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【今日のnote】毎日更新100日目で想うこと。狭井悠の今後のnote活動について。


 どうも、狭井悠です。

 毎日更新のコラム、100日目


 なんだかんだで、毎日書き続けた当コラムも、無事に100日目を迎えることができました。

 いつも、読んでくださる皆さん、ほんとうにありがとうございます。

 最近になって、このコラムを読み始めてくださった方々もいらっしゃると思うので、今日は、僕が毎日更新をなぜ始めたのか、そして、100日目を迎えた今、どんな変化を感じているのかなど、詳しくまとめてみますね。


毎日更新を始めたのは、「今日のダーリン」が20周年を迎えたことを知ったから。

 まず、僕が毎日更新を始めたきっかけは、糸井重里さんの毎日更新コラム「今日のダーリン」が20周年を迎えたことを知ったからでした。

 以下のコラムは、毎日更新することを宣言した、記念すべき1日目です。

 このコラムで僕は、重要度の高い「やりたいこと」の優先度をマックスまで引き上げてみる挑戦をやってみる、と宣言しています。

 僕のやりたいことは、コンテンツマーケティング専門のSEOライター・セールスライター・コピーライターとしての自分の仕事以外で、自分の思ったこと、書きたいこと、伝えたいことを、素直に、創作も含めて自由に書きたいというものでした。

 思えば、僕はこの毎日更新のnoteを書き始めるまで、ほとんど、フリーランスで受けている仕事の文章しか書いていなかったんですよね。

 毎日更新が当たり前になってしまった今考えると、ちょっと奇妙な感じがします。当時、いったいどうやって、自分の想いや考えを整理していたのか、全然思い出せない。

 noteを毎日書くことを決めるまで、インターネット上での僕の立ち位置は、発信者ではなく、あくまでも受け手側でした。

 Twitterを眺めながら、インフルエンサーや、著名なライターの人たちが発信している文章を、毎日のように読み続けていたような気がします。

 しかしながら、noteを毎日書くようになってから、僕自身のインターネットとの向き合い方も、ずいぶんと変わっていきました。


毎日更新を始めてから、SNSの情報を過剰に摂取しなくなり、自分と向き合うようになった。

 まず、100日前の僕と、今の僕を比較して、もっとも変化したと思える点としては、Twitterを真面目に閲覧しなくなったことです。

 noteを書く前の僕は、かなりの時間をTwitterに費やしていました。

 業界のトレンド情報の収集を行い、インフルエンサー・著名ライターの文章を毎日のように読み、良い記事はキュレーションし、著者にリツイートやリプライされたら喜ぶ……そんなことを繰り返していました。

 ほとんど、それが仕事であるかのように、「Twitterを毎日読まなければならない」「良記事を見つけてキュレーションしなければならない」と思い込んでいたんです。そして同時に、「フォロワーも増やさなければならない」とも思っていました。

 ちなみに、僕がフリーランスで受けている仕事は、WEBコンサルティングの代理店とタッグを組んで、SEO(検索エンジンの対策)メインでコンテンツを制作していくので、SNS上での拡散は、業務のミッションには含まれていません。

 しかし、ライターと名乗るからには、Twitterでそれなりの影響力を持てるように努力しなければいけないと考えていたんですね。

 とにかく、インフルエンサーや著名なライターに、コバンザメのように張り付いていなければならないと思い込んでいました。そうしないと、情報の荒波に取り残されてしまうのではないかと、なんだか不安だったんです。


 しかしながら、noteの毎日更新100日目を迎えた今、Twitterの重要度・優先度は、僕の中ではほとんど最下層といったところです。

 今では、Twitterはプライベートアカウントとして、日々ツイートを見たり、気楽につぶやいたり、noteの記事を共有したりするのに使っています。

 僕の現在の考え方としては、「Twitterの使い方って、肩肘張らずにぼちぼちでいいんじゃね?」という感じです。むしろ、以前の自分のTwitterへの向き合い方はちょっと過剰だったな、と思っています。

