【短編小説①承認欲求】『君は人から認められるために、あらゆることをやってきた』
どうも、狭井悠です。
毎日更新のコラム、97日目。
ただいま、創作の鍛錬のため、自らの心の奥に潜む「煩悩」の棚卸し企画を進めています。
6つの「煩悩」の世界を、6編の短編小説を書きながら巡る旅路です。
読者の皆様におかれましては、あくまでエンタメとして、ちょっと奇妙な精神世界の散歩を、おっかなびっくり楽しんでみてください。
そしてこれは、僕のためだけの書き物ではないとも思っています。
「煩悩」とは、元来、多くの人の心の中に、等しく巣食うものです。
あなたの心の中に潜む「煩悩」とも、これを機会に、いちど対話してみてはいかがでしょうか。
今回の企画の経緯をまとめているバックナンバーのマガジンは以下。
https://note.mu/muratassu/m/m06ae9a1d0cd7
(なぜかカードが表示されない……)
それでは、はじまり、はじまり。
*目次*
・承認欲求 = 地獄道 → START
・成功願望 = 餓鬼道
・恋愛依存 = 畜生道
・自己陶酔 = 修羅道
・厭世主義 = 人間道
・超人思想 = 天道
「——いつしか、他人に認められなければ、生きている価値がないと思い始めたんです」
僕は、真っ赤な夕日の色に染まる部屋で、静かに告白をはじめた。
四角く区切られた、ほとんど何もない部屋。その部屋の真ん中には、ひとつの机とふたつの椅子が置かれていて、僕は椅子にうなだれるように座り込んでいる。
僕の対面には大きな窓があった。そこには、まるでテレビの映像のように、四角い空が見えている。赤い空。真っ赤な空。まるで血の色のようだ。
そして、机の上には、小さなろうそくが六本、灯っていた。風もないのに、灯火はゆらゆらと左右に揺れる。
『いつから、そのように思い始めたのかな? 他人に認められなければ、生きている価値がない、と』
女は、フクロウのようにくぐもった声で、僕に語りかける。
僕の対面には黒い服を着た女が、机を隔てて、姿勢正しく座っている。どこからか、白檀の香りがした。女は僕の正面にいて、窓に背を向けて座っているので、まるで、夕日に染まった真っ赤な空を背負っているかのように見えた。
——そして、女には顔がない。
本来、顔があるべき場所には、ぽっかりと漆黒の闇が口を開けている。
夕日がまだ出ている時刻だけれど、女の顔だけが、すでに夜だった。
僕は、夜と話をしているのだろうか。
記憶をたどる。
人から認められたい、認められなければ生きている価値がない。いったい、いつからそんなふうに考えるようになったんだろう。
「いつからでしょうね……よくわからないな——」
『考えなさい』
顔のない女は、僕の言葉にかぶせるように、強い口調で言った。その声は、彼女の顔に張り付いた夜から、まっすぐに、僕に向かって放たれた。
僕ははっとして顔をあげる。目の前にあるろうそくの灯火が揺れた。女の顔に広がる夜をじっと見つめる。漆黒の闇。そこから再び、言葉が放たれてくる。
『君は、なぜここにきたか、まだわかっていないようね』
僕は黙っている。そして、少しずつ、奇妙なことに気づき始める。
なぜ、こんなところで、得体の知れない夜の顔を持つ女と話をしているんだろう。
ここは、いったいどこなのだろう?
『君は今、とある試験を受けているところなのよ。そして、それを望んだのは、他でもない君自身。私は、そんな君のために、今ここにいる』
また、どこからか白檀の香りが鼻をついた。少しめまいがする。
「——僕が望んだ」
『そう、君が望んだこと。そして、君がこの試験に合格できるかどうかは、君自身の思考にかかっている』
「もしも僕が、その試験というものに合格しなかったら、いったいどうなるんでしょうか?」
急に不安になった。何やら、取り返しのつかないことに、自分が巻き込まれているように思えたからだ。
女は、僕の心の不安を見透かしたかのように、冷めた声で話す。
『何も起こらない。君がただ、この空間に取り残されるだけ。ここは、ただひたすら、無間に続いていく時が流れている——そんな場所だからね』
無間に続いていく時が流れている場所。
言葉の意味をうまく汲み取れなかったが、その言葉には、何やら不吉な響きがあった。
とにかく、僕は考え、そして質問に答えなくてはならない。それ以外に、この場所から出る方法はないようだ。
記憶をたどり、ひとつひとつ、言葉を絞り出した。
「——もともとは、人から認められるというのは、僕にとって最高の喜びだったんです。幼少の頃から、誰かに褒められることが好きでした。誰かに褒められると、自分がそこにいてもいい、と認められたような気分になることができたんです」
『存在の証明』
夜の顔を持つ女が、ぽつん、と言葉を投げかける。
「そう、存在の証明のようなものですね。人から認められることで、居場所を得ることができると思いました。そして、やがてそれが僕自身のライフワークのようになっていったんだと思います」
『君は、自分が認められるために、どんなことをしてきた?』
——どんなこと?
