幻想紀行「やまびこ」

山間の村に旅行をした時の事、近くに面白い観光名所があるとガイドが言うので連れて行って貰った。
高山鉄道に乗って30分程。峻険の山間を進んで着いたところは山中の無人駅である。

かつては鉄鉱を産出する鉱山の町としてそれなりに栄えたと聞いたが、それも半世紀も昔の話で今は当時の名残は残っていない。
駅舎から一歩出ると少し開けた平地に家屋が五六戸並ぶ。どれも民家であるが、その一つに酒と書かれた立て札が出ている。観光客相手に自家製酒を商っているらしい。
米を発酵して蒸留したものらしいが、見た目は濁り酒や白酒に似ている。磁器の徳利で売られているものを一つ求めた。親切な奥さんが同じ磁器の盃を二つ付けてくれた。

駅から離れて道中に点在する家々の前を通り過ぎて、更に半刻程山道を登ると目の前にトンネルが現れた。
この村には鉱石を運ぶためのトンネルが随所に掘られていると言う。村の人達が古くから隧道を掘ったので時代ごとの大小様々のトンネルが見受けられる。いま僕の目の前に開くトンネルもその一つである。

この先だよ、そう言ってガイドは躊躇なくトンネルに入っていく。どうやら彼にとっては馴染みの深い場所のようだ。彼は観光地だと言ったが、観光地にしては寂れている。よく見知っているようなので、彼に縁のある村なのかもしれない。尋ねようとしたが、彼が足早に進むので聞けずじまいであった。

トンネル内は真っ暗であった。
少なくともトンネル内は観光地化されておらず、電灯一つ点いていない。
頼るものも無く真っ暗な道を進む。程なく進むと入り口からの光も途絶えて完全な暗闇となった。となると、足元も見えず思うように進むことができない。大穴が空いていても気付かぬような暗さである。穴などなくてもちょっとの段差で躓いて転ぶこともあるかもしれず、恐る恐るつま先を出して地面があることを確認してから進んだ。
僕がおっかなびっくり進む間にガイドの青年は夜目が効くのか僕を置いてさっさと歩いて行ってしまった。

そして僕は暗がりに一人取り残され、はたと得体の知れない不安に襲われた。言いようのない胸騒ぎである。なんの気の所為と頭を振って強がったが、暗闇に平衡感覚まで可怪しくなりぐらんぐらんと目眩がした。これは良くないと、足早に隧道を抜けようと思うのだが、足を一歩前に出すことが重苦しく動悸ばかりが激しくなる。そのくせ、足元には力が入らず宙に浮いているやら、海底に沈んでいくのか分からないような不覚の状態に陥った。数メートルを進む僅かの時間が何時間にも感じられる。生きた心地がしない。いやもうここは地獄なのかもしれぬ。

体の重さは僕の因業が纏わり付いているようだった。僕が避けて通ってきた罵詈雑言、僕が蔑ろにしてきた疎遠が黒い縄を搦めて僕を責める。
足を前に出すことに集中しようとするのだが、こんなときにいらぬことばかり考えてしまう。
泣いている子どもがいた。
ずっと長い時間一人で泣いている子ども。

そして喘鳴が聞こえる。地を這うような不快な喘鳴が耳元に聞える。

隣に体温を感じた。暗闇が形を伴って僕を抱きすくめるような鈍い空気の塊に包まれて、暗闇の体温を皮膚に感じる。
毛穴から暗闇が入っていくような。
或いは僕自身が黒ずんで暗闇になっていくような。

喘鳴が大きくなる。
その喘鳴は僕であった。僕の喉奥から嗚咽が漏れているのだ。

僕の感覚器は混濁している。
ああ、これは危険だ。
僕はきっとここから抜け出せない。
僕が莫迦だったんだ。
僕が莫迦だった。

蒙昧の中で、僕は前のめりに倒れて膝を付いた。
地面がそこにあった。
膝に、掌に地面があった。
明かりが差していた。
出口はすぐそこにあった。

トンネルから出ると其処は崖であった。
眼前に切り立った山々の峰が厳然とそびえる。
その峰の端を雲が流れている。

先に着いた青年が伸びをしていた。
先生、遅かったじゃないかと青年が屈託なく言った。
僕は額の汗を拭った。
先程まで囚われていた自己破断が嘘のようだった。

ここは?
僕は尋ねた。

見晴らしの良い崖ではあるが、ただそれだけのようにも見えた。

ここは「やまびこ」の名所なんだ。
ここで大きな声で「やまびこ」を呼ぶと、不思議な事に「やまびこ」が後ろから返ってくるんだよ。
と、青年が言った。

僕はおおい、と「やまびこ」を呼んでみた。
先生、そんな、小さな声じゃ駄目だぜ
と青年が笑った。

僕はもっと大きな声で「やまびこ」を呼んだ。

おおい

僕の声はわんわんと残響を残して山に吸い込まれた。その余韻が収斂して、それから僕の背後のトンネルの中からおおい、と「やまびこ」が返った。

確かに僕の声であった。
背中で聞く「やまびこ」は不思議な引力を有していた。幼い僕が未来の僕を呼ぶような。
なくしてしまった故郷からの呼び声のようだった。

ほらね、と青年が笑った。
やまびこは微かに響いて、そして消えた。
音の波紋が僕の隅々を満たすようだ。

清々しい気分だった。

崖に座って先程買った白酒の封を切り一口飲んだ。ふくよかな味わいの蒸留酒だった。
蒸留酒には珍しく白濁としている。
息を切らした所に流れるアルコオルは血中に沁みて程よい酩酊を促した。

ここは僕の姉が嫁いだ村なんだ。
と、青年が言った。

君のお姉さんはじゃあ
途中の家に住んでいるのか?
僕は尋ねた。

いや、姉はもう死んだんだ。
この村で。
ほら。
と、青年が指差した。

粗末な墓があった。
先に着いた青年は墓の周りを掃除していたのだろう、小奇麗になっていた。

このような村の外れに墓があり、其処に青年は通いつめ、やまびこの不思議を発見するに至るまでの姉弟の物語は推して知るべし。

風が颯爽と吹いた。
高山植物が風に揺れる。

雲間から青空が見えていた。

僕は何もかも合点した気持ちになって、青年と盃を交わした。

9

ムラサキ

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