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チッソ・水俣事件史―その前史からの総括


 石牟礼道子が『苦海浄土』で描いたことの本質の背景を深く理解するために、もう少しチッソ・水俣事件を年代順に総括しておきたい。
年表の作成に当たり、被害者の動向に詳しい下記の参照、引用をした。記して深謝する。
〇 想思社の「水俣病略年表」(http://www.soshisha.org/shiryou/nenpyou/ryaku_nenpyou.html)
〇 ブナの森写真工房の「水俣病略年表」 (http://www.bunakou.com/asio-hukusima/minamata1.htm)
〇 緒方正実著『水俣・女島の海に生きる―わが闘病と認定の半生』
〇 2010年以降の出来事は、水俣市立水俣病資料館の「水俣病―その歴史と教訓―2015」(平成28年3月発行)

1 明治時代


1906年 明治39年1月12日
野口遵、鹿児島県伊佐郡大口村牛尾に曽木電気株式会社を創立
1907年 明治40年3月
野口遵・藤山常一・市川誠次ら、日本カーバイド商会設立。熊本県葦北郡水俣村に製造工場を設ける
1908年 明治418月20日
曽木電気と日本カーバイド商会を合併し、日本窒素肥料株式会社(略称 日窒)を設立

2 大正時代


1916年 大正3年
日窒、水俣工場の専用港として梅戸港の構内整備に着工(翌年完工)
1923年 大正12
このころから水俣町漁業組合、日窒・水俣工場に対し排水による漁業被害の補償を要求を開始。
※ チッソ・水俣事件はすでにその前史としてこの頃にすでに始まりを告げている。水俣の丸島地区で漁師をしていた私の伯父(私の母の母違いの義兄で、葦北郡福浦の本家網元の分家に当たる)は、日窒とのこの漁業補償問題に巻き込まれ、生業を危うくされつつあった。
1925年 大正14年10月12日
水俣町漁業組合、日窒水俣工場に対し、漁業補償を要求
※ 漁民たちの工場との闘争もこの時代から始まっている。
1926年 大正15年4月6日
日窒と水俣町漁業組合、漁業組合は永久に苦情を申し出ないことを条件に、日窒が漁業被害に対する見舞金1500円を支払う
※ 「永久に苦情を申し出ないことを条件に」とは、今では常識を疑うような威圧的な態度だが、この会社の工員への賃金条件提示の姿勢も同じだ。
後年「安定賃金」という政策を押し付けようとして大労働争議の原因となった。平たく言えばこの「安定賃金」の考えも、「永久に苦情を申し出ないことを条件に」安定的に賃上げをしてやるから、ストなどの労働争議活動なんかするな」という考えである。
 この会社にはこのように工員や漁民、市民を―見下す姿勢が当初からあった。
1926年 大正15年10月5日
森矗昶、日本沃度株式会社を設立(資本金100万円、昭和電工の前身)

3 1930年代 加害潜行の時代


1931年 昭和6年11月16日
昭和天皇、水俣工場を視察
1931年昭和6年11月16日
日窒の橋本彦七・井手繁、アセトアルデヒドの製造方法の特許を取得
※ このアセトアルデヒドの製造が後年の水俣病発症の元となった物質である。橋本彦七はチッソ退職後、市長になった人物。この一例だけでも水俣市がチッソの支配下ある「企業城下町」であったかが判る。
1932年 昭和7年5月7日
日窒・水俣工場、第1期アセトアルデヒド・合成酢酸設備の稼働を開始
その廃水を百間港(水俣湾)へ無処理放流
※ ここに環境汚染型大量殺人事件の起点がある。
1936年 昭和11年3月
昭和合成化学工業、鹿瀬工場でアセトアルデヒド生産開始。阿賀野川へ廃水放流 (全国でもこういうことが日常化していたという例)
1936年 昭和11年5月13日
日窒・水俣工場、日産6.5トンの合成酢酸製造装置完成
1937年 昭和12年
日窒、塩化ビニールの研究を開始
※ この塩化ビニールの製造過程で発生する排水に水俣病の原因物質が含まれることになる。
1940年 昭和15年
イギリスのハンター、ラッセルら、有機水銀農薬製造工場労働者4人の中毒臨床所見を報告し、メチル水銀中毒の病像を確立 ※ イギリスではこのときすでに、メチル水銀中毒の病像が確立されていた。

