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講演録 石牟礼道子俳句についてー畏怖する魂の渚

第40回神奈川現代俳句協会俳句大会 講演録 2023年11月24日 

 石牟礼道子俳句についてー畏怖する魂の渚   武良竜彦

0 ご挨拶 はじめに

 〇 高野ムツオの『語り継ぐいのちの俳句』をめぐって 

 こんにちは。先月の横浜俳話会俳句大会に参加され方は、この会で二度目のことになりますね。横浜俳話会では俳句表現とは何かということの、基本的な考え方について、私が子供達に対して行った授業の再現という形で、比較的楽しくお話させていただきました。

今回は私のライフワークの、石牟礼道子文学を含む俳句作品についてお話させていただきます。

 その主旨は、俳句表現に向かう基本的な姿勢として、命の尊厳、社会との葛藤、その喜びと哀しみも包摂する、存在論的な姿勢ということになりますが、それは石牟礼道子俳句の思想的な背景でもあり、私が所属する「小熊座」の創始者である佐藤鬼房が提唱し、それを今の高野主宰が継承している「人間風土詠」という理念でもあります。

 横浜俳話会俳句大会でのお話の最後の方で、そのことを簡単に紹介いたしましたが、今日はその高野主宰にわざわざ聴講に来ていだたいて、私のことを先にご紹介いただいて、恐縮しています。

高野主宰は震災後、『語り継ぐいのちの俳句』という本にも纏められて、震災詠をめぐる総括をされていますが、それもありまして、講演依頼が殺到して多忙な思いをされていて、私も拝聴しています。

今日は逆に、主宰の前で私が講演することになって、なんだか緊張しています。高野主宰の震災詠で有名になった代表的な句は、

 泥被るたびに角ぐみ光る蘆    

 車にも仰臥という死春の月

というもので、生命というものの災害下で諸相が見事に造形表現された句ですね。このように佐藤鬼房が提唱した「小熊座」の理念と、石牟礼道子の俳句の背景にある思想は、深い所で響き合っているところがあると思うんですね。
 石牟礼道子俳句の背景にある思想は、自然の中で生きる人間としての命と心の在り方に関わることなんですね。これが解ってないと、石牟礼道子俳句は、難解でわけの分からない俳句なんですね。

石牟礼文学に出会ったせいで、その文学的態度というのですか、視座が無意識に私の中に根付いてしまっていて、環境破壊問題を背景にした傾向の童話を書くようになってから、童話作家としての立場を危うくするような体験をしています。その問題意識が時代的にまだ共有されていなかったこともありますが、エンターティンメント童話賞から出発した私が、純文学系の童話を書くことに、エンタメ系の童話作家の先輩、同僚や、児童向け雑誌の編集者から、露骨な拒否反応を示されて、児童文学界に居辛くなったんですね。

いきなり個人的なことをお話ししてしまいましたが、それほどに、石牟礼文学の先見性と影響力があったという、文学にとっても普遍性のあるお話ですのでお許しください。

また「小熊座」の高野主宰との、若い頃の出逢いと交流があって、私が俳句を始めたことと、石牟礼道子論をライフワークに決めたこと、とは深い関係があります。

ここからのお話も、しばらくは私の個人的な話の続きになりますが、石牟礼俳句の本論に入る前に、大事な伏線になると思いますので、私的な体験を中心に、しばらくお話しさていただきます。

 私が現代俳句のことを知ったのは、大学生のとき高野ムツオ主宰に教わったのが初めてです。主宰とは同窓生で同じ学部学科、サークルが現代詩研究会でした。高野主宰は詩歌全般と民俗学、西洋の象徴詩を含めた文学全般に関心があるようで、他のサークルとも繋がりがあったようですが、本命は俳句のようでした。当時、もう学生俳人として評価されているくらいの実力があって、知る人ぞ知るという存在でした。

私が強い心象を受けて覚えている、そんな初期の俳句は次のような句です。

  泥酔われら山脈に似る山脈になれず

  翼欲しい少年は黄落期

  ジャズが刈田でランボー船に酔うころか

 同世代の団塊世代、七十年安保世代の方なら、その俳句の精神的な背景になっていることについて、何か懐かしく思い出されると思いますが、わたしたちの世代が抱えていた、社会への不満、絶望感のようなものが背景に詠み込まれているようで、痺れてしまいましたねー。

  泥酔われら山脈に似る山脈になれず

 「泥酔われら」ですから、同世代の若者同士、議論しながら酔っぱらっているような状況ですね。「山脈に似る」の山脈というのは歴史的事実の積み重ねとして存在する社会的な圧力のようなもので、若い世代はそれになかなか馴染めない。というより戦後の経済復興で大量生産、大量消費時代に突入してゆく頃の、何か地に足についていないような、どこか嘘くさい浮かれたような世相に、生真面目な文学青年体質の若者には拒否感があったわけです。日本戦後史を形成しつつある現実の世相の中で生きていて、自分もその山脈の中の一つなんだけど、山脈にはどうしても同化できない、という想いですね。

 こんなふうに、高野主宰や私のような世代は、戦後の経済成長、大量生産、大量消費、精神的な飢餓感を消費行動で充実させるだけの、なんか地の足のついていないような、浮かれ世相に同調できず、違和感を持っていた世代で、その上の佐藤鬼房の世代は戦争という命を軽んじた時代に、精神的傷を負った世代と、何か共振するようなところあって、「小熊座」の俳句理念とどこか合致したところがあったんでしょうねー。

後に高野ムツオ俳句論を書いたとき、この世代の感性を私は「不可能性の中に意思を置く感性」ではないか、と論じたんですね。

その論文を試しに現代俳句評論賞に応募したら、佳作として現代俳句誌に掲載されましたから、もしかしたら読んでご記憶の方もあるかもしれません。次の、

翼欲しい少年は黄落期

という句。黄落期(こうらくき)なんて、木々が黄色く色づいて地面に落ちていくことですよね。人生に喩えるなら黄昏期みたいな言葉を、これから飛翔するため翼を欲しがっている少年を喩えるには相応しくない言葉ですよね。でも、でもそこにこの戦後日本社会の中で精神的に違和感を抱いて佇んでいる気持ちが、もう不可能性そのもので、不可能性の中で、それでも生きていくんだよ、という意思の顕れ、まさに「不可能性の中に意思を置く感性」ですよね。次の句、

  ジャズが刈田でランボー船に酔うころか 

稲刈りの終わった田んぼ道でジャズが聞こえてきて、その軽快なスイング感とは裏腹に、フランスの天才詩人とまで評価されていた詩人のランボーが、詩なんてなんの価値もないとばかりに詩を止めてしまって、貿易商人になるんだと船に乗って外国に去ってしまったというエピソードを踏まえている句なんですねー。刈田という季語の世界、軽快なジャズのスイング感、と来てから詩人の挫折感へ一気にもっていく、まるで言葉の魔術じゃないですか。ここにも自分が熱中している俳句なんて、なんの役にも立たないよね、ランボーも同じ気持ちになって、詩を書くのを止めてしまったじゃないか。でもね、自分はそれをやっていくんだ、やっていくしかないんだよね、という想いは不可能性の中に意思を置くという姿勢そのものですよね。その論点が評価されたみたいで佳作に入選しましたけど。学生時代にこんな句を読まされて、仰天したわけです。どうすればこんな俳句が詠めるんだ、って驚嘆しましたねー。

不可能性の中に意思を置く感性

どうですか、団塊世代、七十年安保世代の方には共感してもらえる視座だと思いますけどねー。

彼の俳句だけでなく、他の現代俳句作家の作品も高野主宰から教えてもらって、俳句はすごいことができる、すごい表現形式の文学だということを知ったわけです。

そんなわけで、句集や俳句評論を読むのは好きになりましたが、私は自分でも俳句を作ろうとは思いませんでした。高野主宰の学生時代の老成したような俳句を読まされると、これは特別な才能を要する世界で、下手に手を出したら火傷しかねない、と尻込みしたのですね。

 というわけで俳句を作ることはしませんでしたが、ずっと小熊座は読み続けて、たくさんの俳人の句集とか評論は読み続けてきました。

 ずっと後になって、「小熊座」に入会してから、高野主宰のご好意で、俳句時評を書かせてもらい、俳句評論を書く訓練をさせてもらったのですね。すると、尊敬する齋藤愼爾さんが私の俳句時評を、総合誌の俳句時評の欄で、名指しで激賞してくれました。

後で彼の句集『陸沈』の栞にも評文を書かせて貰いました。するとそれを読んだ黒田杏子さんが、いきなり「黒田杏子です」て、電話されてきたんですよ。黒田杏子? 誰? と一瞬面喰いまして、尊敬する俳人の黒田杏子と解るまで数秒かかったんですけど、黒田さんは、あの超高速会話体で一方的に話し続けたられたんですよ。この超高速会話体は齋藤愼爾さんも同じでしたねー。

それで黒田さんの話は、

「私の大親友の斎藤愼爾ことを、私より解っていて、凄い戦後文学論みたいに書いてくれて、有難う」

と自分のことのように喜んで話されたんですね。ああ、この人は石牟礼道子みたいな人なんだなーと思っていると、その話の次に

「石牟礼道子文学を研究してるんですって? 私も石牟礼さんが大好きだから、うちの『藍生』に、なんでもいいから書いてくれない?」

ということなんですね。

私は石牟礼道子の、この全句集『泣きなが原』は、黒田さんの尽力で出版されたということを、句集の後書き資料のところに書かれていたので知っていましたから、びっくりして「はあ」なんて曖昧に応えるのが精一杯でした。そしたら、『藍生』のバックナンバーで石牟礼道子特集をしていたときのものや、ご自分の過去の句集とかを、どんどん贈ってくださったんですね。後に黒田杏子さんの最初の句集『木の椅子』の増補改訂版の書評を『藍生』に書かせていただいています。その後、水俣病関係の映画が同じ年に二本公開されましたので、その論評を書きました。そして「小熊座」の連載とは違う角度からの石牟礼文学論を『藍生』に書く約束をしていたのですが、それを果たせぬまま、今年、亡くなってしまわれました。『藍生』は今年の七月号で廃刊になってしまいました。

黒田さんに俳句誌に石牟礼道論を書くことを勧められて、閃いたのです。私がライフワークにしていた石牟礼道子文学論を、彼女の俳句作品を軸にして書く構成だと書けるではなか、と思ったのですね。

そうして書いた石牟礼道子俳句論が現代俳句評論賞を受賞することになって、もう齋藤慎爾さんと黒田さんから祝福の嵐で。うれしかったですね。私の石牟礼道子文学論が完結したら、ご自分の深夜叢書社から出版してあげると約束していたのですが、完結しないうちに他界されてしまいました。

最初の現代俳句評論賞に応募する石牟礼論を書いている最中に石牟礼道子が亡くなってしまったんですよ。

目の前が真っ暗になるような気持でした。

受賞して現代俳句に掲載されたら、私の「へんじのない手紙」という水俣病のことが背景なっている童話が載っている本も持って、熊本まで会いにゆくつもりだったんです。

 石牟礼道子を全面的に支援した熊本在住の、評論家の渡辺京二さんに送ったら、手紙を下さって、「こういう本格的な文学論として、石牟礼文学を論じる人が出てくるのを待ってました。是非、熊本に来てください。私の雑誌にも投稿してください」とあったんですね。感激しましたね。あの渡辺京二に直接会って、文学論から社会論を聞けるとワクワクしましたね、渡辺京二さんはお寺の一角を借りて、石牟礼道子資料室を作って、その管理もしている方です。石牟礼文学のすべての校正と清書をした人で、彼がいなかったら今日の石牟礼文学は成立していないんです。