 情報過多でどんどん頭でっかちになるわりに、発信できる情報量は決して多くありませんから、消化不良の感情の負債のようなものが、けっこう溜まりがちになっていたんですよね。不健康な使い方になっていたような気がします。

 さらに言えば、Twitterは昔に比べると、攻撃的な発言、過剰な言論、ネガティブな言葉が目立っているようにも思いますね。なんだか、情報戦国時代という感じで、言霊が歪んでいて、無駄に血なまぐさい気がする。

 実際、Twitterで仲良くしていた人たちも、この3ヶ月ほどで、もうログインを辞めてしまったり、アカウントそのものを削除してしまったりしていて、寂しい限りです。まあ、これもまた、時代の流れなのでしょう。

 僕はといえば、毎日更新を続けるにあたり、Twitterは片手間の遊び道具となり、noteが主な活動拠点となりました。

 インターネット上での立ち位置も、キュレーターや受け手側ではなく、声はまだ小さいとはいえ、noteをオピニオンメディア代わりにして、ひとりの発信者という自覚を持ち、コラム執筆をするようになりました。

 それによって、情報過多で苦しむことは減り、一方で、自分自身と向き合う時間が増えました。

 結果的に、僕はTwitterよりもnoteのほうが、媒体との相性が合うんだと思っています。じっくりと物事を考えて、「書く」という行為に没入できるこの媒体は、すごく居心地がいいんですよね。

 SNSって、その人の相性に合うものが存在すると思うんです。たとえば、毎日更新の大先輩である古賀史健さんも、以下のコラムではっきりと、Twitterよりもnoteのほうが相性が良いと公言なさっています。

 Twitterといえば、バズという言葉があります。その点、noteにはTwitterのリツイートのような拡散機能が媒体内には存在しないので、バズりにくいと言えるかもしれません。

 しかしながら、noteでは、1対n数でのコンテンツ拡散を考えるよりも、あくまでも1対1の個人との対話を重層的に増やしていくような姿勢で書くほうが、結果的にたくさんの方に喜んでもらえるのではないかと、現時点の僕は考えています。

 ちなみに、現在の僕のnoteの1ヶ月単位の閲覧数は以下のとおりです。

 noteで活躍されている多くの書き手の皆様に比べれば、決して多い数字ではないと思います。しかし、それでも、1日に述べ700回程度の閲覧があるわけです。

 単なるインターネット上のPV数だと思うと、まだまだ初級ブロガー程度だな、みたいな印象かもしれませんが、ライブハウス動員などに換算してみたら、これはけっこうな数ですよね。

 僕のような、何者でもないひとりの人間が書く文章を読むために、これだけの数の方々が、1ヶ月の間に絶えず訪問してくださっているのだと思うと、なんだか身が引き締まる想いがします。

 特に、僕のnoteは、他のライターや物書きの方々のnoteと比べて、何か具体的に役に立つ話をしているわけではないし、ただ、僕が生きる中で、思うこと、感じること、考えていることを書いているだけです。

 それでも、結果的に、毎日書き続けることで、こうして多くの方々と交流することができている。それって、なんとも幸せなことだなあ、と思います。

 ただただ、僕は、すごく嬉しい。

 皆さん、いつも、本当に、ありがとうございます。


101日目以降の活動についてと、これからのこと。

 本日、めでたく100日目を迎え、noteの毎日更新は、明日からも続いていきます。それに伴って、101日目以降の活動や、これからについて、どうしていきたいと考えているかと言いますと——。

 ——変わらず書き続ける、これに尽きると思っています。

 ここ最近、他の方のnoteを読んでいたときに「毎日更新を始めた人が増えてきた」といった話題を見かけました。たぶん、僕も毎日更新を続けている人間としては、後発にあたるのだろうと思います。