4 一九四〇年代 被害顕在化の時代


そして被害者確認の1941年 昭和16年の年が明ける。
廃液が垂れ流された百間港の先の明神岬で漁師をしていた母方の親族にも被害が及び始めていた。
1941年 昭和16年11月
胎児性水俣病と疑われる子供が御所浦に誕生(8歳の時に湯堂に移住:1972年の熊大第二次研究班の調査によって発見)
※ だが永い間の医学界の古い固定概念で母体の胎盤内に毒物が侵入することはないと信じられていたため、この胎児性水俣病の存在自身が根拠の薄い仮説として退けられ続けたのである。事件の発生年月と、後年の調査による発見の年月の時間差にも注目していただきたい。
1941年 昭和16年11月3日
日窒・水俣工場、塩化ビニールの製造を開始(月産3トン)し、同工程からもメチル水銀流出
※ こうして大量無差別殺人事件の被害者は拡大し続けた。
1942年 昭和17年2月
水俣市月浦に水俣病患者(4才4ヵ月)発生(1972年熊大第2次研究班の調査で判明)
1943年 昭和18年1月10日
ヘドロにより水俣湾の漁場が荒廃、被害漁場の漁業権を日窒が買い取るという状況になるまで、水俣湾は汚染された。水俣漁業組合、日窒と補償契約を締結。補償額は152,500円、組合は将来永久に損害補償を要求しない、などの内容(実質的には被害漁場を漁協から日窒が買い上げ)
※ ここにも、この殺人会社の高圧的な対応の仕方がよく表れている。私の母の兄の一人は水俣の丸島地区で漁業をしていたが、このとき漁場を152,500円でチッソに奪われ、チッソ関連の下請け鉄工所の下請け労働者となってしまった。
1945年 昭和20年 【第2次世界大戦終結】
この敗戦で日窒は海外資産・工場設備を失う 
※ 主に朝鮮半島で土地の大規模乱開発による巨大水力発電所を建設し、その電力を用いる多種の産業を仕切っていた。中国戦線拡大戦略の電力や物資調達の拠点にしたのである。朝鮮半島はこのための土地の取り上げ、労働力搾取の犠牲になったのである。チッソは戦時下の国策的な経済産業による占領政策の尖峰企業だったわけだ。それが敗戦で無に帰した。敗戦後、国内での企業力の立て直しが急務となり、朝鮮半島と同じように水俣の地がその犠牲となってゆく。
1946年 昭和21年2月
日窒・水俣工場、アセトアルデヒド・合成酢酸の製造を再開。廃水は百間港へ無処理放出。アセチレン残渣を含む廃水は八幡プールへ無処理放出
1947年 昭和22年12月24日
食品衛生法が公布される
※ 私はこの翌年の1948年(昭和23年)に誕生している。以下の幼年期がチッソ・水俣事件の事件化の年月と重なる。

5 一九五〇年代 公式確認と被害拡大の時代

1950年 昭和25年1月12日
日本窒素肥料株式会社(日窒)、企業再建整備法に基づき、新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再発足(資本金4億円)
溝口トヨ子(水俣病と公式確認されている第1号患者、水俣市出月、当時5歳11ヶ月)が発病(患者番号1、S31.3.15死亡)
1954年 昭和29年7月5日
水俣市の男性、求心性視野狭窄などの神経症状を訴えて新日窒付属病院に入院。
細川一院長らが初めて接した水俣病患者で、水俣病発見の糸口となる。
1956年 昭和31年5月1日
新日窒附属病院(細川一院長)、小児科の野田医師を水俣保健所(伊藤蓮雄所長)へ派遣し、原因不明の神経疾患児続発を報告(水俣病発生の公式確認)

 私が8才のときのことになる。私が病気にかかったときはこの病院の小児科に通っていた。
 以降、私が小学生時代、母方の親戚の漁師の家で具合を悪くするという話が増え、母はよく見舞いにゆくようになり、その様子を話してくれた。


1956年 昭和31年5月8日
西日本新聞が水俣病について初めて報道。「死者や発狂者も/水俣に伝染性の奇病」

 このころから「奇病」「伝染病」という言葉が差別的に使われるようになり、水俣が奇病の町として他所の地から見られるようになってゆく。


1957年 昭和32年4月4日
伊藤蓮雄水俣保健所長、猫実験で水俣病の発症を確認し、水俣湾産魚介類の毒性を実証(投与開始後10日目)
1957年 昭和32年9月11日
厚生省、熊本県の照会に対し「水俣湾内特定地域の魚介類がすべて有毒化している明らかな根拠は認められない」として食品衛生法は適用できないと回答
1957年 昭和32年10月26日
厚生科学研究班、第12回・公衆衛生学会総会(~28日)で、水俣病の原因物質はマンガン・セレン・タリウム、出所は新日窒が疑われると発表
1957年 昭和32年10月30日
水俣市、49患者世帯の実態調査を実施(~31日)漁民の約半数が転廃業、生活扶助17世帯

  母方の親族も家長が「原因不明」の劇症を起こし他界したため、廃業に追い込まれ、家族は別の日雇い的仕事を探して生き延びていた。やがて県外へ転居。私が小学低学年の頃である。