その直後、宮城県の歌人の佐藤通雅先生の要請で、先生の個人誌に「渡辺京二」論を書かせていただいて、渡辺京二さん送ったんですね。そしたら、君の文章は評論なのに文学みたいで、読者を酩酊させる力があって、感心したよ、と電話でおっしゃって、近いうちにお寺の石牟礼道子資料室でお会いする約束までしていたのに、その前に亡くなってしまったんですね。私はいつも間に合わないんですよ。四人の心の師の喪に。

 話は私が学生時代に遡りますが、一九六九年に石牟礼道子の最初の『苦海浄土』が出版されて、水俣病の事件が背景になっているというので、水俣出身で母方に水俣病の被害者がいる私は、読まずにいられなかったのですが、読んで衝撃を受けましたね。自然と対峙するときの、生きものの一つとしての人間の大切な視点、生き方についても書かれていて、それが石牟礼道子俳句の精神的な背景にもなっています。

私はその頃、つまり大学生時代までは、宮沢賢治と中原中也が好きで、まあ、趣味の世界の域内で、童話と詩を自作していたわけですが、『苦海浄土』を読んだ後、数年間、何も書けなくなってしまいました。

母方の実家が大きな網元の漁師一族で、皆殺しといってもいいような感じで、水俣病の被害を受けて、その大矢村が壊滅的な被害を受けているんですね。それは言葉にできない悲惨なことで、私はそのことに向き合うどころか、忘れてしまいたかったのです。

だから、石牟礼道子に「あなたはそこで何しているの」と問責されたような気持ちになったんですねー。

カッコつけていえば、いわば文学的失語症みたいな感じで、これは、結構深刻な心の病のようなものでした。自分には言葉の世界で何もできない、何かできる力なんかないよな、という気持ちです。

でもなんとか、三十代で童話作家になれて、自分なりに子供の視線から水俣のことを書くことができるところまでは来ました。「へんじのない手紙」という短編童話で、被害家族の漁師の家の少年と、加害側の工場労働者の息子の少年の交流という形で水俣病のことを書きました。

水俣病というのは、塩化ビニールの生成過程で、有機水銀を触媒とて使うのですが、使った後の有機水銀を工場排液として、不知火海に照れ流したために起こった被害なんですね。他の公害病と違って、特定の器官だけの障害ではなくて、神経中枢を破壊し、身体の発育はもちろん、健康の維持すら困難にしてしまう加害的なもので、それが工場排水に含まれていた有機水銀が動植物に蓄積して、それを食べ続けた人の、神経中枢を破壊するという病気なんですね。世界初の食物連鎖公害だったから、世界的に有名なったのですね。反響の半分は石牟礼道子の『苦海浄土』が翻訳されて世界でも読まれたからでもありますけど。

加害企業のチッソという会社の、水俣工場の附属病院の院長たちは、猫を使った実験の結果報告を、チッソと水俣の保健所に出していたのですが、チッソはそれをもみ消しています。保健所の所長の研究チームの方は、同じく猫を実験台にたした追試的な動物実験で、工場の廃液による海の汚染であることを突き止めていたのです。

そのチッソ工場の附属病院に、小学生のとき、病気で入院していた私は、中庭にあった猫を収容した実験檻のような大きな小屋から、迷い出てきた奇病猫と遭遇した経験があります。苦しがって、哀れな鳴き声で廊下をよたよた歩いていて、私が抱きあげると、お医者さんがすっとんできて「そん猫に触っちゃつまらん」と引っ手繰っていきました。

そのことと、漁師の家の子である友達と飼っていた兎が、水俣病の父が死んだときと同じ苦しみ方をするのを、二人で目撃してしまう内容の話を書いたのが、先にお話しした「へんじのない手紙」です。

単行本ではなくて児童文学アンソロジーの『星降る夜に聞いた歌』という全十巻のシリーズの「自然編」の巻に収録されました。

これを書いたせいで、エンタメ系童話出身の私の作風が変ってしまって、先輩作家や児童誌の編集者に嫌われるようになって、やがて童話自身を書くのを止めてしまうことになったわけですねー。

環境問題や、学校でのいじめ問題を背景にした童話は、原稿を突き返されるか、その核心になる残酷な場面の書き直しをさせられました。いじめ問題は、実際に学校でいじめに遭って、不登校、ひきこもりになった子たちが通うフリースクールの子どもたちと友達になりましたから、そこで聴いた実体験を少しフィクション化して書いたのです。

「あしたからのまなざし」という童話でしたけど、主人公の女の子は自殺未遂までしてて、「あたしなんか、生きていてもしかたないんだ、死んだら喜ぶやつが、いっぱいいるんだ」なんて言うんですね。その子に対してフリースクールの先生が「違うよ、その数の倍の人が悲しむし、君が生きてそこにいてくれるだけで嬉しいと思っている人が、きっといるよ」と言うんですね。「どこにいるのよ、そんな人」って女の子が言うので、先生は「ほら、目の前を見て、この僕だろ、それに君の両親、そして、今ここにはいないけど、君が大きくなるまで生きていてくれたら、君と出会えてよかったと思う、未来で出会うたくさんの人がいるじゃないか」と応えるんですね。それに主人公はハッとした顔になるわけです。

「わかるよね、今だけのことで考えてはいけないよ。君には未来で出会う、たくさんのまなざしで見守られているんだよ」と先生は言うわけです。だからこの物語のタイトルは「あしたからのまなざし」にしたわけです。

 この話も書き直しを求められて、それを拒否したら没になりました。

それ以後、私の作風が変ってしまって、エンタメ童話界から白眼視されるようになったのですね。

決定的だったのは、福島の原発事故が起きる遥か以前に書いた原発事故が背景の物語です。九州の二つの火山が爆発して、その火山灰のせいで原子炉が冷却できなくなって、南九州が人の住めない地域になり、懸命に助け合って生きた子どもたちが、結末では、みんな放射線被害で死んでしまう話です。アメリカの原発事故や、旧ソ連のチェルノブイリ事故があった後のことですが、学習参考書の企画で、電気が家庭に届くまでという巻を担当して、いろんな発電方法を取材したとき、原発の施設を案内した職員が、日本の原発では外国で起きているようなことは決して起きない、超安全な施設だと紹介されたんですけど、原発建設の段階から反対だったという人達に、その町でたまたま出会って、原発の危険な側面を教えられた経験がありましたから、リアルに書けたわけです。

でもその童話について、どの出版社も厭な態度でしたね。エンタメ童話作家が石牟礼文学の亜流みたいな話、持ち込むんじゃないよ、というような態度です。直接そうは言いませんが。

まあ、滅んだ村のモデルが私の母方の漁師村の、自然相手に豊かに暮らしいた漁村という設定ですから、編集者たちは、石牟礼の『苦海浄土』の真似だと思ったんでしょうね。没にされたその原稿はもう残っていません。今みたいにワープロの時代ではなくて、手書きで書いた童話でしたから。

原稿を突き返すとき、私より年下の編集者が、偉そうに私にこう諭すんです。「あのね、武良ちゃん、童話というのはね、向日性の文学(向かうお日様、と書きますが)といって、どんなに暗い話でも、最後は読んだ子供たちが、希望や夢を抱ける結末にしなきゃいけないんだよ。武良ちゃんはエンタメ童話作家でしょ。雑誌にこんな話、載せられると思ってるの」と言うんです。

こんなことは知ってますよ。

でも、現実はもっと深刻じゃないですか。

それでも生きていて欲しいと思って書いてるわけですけどね。

児童文学界も大人の文学のように、純文学とそれ以外のエンターティンメント系のジャンルがあるんですね。雑誌の児童誌から原稿依頼があるは、ほとんどがこのエンタメ系の童話で、純文学的な短編は敬遠されがちなんですね。ましてやエンタメ童話賞出身の私が、その傾向の話なんか書いて、何、純文学づいてるんだよ、というのが、本当の理由なんですね。

でも、よくよく自分の作風を振り返ってみると、私が書く童話は、最初から環境問題が視野に入ってる話なんですね。私のデビュー作は、「ぴかぴかピカリは光の子」というタイトルですが、小さなピンポン玉くらいの、隕石型生命体が地球に降ってきて、本当は宇宙人なのですが、人間はそれ貴重な鉱物資源とみなして捕まえて殺して、電力を生み出す製品にしたり、癌などの難病を直す薬に加工して商品化したんですね。でもその小さな宇宙人とテレパシーで会話ができる少年少女が声を上げて、大人たちに働きかけて、種子島のロケットで宇宙に返してやった、という話なんです。感動的でしょう? でも今日では常識になってきた環境問題そのものですよね。自分ではそれを自覚していなかったわけです。自然のものを人間が勝手放題に使うのはいけないよね、という主題ですから、石牟礼文学の主題そっくりですよね。

すべて石牟礼道子文学の影響というか、呪縛ですねー。

そんなふうに影響力が強い文学なですねー。

読まなきゃよかったんですよ。そしたら童話作家は続けられた筈です。

でも、読んでいなかったら、今日、ただいまの私はないわけですが。

それを気の毒がった弱小出版社の編集者が、児童書の学習部門、学参もの、と略していっているですが、その企画編集の仕事を回してくれて、その仕事にウェイトを移していきました。

私の気持ちとしては、もう文学の創作はいい、止めよう、これからは石牟礼文学の研究だけをしていこうと思ったわけです。

それで思春期、青春前期に耽読した宮沢賢治ワールドの方は、『ポラーノ広場』という童話を中心に、彼の「イーハトーボ童話」をバラバラに解体して、当時注目されていた「脱構造主義・脱構築」哲学の思想で、まったく別の物語に生まれ変わらせるという実験小説を書いて、総決算して童話作家を止めようと思ったのですね。

それを「日本ファンタジーノベル大賞」の第一回に応募したら、最終選考の二作のうちの一つに残ったんですね。賞金が百万ですよ。

でも先日亡くなった酒見賢一さんが書いた『後宮小説』という、中国王朝の後宮を舞台にした物語を、今時のギャル言葉で書いた小説に、最終選考で負けてしまいました。これは頂き、と思って、借金していろんな本を買い込んだんですが、当てが外れて困れましたねー。

でも新潮文庫に入れてくれて印税をくれました。もう絶版でインターネットの古書販売で三千円くらいの値がついています。

私の童話はもうみんな絶版で福武ゼミの学年別追伸添削誌に連載して、岩崎書店から単行本で出て、千葉県の中学生の夏休みの課題図書になった『メルヘン中学物語』という童話も、インターネットの古書販売で八千円の値がついています。私にだって買えない値段です。

話が脇道に逸れました。本筋に戻ります。

そして石牟礼文学の研究に没頭していったのですね。

そんなとき、石牟礼道子全俳句集『泣きなが原』が出たきは、仰天しましたねー。彼女は俳句も作ってたのかーと。

なんと初期には短歌も、そして詩も、たくさんの随筆も、短編小説も書いていたんですよ。短歌と詩と随筆と小説は共感できて、すんなり読めたんですが、俳句はわけがわかない俳句ばかりなんですよ。

