夜蝶アゲハのツインテールを切り落とした髪切り鬼。

いま巷間を騒がせ、腐女子を恐怖せしめる髪切り鬼が、実の姉なのだ。
優しかった姉の顔を思い浮かべる。髪切る事を生業に乙女らの髪を切り続けた業なのか。何の因果か悪鬼道に堕ちた姉を救うのは自分しかいない。

上桐切子はその夜、眠ることが出来なかった。
暗闇の中に姉の追憶を浮かべ、それが走馬灯となって切子の周囲を巡るうちに朝となった。

襖の向こうから切子に声を掛けた者がある。
「もしもし」
「どうぞ」と切子は答えた。
「朝食の時間でございます」
青白い顔をした中居であった。

朝食は階下の広間に用意されていた。
切子が降りると広間では少しく騒ぎが起こっている。

墓地太郎とか言う迷探偵がその喧騒の中心である。

第十景 「失われた財布」

「財布が無い!」
墓地太郎は云うのであった。
「盗られた!」
物騒な話である。凡そ本人の不注意で雪隠にでも落としたのではあるまいか、と切子は思う。それを盗られたなどとは無用の不穏当を引き起こす言動に他ならない。そうやって濫りに騒ぐ輩を切子は軽蔑する。美容室常連の桜田さんが「当該事務所の近所からの悪評」に眉をひそめていたが、悪評はこのようなところから発するのであろう。

狼狽しながらかの迷探偵は語るのであった。

「昨晩吾輩は天狗に会って、異妖の鏡を貰ったのだ。その鏡は三つの願いを叶えてくれるが、その代わりに代償を払わねばならぬと言う。如何なるものかと吾輩は試しに巫山戯た願い事をしたのであるが、それは見事に成就して昨晩は大変愉快であった。だが、その代わりに朝起きると余の財布が無い。さても困った。何処かに無いか総出で探すべきである」
と、要約すればそのような言説を滔々と語った。
言葉の端々に衒いを帯びて、その声音は卑俗であって、聞けば聞くほど嫌悪の情を催すのである。

「貴女の部屋にございませんでしたか」
迷探偵が切子に言った。
切子は戦慄っとして反射的に身構えた。
「ありません」
切子は言った。

迷探偵はぐむと唸って、こうなれば吾輩の神通力を持ってして云々と世迷言を語りだし、珍妙なる棒二本を両手に持って狼々徘徊し始めた。手に持つ棒に神通力が通って、失せものの在処を教えてくれるものらしい。

「こちらだ」
「あちらだ」
と徘徊するうちに醜悪の徒はとうとう切子の部屋の前に来た。

「此の中だ!」
男は言った。
「キモイ!」
女子達が言った。この男が寝所に入るなど戦慄っとする。女子達も切子も、この俗物を生理的に嫌悪するのであった。
だが、止める事も能わず彼の者は部屋に闖入し、切子の体温のまだ残る布団をあけすけに調べ始めるのであった。

「ぎゃあっ」と女子達は怯えた。斯様に醜悪の図を、彼女らは、花と開いた幼き人生の中で見た事が無い。
布団に這いつくばって、埃の一つも見逃さない。
彼女らに黄泉比良坂墓地太郎とか云う人間は、糞尿に塗れる豚人間の如くに写るのであった。

「あった!」
布団の隙間から墓地太郎は自らの財布を取り出した。

「ぎゃあっ」婦女子達はいよいよ悲鳴をあげた。
彼の者の私物が清楚の布団に紛れていた事を嫌悪したのか、彼の者が自作自演的陰謀とも思われる行為を嫌悪したのか、おぞましさの正体を彼女らは知らない。

