見出し画像

短編小説「シンナー」

俺の脳みそはシンナーで半分溶けているんだ。
だけど勘違いしないでくれよ。
もうシンナーは止めたんだ。
ガキっぽいからさ。

地下鉄に乗っていた。
乗っていたはずなのに、今は太陽を拝んでいる。
なんでだよ、地下を走るから地下鉄なんだろ?
いつの間に地上を走ってるんだ?

欺瞞だ。そういう嘘を付くところが嫌いなんだ。
俺はこの街の連中が嫌いだ。
どいつもこいつもスマしやがって。

ああ、タバコが吸いたい。

ソフトケースはポッケの中でしわくちゃになっている。ラッキーストライク。
吸ってて良い事なんて何一つなかったけどな。
やっぱりこれも欺瞞だ。
ああ、タバコが吸いたい。
どうしてこの街はタバコを吸うのにも許可が必要なんだろう。

シャブを打ちたい。
注射器なら持っているんだ。専用の。
針先を火で炙って。
静脈にブッ刺したい。
シャブなら誰にも許可は要らない。
許可を得て打つものじゃないからね。

言ったろう?
シンナーは止めたんだ。
ガキっぽいから。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

駅から降りたところで兄貴が待っていた。
「おせえよ」
音を立てて、俺の後頭部をスワックする。

「クソしてたんです」
と俺は答えた。
後頭部をスワックされて俺は前につんのめった。

よろけた俺の目の前を黒髪の女が横切った。いい香りがした。
女の顔を見た。美しい女だった。
だけど不快そうに眉間に皺が寄っていた。
その不愉快は俺達に向いている気がした。
俺と目が合って女は目を反らした。
そして歩き去った。

ブスが。

俺は唾を吐き捨てた。
「歩け」
兄貴に尻を蹴っ飛ばされた。

いい天気だ、今日は。
そう、それだけ。
ほかに何もないだろう?
俺達には。

ぶらぶらと歩く。
ほかに何もないから。
俺達には。

いい天気だ。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

大学生の鼻っ柱をぶん殴った。
「へげえ」
ああ、こいつ、変な声で鳴きやがる。
殴られた鼻を抑えて、大学生はもう片方の手を突き出した。
もうやめてくれ、そういう合図だ。
知らないけどね、そんなの。
もう一回ぶん殴ってやった。

「いいよ、いいよ、もう」
兄貴が言った。
そして俺は殴る手を止めた。
「兄ちゃんさあ、悪いことしようとするには、あんた・・・」
兄貴は大学生の財布から札を抜き取った。
何枚あるんだ、あれ?
ガキの持つ金額じゃねえな。
このクソ野郎、儲けやがって。
「あんた、向いてないよ。」

こんなガキが儲けやがって、全く面白くないぜ。
俺はもう一回、大学生をぶん殴った。
「へげえ」
と大学生が鳴いた。
そして俺は兄貴にぶん殴られた。
「お前が殴るから、俺の話を聞いてねえじゃねえか。」

俺は頭の良い奴は嫌いだ。
兄貴はうずくまった大学生に声をかけた。
「悪いことはやめときなよ。これ、ね、授業料に貰っとくから。良いよね?」
大学生は何も答えなかった。
兄貴が俺を見た。「殴れ」そう言う合図だ。
「へぶう」
と大学生がまた鳴いた。
「どう、あんた、俺達に感謝してる?」
「じてます」
「そう、良かった。俺達出会えて良かったね。」
「はび」
「お友達になった記念に免許証貰って良い?」
「ぞれは…へげえ」
「貰って良いよね」
「はび」
「そう、良かった。俺達、良い友達になれると思うな。」

そう言って兄貴はソイツに空っぽの財布を手渡した。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

シンナーをやりだしたのは13歳だった。
13歳の俺は勉強も運動もできなくて、機転もきかず、面白い話ができるわけでなし、根暗だし。要するに何の取り柄もなかった。
友達なんて一人もいなかった。
何の取り柄もない俺はいつも学校の隅っこにいて、その場所はやはり何の取り柄もない奴らが集まっていて、シンナーを覚えたのはその場所だった。
シンナー、トルエンかな?ボンドかな?まあ、どっちでも良いけどさ、それを袋に入れて吸ってた奴がいて、ソイツがすげえ馬鹿みてえで面白かった。

一人でゲラゲラ笑っててよ。

ソイツの周りは有機溶剤の匂いが立ち込めていた。有機溶剤は揮発して陽炎のように揺らいでいた。輪郭がぼやけて薄っぺらい存在。ソイツは存在までがシンナーで希釈されていた。

俺もシンナーをやってみたら、ソイツみてえに大笑いできるんだろうか、そう思って試してみた。
気持ち悪くなって立てなくなってゲエゲエえずいた。ちっとも笑えなかった。俺だってゲラゲラ笑いたい。