 毎日更新することによって、メディアでの仕事を獲得したり、有料noteを展開したり、活躍の幅を広げたりする方も多くなっている傾向があり、そのような実利を求めて、noteの毎日更新に参入する人も増えてきているのかもしれません。


 ただ、僕個人としては、noteにマーケットを求めてはいないんです。なので、今後も、読者向けに有料noteを展開する予定は一切ありません。


 僕は、フリーランスのコンテンツマーケティングライター・セールスライター・コピーライターであり、法人相手に仕事をして、飯を食っている人間です。

 ですから、お金は個人からではなく、あくまでも企業からもらうべきだと考えています。

 企業には予算があり、PRすべき商材やサービスがあり、まとまった広告費を払う理由もあります。だから、生活や投資をするために手にするお金は、個人ではなく、法人から獲得すれば良いと思っています。


 一方、これは理想主義的かもしれませんが、個人とはあくまでも、商取引ではなく、心のやりとりがしたいんですよね。

 だから、僕はこれからも、noteをビジネスチャンスを広げる場所ではなく、読者奉仕型のコンテンツを展開するオピニオンメディアとして利用していく予定でいます。

 また、昨今は、現金の貯金以上に、信用の貯金が大事になると言われる時代になってきています。

 そうした意味でも、金銭という目先の利益を度外視した取り組みに、今の時期から全力で従事することは、将来的に、金銭以上の価値を自分にもたらしてくれるような予感もあるのです。


 あと、せっかくの機会なので、ここにはっきりと書き残しておきたいのですが、僕は自身の経験則上、個人からは一切、お金をもらいたくないんです。


 このように考えるのは、確固たる理由があります。

 それは、僕自身がフリーランスになる以前、東京で、利益重視のビジネスに魂を捧げるようなポジションに就き、長く働いたことがある経験を持つ人間だからです。

 ある種のビジネスは、個人からお金を巻き上げるためだけに作られたような、恐るべきシステムを構築しているケースがあるんです(世の中には、そういう仕組みが、フィクションではなく、実際に存在するんですよ)。

 もちろん僕は、ヤクザや半グレのような反社会勢力にいたわけではないし、ネットワークビジネスやネズミ講をやっていたわけでもなく、誰かに暴力を振るったり、犯罪を犯してきたわけでもありません。

 その当時、僕がやっていたのは、あくまでも、一般企業のオフィスワークです。

 しかし、人の心の隙間に入り込んで、お金を搾取するような合法的なビジネスのシステムの中で、個人を散財へと扇動するような禍々しい仕事を、率先して行っていた時期もあったんですよね。


 僕は過去に、そんな類の仕事に従事していたんです。

 そういう意味で、僕の手は、誰かの血で汚れています。

 だから、禊(みそぎ)が必要なんだと思っています。


 社会に渦巻く拝金主義や私利私欲から離れ、人生を見つめ直し、心が洗われるような純粋なコンテンツを、奉仕の気持ちで、祈るように書き続けていくこと。

 それが今、組織を離れたフリーランスとして生きる僕にできる、唯一の懺悔の方法であり、たったひとつの使命であると心得ています。


 最近、インターネットに流れてくる文章を読んでいると、皆、もちろんそれぞれに、人生の中でたいへんな苦労を重ねているのだろうとは思うのですが、本当に恐ろしい、理不尽な、時に命の危険さえ感じるような経験をした人は、意外に少ないんだなと思う時があります。

 僕の知る社会というのは、野蛮で、残忍で、血なまぐさいものでした。

 お金はずる賢い仕組みにどんどん吸い上げられていくし、毎晩信じられない額のお金が遊びやギャンブルに使われているし、一部の人が使うあぶく銭のために人知れず搾取されている人間はたくさんいるし、いじめられたり、本物の暴力を振るわれたりしている人間は、大人になってもいます。金や尊厳をむしりとられて、人知れずいなくなったり、死んでいったりする人だっているんです。