「もう兎に角恐ろしくて」
と後日、少女の一人は墓地太郎の狂気じみた姿形を思い出して震える。

生理的嫌悪という恐怖に取り憑かれた乙女らは、猫之助に陳情し、墓地太郎を奥座敷の外に出さないよう取り決めた。

「こっちを見るな豚太郎」
と夜蝶アゲハは墓地太郎に言った。

そのような騒動から、墓地太郎は奥座敷に幽閉される至ったので、切子は昨晩の出来事、即ち夜蝶アゲハ少女が切子の寝所に現れて夢遊のうちに、姉である上桐初子の友人の姉の恋人を名乗る外道達夫の霊魂を名乗り、初子の浄霊を願った旨を猫之助にのみ告げた。
猫之助はその話を聞いて驚きながら、当探偵事務所の所長殿も、初子がいると言われた赧神社に同行させるべきとの意見を述べたが、嫌悪の情から泣き叫んで反対する女子らによってその意見は封殺された。

かくして、HG温泉鄉の旅は新たな目的地を得たのである。

第十一景「赧神社に着く」

渓谷の上流に位置する、見縊山の赧神社にはひとつの伝説が残っている。

昔、麻場に働く女達が嵐で仕事が中断されて、雨夜の夜噺をしていた。
奇態の話の流れから、話題は滝上の赧神社の話になった。
赧神社の社には恐ろしい魔が棲んでいるのだ、と云われる。
誰か夜のお社に肝試しに行く勇壮の者は無いか。
一人の女が、自分が行くと言い出した。
それなら行ってみろ、行った証拠はなんとする、賽銭箱を持ち帰れと話は進んで、女は自らの赤子を背負って雨夜の山道を登っていった。
渓谷はどうどうと唸りを上げた。横風に雨が混じって女を叩く。木々の震えがヒイヒイと悲鳴に聞こえる。恐ろしい夜である。
女は尚も山道を登って、鳥居下に着いた。鳥居をくぐると石段が高く続く。その石段を登った所に社があるのだ。
女は鳥居の下を通り、石段を登った。断崖を登るかのような急傾斜。女は膂力を絞って登攀するのであった。
頂上の社はうらぶれて、破れた格子戸が不気味である。何かの潜む気配を感じるようで女は震え上がったが、胆力を込めて賽銭箱を抱えあげ、今来た道を逆戻り、一目散に石段を駆け下りた。
「ワハハハ……」
鳥居の下をくぐる時、女を愚弄するかのような哄笑が暗澹に揺れる木々の狭間に響いた。
山を揺るがすような轟声の、その怪異に女は生きた心地がしない。足早に麻場小屋に逃げ帰るのであった。
麻場小屋に辿り着いて、女は他の婢女達に賽銭箱を見せた。
一同は驚愕した。
女が血塗れに染まっている。女の背負った赤子の、首がもぎ取られているのであった。

と、そのような伝説が残るが、この伝説は全国に場所を変えて残されており、本殿に限ったものでは無い。
求める者は代償を支払わねばならない。
神威を穢した代償は大きいという戒めでございましょう。

と、上桐切子を出迎えたバイト巫女は言う。

「あなたは此処で一人で働いているんですか?」
「そう」とバイト巫女は言う。
宮司のようなものは常駐はしていないが、赧神社はHG温泉郷の観光名所であり、それなりに観光客も来るので人件費の安い少女のバイトだけが置かれて、御札などを売っている。

「この御札が人気なんですよ」とバイト巫女は言った。
見れば可愛い天狗のイラストが書かれたピンクの護符である。

「天狗?」
紬屋響子が言った。
「可愛くないですか?」
イラストはバイト巫女が描いていると云う。
「ご利益は薄そうだけど」
夜蝶アゲハが軽口で返した。
年の頃が近いせいか気が合うようだ。

