ぼくとし

小説 『僕たちが年をとる頃、街もまた年をとる』

Chapter.0 森の中


 走る。走る。僕は走る。
 雨に濡れ、風に吹かれ、暗闇に支配された森の中を駆け抜ける。
 そうだ、走れ。もっと、もっと速く——。

 降りしきる雨の中。夜が訪れた真っ暗な森の中を、僕は走っていた。
 激しい雨に打たれながら、何度も転び、膝を擦りむき、服は泥に塗れた。髪の毛はべっとりと顔に張り付き、髪の毛の境目からは激しく雨水が打ち付けられ、視界は容赦なく遮られる。


 辺りを覆う真っ暗な森からは、異様な瘴気が放たれていた。まるで生き物のように荒れ狂い揺れる樹の枝の奥から、いくつもの、何者かの気配を感じた。

 それらは、おそらくこの世のものではない。森の奥に潜む何者かは、僕の心が折れ、地べたに両手をついてすべてを諦める瞬間を待っているのだ、と思った。僕は今、深い森の中に足を踏み入れた招かれざる客なのだ。足を止めてすべてを投げ出した瞬間に、何者かに捕らえられ、暗闇の中に引きずり込まれてしまう。


 しかしそれでも、僕は走るスピードを緩めなかった。それどころか、身体中の力はさらに強まり、もっと、もっと、とスピードを上げていた。筋肉が収縮し、血液を全身に送る。どこまでも速く走る。身体はまるで風と一体になったようだった。


「——き。早希。さき——」
 気づけば、何度も彼女の名前を呼んでいた。


 この森を抜ければ、あの場所まで行けば、彼女にもう一度だけ、会えるかもしれない。


 僕に走る気力を与えていたのは、たったひとつ、「彼女にもう一度会いたい」という想いの力だけだった。ただそれだけを想い、ただそれだけのために、雨が降りしきり、瘴気に包まれた、暗く危険な森の中を走り抜けようとしていたのだ。


 風になれ、と僕は思った。
 もう、二度と後悔しなくても済むように。
 会いたい人に会うために、伝えるべき言葉を伝えるために。
 風になれ、風と共に走れ——。


Chapter.1 三条大橋


 風が吹いている。
 柔らかい、春の風だ。

 三条大橋の、木でできた丸い頑丈な欄干に手をついて、鴨川を眺める。川の水は穏やかに流れていて、可愛らしい鴨が何匹も水面を滑っていく。水辺の草花が、風に揺られている。空は青く澄んで、太陽が暖かい日差しを運んでくれる。川岸には、何組かのカップルが均一な距離を保って座っている。カップルに紛れて、物思いに耽るように川を眺めている人もいる。自転車に乗ったスポーツウェアに身を包んだ人が通り過ぎていく。三条大橋の橋脚のあたりで、アコースティックギターを演奏して歌っている若者がいる。何の歌を歌っているのかわからないけれど、明るいメロディが耳を和ませる。


 京都。僕が学生時代、七年間住んだ街。目を閉じて京都のことを考えると、僕はいつでも三条大橋の真ん中に行くことができる。僕は意識の下で、あの場所とつながっている。京都に住んでいた頃、僕は何度も、三条大橋の真ん中に立って、川辺を眺めていた。そこから、自分なりに見える世界を隅々まで眺めようとしていた。ひどく酔っ払っていたり、時には悔し涙を流していることさえあった。僕はまだ二十歳を少し越えたくらいの年で、自分にこれから何ができるのか、なにひとつ確信を持てないまま、なすすべもなく、川辺を眺めていた。

 僕は京都が好きだ。でもここでいう「好き」という感情はとてもややこしいもので、ちょっと「嫌い」とか、もう「会いたくない」感じにも似ている。ちょうど、心を焦がしていた女性と久しぶりに会うときに、不意に会うこと自体が億劫になってしまうような感覚に近いかもしれない。


 とにかく、何もかもが思い通りにいかない街だった。勉強も、仕事も、恋愛も。大学は留年したし、仕事は雀荘のアルバイトで時間とお金を浪費してばかりだったし、好きな女の子とも付き合うことはできなかった。でも、いや、だからこそ、というべきか。僕にとって、京都は今でも特別な場所なのだ。


 久しぶりに京都に来た。三条大橋の真ん中から、鴨川を眺めた。そこには、昔とほとんど変わらない景色が広がっていた。まだ肌寒い時期だから、川辺で座っている人たちは少なかった。流れる水の音、通り過ぎる風の感触、それらはなにひとつ変わっていない。でも、なぜなんだろう。何かが違っている、と感じた。僕の知っている京都と、どこかが違う。でも、それは決して、街の見た目が変わっているとか、ビルの位置が移動しているとか、そういうわかりやすい変化ではない。もっと微細な、それでいて根源的な変化なのだ。なんだろう。一体、何が違っているんだろう?

 そのときの僕は、答えが見出せぬまま、待ち合わせの場所へ急いだ。


Chapter.2 木屋町


 早希と会うのは、ずいぶん久しぶりだった。彼女は暖かそうなダウンジャケットを着ていた。そして、膝までのスカートから伸びる綺麗な足をタイツで包み、ムートンブーツを履いていた。僕は、着古した革のジャケットを着て、ジーンズにハイカットスニーカーという出で立ちだった。三月とはいえ、京都はまだまだ寒い。


 早希は、昔と同じショートカットだった。都会の猫のような整った顔立ちと、透き通るような白い肌は、二十代の頃とまったく変わっていない。むしろ、時の洗礼が彼女の美しさをより一層深めたように感じられた。そんな彼女を前にすると、まるで自分が二十代の何の取り柄もない学生に戻ったように、心もとない気持ちになった。


「久しぶり」
「元気だった?」
「うん」
「そうだね」
「どこ行こうか」
「とりあえず歩こう」


 何となく、再会の挨拶を済ませて、僕たちは歩き出す。二人とも、黙って木屋町を歩いた。何かを話そうとして言葉を探してみるけれど、言葉はまるで羽が生えたように意識の間をするりと抜け出し、どこかへ飛び立ってしまう。横を歩く早希の顔を見る。彼女は少しうつむいて、足元のアスファルトを見つめて歩いていた。そこに何か、重要なメッセージが隠されているかのように、彼女は歩みを進める。早希も、僕と同じように語るべき言葉を探しているのだろうか。

 木屋町には、静かに夜の帳が降りようとしていた。空が少しずつ暗くなり、明かりが灯りはじめる。飲み屋が軒を連ねる、懐かしい街並み。

 学生の頃は、友達とつるんで、よく朝まで酒を飲んだものだ。本当かどうかわからないけれど、木屋町はテキーラのオルメカというブランドを日本で一番消費している場所なんだと聞いたことがある。オルメカの本社から、オルメカ像が木屋町に贈呈されたこともあるくらいだ、と。