それが石牟礼文学から受けた二度目の衝撃で、石牟礼文学を研究する上で、これはまずい。ちゃんと俳句の勉強をしないといけないと思ったんですね。

俳句の鑑賞と批評は独りでもできますが、自分で作るとなると、やはり俳句は座の文学ですから、仲間がいる環境で勉強するべきだと気づいて、そのころ、佐藤鬼房が金子兜太たちといっしょにやっていた「海程」と別れて、塩竈で創刊した「小熊座」を、鬼房が亡くなる直前に、高野ムツオ主宰を後継者指名というか、依願されて、後を継承することになった「小熊座」の門を、初心者として叩いて、創作の方の勉強を始めたわけです。

そしてだんだん創作する際の俳句のことが判るようになってきたんですが、なんということか、それでも石牟礼俳句はわけがわからない世界だったんですね。俳句を知っていても解らない俳句、これはどういうことだ、と悩みましたねー。

それが判るようになったのは、石牟礼道子全集が年数をかけて順次刊行されていって、その全ジャンル、俳句、短歌、詩、随筆、物語、膨大なジャンルの作品を精読しているうちに、視界がゆっくり開けてきたんですね。難解な俳句の世界の背景にあるものが見えてくるのと比例して、俳句世界も見えてくるようになったわけです。

今日、一番お伝えしたいことの骨子は、さまざまなジャンルで傑作を遺した石牟礼道子が、最後に選択したのは俳句というジャンルだった、という事実です。

彼女が抱え込んでしまった社会性の伴う苦しみから、俳句によって癒され解放されていったのですね。自分の小さいころの懐かしい記憶に彩られた最後の句画集を書くとき、楽しくて仕方がなかったと本人が証言しています。それが私の石牟礼道子俳句論の結論で、今日のお話の主旨でもあります。

今、結論から先に申し上げました。

石牟礼道子は、もともとは水俣病とは無縁の人ですから、関わる必要などなかったのです。関わらなければあんなに苦しみはしなかったはずですが、見知った以上は、放ってはおけない人なんですね

日本の昔の女性はみんな、そんな感性の持ち主だったわけです。

この弱い立場の人、困難に直面している人を放っておけない彼女の美質がよく表れている「タデ子の記」という随筆があるんですね。

戦中戦後の短期間、小学校の代用教員をしている時期があるんですね。代用教員と言うのは呼び名ではなく、当時の制度です。戦争で男性が駆り出されてしまって先生の数が足りなくなって、急遽専門教育を受けさせて教師を養成した制度です。彼女の赴任先が九州の西側を縦に貫く鹿児島本線の、水俣から鈍行で二、三駅先だったのですが、その務めの帰りに、今にも死にそうな様子の女の子が、たった独りで座席に座っていて、みんながもう死んでるんじゃないかと、汚れてみすぼらしい姿だったためか、周りの大人たちが、遠巻きにして不審がっているのに出くわしたのです。どうしてみんな声もかけないでいるんだ、とばかりに抱き起こして、いろいろ尋ねると震災孤児で鹿児島の親戚のところに行きなさいと言われて、この汽車に載せられたというのです。持っていた紙にその宛先だけが書いてあるわけです。まるで、荷物みたいに、可愛そうに、と石牟礼道子は思うわけです。このままじゃ、そこに辿り着く前に死んでしまうと直感して、その女の子を自宅まで背負って帰り、元気になるまで世話をした後、必要になる物を持たせて、また鹿児島本線に載せてあげたという随筆で、その後も無事に辿り着いただろうか、ついていってやれば良かったと、自分を責め続けたという話なんですね。

そういう人なんですね。

折口信夫は『古代研究I』(角川文庫一九七四年刊)で、古来の日本女性の特質について、次のように述べています。

   ※

(日本の文芸の歴史は)語部と言われた、村々国々の神の物語を伝誦する職業団体の人々の口頭に、久しく保存せられていた律文が最初の形であった。これを散文化して、文字に記したのが、古事記・日本紀その他の書物に残る古代史なのである。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。並みの女のように見えている女性の伝説も、よく見ていくと、きっと皆神事に与った女性の、神事以外の生活をとり扱うているのであった。事実において、我々が溯れる限りの古代に実在した女性の生活は、一生涯あるいはある期間は、かならず巫女として費されて来たものと見てよい。

    ※

『苦海浄土』の語りは、水俣弁という方言もありますが、古代からの巫女語りのような調べのせいでもあります。私はこの語りに馴染みがあるんですねー。私の母が水俣病で壊滅されられた自分の漁師家族のことや、昔、その村で行われていた行事などのことを語るときの調べが、そっくりなんですね。だから私は『苦海浄土』が、すらすら読めてしまいましたけど、馴染みがない方があれを読み通すのは大変だと思いますねー。

石牟礼道子の「もの狂いの情念」は、折口信夫が説く、文字で書かれるようになる以前の、口誦伝承者としての語り部や巫女的存在の、かつては当たり前に存在した、日本古代文化の流れの中にこそ位置づけるべきだと思います。漁師さんたちの文化は、文字文化の系列ではなく、その肉声よる「かたり」の口誦文化そのものなんですね。

『苦海浄土』の内容はすべて、彼女が見聞した事実に基づいています。それを「聞き書き」を模した独創的一人称文体で、被害漁民になりかわって「かたって」いるのです。その他にルポ的文体、三人称の小説体、さらには医者による病状のカルテや「水俣病闘争」関連の文書資料の引用など、多様な文体を駆使して構成されたものです。

 

1 石牟礼道子の原点―もの狂いの情念

ここから、いよいよ本題の石牟礼道子俳句論になるわけです。

石牟礼道子は無類の猫好きでした。石牟礼道子が詠んだ猫に纏わる俳句を紹介します。レジュメをご覧ください。

花びらも蝶も猫の相手して           「水村紀行」

猫たちと絆浅からず梅雨の夜          「〃」

ポケットで育ちし神の仔猫なり         「〃」

老猫のいびきふところにあり夢や何色      「〃」

猫のいびきなんて、聞いたこと、ありますか?

石牟礼道子の愛猫の気持ちが溢れる細やかな表現の俳句ですね。

この四句だけなら、まあ、普通の句でよすよね。

ところが死者を悼んでいるような猫の姿が詠まれている句があるんです。

死にゆくは誰ぞ猫たちが野辺送りする     「水村紀行」

猫たちが、人の死を感じとって、人間みたいに悼んでるんですよねー。そしてさらに驚くのは、猫の死が詠まれた句があるんです。句集には載っていない、未発表の、「創作ノート」に書かれていた句です。

まだ死猫(しびょう)ならざるまなこ星ひとつ   

死ぬ猫のかがめば闇の動くなり    

背中の毛ぞよぞよさせる猫看とる 

普通、可愛がっていた猫の死を詠んだりしないですよね。

それを石牟礼道子は詠む。

 死ぬ猫のかがめば闇の動くなり    

背中の毛ぞよぞよさせる猫看とる 

なんて、鬼気迫る表現で、愛猫の死の瞬間という時間丸ごと抱擁している句を詠んでいるんですね。死の瞬間に「ぞよぞよ」と体毛がぞよめく、猫の全的存在性が抱きしめられている句じゃないでしょうか。

作者が、猫と同体となって闇を動かしている。死を含む命のという存在の総体を、最後まで見届けずにはいられない眼差しが、石牟礼文学を貫く本質だと思います。

それを私は「もの狂いの眼差し」と呼んでいます。

実は、彼女が水俣病と関わりをもつことになったのも、猫を介してなんですね。というのは、漁師さんたちは、漁の網が鼠に食い千切られる被害、齧害(げつがい・齧る害)と言いますけど、それを防ぐために必ず猫を飼っていたのですね。

 石牟礼道子も人伝にその話を聞いて、自分の家の飼い猫が産んだ子猫を、人を介して漁師さんに上げていたわけです。

後になって、漁師町一帯で猫たちが、きりきり舞いをするように踊り狂って、まるで自殺するみたいに、石垣に突進して頭を打ち付けて悶絶したり、海に飛び込んで大量に死ぬという事態が起きたわけです。

私が飼っていた兎も同じ症状で死にました。

水俣病の被害は最初、猫や鳥など魚介類好きの小さな哺乳類が出たわけです。私が小学生時代に飼っていた兎も、チッソの工場を濠のように取り囲む会社川とよんでいた、工場排水溝が百間湾(ひゃくけんこう)という港に、工場排水を流していた水門の手前に広がっていた草地から摘んできた草を、餌としてやっていたからなんですね。

草に有機水銀が溜まっても草は枯れずに、逆に青々と繁っていたんですよ。そうとは知らずに、いい草場を見つけたと思って毎日刈ってきてあげた結果、漁師町の猫たちと同じ症状で、きりきり舞いして、私の目の前でのたうち廻って死にました。

そのことを先ほどお話しした「へんじのない手紙」という童話で書いています。

そんな猫の噂を聞いた石牟礼道子は、自分があげた子猫たちがどうなったか心配になって、漁師町に足を踏み入れて、その地獄図を目の当たりにしたわけです。まだ水俣病という公式名などない、「奇病」とか言われて、伝染病かも知れないという噂話になって、市民には気味悪がられ、誰も寄り付かなくなっていた時期です。

その地獄図を見た石牟礼道子は絶句したでしょうね。

言葉を失ったと思います。

その後、死を待つだけになった患者を収容する施設が市立病院の敷地内に作られ、進んで患者さんたち会い、交流を深めていくのです。

たった独りで、ですよ。ただ寄り添いたい、話を黙って聞くだけでいいと、吸い寄せられるように通い始めたわけです。

それから数年後、永い絶句と沈黙を抱きしめて、『苦海浄土』の前身にあたる作品が、心の友ともなった批評家の渡辺京二が創刊した雑誌を皮切りに、数十年もかかって、書かれてゆくことになるわけです。

まさに沈黙の不知火海にことばを与える偉業の始まりです。

そんなふうに、言葉を失うような体験をして、それでもそこに言葉を与えようと、自分を奮い立たせたのでしょうね。

だから魂を打つような文学が生まれたのだと思います。

その頃、石牟礼道子は短歌や随筆などの文筆活動もしていましたが、その表現の題材を求めて訪れたのではないわけです。何か人びとが重大な困難に直面しているらしいという理由だけで訪れてしまうのです。

先ほど折口信夫の古代研究の文章で紹介したように、彼女のこのような感性は、彼女だけの特異な性質ではないんですね。

彼女とっては自然なこの行為を、異様に感じてしまう私たちの方が、近代合理主義に毒されてしまっているのです。

ここでちょっと、どうして水俣病なんていう文明病が引き起こされるようになったのか、世界的な近代史の流れの中で、お浚いしておきましょう。環境破壊の世界潮流は産業革命から始まっています。「ロンドンの黒い霧」という言葉で有名な、イギリスの産業革命時代の、工場排煙、家庭のストーブや調理具としての竈などの煤煙で深刻大気汚染が発生して、人体に影響が出たことに端を発しているんですね。

丁度その一九〇〇年から二年間ロンドンに留学していた夏目漱石が日記でこう書いています。

倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ。真黒なる塊の水に驚くべし。何百マンの市民はこの煤煙と塵埃を吸収して、毎日彼らの肺を染めつつあるなり。我ながら鼻をかみ痰をするときは気のひけるほど気味悪きなり」                ―漱石全集「漱石日記」から