折角だからと夜蝶アゲハはピンクの御札をひとつ買った。
「護符は買うではなく、受けると言うんだよ」
バイト巫女は言った。

上桐切子がバイト巫女に尋ねた。
「髪切り鬼の話を聞いたことはありませんか?」
「髪切り鬼?」

手前共はさる降霊会に現れた霊魂によってHG温泉郷の赧神社にまで導かれたのだ、と説明した。

「その御魂が言うには髪切り鬼は私の行方不明になった姉だと言うのです」

上桐切子は言った。
バイト巫女は深く話に耳を傾けていた。
「お姉さんの名前はなんですか?」
「上桐初子です」

「知ってる」
とバイト巫女は言った。

「何処で姉の事を知ったんですか」
上桐切子は言った。

バイト巫女は彼女らを絵馬掛けの御堂に案内した。
絵馬もまたピンク色の天狗イラストが描かれていた。やはりバイト巫女の自作らしい。

「これよ」
バイト巫女は絵馬のひとつを見せた。

絵馬に「上桐初子」の名前がある。
「美容師の腕が上達しますように」
と、願掛けが書かれていた。

「姉です」
上桐切子は言った。
「姉が此処に来ていた」

外道達夫と名乗る霊魂が告げたように確かに上桐切子の姉、上桐初子はこの土地に縁が生じていたのであった。

何故、上桐初子はこの神社に来ていたのか。
何故、行方不明になったのか。何故、死して悪鬼に身を堕したのか。

絵馬には純粋然とした願い事が丁寧な文字で書かれている。決して悪鬼に堕すような願いでは無い。

上桐切子は優しかった姉を思い出す。姉の優しさが滲み出るかのような筆跡だ。

上桐切子はバイト巫女に言った。
「姉の霊を鎮めるようお祓いは出来るのでしょうか」
バイト巫女は言う。
「出来ますよ、でも本当に良いのですか?」
「良いとは?」
「浄霊とはこの世の繋がりを断ち切る事です。あなたとお姉様のご縁も無くなりますよ」

改めて問われると、上桐切子は意気地が無くなる。
たった二人の肉親である。
だが、と上桐切子は夢の中に現れた悪鬼の事を考える。
再三に渡って初子が夢に現れて、ハサミを振るう。
その度に切子は恐ろしい思いをしたのである。
今に自分は初子の怨念に殺されるのだ、そのように思い詰め眠れぬ夜を過ごしている。

「お願いします」
上桐切子は言った。
「頼まれれば何でもやるけどね」
バイト巫女は言った。

「あっ」
猫之助が頓狂な声を挙げた。

「何?」
驚いてアゲハが言った。

「これ!」
猫之助の指さすものは、また絵馬である。

「あっ」
夜蝶アゲハが頓狂の声を挙げた。

二人の眼前にピンクの絵馬がある。その絵馬に書かれた名前は「外道達夫」

何故、外道達夫の絵馬も此処に。

バイト巫女が言った。
「その二人は一緒に此処に来たんだよ。」

二人の関係性は友人の姉妹の恋人だけでは無かったのか。
二人はどんな関係だったのだろう。

一同の困惑を他所にバイト巫女は言った。
「浄霊、する?」
バイト巫女の話によれば故人の因縁物を焚きあげれば浄霊が出来るという。
「この場合は、この絵馬だね、強い情念が宿っている」
バイト巫女は言った。

松明に火が灯る。
揺れる火影が巫女の顔を照らした。
巫女は無表情である。
その無表情は火影に照らされて、笑うようにも嘆くようにも見える。
上桐切子はそれに答えようとした。

「浄霊はしません」
上桐切子の言葉を遮り猫之助は言った。
「その代わり、社務所の一室を貸して頂けませんか?」


第十二景 「三回目の降霊会」

社務所の一室を借りて、いま一同は円座に座った。
その中心に目隠しをした夜蝶アゲハが座している。上桐切子にとっても既に見慣れた光景である。

「僕たちは何に巻き込まれたのか知る必要がある」
猫之助は言った。
「第三回目の降霊会を行います」

猫之助は低く外道達夫の霊魂を呼び出す術式を唱える。
場が暗闇に沈んでいく。
アゲハの上半身が、揺れて、繰る繰ると回り出した。
アゲハの手掌が目隠しを剥いだ。

「なんぞ」
と言ったアゲハの眼色は常人の其れでは無い。
アゲハに降霊の宿った証拠だ。

「お名前を教えてください」
猫之助はアゲハに尋ねた。
「主らは悪鬼を浄霊せしめたのか」
アゲハは猛って吼えた。
「早く悪鬼を退けたまえ」

荒ぶる霊魂に猫之助は尋ねた
「外道達夫さんですか?」
「そうだ」

「あなた達は連れ立って、此処に来ている。あなたは上桐初子さんとの関係を、友人の姉妹の恋人であると説明しました。しかし、それ以上の関係があなた達にはある。」
「……」
霊魂は何も答え無かった。