1958年 昭和33年1月
武田泰淳『鶴のドン・キホーテ』が「新潮」に発表される。その中で、1957年当時、すでにチッソが水俣病の原因企業であることが周知の事実と描写されている。
1958年 昭和33年2月7日
細川一新日窒附属病院長、松本芳医師、市川秀夫医師、湯堂で脳性小児マヒ様の患者をはじめて診察(のちに胎児性水俣病と判明)

  のちに、有機水銀禍は母親の胎盤の有毒物防衛機能をすり抜けて、胎児に害を及ぼしているという、驚愕の事実が判明することになる。

1958年 昭和33年6月10日
浦安の漁業組合員約700人、汚水問題で本州製紙江戸川工場に進入座り込み(浦安事件)、水質二法制定のきっかけとなる

   水俣以外の全国的な規模で環境汚染による公害問題が紛争という形で顕在化し始めた。

1958年 昭和33年6月24日
厚生省、参院社労委で「水俣病の原因はセレン・タリウム・マンガン、発生源は水俣工場の廃水」との見解を発表
1958年 昭和33年7月7日
山口正義厚生省公衆衛生局長、新日窒水俣工場廃棄物に含まれる化学物質により有毒化された魚介類が原因と発表し、関係省庁等に協力を要請

   やっと国も工事用廃液原因説に向きあい始めた。

1958年 昭和33年7月14日
新日窒、「水俣奇病に対する当社の見解」を発表し、熊大研究班や厚生省の見解を否定
1958年 昭和33年9月
新日窒・水俣工場、アセトアルデヒド排水経路を百間港から八幡プールへ変更、水俣川河口へ放流

  この放流によって、それまで被害者が水俣湾の南側沿岸の漁師家族が多かったが、北側の葦北郡沿岸、不知火海全域へと拡大していった。これは犯罪行為以外の何ものでもない。
   私の母方の親族の漁師家族もそれまでは水俣湾の方の分家だけだったが、この放流後、市内の丸島地区の分家、福浦地区にあった元網元(このころは没落して家族漁業になっていた)の本家の漁師家族も被害者となっていった。

1958年昭和33年12月25日
公共用水域水質保全法・工場排水等規制法の水質二法が公布される(1959年3月1日施行)

   それまで垂れ流し放題だった工場等の廃液を規制しようという動きがやっと始まった。

1959年 昭和34年3月26日
水俣市奇病研究委、水俣市八幡の漁師の男性を水俣病と決定。以後、水俣川河口附近で発病者相次ぐ

   水俣川への工場廃液の被害が出始めた。

1959年 昭和34年8月1日
水俣市鮮魚小売商組合、地元産魚介類の不買を決議

   これで水俣湾・不知火海沿岸の漁師たちは収入の道を断たれ、廃業を余儀なくなされていった。


1959年 昭和34年8月5日
西田栄一水俣工場長、熊本県議会に『所謂有機水銀説に対する工場の見解』を提出。有機水銀説を否定しつつ、排水処理施設の完備を約束

    工場側はあくまで工場廃液の有機水銀説を否定し続ける。

1959年 昭和34年9月28日
日本化学工業協会(日化協)大島竹治理事、有機水銀説を否定し「爆薬説」を発表

    まさに為にする珍説以外のなにものでもない。

1959年 昭和34年10月6日
細川一新日窒附属病院長、アセトアルデヒド酢酸工場廃水投与により猫が水俣病を発症することを確認(猫400号実験)

 小学4年生だった私は院長が細川氏だった新日窒付属病院に、病気で入院して、病院の中庭に造られた実験棟の金網の中で飼われているたくさんの猫たちの姿を見た。大人たちはそれを「奇病猫」と呼んでいた。その切なそうな鳴き声が今も忘れられない。後年、私はその猫たちのことを含む童話「へんじのない手紙」を書くことになる。


1959年 昭和34年10月10日
細川一(新日窒付属病院の医院長)、ネコ400号発症を新日窒水俣工場技術部幹部へ報告
1959年 昭和34年10月17日
不知火海沿岸漁民、熊本県漁民総決起大会を開催。「浄化装置完成まで操業停止、漁業補償要求」などを決議、新日窒は交渉を拒否。漁民ら工場に投石、警官が出動(第二次漁民紛争)
新日窒・水俣工場、八幡プールに逆送装置を完成し、アセトアルデヒド廃水排出先を八幡プール経由の水俣川に変更
1959年 昭和34年11月2日
熊本県漁連主催、不知火海沿岸漁民総決起大会。水俣市内デモ行進、国会調査団への陳情。新日窒に団交申入れ、新日窒は拒否。漁民、工場に乱入し警官隊と衝突、100余名の負傷者