暫くしてもう一度挑戦した。
頭がぼんやりして、体がふわふわして気持ち良かった。そして無性に笑えた。なんでも面白かった。隣で馬鹿な奴がゲラゲラ笑っていた。馬鹿みたいで面白かった。俺もゲラゲラ笑った。
気持ち良かった。不安なんて消えて無くなって、楽しい事しか考えつかなかった。

だけどシンナーを始めていよいよ俺は誰にも馴染めなくなった。俺はいつもシンナー臭かったし、いつも間抜け面をしていたから。俺を見ると、誰だって嫌な顔をした。シンナー臭い事を隠そうとして、俺は一人でいる事が増えた。

シンナーをやるために、俺はグレるしかなかった。グレて群れから外れた。
グレてたからシンナーをやったんだろうって?
違うね。
逆だよ。
シンナーをやりたかったから、俺はぐれたし、
シンナーをやりたかったから、俺は生きた。
結構、良かったよ、シンナー。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

俺、なんにも取り柄がないからさ、
友達付き合いも苦手だしね。
気付いたら、シンナーの売人になっててさ。

あ、俺の売ってたシンナーって普通の奴じゃないの。
よく分かんないけど、調合されてて、違法なの。
それを売るんだよね。
違法だから、普通には買えなくてさ、でも買いたい奴っていっぱいいるじゃん?
そうやって誰かに必要とされたかったのかもしれないな。感謝もされたしね。
友達も出来たよ、シンナー友達。
大体、他にできることなんて、ないじゃん、俺?

だけど、売っちゃいけないってのはさ、表の世界ばっかりじゃなくって、裏の世界でも同じでさ。
なんか怖い人たちに見つかって、殴られてさ、売り上げ全部巻き上げられて。

今日ぶん殴った大学生と同じだよな。ああやって、裏の人達ってさ、こっち側には来るなって教えてやるの。だけど俺も馬鹿だからさ、こっち側に来るしかなくてさ。
気付いたらシャブ売らされてたんだよね。でもさあ、合成シンナーよりシャブの方が良いんだって。何に?健康に・・・かな、よく知らないけどさ。
シンナー友達は死ぬ奴も多かったしね。暫く見ないと思ってたら大体死んでたよね。まあ、そんなもんなのかな。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

今日さ、ロケットが飛んだんだって。
空を見たけどさ、見えなかったよ。
俺には何ンにも。
でもさあ、シャブが決まってれば見えたと思うんだよね。
何だってシャブだよ。成功するか、しないか。
シャブがあれば何だって上手くいくんだ。
そうだろう?

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

兄貴が女を口説いてる、らしい。
俺は花を買いに行かされて、ソープに届けた。
柄にもなく大きな花束を抱えて、馬鹿みてえだな。
大体、花に種類があるなんて知らなかった。
いや、知ってるよ、知ってるけれど、花束をくれって言ったら花束が出てくるもんだと思ってたら、難しい名前がいっぱい出てきてさ。
相槌だけ打ってたら、花束が随分でかくなっちまった。
風俗行った童貞みたいだったな、俺。
馬鹿見みてえだ。

花を届けたソープは知ってる店だった。安い店だ。地域最安値。

安い店ってさ、嬢も悪いけど客層も悪いよな。
経済がさ、凄くはっきりしてるんだ。若い嬢は高い。年を取ったら安い。本人たちの取り分だってそれに比例する。
自分に付いた値札がさ、日に日に安くなっていくんだぜ。薄っぺらにさ。生きてく程、薄っぺらになっていく。
そんな世界から抜けりゃ良いのに、抜けられねえんだ。借金作らされてるし、金銭感覚が馬鹿になって自分でも借金しちゃってるし、やっぱり嬢たちもシャブとかやってるし。やめられないよね、シャブ。

俺は兄貴の名前出して、花をボーイに渡した。
一体どの女だよって聞いたら写真を見せてくれたんだけどさ。
知ってるぜ。
店頭の写真と本人は似ても似つかない。写真はね、可愛かったよ、写真はね。
嬢たちにはさ、名前も写真も年齢も、何一つ本当の事などありゃしねえ。
俺はボーイを捕まえてもう一回聞いた。
「ねえねえ、どんな女なんだよ」

若くて頭の悪そうなボーイは舌を出して答えた。
「ババアですよ」

兄貴は金回り悪いし、頭も悪いし下品だから女にはモテねえんだ。
見てくれも悪いしよ。すきっ歯なんだよな。喋ってると唇の上に薄く張り付いたヒゲがピョコピョコ踊ってさ、その下にすきっ歯が並んでる。
すきっ歯の向こうに空洞が覗いている。不気味だよ。