「あなた達はどのような関係だったのか教えて下さい」
猫之助は言った。

「私達は恋人だった」
外道達夫は言った。

「私達は一瞬でお互いを認め合い、一瞬で惹かれあった。そして人目を憚って此処に来たのだ」

外道達夫は語った。
外道達夫は自らが孤独であると感じていた。それは恋人が出来ても尚、消えぬ思いであった。或る日、外道達夫は恋人の妹とその友人と会食をする機会があった。そこで外道達夫は上桐初子に初めて会った。
外道達夫は自分が何故孤独であったのか知った。同時に上桐初子も幼少より抱き続けた孤独感の正体を知った。二人が互いに出会わずにいた事が孤独の正体であった。
外道達夫と上桐初子は毛髪性愛者、トリコフィリアである。特殊性癖を有する故に孤独であって、初めて二人は特殊性癖の合致する異性に巡りあったのである。
二人は特殊性癖者特有の超常の感受性によって、二人の合致を感得した。直ぐに二人の逢瀬は始まり、深まった。

鄙びて忘れ去られた温泉郷、HG温泉は二人の密会の場となった。

「だがしかし」
外道達夫は言った。
「幸福は突然終わった」

二人は赧神社に幾度目かの参拝に来ていた。
そして滝上の展望台から眼下の滝壺を覗いた。

大瀑布直下の滝壺は白波を泡立てて、時折覗く深淵は青く深い。
吸い込まれるような神秘がそこにあった。畏敬を感じながら二人は滝壺を眺め、手を取り合った。

外道達夫は、秘密の恋人の顔を見た。
恋人の顔は外道達夫の眼前で、鬼の形相に豹変し、美容ハサミで外道達夫に襲いかかった。

達夫は、何とか初子を正気に返そうと試みたが、初子が正気に返る事はない。畜生道を歩もうとした二人に神罰が下ったのだろうか。初子は生きながら地獄に堕ちたのだ。
二人は揉みあって滝壺に落下した。
赧の滝壺は異界に繋がる。
二人の遺体は未だ滝壺に囚われている。

突然魔が入って、悪鬼となった上桐初子は死後に髪切り鬼となって、美しい髪を狙っている。
切るのが髪だけでは我慢出来ずに首を刈るようになった。
初子の霊魂が髪の毛欲しさに人間に憑依して生首狩りをしているのだ。
そして狩られた生首は、この赧の滝壺に投げ込まれる。
恐ろしい所業だ。
私は鬼畜の所業を止めたいのだ。
滝壺で今も死体が絡まりながら、外道達夫は悪鬼となった恋人が人倫を害さぬよう抑えているのだ。

「警察が追っている無自覚殺人の犯人は上桐初子の霊なんですか?」
「その通りだ」
「切られた首が滝壺に投げ込まれている?道理で首が見つからない訳だ」

外道達夫は更に語る。
だが、自分の力は消えかけており、いつまでも悪鬼の力を抑えられない。今すぐにも自分は四散して、悪鬼が世に解き放たれんとしているのだ。事態は切迫して今や一刻の猶予もない。
髪切り鬼は人間に憑依して、大量殺人を始めるだろう。
今や人類の危機である。
髪切り鬼は人から人へ渡って、殺人を繰り返し社会を壊す。恨んでいるのだ社会を。異常性愛者を蔑んだ連中を。復讐を企図するのだ。
であるからして、私は恋人である上桐初子の双生児である上桐切子に恋人を成仏せしめよと依願する次第である。

外道達夫は長畳に事情を語るのであった。
突然、人格が豹変して殺人鬼になる。
上桐切子はそれをいつしかのテレビで見た。殺人鬼となって人間を弑して、それを覚えていない。無自覚殺人がこの現場でも起こっていたのだと言う。
いや、寧ろ巷の無自覚殺人の犯人は、外道達夫の呪縛から逃れた我が姉であるかもしれない。