  私はこの衝突の現場を小学校の帰り道に目撃している。

1959年 昭和34年11月13日
厚生省食品衛生調査会、水俣病の主因は有機水銀である、と厚生省に答申。厚生省、その日に水俣食中毒部会を解散

 やっと工場廃液の有機水銀説を国が認めた日。たがすでになんの救済もなく、人々の関心の埒外でたくさんの被害者が死亡または罹患していた。

1959年 昭和34年11月25日
水俣病患者家庭互助会、新日窒・水俣工場に対し、一律300万円(総額2億2,400万)の患者補償を要求

   このように「水俣病」運動は「補償」の要求運動として始まっている。

1959年 昭和34年12月19日
新日窒、排水処理設備(サイクレーター・セディフローター)完成

   「排水処理施設の完備」も見た目だけの設備で完全に有害物質を除去できるものではなかった。

1959年 昭和34年12月25日
厚生省、「真性患者の決定」などを目的として水俣病患者診査協議会(臨時)を設置。水俣病認定制度の始まり

   認定制度の始まり、と言えば聞こえはいいが、「真性患者」という言葉の響きに差別意識が感じられる通り、性悪説に立って、ニセ患者たちが補償金むしりをしているという加害者側の過剰な意識から始まった制度だった。
 その証拠に、「認定制度」という名の高いハードルによる、患者否定、「水俣病罹災者」の存在の否定制度的な側面が強まり、被害者たちを苦しめ続けることになっていった。

1959年12月
水上勉『不知火海沿岸』(『別冊文藝春秋』(70号)に掲載。
事件の舞台を水潟市とし、新潟水俣病の発生を予見。
1960年大幅に加筆し改題『海の牙』として発表している。

6 1960年代 「訴訟」という闘争の時代

1962年 昭和37年4月17日
新日窒、労組に対し、安定賃金制を提示(安賃闘争はじまる)

 一年に及ぶストライキ闘争で、水俣市内が労組指示、工場側指示で二分するような空気になる。
 工場側が仕組んだ組合分裂工作で第二組合ができてから、彼等のスト破り就労、補償を求める漁業者への圧力行為などで、その対立は感情を含む憎しみ合い対立となっていった。
 この争議体験で労組は水俣病問題とも向き合うようになり、漁業者への無理解無関心、敵対意識、偏見を反省する宣言をすることになる。
 私の父はその労組側の工員だった。中学生時代をその雰囲気の中で過ごした。


1962年 昭和37年8月
入鹿山且朗熊大教授、「チッソ水俣工場のアセトアルデヒド工程の反応管から採取した水銀スラッジから塩化メチル水銀を抽出」と論文発表

   国は工場排水の有機水銀説をすでに認めていたが、東大などの学術的厳密さを重んじる研究室や学者たちから、有機水銀説の難点が指摘されたりして、揺らいでいたため、有機水銀説側は精密な証明をする必要に迫られていたのである。

1965年 昭和40年5月31日
椿忠雄・植木幸明新潟大学教授、新潟県衛生部に「原因不明の水銀中毒患者が阿賀野川下流海岸地区に散発」と警告(新潟水俣病の発生の公式確認)

    チッソ・水俣事件で教訓は生かされず、第二のチッソ・水俣事件が新潟で発生した。工場廃液の有機水銀中毒が原因であることを認めようとしなかった企業の責任は、その意味でも重大だ。


1967年 昭和42年6月12日
新潟水俣病患者家族13名が昭電を相手取り慰謝料総額4450万円を請求し新潟地裁に提訴(新潟水俣病第1次訴訟)

   水俣と比べ新潟での訴訟はこのように早かった。チッソ・水俣事件という前例があったからだ。

1968年 昭和43年5月18日
チッソ水俣工場、アセチレン法アセトアルデヒド製造設備を停止
1968年 昭和43年9月26日
政府、水俣病について正式見解を発表(公害認定)。熊本は新日窒水俣工場の廃水に含まれるメチル水銀が原因と断定、新潟は昭電鹿瀬工場の排水が基盤とする「技術的見解」を発表

    つまりやっと「公害認定」がされたということだ。余りに遅すぎた。

1969年 昭和44年4月5日
水俣病患者家庭互助会、総会を開催。確約書提出をめぐり対立。確約書をめぐって「一任派」と「自主交渉派(後の訴訟派)」に事実上分裂

 被害者の「被害」が多様なように、訴えたい事柄の主軸となるものも多様であり、ひとまとめに「一任」することには最初から無理があった。
一任派は、被害や訴えの違いはあっても、集団としての力と纏まりに重点を置き、補償問題を軸として「訴訟」をしてゆきたいという考えのようだった。
自主派は闘いの主軸が補償問題だけであることには不満があったとみられる。自主派は補償の前に加害企業としての「責任」を問い、その誠意ある謝罪を求めていたようだ。
 