対策として煙突を高くして街の空気をよくしようとしたのが、逆効果で、地球の大気圏全体を汚染し、後の光化学スモッグなどの害へと拡大していったのです。

その後、イギリスを凌ぐ経済大国になったのがアメリカで、量産され大衆化した車社会が引き起こした大気汚染があります。

フォード社のヘンリー・フォードは「我が国の繁栄は農作物の収穫高ではなく、自動車の所有台数に比例する」なんて豪語したそうです。

それに拍車をかけたのがGM、つまりジェネラルモーター社で、流れ作業というベルトコンベア式の生産ラインの効率化で、大量生産によるコストダウン、大量消費を爆発的に拡大していき、ますます大気汚染が深刻になるまで拡大していったわけです。それで大気汚染が深刻なって、一部の科学者がそのことに警告を発したのですが、フォードとGMは一部の科学者に裏金を払って、反論キャンペーンを張らせたんですね。

世界を席巻する大量生産と大量消費による環境破壊と、その告発と、企業側とそれに決着した当時の政府との対立と構図は、日本の公害問題に始まったことではなくて、ここに原型が発生しているわけです。

そして第二次世界大戦というのは、この産業力の発展の延長で戦われた、無差別大量殺戮戦時代の幕開けだったわけです。

戦後はアメリカの爆薬の製造会社だったデュポン社が、便利なプラスチックとその生産工程から発明された化学繊維のナイロンを開発したり、ノーベル賞を取った科学者が発明したDDTという、人体には無害で、有害な昆虫だけに有効だという触れ込みの物質を応用した農薬を大量生産して、害虫駆除に成功して農作物の収穫高が飛躍的に上がったのですね。日本では虱退治薬として人体に直接振りかける使い方をしました。

この公害を告発したのがレイチェル・カーソンという海洋生物学者で、そのことを調べることになった切っ掛けは友人からの手紙だったそうです。DDTが散布されると鳥たちが大量に死んでいるというのです。それで調査研究を始めて四年かけて本にまとめて出版したのですね。一九六二年のことです。邦題は『沈黙の春』(青樹簗一訳 新潮社新装版二〇〇一年刊)。その中でこう書いています。

動物実験により、化学物質の多くが体の組織に蓄積されることがわかっています。肝臓を害するものや、神経を壊すものもあります。いま化学物質を適切に管理しなれば、今後我々は悲惨な結果に直面するでしょう

川に魚の姿はなく、受粉するミツバチはいない。草木に白い粉がはりつき、土や川にしみこくんでいく。今日生まれた子どもたちは、生まれたときから、おそらく生まれる前から、化学物質にさらされていることを忘れてはならない

その本は政財界、一般人にも大反響を呼び起こし、政財界はその否定の反論のキャンペーンを行って封殺しようとしました。その先導をした科学者は、後の地球温暖化も根拠がないというキャンペーンを大企業から金を貰って行った同じ科学者です。その論争に終始符を撃ったのがジョン・F・ケネディ大統領で、カーソンの本に感動して、政府としての正式調査を命じて、カーソンの告発が正しいことを立証し、一九七二年にDDTに生産中止の命令を出しました。

カーソンはそれ以前に癌で一九六四年に亡くなっています。

その後も環境破壊は進行し酸性雨で森林や生産緑地が汚染されるという、農業にも影響が及び、地球温暖化という深刻な状態になっているのが、今現在だというわけです。

そんなアメリカの真似して資本主義の工業生産によって経済発展を遂げた日本の話になりますが、ご存知のように大気汚染の三大公害がまず発生しました。一九六〇年代、石炭、つまり化石燃料を主エネルギーとした大気汚染ですね。製鉄所があった釜石、八幡、そして四日市です。アメリカが百年かけた産業の工業化を二五年で成し遂げてしまった日本の公害時代が始まります。わたしたち団塊の世代の思春期、青年期がこの汚れた大気が溢れた経済成長時代だったわけで、そんな社会を好きになるわけがありません。

石炭から石油へのエネルギー転換で大気汚染は一層加速しました。河川と海の汚染が深刻なり、その過程でチッソという企業による犯罪である水俣病も、こんな世界的な環境破壊の潮流の中で起きたわけです。

政財界、一般市民の偏見と差別的な態度で苦難の闘争を漁師さんたちは行ったわけですが、その運動を根底で支えたのが石牟礼道子と近代史思想家で評論家の渡辺京二です。

一九六九年に刊行された石牟礼道子の『苦海浄土』という本がベストセラーになり、石牟礼道子が支援したチッソとの闘争の困難さを世の知らしめたせいで、それまで被害者に冷酷だった政財界、司法界がチッソに批判的になっていきました。

『苦海浄土』が出版された後、政府も本腰で取り組まざるを得なくなって、一九七一年に環境庁が設立され、翌年の一九七二年には、国連人間環境会議がストックホルムで開催されるという流れになります。

次の文はそれに出席した大石武一環境庁長官の、新聞で報道されたスピーチ原稿です。

経済優先の政策が誤りであることに気が付きました。数多くの海岸が埋めつくされコンビナートになり、緑豊かな自然が刈り取られて道路になり住宅になりました。環境破壊は人間の精神をもむしばみ始めたのであります

この視点は石牟礼道子の『苦海浄土』という文学がなければ、持ち得なかった社会的視座であることは間違いありません。石牟礼道子文学の主題は、大石長官が間接的に言及したように、環境の破壊だけでなく、人間の精神、心の在り方も破壊したという視座です。

『苦海浄土』はチッソという企業との補償闘争を描いたのではありません。その殺人事件としての事実と交互に、被害にあった漁師さんたちの、畏怖心をもって自然と向き合う敬虔な生き方、その文化が破壊されたのであり、それを許した経済優先人間の心の荒廃を描き出しているのです。そのことがほとんど理解されていません。

最近、アメリカのモリス・バーマンという評論家が『神経症的な美しさ:アウトサイダーがみた日本』(込山宏太訳 慶應義塾大学出版会二〇二二年十二月刊)という新しい本を出版していますが、環境破壊は精神の空洞感と荒廃を齎したと的確に論じています。

文明の発展が善であるとする「常識」にみられるように、それが齎す精神的な問題は認識されることなく無自覚であった近代史で、そのことが認識されてゆく過程で、日本人の精神に何が起こっていたのか、それはどのように評されているのか。それを知るに恰好な書です。

モリス・バーマンはこう言っています。

中世から近代への移行によって受けた傷は精神的・心理的なもので、現実の始原的な層(レイヤー)を押しつぶし、そこに代償満足を補填した――実に惨めな失敗に終わったプロセスである」/「そこには、実存ないしは身体に根ざす意味の欠如がつきまとっている

レジュメで引用したこの文章は少し難解ですけど、その「欠如」、精神的な空洞、空虚感のようなものが、物質的な豊かさを追い求める飢餓感となって作用した、とモリス・バーマンは診ているのです。

例えば消費行動における「速さ・安さ・手軽さ」などですね。だが所詮それは代替物であり、人々の根本的な精神的飢餓感が癒えることはありません。その空虚感のど真ん中にある問題が、実存の問題です。

実存の問題というのは、例えば、死とは何か、その手前にある短すぎる生、そのことにどんな意味があるのか、ないか。ないのなら、そもそも生きることとは何なのかというようなことですね。

無意味にしか思えない日々の暮らし、消費で気持ちを紛らわしている行動になんの意味があるのか。そこに消費代替行為の形を変えた、いかがわしい新興宗教に囚われる精神的な病も発生するとしています。

わたしが特に注目するのは、その視座からモリス・バーマンが、日本は近代化の時期に同じ精神的外傷を負ったと診て、次のように述べていることです。

「日本はイギリスが二百年かけた近代化を、日本はその十分の一の二十年ほどで成し遂げようとした。それを成功させるには、自らの現在の全否定しかなかった。自己を捨て完全模倣するならば近代化は可能だ。古来より受け継がれた暮らしのあり方を捨て、西洋を模倣し続けた日本人。その精神は西洋への憧憬と反比例する精神の空洞化であった。

それは、かつて先進国が抱えた普遍的な問題でもあったが、日本はその十倍速の荒療治であったことが、傷を深くした」
 このようにモリス・バーマンは診ているのです。このような認識を石牟礼道子と渡辺京二は早くから共有していたのですね。

最晩年、死の直前まで石牟礼道子が新聞に連載した、絵と俳句と随筆がセットになっている遺作を纏めたのが『石牟礼道子句・画集 色のない虹』(弦書房二〇二〇年刊)です。先にも申しましたが、多くのジャンルの中から、最晩年の石牟礼道子が選んだのは俳句という形式でした。

石牟礼道子は「俳句は自分自身と死者たちへの慰撫でもあった」と述懐しています。慰撫とは言っても、その内容は、死の想念と結びついた俳句群です。

このような俳句を詠むことで慰められる魂とは、果たしてどんなものなのでしょうか。

 

2 石牟礼道子の思想的遍歴 短歌との別れ

そのことを知るために、石牟礼道子の創作史と思想的遍歴を概観しておきます。
 思春期は短歌、詩、随筆、短編小説も書く文学少女でした。

思春期の終りが戦争末期であり、十八歳で代用教員を経験しています。青春期は短歌から始まり、短歌雑誌に投稿して評価され、短歌賞を得るほどの実力で、熊本市にある短歌会の会員ともなっています。

実家が農家の教員と結婚後、封建的家族制度の最下層に置かれた女性の前近代的なあり様に悩み、自殺を図り未遂に終わっています。

思春期にも自殺未遂を数度繰り返しています。そのことを、歌集『海と空のあいだに』(葦書房一九八九年)に詠んでいます。

「冬の山」(昭和十九年~二一年)より。

この秋にいよよ死ぬべしと思ふとき十九の命いとしくてならぬ

おどおどと物いはぬ人達が目を離さぬ自殺未遂のわたしを囲んで

死なざりし悔が黄色き嘔吐となり寒々と冬の山に覚めたり

多感な思春期の中で「死」の想念を抱え込むことは、早熟な文学的資質を持つ者にはよくあることかもしれません。それにしても石牟礼道子の短歌はこのように初期から死の想念に満ちています。

次が短歌を止める直前の作品。

「廃駅」(昭和三七年~四十年)より。

向日葵の首折れ手錠の影をせり滲みていよよ錆ふかき地

頸ほそき坑夫あゆみくるそのうしろ闇にうごきゐる沼とおもへり

いちまいのまなこあるゆゑうつしをりひとの死にゆくまでの惨苦を

最後の短歌などは、身近な死の惨苦から目を逸らすことなく、いや、引きつけられるようにその細部まで見届けずに止まない自分の業を嗤っているような雰囲気があります。

だが、当時は「奇病」と呼ばれて気味悪がられていた「水俣病」の被害者たちとの交流を続けるうちに、石牟礼道子はそれまで詠んでいた「短歌のもつ叙情性」に限界を感じたと述懐しています。

そこに石牟礼道子俳句を考える上で重要な問題が現れています。

石牟礼道子がこのとき抱え込みつつあったのは、「水俣病」という社会の問題に触れることで自覚された文学的な表現欲求でした。

それ故「限界」が感じられたのでしょう。

文学的表現の創作においては、「社会」を含めたあらゆる事象は、自己の外側あるのではなく、内面化されたものが表現に向かう情熱となり、「自己表出」としての文学表現となってゆくものです。