何の因果か、姉は悪鬼に囚われている。不幸だ。
切子は、初子が時折見せる意地の悪さと、孤独を思い返した。
異常性愛者であることの孤独。
切子は姉を初めて理解できたような気がした。
夢の、悪鬼と化した姉の姿。あれは本当の姉ではない。
一刻も早く姉を救わなければ。
本堂で浄霊をしなければ。
上桐切子は姉との別れを決めた。

さあ、と外道達夫の霊魂が行動を迫る。
浄霊し給え、浄霊し給え。
懺悔
懺悔
六根清浄
ざあんげ、ざんげ
ろっこんしょうじよおう
ざあんげ、ざんげ
ろっこんしょうじよおう

円座が闇に堕ちていく。
滝壺に囚われた人々が集まって、円座の周囲を黒く包む。
影達が伸縮しながら手を叩く。

懺悔懺悔六根清浄
懺悔懺悔六根清浄

夜蝶アゲハも、猫之助も、女子高生達も、影に飲み込まれていく。

不味い、猫之助は思ったが、到底影の力には抗えない。
浄霊が間に合わなかったのか、いま猫之助たちは危機に瀕している。

上桐切子は影のひとつに姉の面影を見た。

懺悔懺悔六根清浄
懺悔懺悔六根清浄

ざあんげ、ざんげ
ろっこんしょうじよおう
ざあんげ、ざんげ
ろっこんしょうじよおう

鉄ハサミを持つ姉が、影たちの外縁で踊っている。

高天の原に神留ります 神魯岐 神魯美の命以ちて、皇御祖神伊邪那岐命……

祝詞を唱える声がした。
遠くから、聞こえるようでもあり、直近から囁く声のようであり、この世ならざる音声。

高天の原に神留ります 神魯岐 神魯美の命以ちて、皇御祖神伊邪那岐命、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に禊祓い給う時に生れませる祓戸の大神達、
諸々の禍事罪穢を祓い給い清め給えと白す事の由を天津神・国津神・八百万の神等共に聞し食せと恐み恐み白す

猫之助は見た。
影に飲み込まれんとする彼らの前に体を張って、影に抗う者の姿を。

第十三景 「結末」

さて。

と、一同はHG温泉郷の老舗旅館、紬屋の一室に集まっている。

「さて」
と一同に向かって黄泉比良坂探偵事務所所長の黄泉比良坂墓地太郎は話し始める。

この度の騒動はS区で美容室髪切り虫を営む上桐切子が、行方不明となって生死不詳の実姉、上桐初子の御魂に襲われる夢を見る事に端を発し、その霊障は上桐切子さんの髪が切られる、またその周囲の人物として当探偵事務所の夜蝶アゲハ嬢らの断髪事件にまで発展を致しました。

さてこの髪切り事件の歴史は古く、古今東西人類が文明を持ってから髪切り事件は起こっているのでございます。

いつの間にか髪を切られる。この現象は悪魔、妖怪の仕業と考えられた時代も御座いましたが、歴史の実例を紐解けば、性倒錯者の兇行、痴人の愛憎と人間心理が起こす現象に他なりません。

この程、当探偵事務所を訪れた上桐切子女史に依頼され、実姉上桐初子を呼び出す降霊の儀を執り行ったところ、現れたのは上桐初子ではなく外道達夫という別人物。
我々はこの人物の導きによってこのHG温泉郷にまで足を運ぶこととなりました。

外道達夫の曰く、上桐初子は悪鬼である。浄霊すべし。と彼は望むのでありました。
しかしながら真相は、外道達夫の訴えとは異なるものでございました。
我々を欺き、真実を偽証した外道達夫という悪鬼もいまはこの世におりません。