1969年 昭和44年6月14日
水俣病患者家庭互助会訴訟派29世帯112人、チッソに対し総額6億4000万円余の損害賠償請求訴訟を熊本地裁に提訴(熊本水俣病第一次訴訟)

7 チッソ・水俣事件の闘争形式の変遷――「訴訟」の時代から「申請」の時代へ

 直接、チッソという企業相手の「交渉」闘争だったものが、ここから法廷で争う裁判闘争という「訴訟」の時代が始まる。
 この裁判闘争の果てに、熊本県が県債でチッソの「補償」金の支払いの窓口となり、その県債を国が買い取る仕組みに変わってゆく時代が来る。そこでは「訴訟」が「水俣病の認定申請」と変質し、認定を却下された被害者たちは、「行政不服申請」をして、その審査会で個別に闘うようになってゆく。
その時代を「申請」の時代と呼んでもいいだろう。それはまだずっとあとの時代だ。

1969年 昭和44年12月15日
「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」(通称「旧法・救済法」)が成立

   その「救済法」の成立にさえ、小学生だった私が22歳になるほどの時間がかかっている。
 「救済」されるべき私の母系の親族は他界して久しく、罹患していた筈のその親族たちは、水俣の地を離れて、この「訴訟」の埒外で人生を終えた。

1969年 昭和44年12月17日
「公害の影響による疾病の指定に関する検討委全体会議」(厚生省)において、「特異な発生と経過」「国内外で通用している」などを理由に病名を「水俣病」と指定

  全国的にほとんど知られようもないことだが、この「水俣病」という名称には、地元では複雑な受け止められた方をしていた。
 関係のない一般市民は地元の名前が「病」つきで呼ばれることに不快感を抱いていたようだ。
例えばそれは後年の一時期、水俣市長となった人物が、水俣病訴訟運動をする人たちに対して敵愾心剥き出しにした暴言を吐いた事実をみれば、うかがい知ることができることだ。
注(1971年 昭和46年11月14日 浮池正基市長、「チッソを守るためには全国の世論を敵に回してでも闘う」と挨拶)
 

1969年 石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』発表。

   私が21歳、成人したばかりのことである。
   この作品によって日本中に水俣病が知られるようになった。
    石牟礼氏はそれまで被害者宅の訪問、聞き取り、被害者の支援、チッソ・水俣事件闘争の支援を行い、その精神的支柱としての役目を果たし続けてきた。それはこの後もずっと続いた。


1970年 昭和45年7月4日
熊本地裁、細川一元新日窒付属病院長を臨床尋問。ネコ400号実験などについてメモを提出し証言

 私が小学生のとき入院していた新日窒付属病院で目撃した「奇病猫」たちへ発病実験の、院長のデータだが、法廷での証拠書類として提出を求められた。私の目撃体験から十五年以上が経っている。石牟礼道子は後年、別の地で医療の仕事を続けていた細川氏に遥々会いにゆき、当時のことを詳しく聞いている。

1970年 昭和45年8月18日
川本輝夫ら未認定患者9人、6月審査会の棄却処分を不服とし厚生省に行政不服審査を請求

 川本氏はチッソ・水俣事件を深く知る上での、キーパーソンとなる人たちの一人である。
 団体闘争ではなく、一人ひとりの被害と主訴の違いを大切にして運動を展開し、後続の者たちに多大な影響を与えている。つまり真の闘い方を模索し切り拓き、その範をしめして、偏見社会の中で孤立する被害者たちに「個人」としての声を上げ、立ち上がる勇気を与えた人物である。
 その闘争は困難故に苛烈を極めた。不当に逮捕され犯罪者扱いにされたこともある。被害者の中にもそんな彼を批判する者もいた。だが怯むことなく闘いを継続した強靭な意志の人だった。

1970年 昭和45年11月28日
チッソ株主総会(大阪)開催。患者および支援者約1000人が一株株主として参加、議事後に患者ら壇上に上り江頭豊社長に加害責任を追求。
 
 この様子はニュース報道にもなり、わずかなドキュメンタリーでも放送されたので、チッソ・水俣事件の闘争のことが、全国的に知られることにもなった。
 この運動を支えたのは石牟礼道子とその周辺の仲間たちだった。

1971年 昭和46年3月25日
チッソ水俣工場、アセチレン法塩化ビニール製造停止

  この年になってやっと、有機水銀禍の大元にあたる製造工程が止まる。遅すぎる対応である。


8 1970年代 闘争の拡大と拡散と混迷の時代

1971年 昭和46年4月25日
水俣市と水俣保健所・水俣市芦北郡医師会、茂道地区で一斉健康調査を実施。150人が受診

  狭域ながらやっと市という行政レベルでの地域健康調査が始まる。被害地域は漁業者だけではないはずで、もっと広域の徹底調査が、もっと早期に大規模に行われるべきだった。チッソも国もそういう「責任」の取り方というものを一切しない。