 木屋町に集まる人間は皆、ダーツとテキーラが大好きだった。黄金色のとろりとした液体をショットグラスに注ぎ、ダーツで負けたぶんだけ一気に飲み干す。飲み干したらすぐに、ライムを口の中に運び、酸っぱい果汁を吸う。食道から胃の中がかっと熱くなり、おなかの中がきりきりと躍動する。いったいショットグラスに何杯飲んだのか、今となっては全く思い出せない。とにかく、考えるより先にテキーラを飲んでいた。「酒の一滴は、血の一滴」という木屋町流の教えもあった。今はもう、同じような飲み方はできないだろう。テキーラの味を思い出すだけで、何だか胸やけがする。

 僕はもう、三十歳を越えているのだ。あの頃の自分から、ずいぶん歳をとった。いつまでも同じようにはいられない。


「ハルくん、驚いたかな」
 不意に、早希が話し始める。
「驚いた、って何のこと?」
「わたしから連絡が来たこと」


 早希は、僕の顔を見る。そのとき、僕は奇妙な気持ちになった。彼女が目の前にいることが、何だか夢の中の出来事のように思えたからだ。めまいを覚える。僕は立ち止まって呼吸を整え、少し間をあけてから、ゆっくりと答える。


「そうだね、驚いたよ。だって、連絡が取れない時期も長かったから。どうしてるんだろうって、ずっと心配してたからさ。でも、こうして、また会えて嬉しいよ」
「そっか」
 早希は、無邪気な笑顔を見せた。昔と変わらない、やわらかな笑顔。でも、笑顔が消え、真顔に戻った後の彼女の表情はなぜか、どこか寂しげだった。その表情の微妙な変化は、僕の心につんと痛みを残した。

 そう、彼女とは長い間、連絡が途絶えていたのだ。

 僕と早希は、学生の頃、京都の木屋町で出会った。早希は木屋町のカウンターバーで働いていて、僕はその店の常連だった。通いつめるうちに仲良くなり、当時始まったばかりの最新SNSだったTwitterのアカウントを交換して、言葉を交わし合った。

 そしていつしか、彼女が休みの日にも、ふたりで会うようになった。僕は彼女に心惹かれていた。そしてある日、自分の想いを彼女に伝えた。その頃、彼女には他に付き合っている人がいた。だから、気持ちを伝えても断られてしまうかもしれない、とは思っていた。彼女の答えは予想通りのノーだった。僕は振られたのだ。しかし、予想していた答えとは、少し違ったものだった。


「ごめんなさい。わたし、ハルくんとは付き合えない。でも、あなただから駄目だというわけじゃない。あなたと一緒に話していると、わたしはとても心が落ち着くの。でもね。今のわたしは、誰とも付き合うことができない。付き合っている彼とも、もう別れようと思っているのよ。わたしはもうすぐ、この街を離れることになると思うから」


 そのようにして、早希は京都の街から離れていった。行き先は、東京だという話だった。


 彼女が東京に行ってしまった後の京都の街は、影のように物寂しかった。僕はその後、雀荘でのアルバイトに明け暮れ、留年を繰り返すことになる。早希の存在は、僕の中でいつの間にか、とても大きなものになっていた。彼女がいなくなったことで、僕は自分の人生のバランスを失ってしまっていたのだ。その空白を立て直すには、それなりの時間が必要だった。彼女のTwitterも、東京に行ってしまった後から、ぱったりと更新が途絶えた。

 そして、僕は何とか大学を卒業し、早希の後を追うように東京で就職した。早希には、Twitterのダイレクトメッセージで何度か連絡を入れていた。しかし、返答はなかった。僕が送っていたメッセージの内容はだいたい次のようなものだった。


 東京での暮らしが始まったこと、ずっと連絡が取れずに心配していること、いつでも気が向いたら連絡してもらってかまわないこと。今でもまだ、早希のことをとても大切に想っているということ。


 Twitterを介してメッセージを送るたびに、後悔が残った。送らないほうがよいことを、僕は送ってしまったのではないか。もう振られてしまったのに、まだ自分に想いがあるなんて、わざわざいうべきではなかったのではないか。

 でも、そんな後悔も、早希からの返信がなければ何の意味もなかった。拒絶の反応でさえも欲しいと想ったこともあった。どんな返信でもいいから、今どこかで元気にしていることだけが知りたかった。あるいは、返信せずとも、Twitterを一度でも更新してくれれば、それで安心できるとも思った。

 しかし、一度も返信が来たことはなく、彼女のTwitterのタイムラインが更新されることもなかった。僕はただ、携帯電話の画面を前にして、ひとりで思い悩んでいるだけだった。

 やがて僕は、東京の街の中で、早希の姿を探している自分に気づいた。通勤電車に乗っているときや、街を歩いているとき、いつもどこかに、彼女の似姿を求めてしまう。こんなところに、いるわけがない。それでも、僕は心のどこかで、彼女との再会を望んでいた。


 当時の僕にとっては、忙しく仕事をしているときがいちばん楽な時間だった。仕事をしている間は、感傷を忘れて、無感覚になることができる。このまま、何もかも忘れて、仕事のこと以外考えられなくなったら、どれだけ楽だろう。しかし、それほど人間の感情は、単純にはつくられていない。仕事でどれだけ疲れて帰ってきても、気づけばふとした瞬間に、早希のことを憶い出している自分がいた。


 僕はそのようにして、東京で数年間を過ごした。その数年のうちに、僕は三人の女性と付き合った。ひとりは職場の同僚で、もうひとりはバーで知り合った女の子、そして最後のひとりは友人から紹介してもらった女性だった。どの女性も素敵だったけれど、早希と出会ったときのような胸が締め付けられる想いになることはなかった。彼女たちと過ごしながら、僕はいつもどこかで、記憶の奥におぼろげに垣間見える早希の姿を探していた。


 そして、いつの間にか僕の心は、山腹にぽっかりと空いた石窟のように空虚になっていた。何を持ってしてもその石窟の空白を満たすことはできないし、そんな場所には誰も入りたがらない。結局、どの女性との関係も長続きはしなかった。


「ハルくん。どうしたの?」


 早希が話す。彼女は僕の目を覗き込むようにして、こちらを見つめている。歩きながら、ずいぶん深いところまで思考の回廊を降りてしまっていたようだ。

 僕は笑顔を返す。

 大丈夫。

 何も心配ないよ。


「ねえ、先斗町に行かない?」

 早希は提案する。

「いいね、どこか行きたいお店はある?」
「散歩しながら、気に入ったお店に入ろう。昔みたいに」


 早希はにこっと笑うと、自然に僕と腕を組んだ。そして、僕の腕を引っ張るようにして、道を進む。懐かしさが僕を包んだ。学生の頃、二人で酔っ払いながら、こうして街の中をどこまでも歩いたものだ。