その後、石牟礼夫妻は実家の農家を出て、石牟礼道子の、大工ではないが器用な父が手作りしてくれた小屋のような家で暮しました。
 彼女の表現欲が、その時代の文化活動の一つの流れを形成しつつあった詩人で社会思想家の谷川雁たちの「サークル村」への誘いと偶々重なり、短歌以外の文章表現の場を得ることになります。

谷川雁の同志の、炭鉱村に拠点を置いていた上野英信森崎和江たちとの交流もありました。この二人は社会活動家にして評論家です。

この石牟礼道子に初期、影響を与えた人たちの業績については、時間がありませんから割愛します。書名だけ触れておきますと、谷川雁が『原点が存在する』、上野英信は炭鉱労働者の声を伝える稀有な記録文学『地の底の笑い話』、森崎和江は坑内労働に従事した女性たちへの聞き書き『まっくら 女坑夫からの聞き書き』や、売春婦として海外に売られた女性たちを描いた『からゆきさん 異国に売られた少女たち』などの著作があます。石牟礼道子は「聞き書き」の手法をこの森崎和江に学び、独自の文体を創造しました。『苦海浄土』を出版社に持ち込んで刊行を実現させたのは、この上野英信です。
 そして「水俣病」が顕在化し始めます。

漁師家族を襲った地獄のような悲劇、苦しみを知ったことで、彼女の内なる情念に火がつきました。そこで見聞したすべてを「かたり」尽したいという意欲に駆り立てられ、以後『苦海浄土』は四十年にも及んで書き継がれることになったのです。
 漁師家族が教えてくれた自然と向き合って暮す人々の敬虔な姿勢、生きざま。悠久の大いなる自然と命そのものへの畏怖心。

自然と人間の魂が交流する恍惚感。

その暮らしぶりを「聞き書き」を模して書いている時の、充実した精神的高揚感。

それは彼女が思春期に書いていた、詩や短編小説群が孕み込んでいた濃密な精神世界と同じでした。彼女の失われた大切な宝物でした。

私はそれを「何ものにも代え難い喪失のマチエール」と表現しました。

マチエールというのはフランス語で素材、内容物のことです。そのことを、『苦海浄土』の創作の過程で、石牟礼道子は文学者として自覚していったのです。
 『苦海浄土』を書き継ぎながら、その一方で、魂の玄郷である世界を背景にした、膨大な詩、小説を憑かれたように書き始めます。

その過程で、詩人で民俗学者・日本女性史学の創設者である高群逸枝の著作に出会う体験をしています。同じ熊本県出身です。

高群逸枝は『母系制の研究』(初版は一九四九年刊、現在は講談社文庫一九七九年刊)『招婿婚(しょうせいこん)の研究』その総括編とも言うべき『女性の歴史』(これらも現在講談社文庫に収められている)を刊行し、「母性我的母権社会」への復権と、新しい女の権利獲得運動、戦後現憲法下での男女同権の実現、婦人の諸問題を分析した女性です。

彼女を全面的に支えた夫の橋本憲三の好意により、高群逸枝亡き後の東京の家で、石牟礼道子は『苦海浄土』の続編を書き始めています。
 水俣市を出て活動拠点を熊本市に移してからは、評論家の渡辺京二が石牟礼道子の執筆と初期「水俣病闘争」を全面的に支援しています。

渡辺京二は思想史家・歴史家・評論家で、近世から近代前夜の研究に重点を置き、幕末維新に訪日した外国人たちの滞在記を題材として、江戸時代を明治維新により滅亡した文明として甦らせた『逝きし世の面影』(葦書房一九九八年刊)などの著作があります。

文章で何かを表現することに無上の喜びを感じていた無垢な少女が、その置かれた環境から人間嫌いになりつつも、数々の思想遍歴を経て、最終的に俳句という表現形式に出会うことで、自分の魂と、痛ましい死を遂げた他者の魂にとって慰撫行為とも重なった表現の歓びを恢復させていったのです。

ここで最も重要なことは、石牟礼道子が口誦的な韻律で「かたる」こと自身に価値を見出したことです。文字文化と違って、その庶民に伝え続けられた口誦文化は、その人達の肉体が失われると滅びます。継承者も絶えた場合ですね。石牟礼道子が魅了された漁師さんたちの口誦文化を、水俣病が滅ぼしたのです。彼女が表現しているのは、自然とその中の命に対する畏怖する心なのです。

 

3 『天』の調べ(第一句集)

『石牟礼道子俳句全集』に収められている俳句は、『天』(第一句集)と、雑誌などに寄稿した作品集の「玄郷」「水村紀行」「創作ノート」です。『苦海浄土』が書き継がれている間に書かれた、たくさんの随筆、小説と深いところで通底する俳句群です。

  山の上に黒牛どのと石ひとつ

これは句集『天』の劈頭を飾る句です。

 南九州では広く飼育されている黒毛の牛が山頂で放牧されています。その牧場には巨石がぽつんと鎮座している。牛の命とその石が等価のものとして表現されています。

詠まれている「もの」が、今そこにある「もの」ではなく、遠い来歴という記憶も含んだ「もの」であり、敬慕、慈愛の想いを寄せてそう「かたる」ことに歓びを感じて詠う、和讃の響があります。

この句に関連して、彼女の名と石に纏わるエピソードに触れておきます。石牟礼道子、旧姓吉田道子の実家は「石屋」と呼ばれた土木普請業を営む家でした。コンクリートや近代大型建築機械が未だない時代、道路や港湾の基礎工事には、大量の石材を調達、加工、敷設する仕事が必須だった。近代化されていく社会のインフラ事業を、前近代的職人気質の祖父が仕切る職能集団が支えていたのです。

所有する岩山から切り出してきた良質の原石が大量に積み上げられている環境で、道子は育ったのです。たくさんの石工たちがいて、棟梁の祖父を父が実務的に支え、石工たちの衣食住の生活面の世話を母が取り仕切る家でした。祖父は採算を度外視して、いい仕事を遺すという職人気質で、その弟は古典文献の鑑賞から書道、書画にも才のある風流な人物でした。やがてその事業は破産することになります。その「石屋」で働いていたのが道子の父です。

その父の苗字が白石。

前近代的職人気質の祖父の仕事ぶりとその価値観は評価しながらも、近代的仕事の才に長けた白石という姓の父は、自然に対する畏敬の念と心構えを幼い道子に説く人でもありました。

『椿の海の記』という随筆体の小説で、山桃の実を採るとき、この父が「みっちん、この山桃をいただくときは、山の神さんに感謝してから採るとぞ。そして全部取らずに必ず、この山に住んどるアンヒト達の分ば、しっかり残しとかんといかんとばい」なんて教えた人なんですね。

「アンヒト達」というのは、山の精霊を含む生き物たち全部のことですね。父直伝の口誦文化の洗礼を受けて石牟礼道子は育っているんですね。だから、同じ口誦文化の中で生きている漁師家族のことが、親戚のような親しみがあったわけです。

 父の白石亀太郎の為人(ひととなり)についてよく分かるエピソードが自伝的随筆『椿の海の記』に書かれています。

昭和天皇が国策会社の日本窒素水俣工場を訪問するので、町を綺麗にしておけという命令と、近所で気違い女と言われている、石牟礼道子の祖母「おモカ」さまを、沖の恋路島に収容するので、差し出せと巡査が言いに来たシーンです。

     ※

「わしげのばばさまをば恋路島に島流しに、しやりむりしなはるならば、わしげの一家が、生まれながらに国家にそむいていることになり申す。 わしや土方で、破れ着物を着て、兵隊検査にはごらんの通り、珠算玉のごたる肋骨しとるけん、通してはもらえんじゃったが、真心だけは、忠義の心だけは誰にも劣らずあっぱれじゃと、躰が惜しいと、検査官の云わしたです。頭も惜しかと、惜しか頭じゃと、検査官の云わしたです。わしげのばばさまが、陛下さまに危害をするような人か、わしげの家がそういう家か。(略)おるげのばばさまが目ざわりとあれば、目ざわりじゃろうから、出さんようにとりしきる心得は、云われんでもおそれながら心得とりました。そのくらいは、日本国民として、家族でとりしきるつもりであります。それもならんとあれば、そうなれば、この場でたった今、白石亀太郎、不忠のお詫びに、ばばさまを刺し殺して切腹いたしやす。切腹しますけん、あんたその牛蒡剣でいやそのサーベルで、二人の介錯ばたのみます」

 縛ってでもばばさまを連れてゆくと云い張っていた巡査は、牛蒡剣などといわれたのは耳に入ったのか入らないのか、

「そりゃ困る、そりゃいかん」

 という。

「ともかく、しかと、陛下さまのお目にふれん、耳にも聞えんという約束をしてもらえば、仕様がなか、特別でわがはいも責任持つ。家族も責任持つか」

「あんたのそのサーベル剣にかけて、信義は守ります。男に二言はありまっせん」

    ※

 そんな心根の人でもあったのですね。家族は狂気のおモカさまを大切にしていたのです。

本来なら道子の結婚前の名前は、その父の苗字で、白石道子のはずです。だが入籍が遅れに遅れて母方の吉田姓で戸籍登録されました。

石牟礼道子の実家は鹿児島と熊本の県境の山々のうち、良質の石材が取れる山も所有していました。南九州には全体が岩でできているような山々が点在しているんです。石牟礼道子の随筆には、その宇宙的悠久の時間の蓄積を感じさせる岩山の景色のことや、一時はその山村への移住を試みて失敗したことなど、石に纏わる逸話が書かれています。

そして谷川雁が率いる「サークル村」という機関誌に投稿を始めたころのペンネームが、石道子です。

その道子が結婚した人の姓が石牟礼。

石牟礼―石がむれ(群れ)るという響きが好きだったと随筆で述べています。このようにその名前も石と因縁が深いのです。
 地球の生成過程にまで遡る悠久の時間を蓄積させている石。根源的なるものへの憧れ。それも石牟礼文学を貫く要因の一つです。

山の上に黒牛どのと石ひとつ

という句は、石牟礼道子の思念の根底にある自然観を象徴しています。

放牧される黒牛という今を生きる柔らかな命と、地球という惑星の荒々しい生成の結晶である過去を閉じ込めた硬質の石。そのどちらにも等しく、畏敬と寿ぎの眼差しが向けられている句なんですね。

『天』からの引用を続けます。  

九重にてひいふうみいよ珠あざみ

角裂けしけもの歩みくるみぞおちを

死におくれ死におくれして彼岸花

祈るべき天とおもえど天の病む

三界の火宅も秋ぞ霧の道

いずくなる境ぞここは紅葉谷

繊月のひかり地上は秋の虫

銀杏舞い楓舞うなり生死の野

死化粧嫋々として山すすき

まだ来ぬ雪や ひとり情死行

俳人・穴井太に誘われて行った九重吟行の作品群です。

わけが解らない俳句でしょう?