兄貴みたいな奴はババアのソープ嬢にしか相手にされねえんだな。だけど、その子分の俺なんて、言わずもがな。もっと誰からも相手にされねえ。

俺はボーイに拳骨を喰らわせた。
「痛いッスよ」
コイツも俺たちと同じだ。何の取り柄もねえ。落ちた先がコッチかアッチかの違いだけだ。

「正直、嬢たちからは嫌われてますよ。威張るし自慢話ばっかりだし。そのクセ、パッとしないし。」

俺はまたボーイに拳骨を喰らわせた。
「いてえ」
「お前、そうやって人を見下すな」
お前も俺も、同ンなじだよ。
頭も性格も素行も悪い。
同じ穴のナントカさ。

「ロクさんも、たまには来たらどうですか?もし、時間があるなら今、空いてますよ。カンベさんの女、ユウって名乗ってるんですけどね、いつも暇してんですよ。指名もないし。」

「バカ」
「ロクさん、嬢にはモテると思いますよ。客はジジイばっかりですからね。この前の客なんて80歳のジジイですよ。ジジイが何しに来るんだか…いてえ。」

「ナニしに来るんだろ。そうやって、見下すなよ。客商売だろ。」
「いや、本当にロクさん、案内しますよ」
「女は良いから、トイレ貸してよ」
「またシャブですか?死にますよ?」
「うるせ」

トイレの中からボーイの毒づく声が聞こえる。
「うぜえ」
「シャブ中」
「きめえ」
安い作りの安い店、安いボーイに安い嬢、安い客。ああ、早く静脈にぶっ刺してえ。
夢が見てえ。

気が急いて針先が震える。落ち着けよ、慌てるなよ。もうすぐだぜ。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRが

蠅が飛んでいる。
一匹。
二匹。
もっと多く。
増える。

他の奴らには見えないんだ。
これが本ン当なのにさ。
これが本ン物の世界なのにさ。
蝿どもはいるんだぜ。
何処にだって。

今日も元気さ。
俺も。
蝿たちも。
不安なんて、ない。

狭いトイレに増殖する蝿たちが
夥しく空間を満たしていく。
壁は真っ黒に。
表面が脈動して蠢く。
蝿どもが空間に侵食して、溶けた歯茎の隙間から口内に。毛穴から皮膚に。
俺の中に蝿どもが入ってくる。
満たされていくんだ、黒く。

部屋も、俺も全て黒く。
押し寄せてくるような蠢く黒壁。
その隣に。
俺の隣に。
同ンなじような奴がいた。

狭い部屋の中にもう一人いるんだ。
狭いったらありゃしねえ。
しかも、ソイツすり寄って来やがる。
真っ黒なソイツ。
真っ黒に蠅がたかっている。

ああ、もしかして。
いやきっとそうだ。
兄貴の女ってコイツか。
何だ、男じゃねえか。

いや男でもねえ。
ウンコだな。
これは。
俺はソイツに触れてみた。
柔らかい。
そうだ、この感触はウンコだよ。
蝿まみれのウンコじゃねえか。

バワわわワわわ。

と、ソイツが言った。

ああ、なんだ。
お前、俺がしたウンコなのか。
え?
俺の中に帰りたいのかい?
どうかなあ、難しいと思うけどなあ?
ちょっとやってみる?

兄貴の女は俺がしたウンコだったんだなあ。
俺たちは一つになろうとしたが、表面を覆う蠅が邪魔して難しいようだった。
アダムの肋骨からイブが生まれたように。
俺はウンコから女を作り出した。
だけど、イブがアダムの肋骨に戻れないように、お前も俺の中に戻るのは難しいんじゃないかな。だってウンコだし。
ウンコって体の中に戻るものだっけ?

バワわわワわわ。

ああ、なんて悲しいんだ。俺たちは。
離れ離れになんてならなきゃ良かったのにね。
もう、俺ウンコするの止めるよ。
肛門を塞いでさ、二度と悲劇は繰り返したくないな。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

ロクさん、と呼ばれて目が覚めた。
ここ、何処?
この天井に見覚えはない。
俺を呼ぶお前にも見覚えがない。

「しっかりして下さいよ」
あ、なんだ。ボーイだ。
「もう閉店ですよ」
閉店?