 僕と早希は、木屋町を少し下って左に折れ、先斗町の通りに出た。


Chapter.3 先斗町


 先斗町は、すっかり夜になっていた。石畳の細い路地に、オレンジ色の明かりが灯り、飲み歩く人たちで賑わっていた。僕と早希は三条の方面から四条に向かって、先斗町をゆっくりと下った。通り過ぎていく人たちは皆、それぞれに幸せそうな笑みを浮かべて歩みを進めている。そして僕もまた、自然と笑顔になっている自分に気づいた。


 隣には、ずっと会うことのできなかった早希がいる。


 彼女がどのような暮らしをしているのか、連絡が取れなくなった頃に何があったのか、そしてなぜ今になって京都で再会することになったのか、気になることはたくさんあった。でも、僕は今、彼女と再会できたという事実を、まずは愛でるべきなのだ。僕はあまりしゃべらず、早希が隣にいる、という事実を静かに受け入れ、その恩寵に感謝した。


「ねえ、あの店に入ってみない?」


 早希は通りの一角に指をさす。見ると、黒く重そうな扉があり、据え付けられた小さな窓から、淡い光が漏れていた。どこにも看板は見当たらなかったけれど、ここは確かにバーである、という無言の主張を醸し出していた。何か、気になる店だ。こんな店が、いつからあったんだろう? 少なくとも、僕たちがこの辺りで飲み歩いていた頃にはなかったはずだ。


「入ってみようか。バーみたいだけど、お腹は空いてない? わたしはお酒があればかまわないけれど」
「大丈夫。ここにしよう」

 僕たちは、扉を開いた。



 そこは、とても静かで、心地よい暗がりと灯りのあるオーセンティックバーだった。タキシードにシルクハットを被り、白い髭を生やした老齢のバーテンダーがひとり、カウンターに立っていた。

 少し不思議に思ったのは、その店のカウンターの中に、黒い雨傘が差してあることだった。真っ黒のこうもり傘だ。なぜ、バーのカウンターに、真っ黒なこうもり傘を差しておく必要があるんだろう?

 僕は少し間をおいてから、バーテンダーに話しかける。
「二人、大丈夫ですか?」
「いらっしゃいませ。カウンター席しかありませんが、お好きな席にどうぞ」


 老齢のバーテンダーは、感じの良い笑みを浮かべて、僕の方を見た。僕たちは、彼と向かい合って座る席に腰を下ろした。背の高い、がっちりとした木でできた椅子だった。カウンターも木でできていて、美しい木目が浮かび上がっている。インテリアは、どれも丁寧に手入れされているようだ。店内には、大きな数本のキャンドルが灯されていた。灯りはキャンドルだけで、他に光はない。炎がゆらめくたびに、僕たちの影が伸び縮みする。


「素敵なお店ですね。こんなお店があるなんて、知らなかった」
 早希がバーテンダーに話しかける。
「ありがとうございます。ひっそりとした外観ですから、気づかれない人も多いんですよ。目立った看板も出していないので。でも、来るべき人は必ずやってくる。うちはそういうお店です」


 来るべき人は必ずやってくる、という言葉が、どこか奇妙な響きを携えていた。「なんという名前のお店なのですか?」と質問しようとしかけたけれど、ふと思い直してやめた。なぜか、それがあまり適切ではない質問であるように思えたからだ。ここは、先斗町の名もなきバー。僕は頭の中で、とりあえず名前をつけた。


「何を飲まれますか?」
 早希はメニューを眺めてから、少し考え、バイオレットフィズを注文した。僕は、ドライマティーニを選び、オリーブとナッツも頼んだ。僕と早希は、運ばれてきた杯を合わせ、静かに乾杯した。そして、ゆっくりとお酒を味わいながら、二人で話をした。



「早希と、こうしてまた話せて嬉しいよ」


 早希はなにも言わずに、僕の顔を見ている。その表情にはまた少し、寂しげな色が浮かんでいた。僕は話を続ける。
「最後に会ったのはたぶん、十年近く前になるのかな。あの頃に、一緒に飲んでいた仲間達はもう、ほとんど京都にいないんだよ」
「そうね。わたしの働いていたカウンターバーも、もうなくなってしまったみたいだし」
「いろんなものが、過去になっていく。すべては記憶の中に。でも、もちろん、変わらないものもある。こうして、早希と時を隔てても、何も変わらずに話ができるように」


 老齢のバーテンダーは僕たちの会話の邪魔にならないよう気遣うかのように、静かな音でグラスを磨いていた。

 僕たちは一杯目を飲み終えると、次のお酒を注文した。語り合う僕たちの影が、キャンドルの炎で映し出され、ゆらゆらと揺れた。

 時間がまるで止まっているようだった。

 僕たちは時を超えていた。

 そこにあるのは、十年近く前と同じ、無垢に自分たちの未来の可能性を信じて語り合う、若者としての僕たちの姿だった。

 僕たちは若く、しなやかで、無謀だった。どんな苦しいことや、悲しいことも、手を取り合えば、必ず乗り越えられると信じていた。僕たちはあの頃、確かにそうしたみずみずしい時間を生きていたのだ。

 早希と語り合ううちに、僕は僕の中にいる、もう一人の自分の存在に気付き始めていた。年老いていく僕と、若者のままでいる僕。僕は今、早希と会うことでもう一人の自分に会っているのかもしれない。そんなとりとめのないことを、アルコールが脳に染み込んでいく感覚を味わいながら考えていた。


 不意に、早希はにっこりと笑った。彼女の都会の猫のような顔が、キャンドルの灯りで照らされている。美しかった。その光景は、どことなく現実感を失うような、危うい美しさを帯びていた。


「そういえば僕も今、東京にいるんだ。早希が京都を出てから、しばらくして僕もここを離れた。早希は東京に行ったって聞いていたけれど、今も東京にいるの?」
 東京、という言葉を聞いた瞬間に、早希の表情が曇ったように感じた。
 それは一瞬だけだったが、彼女の中に、何か深い哀しみの淵があることを匂わせた。僕は聞くべきではないことを聞いてしまったのかもしれない。


 そうだ。僕は、今この瞬間に、早希と再会できたという事実を、まずは愛でるべきだったのだ。しかし、一度意識の奥底から放たれた言葉を、再びしまい込むことはできない。早希は、カウンターでゆらめくキャンドルの炎を眺めながら、静かに語った。



「ねえ、ハルくんは、自分がまるで自分じゃないように感じたことってない?」
 早希の話を静かに聞く。
「たとえば、朝起きて、自分の顔や身体を見たときに、何か別の存在になってしまっているんじゃないか、と思うようなこと。そういうことってないかな?」
 僕には、彼女が何を語ろうとしているのかわからなかった。そうした経験はないと思う、とだけ短く話した。