でも、彼女の随筆や小説を読むと、これらの句に込められた、彼女の現世苦としての情念の姿が見えてきます。

石牟礼道子という孤愁を抱く魂が、九重の山の芒野を「ひとり道行」しているような句群です。死と生の狭間を流離う孤愁の魂の「ひとり情死行」が、浄瑠璃の「かたり」のように心に沁みます。
  落ち 衣( ぎぬ)は銀杏のなかへ谷の暮れ

この「落ち衣」は羽衣伝説が背景にあるような趣があります。後で触れますが大好きだった狂人のおばあ様、「おモカさま」にまつわるイメージが背景にあるのですね。

銀杏の金色の葉の舞う谷の暮れ。私たちが潜在的に共有している何かがざわめくのを感じる句です。

九重連山月明連れて 双( そう)の蝶

天涯の藤ひらき微 妙 音(みみょうおん) 

藤揺るる迦 陵 頻 伽(かりょうびんが)の泉かな

急に漢音調の俳句が出てきて、びっくりしますが、「迦陵頻伽」は上半身が人で下半身が鳥の、仏教における想像上の生物のことです。サンスクリットのカラヴィンカの音訳ですね。

『阿弥陀経』では共命鳥とともに極楽浄土に棲むとされています。殻の中にいる時から鳴きだすとされ、その声は美しく仏の声を形容するのに用いられる。雅楽の「迦陵頻」は仏教行事での舞楽で、蝶をモチーフとした胡蝶と対で舞われます。この句はそのことを踏まえて藤と胡蝶の舞う泉を表現しています。

  天日のふるえや衣のみ舞い落ちぬ

この四句は孤愁の「道行」のひとときを癒す天上的光彩に満ちています。次の句からは光がまた失せ、孤愁深き陰影の「かたり」へと戻ります。

 けし一輪かざして連れゆく白い象を
 「白象」はこの世の孤独の体現であると随筆で述べています。

石牟礼道子自身の幼児期からの孤愁の遠因に、盲目となり精神を病んだ祖母の存在があります。

世間からは盲目の狂女と貶められる祖母を、その夫である祖父以外の家族は、「おモカさま」と敬称つきで呼んで労り暮しています。

「おモカさま」の言動は意味不明でしたが、幼い「みっちん(道子の幼児期の呼び名)」だけには理解できたといいます。二人は意味不明の音韻で「こころとことば」を交わしているように、母や家族たちには見えたとそうです。
 石牟礼道子の随筆に「おモカさま」の逸話があります。

その容姿は麗しく、衣を脱ぎ捨てて湖を泳ぐ姿を、村の若者たちは女神さまみたいだと垣間見ていたそうです。そのモカと同郷の村人たちが商用で水俣に来ては、モカが嫁いだ「石屋」に立ち寄り、茶飲み話にそう語り聞かせたという。そのモカが盲目となり狂女となったということは、村人たちにはひどく腑に落ちないことだったのです。

先に紹介した石牟礼俳句の中に

天日のふるえや衣のみ舞い落ちぬ

と、白い衣が天上から舞い降る心象が描かれていますが、それはこの「おモカさま」の逸話に基づいているのでしょう。

社会の近代化に向けての道普請の事業を一手に引き受ける棟梁の祖父は、何年何か月もかかる出先の工事現場に、職人の世話をする女性を囲っていました。随筆では、この仕事と妾の存在も、前近代的な男社会の仕組みの一つとして描かれています。モカの目と心の病は、前近代的気質の男社会の軋轢が生み出したものでもあるのですね。

女性に対する差別には別のエピソードもあります。

水俣の当時の目抜き通り栄町の道路も祖父の「石屋」が普請した立派な通りでした。水俣病の加害企業となるチッソの前身である会社の進出によって普請されたものです。商業施設もその栄町通りの方が賑わっていまし。その商業施設の中に、天草の貧困家庭から身売りされてきた娘たちに「春を鬻がせる」商楼がありました。

その建物の位置が石牟礼道子の実家の「石屋」の斜め向かいでした。商店街の者らからは、そこで働く娘たちは「インバイ」と罵られていました。天草を故郷とする道子たち親族は、娘たちの境遇に思いを寄せて、その村八分的包囲網の隙間から労りの眼差しを送っています。

その娘たちも「おモカさま」に敬意を払って接しました。家族が目を逸らした隙に、栄町通りを徘徊するモカを、昼間の髪結いの途中で見つけては保護し、送り届けてくれたという逸話が記されています。

「みっちん」はまだ幼くして、その商楼の仕事の実態を知るべくもなく、髪結いの店で美しい女に変身する姿に憧れを抱いていました。 
 家の中に居るべき場所を失ったような哀しみに襲われたとき、今でいうプチ家出をして山川のほとりの草叢に身を潜めて、このまま野兎か何かになりたいという途方もないことを念じているところを、見知りの大人に見つけられて連れ戻されたりする少女でしたが、自分の大切な「おモカさま」を労わってくれる彼女たちの純真な心と、密かに通い合う情があったのですね。

その幼い娼婦の中の一人が、彼女に恋する少年が、その想いの余りに刺し殺してしまうという痛ましい事件が起きています。

だれも寄り付かない現場に真先に駆けつけて、遺体の処置をして警察まで突き合ったのは道子の父でした。

俳句の引用を続けます。

天日のふるえや空蟬のなかの 洞(うろ)

心の中に何ものによっても埋めがたい「洞」という空虚感を伴う孤愁を抱え込む石牟礼道子という魂が、深い霧に包まれて一寸先も分らぬ無明の闇と化している九重高原を、裸足になって歩む速度で、一句一句が詠い連ねられてゆくようです。

死に化粧嫋々として山すすき

まだ来ぬ雪や ひとり情死行

心に死に化粧をして嫋々たる芒野原を「ひとり情死行」をしている韻律世界。亡き御霊を背負うひとり旅です。

水子谷夕焼け 山ん婆が髪洗う

樹の中の鬼目を醒ませ指先に

離人症の鬼連れてゆく逢魔ヶ原

そこゆけば逢魔ヶ原ぞ 姫ふりかえれ

鬼女ひとりいて後むき 彼岸花

薄原分けて舟来るひとつ目姫乗せて

誰やらん櫛さしてゆく薄月夜

髪揺るるはたての夜明けひろがりつ

霧の中に日輪やどる虚空悲母

椿落ちて狂女がつくる泥仏

この十句には、前近代と近代を貫く女たちの哀しみが刻印されています。堕胎した「水子」が夜陰の谷に葬られた水で、「山ん婆」となった女が髪を洗っています。櫛さし揺れる髪は哀しみに濡れそぼっています。夜を照らす月は「ひとつ目」という不具なる異形の光を放ち、孤愁の「姫」なる女性性の哀しみに寄り添っています。

その闇の中で孤愁の魂が幻視しているのは、霧の中に日輪を宿す「虚空悲母」であり、落ち椿を供花として「泥仏」を造り続ける「狂女」、「おモカさま」の幻影でしょうか。

「姫」は道子自身でもあり、水俣市栄町の、道子の祖父の「石屋」の職人たちが丹念に造り上げた美しい通り沿いに建てられた娼楼にて、天草の貧民から身売りされて「春を鬻がされ」て「インバイ」と蔑視された姫たち。その中の一人、殺された少女の哀しみに象徴される「姫(秘女)」でもあるのでしょう。

山ん婆、鬼女、姫、虚空悲母、そして狂女を貫く哀しみの器に降り積もった時間、それが句集『天』に堆積しています。

前の世のわれかもしれず薄野にて

の「前の世」を地続きの世界として感受するのは、日本人に共有された感性であった。宇宙的永劫の時間の流れの中に、この「現世」と「現身」を置く心性です。また向こう側の世界(むかし)と、日常生活が営まれるこちら側(いま)との境界というのが不安定なのは、昔の霊物(もの)が今の「私」の中に併存していると捉えているからです。 

にんげんはもういやふくろうと居る

人間になりそこね 神も朝帰る
いかならむ命の色や花狂い

命の尊厳と直接性を喪失した暮しと文化は、表層的な消費材的模造品に過ぎません。日本人はそういう時代に生き、空洞化した暮しの中で内面から崩壊し、やがて滅ぶことになるという預言性を孕む石牟礼文学。それを書くときの石牟礼道子は満身創痍でした。

だが晩年、俳句が彼女をそこから解放したのです。

 

4 俳句作品集「玄郷」―根源的世界の希求
 『石牟礼道子俳句全集』では、第一句集『天』の次に、「玄郷」という、たった七句の作品集が収録されています。句集『天』の四年後、一九九〇年十二月刊の「同心」という雑誌に発表された作品集です。

夕山の声なく銀杏散る天に地に

いまも魔のようなもの生む 谿(たに)の霧

原郷またまぼろしならむ祭笛 

笛の音するわが玄郷の彼方より

のぞけばまだ現世ならむか天の 洞(うろ)

全体として滅んだ「玄郷」の響に満ちています。「のぞけばまだ現世ならむか天の洞」という句は、「祈るべき天と思えど天の病む」という代表的な句世界と呼応しています。一般的な宗教概念の救いの「天」ではない。地の悲劇を映し込んで病んでいる天のようです。

さあれ燎 原(りょうげん)のおもむきなりや苔の花

 この「燎原」「花」という言葉は、天草・島原の乱が背景になっている『春の城』(引用は『完本 春の城』二〇一七年刊)という長編小説の、最も大切な場面での、天草四郎の言葉としても使われています。

『春の城』は、この世で虐げられている者と、「もだえ神」という「四郎」がいっしょに行きたいと願う、この世ではない「もうひとつの世」=「アニマ」の国への、魂の昇華の話です。

乱の指導者の位置に置かれてしまった「四郎」ですが、彼は自分を救世主だとは思っていない。彼は民の苦しみにただ寄り添う「もだえ神」的な存在として描かれています。以下は父に「四郎」が語った言葉です。

    ※

わたくしの思うておりますのは、この世の境界を越えたところに、いまひとつの世が在るということでござります」「されど、この世の境を越ゆるは力業でござり申す。その国の門に入らんと願えば」「この世を越ゆるところに見ゆる今ひとつの世とは、燎原の火の中からあらわれてしずもる、花野のごときところかと思い申す

    ※

 仏教の彼岸・あの世でも、キリスト教の天国でもない、「もうひとつの世」のことが説かれています。この「燎原の火」「花野」は、
  さあれ燎原のおもむきなりや苔の花
という「玄郷」の俳句と通底しています。

「存在の根源にある幽遠にして神秘的な」「玄郷」に、束の間、姿を現わす世界。

人々の切なる祈り、思念によって、「この世の別の場所に実現できるかもしれない境地」というべき世界と言えばいいでしょうか。
 石牟礼道子が深く関わり、漁民たちを支援した初期「水俣病闘争」とは、漁民たちの生の言葉を、チッソという会社人間のトップに直接「かたり」聞かせ、日本中が「会社人間」と化していた社会に突きつけることが、究極の目的でした。

そうであるが故に、世間の常識を超えたものになりました。

公害闘争や補償金請求運動と誤解されていすが、そうではないですね。

死者を背負う祈りと「かたり」の闘争であり、そのことを「かたり」得たことに、「死者の書」というべき『苦海浄土』と『春の城』の文学的価値があるのです。そのことが未だ理解されていないのですね。

近代は質量を持たない記号的な言葉を使う経済人間を生み出し、その経済圏のエッジ、辺境でくらす人びとの命を脅かす力となって作用しまた。その犠牲になった死者たちの、その命の重さを孕み込み得る「かたり」のことばで、歴史と社会を「かたり」直すこと。

石牟礼道子の全文学を含む言動の真意はその一点にあります。

そのこともまだ真に理解されていないように思います。

 

5 俳句集「水村紀行」―喪失と再生の祈り
 
この「水村紀行」中の俳句の大半が、ダムに沈んだ村に纏わる長編小説『天湖』(毎日新聞社一九九七年刊)と深いところで響き合っています。『天湖』の粗筋は、祖父の故郷である「天底村」が沈められたダム湖に、故郷に帰りたがっていたが果たせず、東京で没した祖父の骨灰を撒いてやるために、孫の音楽家志望の青年が訪れ、そこで廻り逢った人々たちが紡ぐ「かたり」と「うた」によって、現代人が喪失した大切なものを追体験するというものです。