外道達夫がいなくなった今、とうとう降霊の儀は仕切り直して、正しく行われることになりました。我々は正しき者の口から真実を知らねばなりません。

再び円座の中に夜蝶アゲハが目隠しをして座る。

黄泉比良坂墓地太郎が上桐切子の姉、上桐初子を呼び出す呪言を唱えると、夜蝶アゲハが昏倒し痙攣をする。

起き上がった夜蝶アゲハは自らの目隠しを取るとそれは彼女と別人の人相。

「切子」
と夜蝶アゲハに降りた霊魂は言う。

「姉さん?」
切子の双生児、上桐初子が降霊したのだ。

「この度は皆様にご迷惑をお掛けしました」
と上桐初子は事件の真相を語るのである。

外道達夫と上桐初子は道ならぬ恋人であった。外道達夫の語った二人の出会い、それは間違いない。HG温泉郷で逢瀬を重ねた。
彼らの毛髪性愛の嗜好はお互いにしか理解し合えない。二人は隠された性愛を開放し、鄙びた温泉郷で愛欲に溺れたのである。

が、毛髪を愛する二人のトリコフィリアが加速するにつれて、二人の性愛には齟齬が生じるようになった。

上桐初子が職業柄毛髪のカッティングを愛した事に対して、外道達夫は頭皮に生える毛髪を愛した。
上桐初子のトリコフィリアは、外道達夫の散髪、剃髪をする事で満たされる平和の愛であった。だが外道達夫は昂れば上桐初子の毛髪を抜けんばかりに引っ張る粗暴の愛であった。外道達夫の異常性愛は上桐初子の毛髪への独占欲を帯びて、毛髪の所有者である上桐初子の存在すら疎ましく思う程に倒錯した。外道達夫は上桐初子の頭皮を剥ぐことを、ひいては上桐初子の生首を断頭する事を夢想し始めたのである。
外道達夫の昂りに身の危険を感じ始めた上桐初子は二人の関係を終わらせるべく、赧の滝で別れ話を切り出した。

その時、滝壺から影が立ち上ったように見えた。
その瞬間、外道達夫が豹変し、凶刃を振り乱して上桐初子に襲いかかった。
上桐切子は外道達夫を正気に戻そうと試みたが、暴れる彼を抑えることはできなかった。
二人のトリコフィリアは絡まって滝壺に落ちた。
赧の滝壺は異界に通じている。
二人の死体は上がらない。

つまるところ、悪鬼に成り果てたのは外道達夫の方だったのだ。

「不思議な事があります」
紬屋凛子が尋ねた。
「なんでしょう?」
外道達夫はどうして我々の前に現れたのでしょう?
何故、我々をHG温泉郷に呼び出して上桐初子の浄霊を依頼したのでしょうか。

「滝壺に落ちた二人は絡まりあって、毛髪が縺れる如く互いが互いの呪詛となりました。滝壺で逡巡するウロボロスの蛇。」

外道達夫は悪霊となって、人々に憑依する鬼となりました。

「待って下さい」
「憑依する殺人鬼ですって?」
「左様、勤勉な諸君なら聞き覚えがあろう、無自覚殺人について。」

巷で起こる無自覚殺人は外道達夫が憑依したことによって起こっていたのです。

その鬼が、かつての恋人に瓜二つの貴女を見つけてしまった。
髪切り鬼となった外道達夫が貴女の髪を我が物にせんと狙っていたのです。
その欲求はかつて上桐初子に向けられたものと同じく膨張を始めて、とうとう貴女の生首を狙うに至りました。