「わたしが突然、東京に行って、ハルくんはきっとびっくりしたと思う。それに、せっかく送ってくれていたTwitterのメッセージにも、返事をしなくて、ほんとうにごめん。わたし、ちゃんと見ていたのよ。でも、どうしても返事をすることができなかった。そんなことをしておいて、こんなことをいうのはおかしなことかもしれないけれど。わたしにとって、ハルくんは、とても大切な人だったの。なんて言えばいいのかな。遠くにいても、どこかでつながっている人だって、思っていた。そこでは、SNSを通じた言葉や、目に見えたつながりや関係なんていらない。なくてもいい。だから、そんな風に考えていたから、きっとわたしは、ハルくんに甘えていたんだと思う。どこにいても、あなたはわたしのことを覚えてくれている。そんな気がしていた」


 彼女はグラスを指でいじる。すらりと伸びた白い指が、溶けた氷の入ったグラスを撫でる。その指は、彼女の人生とともにある。僕の知らないことを、きっとその指はたくさん知っている。なぜかわからないけれど、僕にはそれが、とてつもなく哀しいことに思えた。早希は話を続ける。


「わたしが、あなたのいる京都を離れて、遠い街に行ったのは、ある日突然、本当の自分が何者なのかがわからなくなってしまったからなの。だから、わたしのことを誰も知らない場所に行って、ネット上のつながりみたいなものも含めた人間関係をすべて断って、自分自身をもう一度探し出す必要があった。なぜ、そんな変化がわたしの身に起こったのか、今もわからない。でも、それは確かに、わたしの身に起こり、わたしの人生を決定づけた」


 早希は言葉を区切り、静かに目を閉じた。彼女の目には、過去の自分に起こったその決定的な変化の瞬間が、蘇っているのかもしれない。そして、ゆっくりと目を開け、再び語り始めた。

人生には、説明のつかないことがある。こんなことを言っても、きっとわかってもらえないかもしれないけれど。でも、わたしが感じていたことを、わたしは今、正直に話している。もちろん、恥ずかしくて話せないようなこともたくさんある。東京では、本当にいろんなことがあった。言葉にするのもおぞましいようなことや、心と体がバラバラになってしまうようなこと。わたしらしくない、訳のわからない、いろんなこと。そして結局、わたしはあの街から、何も見つけることができなかった。わかったことは、わたしの人生には、どこかで決定的な間違いがあったのかもしれない、ということだけ。わたしはずっと、失われ続けていたのかもしれない。わたしはきっと、あなたと離れたあの日から、半分に分かれてしまったのよ。失われ続けていく自分と、あなたといた頃の自分に。そしてわたしは東京を離れた後、故郷に帰った。海の見える街に。そこでわたしは——」


 早希、君の話していることが、僕にもわかるよ。

 僕もずっと、そう思っていた。

 君が僕の人生からいなくなってしまってから、僕はまるで二つに分かれてしまったみたいなんだ。

 僕もまた、君と同じように、東京の街で失われ続けていた。

 いつの間にか、無感覚になることが心地よくなっていた。

 何も考えず、感傷を忘れて、ただひたすらに働き続けることが、僕の人生のすべてになればいい。

 もういっそのこと、社会の中で動き続ける機械のようになってしまいたい。

 でも結局、僕はそんな風には生きられなかった。僕はいつも、心のどこかで君のことを考えていたし、東京の街の中に君の姿を探していた。僕は君のことを忘れない。

 ねえ、早希、僕は——。


 ——僕は声に出して、胸のうちに次から次へと溢れ出てくる想いを、早希に伝えたかった。僕は、それだけのために、ここまでやってきたのだ。

 でも、僕の喉からは、どれだけ力を振り絞っても、言葉が出てこなかった。なぜだろう。どうしてなんだろう。こんなにも伝えたいことがたくさんあるはずなのに、なにひとつ、言葉にならない。

 いい加減な言葉なら、いくらでも言える。社交辞令のような言葉なら、いくらでも出てくる。——それなのに、純粋な、たったひとつの想いを伝える言葉を探すことが、これほどまでにむずかしいなんて。


 そのとき、不意に、バーの扉を叩く音が響いた。

 どん、どん、どん。

 重い扉を叩く音がする。

 僕は扉の方を振り向いた。

 扉の向こう側に、誰かがいる。


Chapter.4 名もなきバー


 どん、どん、どん。


 バーの重い扉を叩く音が響き続けている。僕はしばらく、息を呑んでその音を聞いていた。その音は、どこか異質なものを感じさせた。飲みに来たお客さんならば、ノックをした後に、店内に入って来ればいい。

 しかしその人物は、扉の前に立ち、一定のリズムでノックを続けていた。もしかしたら、お店に品物を運んでくる業者かもしれないとも思った。だが、業者のノックならば、もっと控えめにするはずだし、一定のリズムで何度も扉を叩く必要はないはずだ。


 早希も、老齢のバーテンダーも、静かにノックの音を聞いていた。しかし僕と違って、彼らはこの扉が叩かれることをすでに知っていたような気配があった。

 なぜだろう?

 なぜ彼らは、この扉が叩かれることを知っているのだろう?

 何か、不吉な感覚があった。

 口の中が乾いていた。何かを話そうとしても、言葉が出てこない。この名もなきバーで、いったい何が起きようとしているんだ?


「時間がないようですね」


 老齢のバーテンダーが、静かな、低い声で呟いた。まるで、闇夜に姿を隠して鳴いている怪しげなフクロウのように、含みのある声だった。


 早希は僕を見る。そして、僕の手を取った。彼女の白い指が、僕の手の甲に触れる。その手は驚くほど冷たく、どこか怯えているように震えていた。


 彼女は僕の耳元まで顔を近づけ、ゆっくりと話しかける。


「ねえ、ハルくん。もう、時間がないみたい。わたし、こうしてあなたとまた会えて、本当に嬉しかった。あなたは、わたしのことを、確かに覚えてくれていた。そして、わたしに会いに来てくれた。そのことが、わたしの魂をとっても深く、あたためてくれた。それにハルくんが、わたしの故郷に来てくれたときのこと、わたしは知っているの。あなたは遠くから、海の見える街まで来てくれた。あのとき、わたしはずっと、あなたのそばにいたのよ



 僕が、早希の故郷に行った?