 「水村紀行」の湖と川の語が使われた句を以下に引きます。

  ダムの底川盲(めし)いいてとろとろと    

  花びらの湖面や空に何か満つ      

  湖底より仰ぐ神楽の袖ひらひら     

  水底に田の跡ありき蓮華草       

  湖に沈みし春やぼけの花        

  月影や水底はむかし祭りにて      

  童(わら)んべの神々うたう水の声       

  幾世経しかなしみぞ谷合い湖(うみ)   

  月影や水底の墓みえざりき       

  わが生は川のごときか薄月夜       

『天湖』のダム湖にはかつての「天底村」の川や田畑、木々や墓という失われた文化が丸ごと眠っています。

それを村人たちは、自分たちの「かたり」や唄で、今も呼び起こしています。夢では魂が往来しているのです。村を流れていた川は鍾乳洞に繋がり、そこには村を守る水神様である大蛇が棲んでいました。

折口信夫がいう「まれびと」のように村の外からやってきて、大蛇に命を救われた女の末裔たちが、村の神事を司り、村人の心の支柱となっているような村の「もの」「かたり」です。

「水村紀行」の俳句がこの「もの」「かたり」と通底しています。

童(わら)んべの神々うたう水の声 

純真な童たちは生まれる前の、死と生が未分であったときの記憶を身体に抱えて持っています。だから水底から響いてくるような「神々のうた」を唄うのです。その言葉は神の言葉なのです。

次は『天湖』の一節です。

   ※

ここはどこじゃろうか天 底(あまぞこ)じゃ。天底ちゅうは天の底じゃ。あの天

と、まっすぐつながるところぞ。

   ※

大地と海は命の生と死をまるごと抱き、その喜びと悲しみ故に美しく輝く場所であり、天は人間の切ない思いや祈りを抱きとめてくれる、彼岸的な心の奥処である。
 命の生と死をまるごと抱く大地。死者の魂を湛えているのが湖であり、湖は川で海と繋がっている。というふうに、自然と命が循環する中で生かされていると感じ取る、自然に対する畏怖する魂。その喪失と再生への祈り。

以上が『石牟礼道子俳句全集』における俳句世界のすべてです。

 

6 句画集『色のない虹』ー玄郷の彼方へ

そして最後の句画集『色のない虹』の世界があります。

この作品を新聞連載していた最晩年の石牟礼道子は愉しそうだったという証言があります。

先に触れた「白象」の句、

天日のふるえや白象もあらわれて

に添えられた随筆の一部を以下に引きます。

おひさま(天 日(てんじつ))が、震えているように見えることがあるんです。わたしの心が孤独に震えているからそう見えるのかもしれません。わたしの心象風景に現れるのは、一人の女の子。彼岸花でしょうか、一輪の緋 色(ひいろ)の花を持って原っぱを歩いています。すると、白象も現れて花に導かれるようについて行きます。
 この世のすべての孤独を引き連れて、どこかに向かっているように感じます。/わたしは幼いころから孤独を感じていました。そして精神を病んでいた祖母は、近所の人たちからのけ者にされていました。わたしも孤独でしたが、祖母の孤独はもっと深かろうと思って、いつもそばについていてあげました。/祖母はよく「八千万億、那 由 他 劫( なゆたごう)」とつぶやいていました。きわめて大きい数を意味する言葉です。わたしには「はっせんまんのく、泣いたの子ぅ」と聞こえて、たくさんの子どもが泣いている哀しみが張りつめた世界を想像したものです。

    ※

句画集『色のない虹』には、「いま、少しは楽に生きられるように努力しています。まだ書きたいことがあるのです」という序文が置かれていて、自解ふうの随筆付きの俳句と自筆の絵が収録されています。

彼女が俳句で使う独特の語群の解題にもなっている。「道行き」という語が使われた俳句と随筆を以下に摘録します。

   ※

忘魂とおもう蛍と道行きす

 四月は、思いを新たにする季節です。(略)今、しきりに母が恋しいんです。汽車にひかれ、若くして死んだ弟をはじめ、亡くなった人たちをよく思い出します。そして、同年の歌友で自殺した男性がいました。とても良い短歌を作っていらして、この人がいたおかげで私は文学の方へ導かれました。

それらの人たちのことを思うと、眼裏に幼いころ身近にいた蛍が映ります。水俣の田んぼや川の縁で、ピカピカ光っているのです。子どもだった私は、ああ、おった、おったと、後を追って行くんです。捕まえるわけではなく、ただ光にあこがれて追って行く。

自殺した歌友の男性とは、その人が亡き魂となってから、やっと道行きができました。淡い思いかも知れませんが、亡き人の魂と交わる世界を心に持っているからこそ、私は生きてこられたのです。

  ※

余談ですが、一緒に死のうとこの歌友の男性から誘われたのですが、このときもう子供がいて、その子のことを思って、その誘いを断っています。このことに対する悔恨の想いも滲む随筆です。

「なごりが原」という言葉を使った句と随筆を、次に紹介します。

   ※

 朝の夢なごりが原はひかりいろ

(略)(「大 廻(うまわり)の塘(とも)」は)ススキに囲われ、キツネやタヌキ、ガゴと呼ばれる妖怪たちが棲んでいて、妖怪たちに会ったと自慢する村人たちがたくさんいました。お化粧ばして、よか着物ば着て迎えてくれるそうです。(略)村人たちには、自分たちはいのちのにぎわいにあふれた世界に生きているという自覚があるのです。私は土手に迷い込んでは、その世界と一体化したいと思っていました。人間が嫌で嫌で、キツネになりたかったのです。

心の原郷ですが、ほとんどが埋め立てられ、失われてしまいました。まるで朝の夢のよう。私は「なごりが原」と名付けました。「なごりが尽きんなう」と人と人が別れる時に言いますが、もし大廻りの塘が残っていれば、夕暮れ時に誰でもその実感がわいたはず。対岸の天草の島々に沈む夕日に不知火海が照らされ、丸みを帯びた海原と海岸線が、ひかり色に包まれます。荘厳で実に美しい。(後略)

   ※

大廻りの塘の一帯は、チッソ工場の排水口の変更によってヘドロの溜池となり、その排水処置によって、水俣病の被害が不知火海全域へと拡大した、付け根に位置する場所でもあります。
「村人たちには、自分たちはいのちのにぎわいにあふれた世界に生きているという自覚があるのです」と石牟礼道子がいう「なごりが原」は、日本の近現代化によって破壊されたのを目撃してきた場所でもあります。
 この他の一句一句に添えられた随筆の世界は、幼少時代を回想した、自然と命に対する畏怖心に満ちた随筆や、幻想的な童話、小説の膨大な世界と響き合っています。

石牟礼道子が表現したかったことは、単なる公害告発や近代以降の文明批判、その逆の自然礼賛などではなく、民衆の口誦的「かたり」で、自然と命に対しての畏怖する魂のありようでした。

日本古来の口誦的「かたり」の文化との、彼女の感性の親和性ゆえに、最晩年に石牟礼道子が選択したのが俳句だったのです。

その俳句で石牟礼道子が詠んだのは、私たちが喪いつつある玄郷、自然とあらゆる命に対して畏怖する魂の在処です。

 

7 むすびに

最後にわたしが最も好きな句とその背景について触れます。

女童や花恋う声が今際にて   『泣きなが原』「水村紀行」

この句には、その作句の元となったと思われる詩入りの「いまわの花」という随筆があります。(『妣たちの国―石牟礼道子詩歌文集』所収 講談社文庫二〇〇四年刊)

自分もやがて「水俣病」で死ぬことになる母の語りで、先に死んだ娘の様子が回想され、それを作者が記録したという形式で書かれています。

身体も言語も自由に操れなくなっていた娘が、死に際に縁側に這い出してきて、庭前に咲いた桜の花を見上げて、やっと聞き取れる声で「しゃくらの花のいつくしさようなあ、かかさん」と呟いて死んだという随筆です。以下、随筆「いまわの花」より抜粋します。

   ※

(略)極端な「構語障害」のため、ききとりにくかったが、母親だけにききとれる言い方で、その子は縁側にいざり出て、首をもたげ、唇を動かした。

 

なあ かかしゃん

かかしゃん

しゃくらのはなの 咲いとるよう

美(いつく)しさよ なあ

なあ しゃくらのはなの

いつくしさよう

なあ かかしゃん

しゃくらのはなの

 

母親は、娘の眸に見入った。

「あれはまだ……、この世が見えとったばいなぁ」

と思い、自分もふっとどこからか戻った気がした。何の病気だかわからない娘を抱え歩いて、病院巡りも数えきれぬほどして、どこだかわからぬような世の中に、踏み迷っていたような気がしていたのである。

――桜の時期になっとったばいなあ、世の中は春じゃったとばいなあ、ち思いました。思いましたが、春がちゃんと見えたわけでもなかですもん。それでも、とよ子がさす指の先に、桜の咲いとりまして、ああほんに、美(いつく)しさようち、思いよりましたがなあ。

わたしはあの頃、どこにおりましたでしょうか。どうも、この世ではなかったごたるですよ。(略)

   ※

この後、母親が娘を背負って病院巡りをしていた頃の回想となり、そんなある雪の日、坂の途中で背中の娘が突然激しい痙攣を起こして、二人はそのまま崖下の畑に転落し、振って来た石にも当たってしまう。幸い二人はそのときは一命を取り留めます。随筆はこう続いています。

   ※

あん時に死なせずに、よっぽどよかったですよ。桜の花見て死んで。

人のせぬ病気に摑まえられて、苦しんで死んで。その苦しみようは、人間のかわり、人さま方のかわりでした。それで美しか桜ば見て死んで。

親に教えてくれましてなあ。口も利けんようになっとって。さくらと言えずに、しゃくら、しゃくらちゅうて、曲がった指で。

美しか、おひなさんのごたる指しとりましたて、曲ってしもて。

その指で桜ばさしてみせて。(略)

わたしは不思議じゃったですよ。この世にふっと戻ったですもん。死んでゆくあの子に呼ばれて、花ば見て。

どこに居ったとでしょうか。それまでは。

この世の景色は見えとって、見えとらん。人の言葉も聞いておって、聞こえてはおらん、わたしの言葉も、どなたにも聞こえちゃおらんとですもんねえ。ああいう所は、この世とあの世の間でしょうばいなあ。

とよ子が死んでから、自分の躰もおかしゅうなるばっかりで、長うは生きられませんとですもんきっと、同じ病気ですけん。あの子の言葉が、時々聞えますと、耳元に。

死ぬ前に美しかもんの見ゆれば、よか所にゆけるち言いますでしょ。仏さんの世界は遠かそうですもん、死んでからまた、その先に往かんばならんところは。十万億土ち云いますもん。(略)

病んで、ひとりではなんもしきらず、人さまの厄介になるのをみすみす置いて、先に往きなはる親御さんも、おんなはるとですけん、残して往く人よりわたしはよっぽどよかですよなあ。親より先に往ってくれて。何ちゅう子でしょか。この世のなごりに、花まで見せてくれて。

 