「いろんなことをしてきました。学生の頃は、勉強をして、良い点数を取ったり、音楽に打ち込んで、うまく楽器を演奏できるように努力したり、プライベートでも、恋人が喜ぶようなことをしたり、仲間や家族を楽しませるようなことを考えたり。社会人になってからは、とにかく仕事を頑張りました。会社の人たちに認められるように、あらゆる仕事をやってきました」
『ほんとうにそれだけかな?』
——ほんとうにそれだけ?
「はい。それだけです。人から認められるためには、良い行いをしなければならないと思っています。だから僕は、これまで、自分がいかに良い人間かを周りの人たちに知ってもらうために、あらゆる努力をしてきたんです」
女は急に黙った。
つられて僕も黙る。
その沈黙は、あまりにも長かった。
時間としては、それほど長くなかったのかもしれない。数秒、あるいは数十秒程度のことだろう。しかし、僕にはそれが、数分、いや数十分にも思えた。暑くもないはずなのに、じわり、と汗をかいた。
『君は今、そろそろ、ほんとうのことに気づき始めているはずよ』
夜の顔を持つ女は、やっと言葉を発した。
「どういうことでしょうか?」
『君は人から認められるために、あらゆることをやってきた』
「はい、そうです」
『——君は、ほんとうに良い行いだけをやってきたのかな? 君は、人から認められるために、それこそ、あらゆることを、やってきたんじゃないの?』
額から、冷たい汗が吹き出すのがわかった。
あらゆること。
そうだ、僕は、人から認められるために、あらゆることをやってきた。
自分は人から認められなければならない。
人から認められなければ生きていけない。
だから、そのためには、そのためには——
『——君は、人から認められるために、ほんとうは、どんなことをやってきたのかな? 思い出してごらん?』
彼女の言葉に愕然として、人から認められるために、僕自身がほんとうにやってきた、あらゆる行いを振り返った。
最初に頭の中に浮かんだのは、僕の周りの人たちに認めてもらうためにしてきた、いわゆる良い行いとされるようなことばかりだった。
あたまの中には、大切な人たちの笑顔が浮かんだ。
ありがとう。いつも感謝している。期待しているよ。もっと良い結果を見せてくれよ。君は本当にいいやつだね。あなたは本当に素敵な人よ。お前はすごいやつだ。なんでもできる。どんなことだって、やってくれる人間だよね——
——しかし、やがて、僕のあたまの中からは、大切な人たちの笑顔は消え、記憶の奥底に閉じ込めてきた、いろんな光景が蘇ってきた。
次々に、忘れかけていた、いろんな人たちの顔が浮かんできた。そして、彼ら、彼女らは、一様に無表情で、僕の顔を、静かに、そして、批判的に、あるいは恨めしそうに、じっと覗き込んできた。
人から認められるために、僕がしてきたこと。
それは決して、良い行いばかりではなかった。
ある時には、嘘をついた。ある時には、他人を蹴落とした。ある時には、誰かを騙した。ある時には、自分を愛する人を裏切った。ある時には、あの人を傷つけた。ある時には——。
『君は罪を犯した』
女は、僕の思考の確信をつくように、重い一言を、つぶやくように言った。その声は、月夜に嘯くフクロウの鳴き声のように、ずっしりと響いた。
僕は、観念して、そして、認めた。
「——はい。僕は罪を犯してきました。人から認められるために、時に、ひどいことだってやってきたんです。僕はまだ、人を殺したことまではありません。けれど、大事な人たちにさえ愛されれば良いと思って、誰にもばれなければ良いと思って、あらゆる、ずるいこと、ひどいこと、時には世の中の決まりごとを犯すようなことさえして、自分本位に、これまで生きてきたんだと思います。でも、僕はそれを認めたくなかった。誰も傷つけず、迷惑をかけず、模範的に生きてきた人間だと、根っからの善人なんだと、自分を信じていたかった。だから、大切だと思う人たちには、せめて、まともに生きてきた人間に見えるように、汚れた自分を隠して、努力して、無理をして、なんとかここまでやってきたんです」