 僕は混乱した。

 早希は、いったい何のことを話しているんだろう。

 早希の故郷がどこにあるのかも知らないのだ。

 僕がやっていたことといえば、東京の街の中で彼女の姿を探していただけ。それなのに、なぜ早希の故郷に行くことができるんだろう。

 海の見える街。いったいそこは——。



 次の瞬間、激しい頭痛が僕を襲った。

 頭が割れるように痛い。

 そして突然、身体が激しい熱を発しはじめていることに気づいた。

 身体ががくがくと震える。

 頭は凍るように冷たく痛むのに、身体は焼けるように熱い。

 早希は僕の手を握りしめながら、耳元で囁くように言う。


「ハルくん。ひとつだけお願いがあるの。わたしのことを、忘れないで。わたしのことを覚えていて。そして、わたしの故郷のことも。あなたに覚えていてもらえるならば、わたしはよろこんで、もとの場所に戻っていける。時のない場所に、わたしはいるの。これからもずっと。でも、あなたがわたしを忘れずにいてくれたら、わたしは、間違っていなかったんだって思える。わたしの人生は、きっと間違っていなかったんだって——」


 早希の声は、震えていた。

 彼女は泣いていたのかもしれない。

 僕の頬に、彼女の涙の雫と、柔らかい唇の当たる感触があった。

 そして不意に、僕の手を握る彼女の手が離れた。



 ——いや、離れたのではない。消えたのだ。



 彼女の姿は、キャンドルの灯の影に隠れるように、闇の中へ溶け、消えてしまった。

 彼女が座っていたはずの席には、結露で濡れたグラスが静かに置かれていた。わずかに、潮の匂いがした。

 海の見える街、と早希は言った。そして僕が、彼女の故郷を訪れたことがある、と。

 僕は何か、重要なことを思い出そうとしていた——。




 どん、どん、どん。


 早希が消えてしまった後も、重い扉を叩く音は続いていた。

 その音は一層激しくなり、扉を打ち破るために身体を打ち付けているようにさえ感じた。

 いったい、あそこに立っているのは誰なんだろう?


 まるで、僕のことを迎えに来たみたいに感じる。


 そう思った瞬間に、背筋に寒いものを感じた。いったい、どこに連れて行こうっていうんだ? 頭がスレッジハンマーで叩かれたように痛む。身体は熱にほだされ、まったく自由がきかない。


 僕は、朦朧とした意識の中で、老齢のバーテンダーの姿を見た。彼は、なぜかバーの室内であるにもかかわらず、黒いこうもり傘を差していた。彼が差しているのは、カウンターに飾られていたあの奇妙なこうもり傘だ。

 なぜ、何も降ってこない室内で、こうもり傘を差す必要があるんだろう? わからない。何も考えられない。そして彼は、不気味な笑顔で僕の顔を眺め、何かを囁いていた。しかし、声はまったく聞こえない。ただ、ぱくぱくと、口を動かし、彼は僕に何かを言っている。



 僕は意識を失おうとしていた。薄れゆく意識の中に、早希の去っていく後ろ姿が見えた。

 僕は手を伸ばし、彼女に呼びかける。

 待ってくれ。行かないでくれ。僕はまだ、君に伝えたいことがあるんだ。僕は君のことを忘れない。それに僕は、君のことを今でも、深く愛しているんだ。だから、どうかお願いだ。まだ、まだ行かないでくれ。あと、もう少しだけ——。


 次の瞬間、重い扉が激しい音を立てて開いた。

 だれかが、この名もなきバーにやってきた。

 そして、あるいは、僕を迎えに来たのだ。

 得体のしれない世界へ僕を連れていくために。

 だれかが店の中に入ってくる。

 ずっしりと、湿った足音が聞こえた。

 雫が床に落ちる音が聞こえる。全身がじっとり濡れているようだ。ざあ、ざあ、と激しい雨の音が聞こえた。いつの間にか、店の外には大雨が降っているようだった。淡いキャンドルの灯りが、その何者かの姿形を照らし出す。


 そして僕は、驚くべきものを見た。
 バーの重い扉を開いたのは、他でもない僕だった。

 もうひとりの、雨に濡れた僕が、扉を開き、この店にやってきたのだ。


 そこにいる僕は、ずいぶん年老いているように見えた。髪は白くなり、顔には深い皺が刻まれていた。


 そのとき、僕はふと思い出した。


 京都の街を久しぶりに訪れ、三条大橋の真ん中から景色を眺めたときに感じた、何らかの微細かつ根本的な違い。それは、僕たちが年をとるように、街もまた年をとっている、という気づきだったのだ。


 生きている限り、僕たちは年老いていく。それは避けられない定め。僕たちは、誰ひとり、その定めから逃れることはできない。そして、生きた人々を育む街もまた、僕たちと同じように年をとっているのだ。この世に存在するすべてのものは、時の洗礼を受ける。


 しかしある場合には、時を止めたまま、そこに存在し続けるという可能性もあるのかもしれない。たとえば、早希のように。

 彼女がいる場所がいったいどこなのか。それは僕にもわからない。ただひとつだけいえることは、彼女は今、時のない場所にいる、ということだ。そして僕は、彼女に呼ばれ、再会するために、京都にやってきたのである。


 もうひとりの年老いた僕が、僕のそばに近づき、僕の肩に手をかけた。

 そして、黒いこうもり傘を差している老齢のバーテンダーと、言葉を交わし始めた。何かを激しく言い争っているようにも見えた。しかし、そこで交わされている言葉を聞き取ることは、僕にはできなかった。僕の意識は、無意識の底に沈んでいった。もう、何も考えられないし、身体を動かすこともできない。頭痛も感じなくなり、身体の熱も感じない。


 ——やがて、僕を構成する意識、肉体、心、それらすべてが分解され、無にかえっていく。マーブル模様を描く渦の中へ、ゆっくりと吸い込まれていく。音もなく、匂いもなく、何も見えない場所へ——。




 僕の頬を叩き、だれかが呼びかけている。
 ゆっくりと、僕は目を開けた。


Chapter.5 寺院


 開いた目に飛び込んできたのは、降りしきる雨だった。

 天からこぼれ落ちてくる雫が、僕の顔を際限なく濡らしていく。

 僕は顔を左右にゆっくりと振る。

 雨に蒸らされた土の匂いがする。

 身体は地面に張り付くように動かない。

 全身が、激しく打ち付けるぬるい雨に洗われている。

 空は明るい。時刻はおそらく昼過ぎぐらいだろうか。まるで、夏の夕立を浴びているような感覚がある。しかし、今は三月だったはずだ。それなのに、なぜこの雨は夏の趣に満ちているのだろう。


 僕の近くに、人影があった。


 見ると、その人は白い頭巾をかぶり、黒い法服をまとっていた。どうやら、尼僧のようだ。

 気高い狐のように整った一重の目、通った鼻筋。つるりとした肌をしていて、年齢はずいぶん若いように見える。彼女は懐から布を取り出し、僕の顔を優しく撫でながら、静かに話した。


「やっとお気づきなさった。あなた、きっとあの石窟の水を飲んだのでしょう」


 尼僧が指をさす。



 目で追うと、その指先には、鳥居のある巨大な岩場があり、石窟が口を開けていた。石窟の奥には、小さな泉があった。

 泉は、四方をしめ縄で封印されている。しかし、そのうちのしめ縄の一角が、千切れたようにだらんと垂れ下がっていた。

 そして、封印を解かれた小さな泉は、何か異様な気配に包まれていた。あの封印を解いたのは、僕なのか? 