しかし、貴女の首を切り落とそうとする事には問題がありました。
自らに絡みつく上桐初子の霊魂が邪魔をするのです。

上桐初子は貴女に対して危険を告げたかった。
しかし、それは外道達夫に邪魔されます。

第一回目の降霊で外道達夫は上桐初子さんの降霊を阻止し、何食わぬ顔で我々の前に姿を現しました。

そして、自らを邪魔する上桐初子さんを我々の力で排除しようと画策したのです。

「では、もし外道達夫の言う通りに姉さんを浄霊してしまったら……」

「その時は外道達夫が、誰かに憑依して即座に貴女の首を切り落としたでしょうね」

「しかし、」
今度は猫之助が尋ねた

「あのような極悪の霊をよく鎮める事が出来ましたね」

「吾輩にかかれば容易い」
と墓地太郎は居丈高に語る。この自信はいつもの通りだ。
「と、言いたいところだが、流石の吾輩にもあの状況は手に余る」

墓地太郎曰く、赧神社に祀られる天狗の力を借りたのだという。

「吾輩には神通力の宿った鏡があるのだ」
と、それは昨晩、墓地太郎が夢の中で授かったと言う手鏡である。三つの願いを叶えてくれるが、その代償は必ず払わねばならないとの曰く付きである。これも本当は酒に酔った名探偵が何処ぞでくすねてきただけかもしれないが、墓地太郎は天狗の贈り物と信じて止まない。
「手鏡に悪鬼調伏の祈願をしたところ、忽ち悪鬼は退散したのだ」
信心もまた力なり。神仏の力なのか、墓地太郎の秘匿する力なのかさても悪鬼は退散し、一同は一命を取り留めたのである。

「ところで」
猫之助が言った。
「先生はさぞや高名な霊能者と拝見しますが、お名前を教えて頂けないでしょうか?」

そう、天狗の手鏡の代償なのか、霊障の後遺症なのか。一同の記憶から墓地太郎の存在はすっかり無くなっているらしい。

黄泉比良坂墓地太郎という探偵がいて、その事務所の助手である。知識として猫之助も夜蝶アゲハも承知はしているが、墓地太郎は長らく失踪中であり、それは元来が悪評めいて、とうとう世間様に顔向けできなくなり、いづこの山中に雲隠れをしている、などと解釈されて目の前の丸眼鏡が墓地太郎その人であるとは分からないらしい。

墓地太郎も、あの手この手で説明を試みたが冗談としか受け取って貰えない。先生があの悪評高い黄泉比良坂迷探偵の筈がない、と笑われて終いであった。

事件は解決したが、墓地太郎現在進行形の難問を抱えているのである。

「うちの所長とは大違いです」
と猫之助は言うのであった。

「先生が身を挺して私たちを守って下さったこと忘れません」
とは今回の依頼人上桐切子。心做しか眼奥が婀娜めいて艶に潤んでいる。
今朝の汚穢を見下すかの顔色とは大違い。

「私も先生みたいな霊能者になりたい!」
とは紬屋凛子の妹のまだ幼き響子。
此奴らも朝は吾輩をキモいと評して奥座敷に閉じ込めたものだが。と墓地太郎は思う。

先生、先生と彼らから尊崇の眼差しで見つめられ、墓地太郎は甚だ困惑する。
数々の偉業を成し遂げてきた自らの存在が、彼らの中から消えてしまったことは口惜しいが、思い返せば手前勝手の世間からは半ば迫害を受けてきたこの半生。いっそ新たな人物として人生をやり直しても良いのかもしれない。
迫害の半生を通じて付いたあだ名が「一人ぼっちの墓地太郎」。汚名を返上して、幸福の人生を送るのだ。

「諸君らが良ければ、諸君らを捨てて逃げ出した前所長に代わって吾輩が探偵事務所を引き継いでも良いのだぞ」
猫之助に墓地太郎は言った。

そうすれば万事が丸く収まるに違いあるまい。
華々しい将来を思い描いて墓地太郎は鼻を膨らませた。

「ふほほ、御意御意」

だが。
「いいえ」
と猫之助。

「私共の所長は俗物で、見た目は悪くて、人格も低廉低俗。口を開けば暴言ばかり。何一つ見習う所のない犬畜生。高潔な先生とは比べるべくもありません。しかし、その犬コロの如き所長が私は大好きで今も帰りを待っているのです。あの犬畜生がいつ帰ってきても良いように、席は空けておくつもりです。」

言葉の端々に気になる所はあるものの、墓地太郎は猫之助の心意気に感動した。
昨晩は腐女子と仲良くする猫之助が妬ましく、徒に呪ってみたものの、矢張り猫之助は信頼のおける部下であり、墓地太郎にとっては家族である。
今すぐこの男を抱き締めてやりたい、と思ったものの肝心の墓地太郎が猫之助にとっては赤の他人。
はてさて如何したものか、と墓地太郎は考えあぐねる。

実は。

墓地太郎にこの状況を解決する方法が無いわけでは無い。

天狗の手鏡で叶えられる願いは三つ。
ひとつは猫之助と夜蝶アゲハへの呪いに使い、二ツ目の願い事は先程の悪霊退治。
墓地太郎が信じる所によればもうひとつの願い事が残っているのである。