1971年 昭和46年6月21日
未認定死亡患者の妻ら3家族11人、チッソを相手どり総額約4400万円を請求し熊本地裁へ提訴

 すでに亡くなった被害者の家族がやっと声を上げ始めた。私の母方の親族もこのグループに属する死者のいる家族だが、その訴えをする者は誰も生存していなかった。

1971年 昭和46年7月1日
環境庁が発足する。初代長官は山中貞則。行政不服審査を厚生省から移管

 この寄せ集め官僚で造られた俄か庁の、チッソ・水俣事件に向かい合う姿勢は偏見と高圧的態度に満ちていた。それはその後のさまざまな機会に明らかになってゆく。


1971年 昭和46年8月7日
環境庁、川本輝夫ら9人の行政不服審査に対し棄却処分取り消しの裁決。

 チッソ・水俣事件闘争のキーパーソンとなる川本氏の筆舌に尽くしがたい壮絶な闘争がここから始まる。

1971年 昭和46年10月5日
熊本県、不知火海一帯住民約5万人を対象に住民検診アンケート調査を開始

 やっと県という行政レベルの調査が始まる。健康被害診断ではなく、「アンケート」である。
被害範囲地域を把握しようとしたのだろうが、まだその意識は目に見えるような身体の震えなどの重症水俣病の先入観しかない。外見では被害者とは見えない、感覚障害などの軽症だが日常生活に困難を感じているタイプの軽症水俣病者を含めた救済の考えがない。
そのことが後々、認定申請者を「ニセ患者」視、「補償金たかり」視する侮辱的な態度を被害者に対してとり続けた原因になった。

1971年 昭和46年10年6日
熊本県、川本輝夫ら棄却取り消し裁決で差戻しとなった7人を含む16人を認定、1人を保留、1人を棄却

 この川本氏たちを苦しめたのは県による被害者への「にせ患者」視という偏見による差別的態度であった。その高すぎるハードルを越えて16人の「認定」を勝ち取った。
 川本氏たちの闘いの目的は単に「認定」を勝ち取ることではなかった。加害企業の責任を問うことだった。それは彼等の次の行動で示されている。


1971年 昭和46年11月14日
水俣を明るくする市民連絡協議会、結成大会開催。浮池正基市長、「チッソを守るためには全国の世論を敵に回してでも闘う」と挨拶

 チッソの正門は水俣の玄関である駅から真っ直ぐ見える位置にある。県道と国道という二本の道路を挟んだ正面である。そこに川本氏たちの座り込みテント、闘争のシンボル旗が林立している。そんな光景に「水俣の印象が悪くなる」と露骨に嫌悪感を示す市民が多かった。
 またチッソの納税が水俣市の収入に占める割合も高い。工場労働者と関連企業、下請けを含める人口も多くのその納税額も市の重要収入である。その恩恵に支障を来すような行為が快く思われない雰囲気がある。そんな空気の中での「暴言」である。被害者のことは知らない。自分たちの生活が大事という短絡的思考である。

1971年 昭和46年12月6日
自主交渉派代表6名、チッソ本社を訪れるも社長が不在のため、本社前に座り込み(~10日)
1971年 昭和46年12月8日
川本輝夫ら自主交渉派、チッソ東京本社に乗り込み島田賢一社長と直接交渉。告発する会支援者らも本社内で座り込みを開始

 石牟礼道子氏もそれに参加している。そのときのことを書いた著作もある。
 23歳になり東京に住んでいた私は座り込みを見にいったが、それを支援したり座り込みに加わったりはしていない。私の中にある加害者としての構成要素が、それをすることに欺瞞を感じさせたからだ。父が働いていた犯罪企業の給金で故郷を出る日まで生きてきた身である。川本氏たちは私の意識の中の加害者という要素の「責任」問うているのだと思っていた。

1972年 昭和47年12月27日
東京地検公安部、川本輝夫を傷害罪で起訴

 川本刑事事件(刑事) と呼ばれるもので、東京交渉でチッソ職員に暴行したとして傷害罪で川本氏が起訴された。75年の1月.13日、一審判決で有罪となり罰金5万とされた。すぐ控訴。77年6月14日。二審判決で原判決が破棄され、公訴棄却となる。検察の職権乱用で訴えること自体が不当だという判決。検察は上告するが、80年12月17日の最高裁判決で上告棄却されて棄却が確定した。