 わからない。何も思い出せない。

 尼僧は、言葉もなく垂れ下がったしめ縄を見つめる僕を見て、一瞬顔をしかめ、憐れみを帯びた声で言葉を続けた。


「あなたの想いは深く、そして強い。どうやら、夢を見ておったようですね。とても長い、大事な夢を」

 とても長い、大事な夢。


 僕が見ていたのは、果たして夢だったのだろうか。僕の肩にはまだ、年老いたもうひとりの僕が手をおいた感触が残っていたし、僕の頬には、早希の涙の雫と、唇の感触が残っていた。そして僕の手には確かに、彼女の白い指が——。


 早希。

 僕は彼女に、何も伝えることができなかった。

 たった一度きりの再会だったのに。

 もう、二度と訪れないだろうに。

 次の瞬間、ぱっくりと開いた傷口から鮮血が溢れ出すように、涙が流れ出した。僕は夏の雨を全身に浴びながら、打ちひしがれて泣いた。


 ——僕は今、すべてを思い出そうとしていた。


 なぜ、石窟にある小さな泉の封印を解いてまで、その水を飲む必要があったのか。

 どうやって、早希に会おうとしたのか。

 そして、早希が今、どこにいるのか。

 雨に打たれ、呻くように涙を流し続ける僕に、尼僧が手を差し伸べる。


「あなたの想いは、しっかりと伝わりました。あの泉の封印を解いたことは、どうかお忘れになってください。きっと、今のあなたにとっては必要なことだったのでしょう。さあ、参りましょう。夏とはいえ、そんなに濡れてしまっては、冷えてお身体に障ります。本堂で、ゆっくりと心身を清めてください」




 僕はなんとか立ち上がり、尼僧に案内され、山道を下って本堂に入った。そして、本堂の真ん中に座り、濡れた身体を拭き、暖かいお茶をいただいた。

 本堂には、立派な本尊があった。

 僕は黙って、その本尊と対面していた。黒ずんだ木製の本尊が、灯された蝋燭の炎で照らされている。厳しい顔をした本尊だ。まるで鬼のような表情をしている。本堂の中はしんとして、外で降り注ぐ雨の音だけが、静かに響いていた。



「不動明王です」

 背後から尼僧の声がして、僕は振り向いた。


「当山は、六百五十年頃、役行者によって開かれました。この御本尊は、八百三十年頃、天皇の勅願によって弘法大師が直作したとされています。千八百年代に起こった大火で、この寺院の境内はほとんどが焼失してしまいました。しかし、この不動明王の御本尊だけは、焼け落ちることなくこの世に残りました。以来、ずっとこの寺院を厳しい表情で守り続けていらっしゃいます。たとえ、破滅的な災いがこの世界を破壊しようとしたとしても、人々が一人でも多く救われるように。この御本尊には、そうした想いが込められているのです」

 尼僧は、僕と向かい合わせになり、静かに正座した。

 そして、言葉を続ける。


「不躾なことを申し上げますが——あなたは、大切な人にお会いするために、当山にお越しになったのではありませんか? おそらくは、今はもう失われた、大切な人に


 僕は静かに頷く。


「おっしゃるとおりです。この場所には、『釜蓋朔日(※かまぶたついたち。冥土への道が開くとされ、お盆の月の始まりを意味する)に、冥土に通じる水場がある』と人づてに聞いたのです。私の大切な人の名前は、早希と言います。彼女は、早希は——東日本大震災の津波で、行方不明になりました。彼女の故郷、海の見える街で




 僕が上京してしばらくした後、東日本大震災があった。

 僕はそのとき、会社のオフィスにいて、揺れがおさまるのを建物の中でじっと待った。本来、動くはずのない電柱がゆらゆらと爪楊枝のように動き、ガラスが木の葉のように次々に割れ、建物は豆腐がかき回されるように何度も揺れた。

 あの瞬間、一緒に避難していた同僚の顔の異様な変化が、今でも忘れられない。同僚の顔が、まるで落ち窪んだ穴のように真っ黒になっていたのだ。あれは錯覚ではなかったと思う。あのとき、彼の顔は間違いなく剥ぎ取られていた。

 得体の知れない力が僕たちの日常を破壊しようとしていることへの不安と恐怖と虚無が、平和な日常を送っていた同僚の顔を剥ぎ取ってしまったのだ。僕にはそのように思えた。

 地震がおさまり、東北地方の被害がいかに甚大なものであるかがニュースで流れ始めた頃、ふと、早希のことがどうしようもなく気になり始めた。彼女も僕と同じく、東京にいるはずだ。地震の後も、無事に過ごしているのだろうか。

 やがて、東京にはかりそめの日常が戻り、被災地の復興支援が始まった。

 福島では原発が致命的な被害を受け、デマや風評が飛び交っていた。報道も混乱していた。何が真実で、何が嘘なのか、全くわからない。

 日本は明らかに、それまでの平和な国ではなくなりつつあった。何か、重大なバランスが崩れている。

 しかし、誰もが崩れたバランスを元に戻す方法がわからず、途方に暮れていた。あるいは、元に戻ることはもう、二度とないのかもしれない。

 パンドラの匣は開かれてしまったのだ。僕たちはその事実を、まずは受け入れるしかないのかもしれない。

 この世に存在するすべてのものは、時の洗礼を受ける。僕たちが年をとるように、街もまた年をとる。時間が元に戻ることは絶対にありえないのだから。



 ——そして時は過ぎ、僕は本格的に早希の足取りをたどる旅に出ることになる。


 会社には、無理を言って一週間、休暇をとった。東日本大震災から、一年が経とうとしていた。

 僕はまず、早希の働いていた京都のカウンターバーに向かった。しかし、そこでは有益な情報を得ることはできなかった。早希と一緒に働いていたメンバーもほとんどいなくなってしまっていたし、店長に話を聞いても、早希が東京に行った、ということ以外は何もわからなかった。それに、店自体も近いうちに閉めることになると聞いた。

 次に、早希と僕の共通の友人を介して、早希と親しかった友人を何人か紹介してもらった。早希が今、どこで、何をしているのか。全国に散らばる友人たちを一人一人訪ね、聞いて回ったのだ。

