第三夜

『百物語』第三夜「東京に棲む黒い虫」

 僕がまだ、上京したての頃だから、もう八年ほど前のことである。

 当時、僕は有楽町線の沿線である護国寺に住んでいた。会社が同じ沿線の麹町にあったので、護国寺と麹町の駅を行ったり来たりする毎日を送っていた。

 いつものように、仕事を終えて有楽町線のホームからメトロに乗り込み、耳にイヤホンを差し込んで音楽を聴きながら地下鉄に揺られる。

 電車の中にはたくさんの人が乗り合わせていたので、座席に座ることができなかった。疲れた身体をつり革を持つ手に委ね、立ちながら目を閉じて、イヤホンから流れる音楽に耳をすませながら、しばしの休息をとる。


 すると、肩を強くトントンと叩かれた。

 「何事だろう?」と思って振り返ると、そこにはひとりの老紳士が立っていた。背が曲がっていたが、とても綺麗に白髪を整え、良く手入れをされた黒のスーツを身にまとっていた。足が不自由なのか、片手には杖を持っている。

 状況がよくわからなかったが、老紳士の後ろの席だけが空いていたので、わざわざ座っていたところから、混雑する電車の中に立っている人たちを押しのけて、僕の背中越しまで近づいてきたということがわかり、何か異様なものを感じた。

 老紳士の口がしきりにパクパクと動いていて、何かを僕に伝えようとしていることがわかった。耳につけたイヤホンから大きな音で音楽が流れていたため、何を言っているのかをすぐに理解することはできなかった。

 僕はとっさに、老紳士の口の動きに注目する。

「…し…」

「…し…!…む…し…!…」

「…む…し…!…虫!虫!」

 虫? 勘違いかもしれないと思い、片耳のイヤホンを取って驚いた。老紳士は僕に向かって、しきりに「虫」と連呼していたのである。

 そして、老紳士は「虫」と連呼しながら、僕の肩越しを指さしている。

 僕は自分の肩を確認して、仰天することになる。

 なんと、僕の肩には、今まで見たことのないような、足の長い巨大な黒い虫が乗っていたのだ。

 驚愕した僕は、その場で身体を激しく揺さぶった。

 すると、巨大な黒い虫は、電車の床にボトリと落ち、ガサガサと長い足を動かして床を這った。

 そこで、さらに驚くべきことが起こる。

 なんと、床に落ちた巨大な黒い虫を見た老紳士は、すかさず足をふみならすように動かし、虫を勢いよく踏みつけ、靴底の裏に虫をへばりつけるようにして足を擦り、そのまま元の座席に戻ってストンと座ったのである。


 あまりにも突然で、かつ一瞬の出来事だったため、僕は唖然として、老紳士の動きを目で追うだけで精一杯だった。

 周りの乗客も、「いったい何が起こったのか」といった雰囲気で、少しの間、ざわついていた。

 しかし、すぐにまた日常の静寂が電車内に戻った。

 本来であれば、肩に虫が乗っていたことを知らせてくれ、さらには虫退治までしてくれた老紳士にお礼を言うべきなのだろう。

 だが、起こった出来事があまりにも突然で、かつ異様すぎて身動きが取れず、僕は老紳士に背を向けたまま、しばらく呆然と電車に揺られていた。


 やがて、電車は僕が降りる駅である護国寺に到着した。

 下車するときに老紳士にお礼の挨拶をしようと思った僕は、電車が停車すると同時に老紳士のほうを振り返って会釈し、「ありがとうございました」とお礼を言った。

 すると、老紳士はとても優しい笑みを浮かべて、何も言わず、ただ首を縦にしずかに振った。「なんの問題もないよ」といった雰囲気だった。その老紳士の笑みには、なぜか不思議な懐かしさを覚えた。


 電車を降りて、家まで歩いているとき、先ほど起こった虫にまつわる奇妙な出来事について思い出していた。

 最初のうちは「気持ちの悪い虫から助けてもらってよかった」ということだけを呑気に考えていたのだけれど、後から考えるとおかしな点がいくつもあることに気づいた。

 まず、僕の肩に乗っていたあの巨大な黒い虫は、いったい何物だったのだろうか。

 足が異様に長く、ギザギザとした形をしていて、体色はこれまで見た事がない、暗闇のような漆黒だった。大きさも異常で、大人の掌くらいの巨大な虫だ。気になってGoogleで似たような虫がいないか検索してみたけれど、そのような虫はどこにも見当たらなかった。

 そして、周りの乗客は、僕が肩にあんな不気味な虫を乗せたまま電車に乗ってきたのに、なぜ誰一人として驚かなかったのだろう。

 東京の電車内では、多少異質なものを目にしても無視する文化があることは、僕もよく知っている。ぐでんぐでんの酔っ払いや、気が触れたような行動をとる人が電車内にいても、何の関心も示さずに電車に揺られている人が多いのも事実である。しかし、虫のような、明らかに不快な存在が電車内にやってきた場合は、何らかの防衛行動をとるはずだ。

 特に、僕の周りにいた人が虫の存在に気づいたならば、あれほど巨大で真っ黒な虫がそばにいたら絶対に気持ち悪いだろうし、席をずらしたり、別の車両に移動していく人が現れてもおかしくなかったと思う。しかし、不思議なことに、僕の周りの人たちは、まったく何の変哲も無く電車に揺られていたのである。

 さらに奇妙なことに、老紳士が踏み潰した後の虫の死骸や体液は、いったいどこにいったのだろう。

 老紳士は、巨大で真っ黒な虫を踏み潰した後、その足をそのまま床に擦り付けるように移動して座席に座った。つまり、本来であれば潰れた虫の死骸の破片や、吹き出した体液が床にべっとりとついていてもおかしくないはずなのだ。しかし、老紳士が座席に座った後の床は綺麗なもので、そこに巨大で真っ黒な虫がいた痕跡はどこにもなかった。老紳士と虫の格闘が終了した途端に、電車内はいつもの日常の風景に戻っていたのだ。

 その場にいたときは、それについて何の不思議も感じなかったが、後々考えると、明らかにおかしなことばかりが思い出され、僕は混乱した頭のまま、一日を終えることになった。


あとがき

 noteを開いて、さて何か書こうかと考えていたときに、ふと、虫にまつわる奇妙な出来事について思い出したので、記憶を頼りにざっと書いてみた。

 これはオカルトな話なので、聞き流してもらえればよいのだけれど、あの巨大で真っ黒な虫は、東京に棲む「穢れ(ケガレ)」の象徴、いわゆる魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類だったのかもしれない。

 そして、通りすがりの何らかの能力を持つ老紳士が、僕の肩に乗った「穢れ」の存在に気づき、親切心から祓ってくれたのかもしれないと、今では思っている。

 おそらく、僕の肩に乗っていた、巨大で真っ黒な虫の姿をした魑魅魍魎は、今でも東京のどこかに棲んでいるのだろう。

 もしも、あなたが東京に住んでいるのならば、自分の肩の上に、気づかぬうちに異形のものが憑依していないか、今一度確認をしてみてもらいたい。日々の暮らしに追われ、感性が鈍るとき、「穢れ」はすり足で近づいてくる。

 どうぞ、お気をつけて。

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