俳句日記「節分」

節分の鬼現れて(俄に表情は恐怖と色を浮かべて強張り二三歩後ずさりして)そして逃げ出す子どもかな

記憶の糸を辿ると、最近節分という行事があった気がする。遅ればせながら日記に記す。

下手くそな鬼も怖がる子どもかな

幼児(二歳)が鬼を怖がって泣く。
保育園では鬼が現れると泣き叫ぶ子どもたちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う阿鼻叫喚となっているらしい。

この現象は非常に興味深い。
なにせ子どもの眼の前で鬼の面を被っても泣くのだ。
鬼の面を被るところを見ているので、中身が私であることは分かっていそうなものだが子供は恐怖におののいている。

自らの鬼も怖がる子どもかな

あまつさえその鬼の面が子供自らの作成したものであったとしても、この現象は起きる。

鬼はなくしてしらかみの鬼や 子供の前に立つ

どこまで幼児が鬼という概念を理解しているのか知るためにスケッチブックに鬼の顔を描いて顔に合わせ、子どもが泣くかどうか試してみた。

普通の鬼。
顔に合わせてお面のようにしないと泣かない。
絵なら大丈夫らしい。
顔に合わせれば泣く。

輪郭と角、そして牙。
目を無くしてみた。やはり泣く。

輪郭、角。
泣く。因みに絵が下手なので鬼を描いても牛にしか見えない。

輪郭のみ。
泣く。何をやっても泣く。
別に私が嫌われている訳ではない。
あと泣きそうになったらすぐに止めてあやしてるから。別に虐待とかじゃないから。

とうとうスケッチブックは白紙になった。
白紙のスケッチブックで顔を隠し、子供の前に立つ。
ところがこれも怯えるのである。

つまり子どもは顔だけでおよそ個人を特定しており、顔が隠れると最早誰だか分からない。誰か分からぬ者が目の前にいる事が恐怖となる、ようである。

鬼以前の問題であった。
この話をコラム的に展開すると幼児は顔のコミュニケーションになるので、幼児に接するときはちゃんと自分の顔を見せよう、といったところか。

豆撒きて豆拾う子どもかな

豆も撒きました。