 ほとんどの友人たちは、早希が東京に行ったということ以外の情報を持ち合わせていなかった。そして皆、僕と同様に、早希と連絡すら取れない状態だった。結局、一週間全国を飛び回っても、早希の足取りを掴むことはできなかった。


 しかし、その後しばらくしてから、早希の友人のうちの一人から連絡があった(早希の友人である彼女にはとてもお世話になった。本来であれば、僕に連絡をくれた彼女の話をもっとここに記すべきなのだろう。けれど、語るべき話とはまた別の話になってしまうので、早希の友人である彼女について、ここでは詳しくは語らない)。


 早希の幼馴染をたどり、彼女の親戚にまで話を聞きにいってくれていたというのだ。そして、そこで驚くべき事実を僕は知ることになる。


 早希はもう、東京にはいないというのだ。

 彼女は、故郷の岩手県に帰っていた。

 彼女が故郷に帰ってからほどなくして、東日本大震災があった。

 彼女の故郷は、海の見える、小さな漁港のある街だった。地震の後、巨大な波が、彼女の住む街を襲った。津波の高さは、十メートル近いものだったという。人々の営む慎ましい暮らしを、壁のように立ちはだかる津波が、根こそぎなぎ払っていった。そして彼女は、家族とともに、行方不明となった。


 震災による死者一万五千八百九十四人、行方不明者二千五百六十二人。
 ——彼女もまた、そのうちの一人となっていたのである。





 僕は「早希がいなくなってしまった」という事実を、うまく受け入れることができなかった。しかし、どれだけあがいても、ひとつだけはっきりしていることは、「もう彼女とは二度と会うことができない」という事実だった。

 彼女を失ったこと。それは、僕にとってこれまでに経験したことのない、深い虚無の到来を感じさせた。僕の人生はいったい、何のためにあるのだろう? ただ深い哀しみを背負うためだけに、この人生があるのだとしたら、僕は救いをどこに求めれば良いのだろう?


 そして僕は、神様について考えた。


 もしも神様がいるならば、神様が僕たちを守るために存在しているならば、なぜ震災であれほど多くの命が奪われなければならなかったのだろう?

 奪われていった命と、残された命の違いはいったい何なのだろう?

 神様は、僕の人生から早希を奪っていった。僕はいったい、そこから何を学べばいいのだろう?

 なぜ、早希はいなくなり、僕は生きているのだろう?

 僕はこれから、どうすればいい。


 ねえ、神様。

 もしもいるなら、教えて欲しい。

 僕は、いったいどこに向かえばいいんだ?




 その翌年、僕は早希の故郷、海の見える街に訪れた。そうしないわけにはいかなかった。震災から、二年の歳月が流れていた。当時、復興支援のボランティアが盛んに行われていて、僕もその活動に参加した。

 街の中心には、活気が戻っていた。それは、日本のどの街でも見たことのない、起源的な活気だった。一度奪われた日常を再び取り戻す。そうした力強い想いを、原地の方々ははっきりと持っているように感じた。


 僕は、ボランティアの人たちとともに、瓦礫の撤去や、草むしりなどを行った。すでに大きな瓦礫は重機で綺麗に取り除かれていたし、実際には僕ができるようなことはほとんど残されてはいなかった。

 その後、津波が襲った海岸沿いを、バスで見学した。かつては街があったであろう場所が、すべて更地になっていた。バスを降りて港があった場所を見た時に、砂浜がごっそりと削げ、すぐ足元から深い海が始まっていることに恐ろしさを感じた。

 堤防は崩れ、鉄の手すりがまるでスパゲティのように曲がっていた。重たい色をした海の水は、今は静かに、僕たちを見据えているようだった。

 そこには、僕たちを飲み込んでやろうというような特別な悪意は感じなかった。ただ圧倒的な、人間が到底敵わない力を、自然が持ち合わせているということだけがわかった。そして、いくつもの人生が、その水の中に溶けていったのだと思った。


 僕はそんな光景を、なすすべもなく眺め、佇んでいた。しかし、早希が育ち、そして奪われていった街の土の上に立ち、そこで行われているすべてを目の当たりにすることが、僕にできる唯一のことであるように感じられた。それだけが、僕に課せられた使命のようにも思えた。



 ボランティア活動の合間に、仮設住宅に住む子どもたちと遊ぶ機会があった。数人の男の子や女の子とともに、鬼ごっこや、かくれんぼをした。

 僕はそのとき、なぜか無心になって、子どもの頃に戻ったかのように、楽しく遊ぶことができた。僕たちの世界を取り巻く薄暗い出来事を、その瞬間は忘れることができたのだ。子どもたちは皆、目を輝かせて遊んでいた。

 その目には、一点の曇りもない。彼らはまだ、これから世界を知り、そして歩んでいくのだ。僕はそのとき、それがいかに心強いことかわかった。少しでも、彼らのためになることがしたいと、僕は強く思った。


 ボランティア活動を終えて、東京に戻る日がやってきた。

 その日、一緒に遊んだ子どもたちが、見送りにきてくれた。そのうちの女の子のひとりは、僕の手をずっと握っていた。笑うとえくぼが可愛らしい女の子だったが、そのときは口を真一文字に結んで、ぐっと感情をこらえていた。


 彼女は、津波で父親を失っていた。彼女は、僕の手のぬくもりの中に、父親の姿を探していたのかもしれない。そして、僕もまた、彼女の手のぬくもりの中に、早希の姿を探していた。



 しかし、そのとき、僕は何か不思議な感覚に包まれた。

 それは、「早希とまた会えるかもしれない」という奇妙な予感だった。

 幼い女の子の手を握りしめながら、僕は早希の息吹を感じていた。

 彼女はまだ、生きている。

 どこか遠く、僕がまだ知り得ない場所で。

 今はまだ、その時ではない。

 でも、いつか必ず、僕は彼女に会うことができる。


 なぜか、それは僕の中で確信に近い想いとなって、育っていった。以来、それだけが、僕の生きる希望となったように思える。早希とまた、いつかどこか特別な場所で、特別な時間を経由して、再会すること。僕にとっては、それこそが生きる意味そのものとなったのである。




「——そして、僕はこの寺院のことを知ったのです。ここに来れば、早希にまた、会えるかもしれない。その一点の希望だけを頼りに、僕は京都にやってきました。あの石窟の、小さな泉の封印を破ったのは、この僕です」


 そこまで話すと、全身の力が抜け、その場に崩れるように突っ伏した。

 尼僧は、僕の話したことを、静かに反芻しているようだった。

 そして、静かな声で言った。


「早希さんがあなたを、当山までお導きになったのでしょう。そして、平成後期に起こった東日本大震災は、過去に類を見ない、未曾有の天災でした。あれからもう、ずいぶんと長い年月が経ちましたが、今もまだ、その傷は完全には癒えていません。あなたがこうしていらっしゃったことで、そして早希さんのことを語ってくださったことで、私もまた、改めてあの震災のことを、思い出させていただきました。きっと、あなたには語り継いでいく定めがあるのでしょう。早希さんのことを忘れず、彼女の故郷に起こった出来事を忘れず、次の世代に伝えていくこと。それが、あなたの定め


 尼僧は優しく微笑んだ。
 しかし彼女の言葉には、奇妙な違和感があった。


 彼女の言葉の語り口からは、まるで東日本大震災が遥か昔の出来事であるかのように感じられたからだ。


 尼僧は話を続ける。

「どうか、お身体を大切になさってください。ずいぶん長い時間、雨に打たれておりましたからね。お身体に障ると大変です。失礼ながら、先ほどあなたの貴重品を拝見させていただき、ご家族にもご連絡差し上げました。これから、お迎えにいらっしゃるということですよ」


 ——家族?