「帰ったらどうですか?」
なんだ、俺。まだ店にいたのか。
「悪いね、寝てた、俺?帰るよ」
「シャブ、止めた方が良いですよ。死にますよ。」
「ん?そう?」
口の中が苦くて酸っぱい。
覚えてないけれど、吐いたらしい。
床に唾を吐き捨てた。
白い床材に赤いコアグラが張り付いた。
意識をトバしてた間に血を吐いたらしい。

「悪いけど、水もらえる?」
ボーイはコップに水を汲んで持ってきた。
店内に人の気配は無かった。

「悪いね」とコップを返した。
受け取ったボーイの目には見覚えがある。
軽蔑の目。

俺の周りにはこんな目をした奴らばっかりだ。昔から。
こんな目から逃げ出すために、俺はシンナー吸ってたんだよな。ボーイ、お前もやって見りゃ良いんだよ、シンナー。
何にでも毒づくくらいならさ。
そうやって膨れるくらいならさ。
シンナーやってみろよ、何だって許せるようになるぜ。
俺が吐き捨てたコアグラをボーイが布巾で拭っていた。

「へへへ」と俺は笑って店の外に出た。
風俗店の閉店は早い。
街にはまだたくさんの人間が飲み歩いていた。

体が痛い。いつもの事だ。どうせ倒れる時にどっかにぶつけたんだろう。

「あの」と声を掛けられた。
知らない女だ。
「誰?」
「ユウ、です」
「だから誰?」
何、ゆう?って?名前?

「さっき、店内で相手をした」

え?相手?何の?

「ああ、そうなの?俺何かした?」
店の嬢か。こんな女いたっけかな。俺は店内の写真を思い出そうとしたが、女の顔に見覚えはない。どうせ写真は作り物だから、実際に女の写真があったとしても本人と分かるはずも無い。

「いえ。それより時間、ありますか?」
神妙な顔をして、きっとロクな話じゃないな。
この女、俺が出てくるの待ってたのかよ。きめえ。

暗い女だった。
「どっか入る?」
と聞いたものの、飲み客で賑わう街に、俺たちの居場所は無いように思えた。
「知ってる店があるから。」と、女が言った。
地下にあるスナックに俺たちは入った。店内は暗い。カウンターの中には男だか女だか分からない店員が一人だけいる。他に客はいない。
「知ってる店」と、言ったが顔を見知ってる素振りはない。こんな所に、こんな雰囲気の店がある、それだけの事らしい。

「話って?」

ビールを注文したらコロナが瓶で出てきた。そういう類の店らしい。
ユウと名乗った女もビールを頼んだ。

「カンベさんの事なんですけれど」
ああ、なんだ。この女、兄貴の女か。思い出した。やっぱり写真とは全然違うじゃねえか。
さっき、この女、「店内で相手した」って言ってなかった?俺、やったのか。この女と。覚えてないな。

温められたオシボリで顔を拭った。
口の周りにこびりついた血が、吐瀉物が赤い染みを作った。

「花、どうした?」
兄貴からの花を届けた筈だぜ、俺は。
「捨てました。」
兄貴は嫌われてるから、とボーイが言ってたな。さぞかし嫌われてるんだろうな。
兄貴は俺から見てもうぜえんだ。
下品な冗談、自慢話。
強きにへつらい、弱きに威張る。
吝嗇家で金払いが悪い。
チョビ髭のすきっ歯。
欠点ばっかりだ、きめえ。

「そう、捨てちゃったの。」
折角花を選んだのに。
キレイだったのにな。
「もうお店に来ないように出来ないんでしょうか。」
「週に2回も3回も通ってんだろ?」
「はい、毎回私が相手する訳じゃないですけれど」
「それを通わせないように、なんて無理だよ」
他に通える店でもあれば別だけど、そんな店ないし。
結局、あんたらはさ、俺や兄貴みてえなハンチクのチンピラに充てがわれた店なんだよな。そんな店に勤めるまで落ちぶれて、落ちぶれた事にも気付かねえんだ。

女は兄貴の話に始まって自分の身の上を延々と喋り続けたが、それには多分に脚色が混じっているだろう。うんざりしながら、俺は適当な、相槌を続けていた。

「ところで『きめえ』って知ってる?」
「何?きめえ?知らない」
「気持ち悪い、の意味」
「きめえ?」
「そう、きめえ」
「変なの」

ビール一本で一時間以上も粘って、ユウが漸く一呼吸ついたのを見て、「帰ろう」と俺は言った。
「あの」とユウが、何事か言い淀んだ。

「ブラジャー」
とユウが言った。
多分聞き間違いではなかった。
「ブラジャー?」
俺は聞き返した。
「返してくれませんか?」
と、ユウが言った。
「意味が分からないんだけど」
と俺が聞くと
「ここに」とユウが俺の胸元を指差した。
「ここに?」
とシャツのボタンを外して胸元を覗くと、俺はブラジャーをしていた。
真っ赤なブラジャー。
「返して下さい、あの、ショーツも。」
まさかと思ってズボンの隙間から中を覗くと、果たして俺は女物の真っ赤なショーツを履いていた。