1973年 昭和48年3月20日
熊本水俣病第一次訴訟判決、原告全面勝訴。熊本地裁、総額9億3000万余の支払を命じる。双方控訴せず判決確定

 この頃から法廷での勝訴があり得る雰囲気に変化してゆく。
 チッソ、熊本県の欺瞞的な姿勢に司法が少しずつだが目を向けるようになり、その不正を裁く傾向が生まれつつあった。

訴訟派と自主交渉派が合併し、「水俣病患者同盟」(田上義春代表)を結成

  被害者たちの個別的過ぎる被害状況や、訴える内容の差異によって団体としての齟齬が生じていたが、ここに至って「合併」に漕ぎつけた。
そんな歴史もこのチッソ・水俣事件の特殊性ゆえだが、そんな苦難の歴史があったことなど、国民のほとんどが知らず、無関心、無理解のままである。
 新聞テレビでの、補償額の大きい訴訟での「逆転勝利」や、補償開始というような報道で、「水俣病」問題は「解決した」か「解決に向かっている」とおおよその国民は思っている。だがチッソ・水俣事件はそんなに単純なものではない。

1975年 昭和50年1月13日
認定患者5人、歴代チッソ幹部を殺人・傷害罪で東京地検に告訴

  この告訴を後で知って、私は驚いた。
 実際に訴訟を行っている被害者の中に、この事件を「公害」などではなく、「殺人事件」とその未遂としての「傷害事件」と考える人がいる、ということに。
 私はずっとそう思ってきたが、それは概念的正当性として「殺人事件」「殺人未遂」事件と捉えていただけだった。

1975年 昭和50年3月9日
患者同盟からこの日までに自主交渉派27人が脱退。患者同盟が事実上分裂

 この分裂の精神的な背景に、チッソ・水俣事件闘争の本質的な問題がある。
 「補償」の問題に矮小化されて「決着」を付けられてゆくことへの、不信感、苛立ち、そのことの闘争方針への揺らぎという影響がある。
 闘争が長くなればなるほど、被害者たちは疲労困憊してしまう。
 「補償」レベルの決着でも、一応の成果が得られたら、それでよしとしようという気持ちにもなる。
 最後まで加害者の責任問題に、加害者を向きあわせなければ真の解決はないと思う、真摯な叫びが背後にある。
 だがチッソ・水俣事件の無関係な人々はその思いを理解しない。
 それを理解している被害者仲間の一部は、理解しながらも疲れきってしまっているのだ。
 被害者仲間同士の間で、そこに克服できない精神的な亀裂が生じてしまうのだろう。
 
1975年 昭和50年5月12日
水俣市が市内山間部住民7287人を対象に水俣病検診第1次アンケート調査を開始。76年度まで、37,145人にアンケート

 不知火海沿岸部に続いて、山間部への調査である。被害地域が漁師町だけでなく、広範囲に拡散した可能性にやっと目が向いたことは評価する。前にも書いたが、アンケートではなく、目的を明確にした健康被害調査を実施するべきだったのだ。

1975年 昭和50年6月9日
水俣病患者補償ランク付委の委員全員が辞表を提出

「ランク付け」という言葉が、認定、申請、という欺瞞的な仕組みの矛盾をよく表している。
命に対する傷害を、被害者が負わされた傷の程度で査定して補償の基準とするということだ。
 人とその命に向き合わない統計的なお役人的発想の限界がここに露呈している。

1975年 昭和50年8月7日
熊本県議会公特委の杉村国夫・斉所市郎両委員、環境庁に陳情した際、「申請者にはニセ患者が多い」と発言

   環境庁が言って欲しいと願っていることを言わされている感じがした。
 背景に、官僚的発想による財務防衛的な、補償費拡大の抑制圧力があるからだ。

1975年 昭和50年11月29日
熊本県警、チッソ吉岡元社長・西田栄一・北川勤哉元水俣工場長を業務上過失致死傷で書類送検

 告訴を受けて県警がまず事務的に対応を開始。だが殺人罪、傷害罪ではなく、「業務上過失致死」になっていた。

1976年 昭和51年5月4日
熊本地検がチッソの吉岡元社長・西田元工場長を業務上過失致死傷で起訴。申請協・患者同盟など、「過失罪」での起訴に抗議

 問題のすり替えに被害者たちが反応するのは当然だった。

1976年 昭和51年12月15日
不作為違法確認訴訟で熊本地裁、「認定遅れは行政の怠慢」と原告勝訴判決(確定)

  熊本県のチッソ・水俣事件に対する姿勢が裁かれた判決。
 だが、以後に発生した対応でも偏見と差別意識からくる諸問題が生じつづけ、そのことを今度は行政不服審査という形で明るみにされ、熊本県庁とその担当職員、知事は批判されることになってゆく。