 僕の両親は、京都からはずいぶん遠いところに住んでいる。それに、車も運転しない。こんな山中の寺院に、どうやって迎えに来るというのだろう。


「すみません。僕の両親は、車も運転しないものですから。いったい、どうやって迎えに来ると言っておりましたか?」


 その言葉に、尼僧は少し驚いたように言う。


「ご両親ではございません。——あなたのお子様ですよ。お孫さんと一緒に、これからお車でいらっしゃるということでした。ご家族の皆様がずいぶん心配なさっていましたから、どうかご無理をなさらぬように。到着されるまで、こちらの本堂でゆっくりとお休みになってください」


 ——僕の子どもと、孫が迎えに来る。


 その言葉を聞いた瞬間に、自分が何歳で、今が平成何年のいつなのか、まったくわからなくなっている自分に気づいた。

「すみません、今日は平成何年の何月何日ですか?」

 僕は思わず、尼僧の手を握って尋ねる。彼女はまた、驚いた顔をする。

「どうやら、ずいぶんお疲れのご様子ですね。——平成は以前の元号ですよ。今はもう元号も変わっています。今日は釜蓋朔日ですから、八月一日です」


 尼僧の言葉を受け止め、僕はすべてを受け入れる覚悟をし、尼僧の手を握る自分の手を見た。


 そこには、年老いた老人の手があった。顔を触ると、そこには深い皺が幾重にも刻まれ、時の洗礼を受けた皮膚が張り付いていた。


 ——僕たちが年をとる頃、街もまた年をとる。


 そして、気づけば僕は、年老いていた。

 それと同じ時間だけ、京都の街も、そして早希の故郷である岩手の海の見える街も、きっと年をとっているんだろう。


 僕はいつの間にか、自分でも気づかぬ間に、人生を走り抜けてきたようだった。失われたものにもう一度、ほんの一瞬でも触れたい、あの頃に言えなかった言葉を伝えたい、という一握の想いだけを頼りに。

 ——そして、もうすぐ人生の終焉を迎えるという頃になって、そのチャンスは突然やってきたのだった。


 僕の魂は、冥土の水場を通り抜け、三十代の若かりし頃の僕の肉体に戻り、時のない場所にいる早希と再会を果たした。


 しかし、僕は結局、彼女に何ひとつ、想いを伝えることはできなかった。
 僕はただ、彼女の想いに耳を傾けることしかできなかったのだ。


 それは、一方通行だった。


 彼女が遺したものを、僕が受け止める。
 時の流れと同じだ。
 彼女は過去であり、僕は未来なのだ。


 だから、過去から受け継いだものを、僕は運び、さらなる未来へとつないでいく役目がある。

 僕と早希は、同時系列では存在しえない。今の僕には、その事実がはっきりとわかった。僕たちは、その定めを受け入れるしかないのだ。


 しかし、そこに絶望はなかった。

 僕もまた、もう少し経てば、過去になる。

 僕の子ども、そして孫へと、未来は受け継がれていく。

 そうなれば、——僕はまた、早希と会うことができるのかもしれない。




 僕はすべてを受け入れ、本堂の窓辺に立ち、庭を眺めた。
 美しい日本庭園には、夏の雨が降り注いでいる。

 草木は若々しく青い葉を茂らせ、池には蓮の花が咲き、石は珠のように雨を弾き、土は天から降り注ぐ恵みを吸い込んでいく。

 その庭には、特別なものは何もない。

 その景色からは、僕がこれまで歩んできた長い人生を、はっきりと肯定するような啓示を見出すことはできなかった。

 しかし、そこには何か、恩寵の予感のようなものがあった。

 僕はおそらく、辿り着くべき場所までやってきたのだ——。


 強い風が吹く。

 命の息吹に満ちた、夏の風だ。

 ふと、激しく降り注ぐ雨の帳の向こうに、うっすらと人影が見えたような気がした。その影の醸し出すひと気がとても懐かしく思えて、僕は静かに目を閉じた。


[完]


あとがき

 この小説は「#もしもSNSがなかったら」の公募参加作品です。

 この作品は、もともと昨年2017年の夏に、書き終えていた小説でした。書き終えた当時、もっとうまく書けるような気がして、しばらく寝かせ、この物語を骨子とし、連載小説としてnoteで再構築しようとしていました。

 しかし、連載小説はうまく書ききれず、頓挫してしまいます。そんな中、この小説のことも自分の中で忘れつつあったのですが、2018年3月11日を迎え、東日本大震災の追悼についてのニュースがTwitterに流れてくるのを見るうちに、小説の存在を思い出しました。

 そして、読み返したところ、この小説が「東日本大震災に対する言語化できなかった想いをかたちにしようとしたもの」なのだということに改めて気づき、今日、2018年3月11日に加筆のうえで公開することを決意しました。

 さらに、「#もしもSNSがなかったら」の公募に参加するため、SNS的な要素を少しばかりストーリーに織り交ぜてみたのですが、付け焼き刃的な書き加えなので、あまり完成度は高くないかもしれません。

 ただ、そもそもTwitterというSNSがなければ、東日本大震災のことを深く思い出すこともなかったであろうこと、さらに言えば、SNSがなければ、この場所で僕が語る小さな物語もきっと、誰にも届かなかったのだろうということも含めて、SNSの不思議を感じたので、今では、この作品は「#もしもSNSがなかったら」へ公募するにふさわしい作品なのではと思っています。

 ひとりでも多くの人に、SNSを通じてこの物語が届き、願わくば、なんらかの勇気や希望をもたらし、あるいは東日本大震災について考える機会を与えるきっかけになれば幸いです。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

 平成三十年三月十一日 狭井悠(Sai Haruka)

平成三十年四月二十六日 追記

 当作品を、狭井悠のマガジン「TOKYO PORTRAIT」に追加しました。

サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。