 僕はフリーランスになる前、二十代から三十代にかけて、そういう恐るべき世界を、何の因果か、何度も垣間見てきました。

 だからこそ、今こうして、僕はフリーランスとして、恐れることなく野蛮な社会と対峙し、なんとか生き残ることができているんだと思います。

 正直、もうこれ以上、怖いものなんかないんですよ。

「死ぬこと以外、かすり傷」なんて言葉をたまに耳にしますが、こちらはかすり傷どころか、ずっと前から、血だるまのままで、満身創痍で毎日を生きています。

 だからもう、己の志のためなら、命をとられたってかまわない、くらいの覚悟はあるんです。


 そういう、血と涙と汗に塗れた真っ黒な経験があるからこそ、これからの僕は、真っ白な光に包まれた、純粋な文章を、もっとたくさん書いていきたいと思っています。


 なお、毎日更新101日目以降を迎えるにあたり、ひとつ、これまでと違う挑戦をしていこうと思っているのは、僕はこのnoteという媒体に、手の内にあるコンテンツの全てをさらけ出していこうと考えているということです。

 これまでは、「これは見せないほうがいい」「あれは隠しておいたほうが無難だ」なんて、自分がどう見られるのかを、無意識のうちにコントロールしようとしているところがありました。

 僕の人生には、上記で触れた内容をはじめ、けっこう特殊な出来事が過去にたくさんあったので、どれを書くべきで、どれを書かざるべきかといった個人的なコンプライアンスを考え始めると、ほとんどのことにモザイクがかかってしまうんですよね。


 でも、これからはもう、そのリミッターはあえて外していきます(もちろん、他人に迷惑をかけない範囲で、ということにはなりますが)。

 おそらく、世のため人のための文章を書くならば、こざかしい自己検閲はもうやめたほうが良いと、今の僕は直感的に思っています。

 純粋に体験したことを書き、思ったことを書き、これからの希望を書く。

 そうした活動を続けていけば、もしかすると、僕の発信するコンテンツが、これまでのような個人コラムの領域を超えて、ジャーナリズムにまで発展することだってあるのかもしれません。

 それによって、敵が現れることだってあるかもしれないけれど、味方もたくさんできるはず。せっかく毎日書いていくのですから、恐れずに、もっと言葉の力を研ぎ澄まして、自分にしか書けないものを、この場所で、腹をくくって書いていきたいと思います。


 最後に。

 僕が毎日更新のnoteの締めに「今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです」と同じ文章を書くのは、理由があります。

 それは、人はいつ死ぬかわからない、ということ。

 毎日文章を書くことができるのは、当たり前のことではありません。人生、何が起こるかわからない。明日が必ずあるなんて、誰にも保証はされていないんです。

 だから、僕はいつも「今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです」と、自分の想いを綴れたことに感謝して、祝詞のように書き残しています。


 ちなみに、僕が好きな言葉で、地元三重県の藩主「藤堂高虎」が残した、以下の格言があります。

寝屋を出るより、その日を死番と心得るべし。かように覚悟をきわまるゆえに、ものに動ずることなし。

 寝床から出たら、その日に死ぬものだと考えろ、と。それくらいの覚悟があれば、何も恐れるものはない、という意味の言葉です。

 毎日、渾身の文章を書くために、この格言はきっと、お守りのように、僕を守ってくれるような気がしています。


 閑話休題。

 100日目の節目ということで、ずいぶん長い原稿になってしまいましたが(6,500文字くらいになっていた汗)、今後とも、力の限り文章を書いていく所存ですので、皆様、何とぞよろしくお願いいたします。

 これからも、仲良くしてくださいね。

 最近、力の入った文章ばかり書いていましたから、明日からしばらく、ゆるいnoteを書きたい気分です。たまには、息抜きも大事だよねえ。


 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

平成30年9月15日 狭井悠

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