『でも、それは、ほんとうの君ではないのよね?』
僕は顔をあげた。白檀の香りがまた、鼻をついた。
——そして、夜に向かって、はっきりと宣言する。
「はい。ほんとうの僕は、決して善人ではない。人から認められるために、自分本位に、あらゆることをやってきた——悪人の顔さえも持ち合わせた人間です」
その瞬間、ふっと空気が軽くなったように思えた。
そして、目の前で揺れていた、六つのろうそくの灯火のうちのひとつが、音もなく消えた。
『良いわ——まずは、ひとつ、合格といったところかな』
夜の顔を持つ女は笑った。その顔は、相変わらず、漆黒の闇に包まれたままだった。しかし、僕には、彼女が笑っているのがはっきりとわかった。
『これまで君を突き動かしていたのは、いわば果てしない承認欲求よ。そして、承認欲求というのは尽きることを知らない。どこまでも君を追い詰め、やがて、どんなことだってさせる。それはまるで、無間地獄のようなものなの。人から認められたいがゆえに続ける、果てしない、終わりのない、無間の罪の積み重ね。君はこれまで、その地獄に囚われたままで生きてきた。しかも、その事実に気づかないままでね。だから君は、いつしか承認欲求を満たさなければ、生きている価値がないとすら、思い込むようになったのよ』
呆然としたまま、女の話を聞く。
汗で、全身がびしょ濡れになっている。
身体はぐったりと疲れ、思考が鈍り、うまく物事を考えることができない。
ただ、何かひとつ憑き物が落ちたように、心の一部が軽くなっていることに気づいた。
息を吸い込むと、また白檀の香りが身体の中に入ってくる。
先ほどまでは、居心地の悪い臭いに思えたのに、今はなぜか、その香りを爽やかに感じた。
『君は今、罪を認めた。己の承認欲求を満たすために、君は人生の中であらゆることをしてきた。それは、君にとっては、ある種の処世術のようなものだったのでしょうね。やむを得ない時もあったかもしれない。でも、重要なことは、自らの行いに蓋をしないことよ。どれだけ些細なことであれ、重大なことであれ、人生の中で犯してきた罪を認め、その事実から目を背けず、真正面から向き合うことが、今、必要なの。承認欲求の無間地獄から解脱するためには、事実から目を背けない、真摯な姿勢がなければいけないのよ』
「……そうですか……今の僕には、まだ何も考えられません」
『そうね、今の君にはまだ、きっと自分に何が起こっているのかはよくわからないでしょう。でも、それでいい。君は今、試験の真っ最中なんだから。すべてが終わった時に、君は何かを得ているかもしれない。あるいは、失っているかもしれない。結果がわかるのは、もっとずっと先のことよ。そして、まだ油断はできない。この試験は始まったばかり。あと五つ、君には向き合うべき課題が残っているからね』
——あと五つ。
目の前で炎を揺らしている五本のろうそくを眺めながら、少しずつ、自分の置かれた状況について、僕は理解し始めていた。
どうやら、僕は今、人生の中で、これまで逃れられなかった、囚われ続けてきた「何か」と向き合う時間に、直面しているらしい。
額から流れ落ちる汗を手で拭い、そして深呼吸した。
*続く*
・承認欲求 = 地獄道 → COMPLETE
・成功願望 = 餓鬼道 → NEXT STAGE
・恋愛依存 = 畜生道
・自己陶酔 = 修羅道
・厭世主義 = 人間道
・超人思想 = 天道
今日も無事に、こうして文章を書くことができて良かったです。
明日もまた、この場所でお会いしましょう。
それでは。ぽんぽんぽん。
▼「煩悩」の棚卸し企画のバックナンバーが読めるマガジンはこちら▼
https://note.mu/muratassu/m/m06ae9a1d0cd7
サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。