墓地太郎はこの最後の願い事を一生遊んでも使い尽くせぬ程の金銭を望むことに決めていた。

だが、それをせずに願掛けを猫之助らが墓地太郎の記憶を戻す事に使えば、今まで通り暮らせる事を願えば、きっとこの状況も解決するのだ。

家族同然の猫之助を選ぶか、金を選ぶか墓地太郎は大いに悩んだ。

家族は何にも変え難いが、もしかして金銭で買えるものかもしれぬ、と思って墓地太郎は猫之助をマジマジと眺める。

金銭で買う家族は恐らく本当の家族ではない。墓地太郎に優しくしたり、甘やかしたりしてくれないかもしれない。
きっと、どんな大金を積んで家族を買ったとしても猫之助のようにはしてくれない。

仕方なし。
墓地太郎もこの状況に観念して手鏡に元の生活に戻れるよう願掛けをしたのであった。

と、語った墓地太郎に猫之助らは半信半疑、訝しんで話を聞いていた。
猫之助らは赧神社の降霊会で、外道達夫の悪霊に囲まれて恐ろしい目にあったのだが、その後の記憶がない。
猫之助らを身を挺して庇う清廉の士が、彼らを助けてくれたようにも思えるが、果たして其れが墓地太郎であるかと云えば、どうにも違うように思われる。

たまたま現れた墓地太郎が、その清廉道士の手柄を横取りした、という話の方がいくらも納得できるのである。

果たして墓地太郎は結局「キモい」のであり、奥座敷から出てこぬよう女学生らから要求されるのである。

夜蝶アゲハに上桐初子の霊が宿った時、上桐切子は亡き姉の思いを知った。
一時は姉に殺されると思ったが其れは悪霊、外道達夫の霊が上桐初子の霊魂と縺れた事の幻惑であった。
亡き姉は、今も優しい姉であった。
事件の解決に上桐切子は心から御礼を述べた。

「御礼は所長に」
猫之助は言った。
「ふほ」
墓地太郎は鼻の穴を膨らませた。
その鼻腔の生理的に受け入れ難きこと甚だし。
上桐切子は御礼を述べたが、朝の一件、墓地太郎が上桐切子の布団をまさぐる奇行が忘れられず、汚穢を見下す視線は隠しようもない。

「そもそも天狗なんている訳ないじゃん」
夜蝶アゲハは言った。
オカルトじゃあるまいし。

霊媒体質で鬼から神から無闇に降臨させる奴の言える言葉ではない、と墓地太郎は思うのだが、現代っ子とはかくなるものであるやもしれぬ。

UFOはいるけれど幽霊は信じない、とか。幽霊は信じるけれど神様は信じない、とか。信心は人それぞれである。

「神社のバイト巫女ちゃんに聞いてみなよ」
とアゲハは言った。

「神社の社務所は無人ですよ」
夕餉の支度を始めた紬屋の女将が言った。

「札所にバイトの巫女さんが居ましたよ」
「そんな筈はありません」

と、それでは一行が出会った少女は何だったのか、とそれもまた人それぞれの信心の話。

「勅使河原警部と洒落神戸探偵がこちらに来ると言ってますよ」と、猫之助が言った。
「何をしに?」
「赧の滝から死体と大量の頭部が上がったそうです」
頭部は無自覚殺人事件の被害者の者であるだろう。
死体は外道達夫と上桐初子かもしれない。縺れた呪縛が解けて滝壺の異界から解放されたのかもしれない。
もし来たら此度の事件の顛末と、無自覚殺人事件の解決と、吾輩の超人的活躍について存分に話を聞かせてやろう、と墓地太郎は思うのであった。

「もう一回温泉に行く?」
「良いねえ」

「吾輩も温泉に入ろうかな」
「キモ太郎は出てくるな!」

女学生らからキモ太郎と呼ばれながら、黄泉比良坂墓地太郎はこの日常を平和と思う。



(黄泉比良坂探偵事務所事件簿「髪切り鬼」御首了一)

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