俺は女の顔を見た。
恥ずかしそうに赤い顔をしていた。

俺たちはタクシーを拾った。
俺の部屋はユウの帰り道の途中であったので、俺は部屋の前に着くと、じゃあ、と言ってタクシーを降りた。そのまま階段を上がろうとしたが、タクシーがなかなか出発しない。と、思ったらユウがタクシーから降りてきた。そしてタクシーは走り去った。

「あの」
ユウが階段の上の俺を見上げる。

安アパートの階段の蛍光灯はかったるそうにチカチカと明滅した。
音を立てて風が鳴る。
そう言えば冬だ。
吐いた息が白い。
シャブが抜けて感覚が戻ってきた。
俺は首筋を吹き抜ける風に身震いした。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

ユウが行方不明になったのは、俺が濫行を働いたからだ、と専らの噂になっていた。(その噂の出所はあのボーイしか考えられない。)
あの日以来、ユウが店に出勤をしていないのだ。
そしてユウが取った最後の客が俺、ということだった。

噂が広まったにも関わらず、兄貴だけが何も知らない。誰も兄貴とは喋りたがらないからだ。
「バカヤロ」
と兄貴が若い奴をスワックしている。
喋る度にすきっ歯から唾が飛ぶ。
兄貴は女に逃げられてから、事あるごとに周囲に当たり散らしたため、日頃の倍、厄介な人物になっていた。

そして被害にあった人間(やはりこれも例のボーイであろうと思われる)が、本部にそれとなく情報という名の愚痴をこぼすので、兄貴の立場は日に日に悪くなっているようにも見えた。

と、俺は夕食を作っていたユウに語った。

あの晩からユウは俺の部屋にいるのだ。
自分の部屋にも戻らず、店にも出ない。
だけど、誰も気にしない。
兄貴を除いて。
よくある事なんだ。
嬢が急にいなくなるなんて事は。

「そう」
鶏もも肉のシチューを煮ながらユウは軽く相槌を打った。
ユウにとってもよくある事なんだ。
誰かから、何かから逃げ出すなんて事は。

俺達はテレビを見ながら夕食を食べる。
「シチューって、ご飯にかける?」
とユウが聞いた。
「かけないよ」
と俺が言った。
「かけると美味しいよ」
とユウが言った。
「シチューって、何かける?」
と俺が言った。
「何にもかけないよ」
とユウが言った。
「醤油をかけるよ」
と俺が言った。
「かけないよ」
とユウが言った。
「かけると美味しいよ」
と俺が言った。

テレビではクイズ番組をやっていた。
「群れから外れた子象を探すために象たちは大移動を止めました。子象が見つかるまで、象の群れはその場に逗まる事に決めたようです。さて、ここで問題です。象が子象を探すために取った驚きの方法とは、一体何でしょうか。」
とテレビが言った。

「寝るよ」
と俺が言った。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRR

目を開けたまま、布団に入って天井を見つめていた。
蠅が飛んでいる。
天井を暗い影が周回する。
布団の中がもぞもぞと動く。
布団の中に蠅がいるのだ。
夥しく。

皮膚がむず痒い。
皮膚の下にもいるのだ蠅が。

気がつくと俺は布団の中に横たわる一本の剛直な排泄物になっていた。
道理で蠅がたかると思ったら、奴らは俺に産卵していたのだ。
そうこうしているうちに卵は孵化して蛆が湧いていた。くすぐったいと思ったが、俺は一本の剛直な排泄物であるので仕方なかった。
つまり俺はウンコなので為す術が無いのだ。
全く何奴が布団の中にウンコなどしたのだ、と俺は憤った。
布団の中にウンコをしてはいけない。

その布団の中でウンコをした(と思しき)ヤツは隣で眠っていた。見知らぬ老人のようであった。
しわくちゃで年は八十を超えているものと思われた。
爺さん、布団の上でウンコなどしては駄目じゃないか、とウンコである所の俺は言った。
爺さんはムニャムニャと寝言を言った。
俺は紛れもなく布団の中の剛直なウンコである。ウンコであるからには片付けられねばならぬ。だが、もしかして俺を片付けるものは誰もいないのではないか。
俺は急に不安になった。
ウンコを片付けねば大変汚いからだ。

「爺さん、ちゃんと片付けなよ」
と俺は言った。
爺さんは呆けているようであった。
俺の中は蛆虫たちの学校のようになっていたが、孵化したばかりのもの、旺盛なもの、蛹化したものと様々な発達段階に分かれていた。
そのうち蛹たちの背がひび割れて、黒い体色の彼らは俺の表面から涌出でて、一斉に飛び立った。

その時、爺さんが、ギョロ目を向いて俺を見ていた。何事か言いたそうな目であった。

第三視点に切り替わった時、俺はユウの顔を覗き込みながら「俺を片付けろ」と呟いていた。それを見て爺さんが言った。

「お前は何を言うとるんじゃ」
俺は振り返った。
よく見ると爺さんじゃなかった。
憔悴した俺だ。
真夜中の鏡に俺が映っていた。
まるで老人のような顔だった。

その隣でユウは寝息を立てていた。
俺も目を閉じた。
パルスが明滅して目の裏側に閃光が走る。断続的に。冬の稲妻のようであった。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

