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【うたかたの日々のために。】No.26 「結局、これしかない。」


「この半年間くらい、あなたがnoteで何を伝えたいのか、よくわからなかった」そんな言葉を、2月の頭くらいに、noteをずっと読んでくれている大事な人からもらって、それからしばらく、執筆することを止め、いろいろと考えていた。220日間ほど、僕がほぼ毎日書いていた文章には、いったいどれだけの意味があって、誰に、どんな影響を与えたかったのだろうか。「わからない」。それが結論だった。だから、僕がこれまで書いてきたものは、誰かに向けたものではなかったのかもしれない。けれど、結局のところ、僕にはこれしかないのである。「何かを書きたい」という使命感にかられ、のたうちまわって生きて、誰宛かもわからないような文章を書き残す。書いて、書いて、書いて、どこかにたどり着こうとしていたんじゃないのか。その醜態を晒すことで、せめて、生きた証を残そうと、もがいていたんじゃないのか。それでいいじゃない。また書き始めよう。(狭井悠)


《今日のぼんやり》

「ただいま」。こっぱずかしいけれど、「ただいま」と言わせて欲しい。言わせてください。この場所は、僕にとって、すごく大切な場所なのだ。220日間ほど、ほとんど毎日書き続けてきたnoteのアカウントは、絵描きで言えばアトリエのようなものであり、いつでもあたまの隅に、この場所のことがあった。しばらく放置していたのに、こうして、今でも訪れてくれる人がいることには、感謝の気持ちしかない。ありがとうございます。

 本編にも書いたけれど、今月の初旬に、ふとした瞬間に大事な読み手からもらった「この半年間くらい、あなたがnoteで何を伝えたいのか、よくわからなかった」という素直な言葉には、なかなかのインパクトがあって、しばらくの間、自分の書く文章にいったいどれほどの意味があったのか、ずっと考え込んでいた。

 そして、考え続けて出た結論は、「僕自身も、自分の文章を通じて、誰に、何を伝えたかったのかは、結局のところよくわからない」ということだ。あるいは、そのとき、そのときで、何かを断片的に伝えたい人たちがいたようにも思うのだけれど、変化のはげしい日常をめまぐるしく生きるうちに、メッセージを伝えたかった人たちの姿は消え、記憶も薄れ、ただ、残された言葉だけがそこにある——そんな印象を受けた。まるで記憶の墓標のようだ。

 そんな意味のないことを続けるのに220日もかけたのか、と笑う人もあるかもしれない(そして、そういうふうに、自分では何もせず、誰かを笑うことだけに熱心な人たちには、いくつになっても大いに笑われていたい)。

 けれど、もがき苦しみながらも、何かを書かざるを得ない日というのは必ずあって、僕はそういう耐え難い日々を乗り越えてきたことで、何とか今の場所までたどり着くことができたんだという実感がある。

 叫ぶように書く。

 心が震えるから書く。

 のたうち回りながら書く。

 文章を書くことに取り憑かれた者は、そういう衝動から逃れることはできない。僕自身もまた、そうした使命感にかられて、ここまで生きてきてしまった。もう、戻ることができないところまできていると感じている。そして、だからこそ、僕の覚悟を買ってくれる人たちが周りに増え、今のフリーランス生活が成り立っているとも言える。

 腹をくくるしかなさそうだ。

 しばらく休んでいたけれど、また、ほぼ毎日、商用以外の自分の文章を書き始めると思う。こうやって雑記をnoteに書くばかりではなく、ここ数年、ずっと目標としていた、個人名義の作品を作り上げるということにも、地道に取り組んでいきたい。それに現在、仲間たちと動いている仕事の中でも、何か大きな波を世間に作るような文章を、今年はいくつか書いてみたいと思っている。


「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。」

 のたうち回りながら書き続けること。

 狭井悠(サイハルカ)には、結局、これしかない。


 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 また、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

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サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。