溝口まさねという人であった。大工をしていた夫は、娘の後を追うように先に死に、さくらの花、というとき、この人は、眉根をきゅっと寄せ、いつもうるんでいた大きな黒目勝ちのまなこを思い凝らしたように遠くへ放っていた。かなしみのくれない(、、、、)が、瞼にさして、その顔は美しかった。

人さま方の替りに、人間の負ったことのない荷を負って、八つの娘とともに往くのだとは、人柱になる者の想いに近い。望んでなったのではないが、われとわが胸に、そのように言い聞かせねば、娘も成仏できまい。

   ※

『苦海浄土』でも、この溝口まさねという女性(ここでは母子とも別の名前になっています)のことばが引用されています。

   ※

「それでああたに、お願いですが、文ばひとつ、チッソの人方に書いて下はりませんでしょうか。いんえ。もうチッソでなくとも、世の人方の、お一人にでもとどきますなら。

ひとことでよろしゅうございます。

あの、花の時季に、いまわの娘の眸になっていただいて、花びら拾うてやっては下はりませんでしょうか。毎年、一枚でよろしゅうございます。花びらばですね。何の恨みもいわじゃった娘のねがいは、花びら一枚でございます。地面ににじりつけられて、花もかあいそうに。

花の供養に、どなたか一枚、拾うてやって下はりますよう願うております。光凪の海に、ひらひらゆきますように。そう、伝えて下はりませな」

   ※

どうですか。

人のせぬ病気に摑まえられて、苦しんで死んで。その苦しみようは、人間のかわり、人さま方のかわりでした」という深いまなざし。別のところで、それを漁師さんたちは、「のさり」ですけん、という言葉で表現しているんですね。賜りものという意味の方言ですが、まるで幸運に恵まれたかのようなニュアンスのその水俣弁に、石牟礼道子は感動しているのです。だから、

人さま方の替りに、人間の負ったことのない荷を負って、八つの娘とともに往くのだとは、人柱になる者の想いに近い。望んでなったのではないが、われとわが胸に、そのように言い聞かせねば、娘も成仏できまい」と自分の気持を添えて表現しているのですね。

 この「のさり」という言葉には個人的な思い出があります。最後にまた私事を一つ話するのをお許しください。

 魚が売れなくなって、経済的に追い詰められた実家から、それを少しでも助けるために、母が頻繁に魚を買ってきたので、私たちの家族にも水俣病の症状が出ているわけです。

 どんな症状かというと、疲労すると体が痙攣して動けなくなるとか、指先などの感覚が鈍くなるとか、恒常的な耳鳴り、難聴、視野の狭窄とかです。かと思うと、逆の知覚過敏になったり、ころころと体調が入れかわるような症状です。

私は今も居酒屋なんかの狭い所で、大勢が一遍に話すような騒音に包まれると、頭痛がしてきて極度の難聴に陥ってしまう症状が出ます。似た音や声の違いが分かり難くて、単語が聞きわけづらいので、人が何を話しているのか聞き取れなくなってしまいます。鼓膜が充分に張り切れなくて、右耳の鼓膜には小さな穴が開いたままで、それが恒常的な難聴の原因なんですね。

心臓の筋肉が充分に発育していないので、激しい運動をすると血流不足を起こして失神してしまうんですね。だから学校の体育の時間や運動会が嫌いでした。昔は朝礼なんて運動場に朝日が照り付けるなかで整列して、校長先生の話を聞かされるときも、毎回ぶったおれていましたね。それは妹も同じでした。そんなふうに中枢神経障害が、他の臓器不全になって作用するんですね。

私たちが成人して判明した最大の被害は、結婚した姉と妹には子供ができたのですが、身体の弱い子供でみんな早死にしています。男の兄には子供ができないでいたんですね。

自分が結婚する以前に家族のそんな症状を見てきていますから、自分は、結婚はできないなと思っていたんです。でも恋人が出来て、結婚話になった時、家族の水俣病の症状のことを話して、私と結婚したら、子供ができないか、障害児ができるかもしれないからと、私は逡巡していたんですね。そしたら彼女、つまり今の妻が、そのとき、この「のさり」という言葉を使ったんですね。

「それって、のさりでしょ。二人でもらえば、軽くて、楽しいかもしれないじゃない」と言って、私を泣かせたんですね。

私の恋人になった人ですから、『苦海浄土』を読んでいて、その言葉を知っていて、いちばん感動したと言ってたんですね。

それで結婚はできましたけど、子供はできませんでした。妻には自分の可愛い子を育てるという体験をさせてあげられなくて、孫の顔も見せてあげられなくて、哀しくて辛い思いをしています。

そんなエピソードは他にもたくさんあるでしょう。多種多様の被害を抱えて生きている、私の家族のような被害者は、数え切れないくらいいるわけです。水俣病とはそんな加害の長引く、残酷なものでもあるのですね。因果関係を立証するのは困難ですから、その人たちのことは放置されているわけです。

彼女と渡辺京二たちが支援した初期「水俣病闘争」は、実体を持たない観念語を使う加害企業のチッソに対して、命の実感にそった「かたりのことば」の、直接的な対決の場を、世界に可視化して見せつけ、漁師たちが孤立している情況を逆転させて、チッソを世界から孤立させて、問題を世に広く知らしめるという戦略でした。

こういうと解りにくいでしょうが、チッソの幹部に直接会って、患者たちに心から謝罪させる、という闘争です。

裁判なんて空疎な観念語で、法律の専門家たちだけで論争するような茶番劇じゃなくて、当事者同士が平等なテーブルで向かい合い、心のこもった声で、直接、患者に向き合い、謝罪か、謝罪ができないのなら、労りの言葉を、頭を垂れて行うべきだというのが、漁師さんたちの本当の気持なんですよ。

死んだ親族の命はもう戻らない。自分たちの失われた健康な体は元には戻らず、死ぬのを待つばかりだ。補償金なんかもらっても、なんの役に立つんだ、という気持ちですよ。

「わしらが聞きたいのは、わしらをこんな目に合わせた奴の声で、面と向かって謝ってもらいたいなんじゃ」というわけです。

ここに、観念的な軽い言葉で犯された現代社会の罪と、今ここに生きている命の実質性を伴ったことばで生きる人たちとの、修復できないほどの断絶があります。これが現代日本の病の本質だと、いうのが石牟礼文学のもう一つの主題なんですね。

それは文字文化到来以後の文化のことではないのです。万葉時代以前の、声の文化という直接性のあることばで生きている人たちの訴えですからね。石牟礼道子はその本質を捉えて支援したのです。

その思いを実現させようと渡辺京二が編み出したのが、チッソの株の一株運動で、「水俣病を告する会」という被害者と支援者の会を立ち上げ、季刊誌を創刊して、支援金を伴う支援の輪を広げて、その資金でチッソの株を購入して、大阪で行われたチッソの株主総会乗り込む闘争をしたのですね。漁師さんたちは巡礼姿で鈴を鳴らして、怨の字を染め抜いた旗を背負って壇上の社長を取り囲んで、位牌をかざして「この霊に謝れ、おれたちのこの傷付いた魂にあやまれ」と迫ったわけです。

これは録画されてテレビでも放映されましたから、反響が凄かったですね。社長が謝らないので、水俣の海で壜に汲んできた潮水を差し出して、「いっしょに、ここで飲もうよ、いっしょにあんたも水俣病になってみらんね」と鬼気迫る表情でせまったわけです。

社長はへたりこんでしまって。そのシーンは漁師さんたちの陰になって映っていません。そしたら石牟礼道子が、

「もう、いいでしょう。水俣に帰りましょう。後は世間の方が裁いてくれなはるでしょう」

と言うと、みんなハレバレとした表情で、株主会場を後にしたわけです。

現代文明を発展させたという、質量を持たない軽い観念語、論理語が人間の精神を蝕んでしまい、こんな悲劇が起きたのではないか、と問うているわけです。

古事記、万葉集という文字文化以前に、文字がなかった長い長い人々の暮らしを支えた、生身の肉声が発する、実体のある、心と遊離していな、口誦文化の、真の人間的な「かたりことば」「はなしことば」の文化こそ大切にするべきではないか、という問いかけでもあるのではないでしょうか。滅ぼされた昔の漁師さんたちの暮しの文化とは、そのような文化だったんですね。

俳句という文学に携わるわたしたちは、実体を失った言葉だけの操作で俳句を詠み続けると、もしかしたら精神を荒廃させるかもしれない、という危機感について、各自、しっかり自省するべきことではないでしょうか。わたしたちは石牟礼俳句と、そのような表現論的出会いを、もう一度、いや何度でもやり直す必要があるのではないでしょうか。

女童や花恋う声が今際にて 

という句。このように石牟礼俳句も、他の石牟礼文学同様、近現代文明の被害者となった人、魂、死者たちの膨大な沈黙、沈黙の不知火海、そこにあった近代的な言葉の真空状態に、創造的な言葉を与えようとして詠まれています。その元になっているのは、私の母方の漁師一族たちが使っていた、文字表現には還元しにくい、直接的な肉声で交わされた温かい言葉の数々、それを支える優しく温かい心の交わりなど、失われてしまったそれらの「語り」的な文体による記録と復元。

石牟礼道子の文学的欲求、情念の根源はそこにあるのです。

それを表現することは、従来の俳句表現観による俳句では困難な、あるいは不可能に近いことでしょう。どこか表現が破綻したような、一句としての独立性、完結性を欠いた作品に見えてしまうからです。

この他に私が好きな石牟礼道子俳句をもう二句揚げます。

月影や水底はむかし祭りにて      

童んべの神々うたう水の声

これは先ほど触れた「水村紀行」の中の句で、モチーフ的には『天湖』という小説の、ダムの底に沈められた村の、失われた文化を詠んだ、一連の句ですね。

このように句だけを読むと、なんだかよく解らない句で、句としての完成度などの視点でいうと、下手な句という評価になるような句だと思うんですね。石牟礼俳句はそのような視座での評価に耐える作品ではありません。評価されなければならないのは、石牟礼道子の文学的表現に向かう姿勢そのものではないでしょうか。

石牟礼俳句を正当に評価できる地点にわたしたちはまだ辿り着いていないのではないでしょうか。

俳句という形式を収まり切れない多様な表現方法。そして一人ひとりの存在の痛みに届く言葉による「文明の軋み」の表現。そこから立ち上げた普遍的で根源的な生命観、自然観に支えられた主題と多様な表現。

石牟礼道子俳句が問いかけているのは、文学に向き合う姿勢、創造性、表現方法であるといえるのではないでしょうか。

みなさんが俳句とは何かと考える上で、何か参考になりましたら幸いです。ご清聴、ありがとうございました。

 

参考文献(引用主要文献は本文中に表記)

その他の参考文献 

『椿の海の記』(河出文庫二〇一三年刊)

『水はみどろの宮』 (福音館文庫二〇一六年刊)

『葭の渚 石牟礼道子自伝』(藤原書店二〇一四年刊)

『あやとりの記』(福音館文庫二〇〇九年刊)

『妣たちの国』(講談社文芸文庫二〇〇四年刊)

『魂の秘境から』(朝日文庫二〇二二年刊)

『石牟礼道子全集 不知火』(藤原書店二〇〇四年~一四年刊)

※ この講演でお話しできなかった水俣病のことに関心のある方は、私の次のブログで総括的に紹介していますので、是非お読みください。

「チッソ・水俣事件史―その前史からの総括」

https://note.com/muratatu/n/n8595d873d858

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