ある夜のこと

ねえ、と暗闇でユウが言った。
なに、と俺が言った。

できないの?
とユウが言った。
ごめん、と俺が言った。

シャブを打っても?
とユウが言った。

俺は壊れた脳みその半分側に性機能を置いてきてしまった。立たないんだ。
だから俺は人を愛する事ができない。

いいよ、とユウが言った。
そしてまた、ねえ、とユウが言った。

なに?
今度、あたし誕生日。

へえ?いつ?
明日。

そうなの?
そう、今決めた。

おめでとう。
なんか欲しいものとかある?
なんにもないよ。
本当に?

ユウは俺の胸に顔を押し付けた。

誕生日を迎えたら、またあたしの値段は下がるの?
もっと安い店に行かないと駄目?

もう、そんな事無いんだよ。
お前はそんな輪の中からは外れたんだ。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

もしかしたら
シンナーを吸えば
俺の半分は埋まるのだろうか

有機溶剤の中に溶け出した俺の半身が
あるような気がする

シンナーを吸えば俺の半身を取り戻すことができるし、人を愛する事ができる気がする

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

「あのさ、」と俺はボーイに尋ねた。
「女が喜ぶプレゼントって何かな」

ボーイはニヤニヤと笑った。
「ロクさん、女でも出来たんですか?」
「うるせえ」
「何処の女ですか」
「いいからさ、」

人が何を貰ったら喜ぶのか、俺には皆目分からない。まさか、シャブなんて貰ったって喜ばないだろう?
「花とかあげれば良いのか?」
花。
あの花束の中に綺麗な名前の花があったな。
捨てられちゃったんだよな、あれ。
名前、覚えておけば良かった。
「ロクさん、ズレてるなあ。花はプレゼントに添えるものでしょう?」
「分からねえから、聞いてんだって」
「女へのプレゼントねえ」
とボーイはちょっと考えた。
「もう、やってんすか?」
「やってねえよ」
「ええ、やってねえんすか」
「いや、本当に、そう言うのイイカラさ…」
「じゃあバッグとか良いんじゃないすか」
「そんなんでいいの?」
「あ、分かってないなあ、ロクさん」
「バッグって凄えんですよ」
「何が」
「値段が」
「いくら?」
「サンジュウマン」
「お前、人を担ぐなよ」
「…」
「マジなの?」
「マジすよ」
「他のじゃ駄目なの?」
「笑われますよ」
「あのさあ、頼みがあるんだけど」
「何すか」
「金、貸してくれない?」
「嫌ですよ…っいてえ」

サンジュウマンだってさ。
世の中一体どうなってんだよ。バッグだろ?そこら辺に売ってるじゃねえか。

金策について煩悶している俺の横で、
珍しく兄貴が機嫌良さそうにしていた。
「どうしたんですか」
と尋ねると
「いえっへっへ」と笑った。
パチンコで買ったんだとさ。
10万も。

「兄貴、あのさ、」
ニヤニヤしながら何度も札束を数えている兄貴に話しかけた。
「なんだよ」
「金貸してくれませんか」
「何するつもりだよ」
「ええと女にさ」
「女?」
「いえ、やっぱり良いです…」
「なんだよ、言えよ」
「いや、良いです…」

兄貴から借りた金でユウへのプレゼントなんて、買える訳がねえ。
困った俺にはもう頼れる奴がいねえ。
困った足は本部に向かった。

本部に並んだ机に部長が座っていた。
難しい顔をして携帯電話の小さな画面を覗いている。

「金借りてえんですけど」
と俺は部長に言った。
部長は何も言わなかった。
坊主頭に青筋が立っている。

俺はもう一度「金借りてえんですけど」と言ったが、やはり部長は何も言わなかった。

「あの」
「黙ってろ」
部長は携帯電話の小さな画面をフリックしていた。
チラリと見えた画面に色とりどりの粒がひしめいていた。
ゲーム、のようだ。
次の瞬間、それらは歪み、画面は真っ暗に。
GAME OVER

「お前、邪魔するんじゃねえよ」
突然怒り出した部長に脛を蹴られた。
「すいません」
「何の用だ、殺すぞ」
「金を借りてえんですけど」
「ああ?」
「金が借りてえんですけど」
部長が立ち上がった。手に石の灰皿を握っている。ゲームに失敗したからなのか、性格なのか怒り心頭に達している。
「ロクに顔も見せねえ奴が何を言ってんだ、ああ?」
と猛って胸倉を掴まれた。勢いで負けてはいけない、と俺は肚を決めた。
「用がねえから来ねえんですよ」
「それが今日は何しに来たってんだ」
「だから金を貸してくれってんですよ」
「お前に貸す金なんてねえんだよボケ」
「そこを何とかと頭を下げてんでしょうが」
「頭下げてねえじゃねえか殺すぞ」
「頭下げたら貸してくれんのかよ」
「頭も下げねえ奴に貸す訳ねえだろアホンダラ」
「あんたに頼んでんじゃねえ会社に頼んでんだ」
「会社の金でも許可すんのは俺だ」
「さっさと金持って来いってんだ」
「だからそれがモノ頼む態度じゃねえってんだ死ね」

激昂の応酬が続く中、奥のドアが開いた。
「うるせえ、なにしてんだ」
専務だった。
「ロクが金貸して欲しいそうですよ」
「金借りてどうすんだ」と専務が言った

「女にバッグを買うんです」

部長と専務は訝しげにおれを眺めた。
「バッグは高えんですよ」

「ふーん」
と部長と顔を見合わせた後、専務は言った。

RRRRRRRRRRRRRRRR

午後、俺はサンジュウマンを持って街を歩いていた。
プラダのバッグを買わなければならない。

だがそんなものが何処に売ってるのか分からなかった。
「プラダのバッグを探してるんだけど」
「うちにはありません」
「何でだよ」
「そう言われましても」

何軒か店を周ったけれど、バッグが見つからない。もしかしてそんなもの存在していないんじゃないか。
散々歩いて喉が乾いた俺は喫茶店に入った。ビールを頼んだ。嫌に高かった。

気を取り直して俺は次の店に行った。
「プラダのバッグをさ…」
その店でようやく俺はバッグを見つけた。
でも買えなかった。
小銭がちょっとだけ足りなかったんだ。さっきビールを飲んだから。

「ちょっとお金足りないんだけど」
「それじゃ売れないですよ」
「でも、ちょっとだけなんだよ」
「駄目ですよ」
「良いじゃねえか」
「警察呼びますよ」

店員は防犯ベルを鳴らしやがった、
ベルがけたたましく鳴った。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

俺さ、シンナーやったら
ちゃんとできる気がするんだよ
色んなものが元に戻る気がするんだよ

有機溶剤ならなんでも良かった。
俺はユウの除光液を吸った。
だんだんとフワフワして来る。
いつか見た光景。
霧散した日々。
もう少しなんだ、もう少しで…。

そこで気持ち悪くなって俺はゲエゲエと吐いた。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

ユウとラーメンを食べていた。
鄙びた店だった。
「あ」

ユウが箸を落とした。

箸を。
落とした。

ラーメンを。
食べている。
箸を。
落とした、のだ。
怒りが沸々と湧いた。

「何を、してるんだ」
と、俺は叫んだ。
そしてテーブルを蹴っ飛ばした。

「お前は俺を馬鹿にしているのか」
「わざと、やっているんだろう」
「そうやって、俺を、馬鹿にして」
「俺を台無しにしようと、している」
「そうはさせない」
言葉が止まらなかった。
ラーメンの器を投げつけた。
「俺がそうはさせない」

喋れ
貶めろ
死ね

皮膚の下の蝿どもが囃し立てる。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

エレベーターのドアを開けると兄貴がいた。
俺を見ると、ギョッとしてたじろいだ。
俺が兄貴に向かってマシンガンを構えていたから。

「ばわばわわわわ」
と俺は言った。
マシンガンは偽物だから。
俺は口真似で撃つフリをした。

安堵した兄貴は人懐こく笑って、俺をスワックしようとした。

乾いた銃声がして、兄貴は倒れた。
俺は手にピストルを持っていた。
こっちは本物だった。

ばわばわわわわばば
ピストルはマシンガンではなかったから、やっぱり俺はマシンガンの口真似をしてみた。

足元に兄貴が倒れていた。

RRRRRRRRRRRRR

俺とユウは水族館にいた。
ユウはガラスに額をつけて、群れて泳ぐ魚たちをみていた。
青い光がユウの顔を照らしていた。
ここは深海のガラスポッドの中だ。
俺達以外には誰もいない。
透明な最底辺。
俺達にはもう居場所がない。

円柱状に象られた水槽は天井に光を湛えていた。その光条が魚たちの鱗を煌かせていた。
群れて泳ぐ魚たち。

「マイワシ」
とユウが説明文を読んだ。

ニシン目・ニシン科に分類される。樺太から南シナ海までの東アジア沿岸域に分布する。
海岸近くから沖合いまでの海面近くに生息し、大群を作って遊泳する。春から夏にかけて北上、秋から冬には南下という季節的な回遊を行う。
イワシの名の語源は「弱し」から。水に……とすぐに死ぬ事、他の多くの魚に捕食される事などから。

…が、読めない。
「ばげる?」「はげる?」
と「揚げる」の読み方に悩んでいたら、隣の奴に変な目で見られた。
また、この目。

「行こう」

群れる事のできなかった俺たち。
落ちぶれて深海に潜る。
深く。
息を堪えて、深く。

RRRRRRR

厚いガラスを拳で殴る。
ぶち壊してやる。
俺が。
ぶち壊してやる。

RRRRRRR

俺は取り押さえられていた。
何で止めるんだ
お前ら
何も分かってない奴らが
きめえ
群れてるお前らがきめえ

RRRRRRRR

再び俺は見知らぬ天井を見ていた。
白い部屋で白い服の人たちが働いていた。
ああ、のっぺらぼうみたいだな、と俺は思った。

ユウは何処にもいなかった。
「なあ」と俺はのっぺらぼうみたいな人たちに尋ねた。
「俺の女は何処に行ったんだ?」
誰も答えなかった。
そして部屋は無人になった。

ゾワゾワと皮膚が泡立った。
皮膚が波打っている。
上皮の下に隙間ができていて、俺の蝿どもは其処をねぐらにしているのだが、奴らが騒ぎ出したのだ。
「此処から出せ」
と奴らが言う。
解放しろ、と。
この声は白い服の人たちには聞こえない。
「此処から出せ」
蝿どもは俺の皮膚の下を這いずって出口を探した。
皮膚を食い破ろうとする奴もいれば、内側に潜っていこうとする奴もいた。

全身が痛む。
皮膚は黒い柘榴のように蝿どもでひしめいている。

白い部屋に置かれたベッドに老人が寝ていた。
むにゃむにゃと寝言を言っている。
半透明のビニール袋みたいな白い服の人たちが老人を取り囲んでいる。

俺の体内の蝿どもは怒っていた。
白い服の人たちに。
「ここから出せ」
と蝿どもは言った。

俺は嘔吐した。

吐瀉物から蝿どもが飛び立った。
白い部屋はたちまち黒く染まった。
蝿どもが壁に巣食って脈動していた。
半透明の白い服の人たちは慌てて逃げ出した。

「女は何処だ」

俺は老人に尋ねた。
老人は乾燥していた。
生きているようには見えなかった。
もしかしたら木で作られた彫像かもしれない。半開きの口がウロのようであった。
「女はいない」
と空洞の奥から声が聞こえた。

「女はもういない」

RRRRRRRRR

退院した後に、俺は例の店に行ってみた。
「あの日以来、ユウは見てませんよ」とボーイは言った。
「ユウ」
女はそう名乗っていた。
偽名だった。本当の名前は知らない。
嬢たちに何一つ本当の事などない。
「ユウ」と名乗る人間が一人消えた。

だが、すっかり俺たちはそんな状況に慣れていた。誰もそれを不思議に思う者はいない。
今日、出勤する筈の嬢が来ない。

辞めて別の店に行ったんだろう?
小銭を溜めて海外旅行にでも行ったんじゃないか?
男と逃げたんだろう?

誰も気にしない。
嬢たちは身一つで店に来て、店が用意した部屋を充てがわれ、少し其処で暮らして、また他の店へと消える。
彼女たちの履歴書はデタラメで年齢も名前も素性もしれない。
そんな人間が今日も現れては消える。

円柱状の水槽を泳ぐマイワシの、一匹ずつに名前が無いように、彼女たちにも名前はない。
彼女たちは銀の鱗を輝かせながら周遊する魚たちなのだ。

RRRRRRRRRRRR 

兄貴が退院したので迎えに行った。
松葉杖でビッコを引きながら歩くので、俺も歩調を合わせてゆっくり歩いた。

初詣客達と、すれ違う。

若い女が振り袖を着ていた。
金糸が太陽を反射していた。
「めでてえ」
と兄貴が言った。

初詣客の歩く向きとは反対に俺と兄貴は歩いた。
擦れ違う奴らは俺たちを軽蔑の目で見る。目が合うと視線を逸らす。奴らにとって俺達は見えない存在なんだ。そして俺達にとっても、やはり奴らは見えない存在だ。
俺達はお互いに存在を希釈して透明の中に暮らしている。

「めでてえ」
と兄貴が言った。

天気が良かった。
これだけで兄貴は気分が良くなるようだ。
俺はもう一度空を見た。
天気が良かった。
俺達には他に何が必要だ。
何も必要なものなんてない。

天気が良い。
ぶらぶら歩く。
それだけだ。

それだけを幸福と信じて、代わり映えのない毎日を送っている。

だが、悪くない。
そうだな、悪くないぜ。

(短編小説「シンナー」村崎懐炉)

#小説 #アウトロー #詩人 #ドラッグ