1978年 昭和53年10月3日
チッソ、株式上場廃止

 犯罪企業が市場からの脱落に追い込まれた日。
 私はもうすぐ30歳になろうとしていた。ある種の感慨が胸を過った。
 それで加害企業の誰が加害責任と真摯に向き合うことになったのかと思うと、空しい気持ちになった。
 
1979年 昭和54年3月22日
チッソ刑事裁判第一審判決。熊本地裁、吉岡喜一チッソ元社長・西田栄一元チッソ水俣工事長に業務上過失致死で禁固2年、執行猶予3年の有罪判決。被告は控訴

 すぐ控訴されたが、企業人の個人名で「業務上」とはいえ、「過失致死」という殺人的判決を司法が初めて下した。これはチッソ・水俣事件が殺人事件でもあったことを公の示す判決という意味があった。

1980年 昭和55年3月24日
ニセ患者発言訴訟熊本地裁判決。堀口裁判長、熊本県に対し熊本県知事名で謝罪広告と訴訟費用の支払いを命令、県議個人に対する慰謝料請求は棄却

   熊本県庁という役人組織の中で働く組織の者たちの差別的で偏見に満ちた言動の一部が裁かれた。

1980年代 チッソ・水俣事件の本質から乖離した矛盾の顕在化とさらなる混迷の時代

1982年 昭和57年9月6日
チッソ刑事裁判控訴審判決、一審通り吉岡喜一元社長、西田栄一元水俣工場長に有罪判決

  過失致死とはいえ、ついに刑事事件としての「殺人」という有罪判決が出た。

1982 昭和57年10月28日
関西在住の水俣病患者・遺族ら、チッソ・国・熊本県を相手取り総額12億5400万円の損害賠償を求め提訴(チッソ水俣病関西訴訟。県外初の国賠訴訟)

  この「関西訴訟」における後年の「勝訴」が、補償問題の転機をもたらすことになる。
 訴訟や申請でほとんど負け続けてきた被害者たちの訴えが、補償の面では勝訴となる傾向が生まれる。
 だが、そのことが新たな矛盾と混迷を生じさせることにもなっていった。


1987年 吉田司 『下下戦記』出版

 翌1988年に第19回 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品。
 石牟礼道子作品とは違う視点で、若い水俣病患者たちの日常を、彼等の視線に寄り添って、その実態を描き出した作品。
 舞台は若衆宿。彼等は村人からは化物扱いをされ、深い孤独感の中にいた。そんな彼等が集う宿である。普通の人間のように働き、結婚することを望む若い患者たちの地獄のような苦しみと哀しみ、悪戦苦闘の様が笑いさえ誘うリアル筆致で描き出された。


9 平成時代 終わりのない闘争の時代へ


1989年 平成1年1月7日
チッソ交渉団の座り込みテントで患者が昭和天皇の死去に伴い半旗の日の丸を掲げたことに対し、支援者らが激しく反発
1989年 平成1年1月13日
全国連、司法制度を利用した和解による被害者救済制度の要求を総会で決定
1989年 平成1年3月25日
チッソ交渉団とチッソ、細川護煕熊本県知事・岡田稔久水俣市長の立会いのもとに救済覚書に調印
1989年 平成1年11月21日
申請協とチッソ交渉団、合併して新たに「水俣病患者連合」(楠本直会長、以下「患者連合」)を結成
1990年 平成2年3月31日
水俣湾のヘドロ処理事業が終了。県水俣湾公害防止事業所、閉所式を行う
1990年 平成2年4月11日
IPCS(国際化学物質安全性計画)、メチル水銀の新クライテリアをまとめて各国に通知、「妊婦の場合、現行の50ppmより低い10~20ppmでも胎児に影響がある」と警告
1990年 平成2年8月11日
水俣市や環境創造MINAMATA準備委ら、「みなまた1万人コンサート」を水俣湾埋立地で実施
1990年 平成2年9月28日
東京地裁が東京訴訟で和解勧告。以後、福岡高裁など4裁判所で勧告が相次ぐ
1990年 平成2年10月1日
環境庁、東京地裁の和解勧告を「病像・責任論に隔たりが大きくある」として拒否
1990年平成2年10月5日
チッソ、東京地裁の和解勧告の受入れを表明。熊本地裁の勧告については、後に受諾

1990年代以降 思想的深みを獲得した被害者たちの運動の新展開の時代へ

1992年 平成4年2月7日東京訴訟判決。東京地裁、国・県の国家賠償法上の責任は認めず、チッソに一律400万円の賠償を命令
1992年 平成4年3月31日
新潟水俣病第二次訴訟判決。新潟地裁、原告94人中88人を認定、昭電に対し一人当たり300~800万円の賠償を命令。国の責任は認めず
1992年 平成4年5月1日
水俣市、68年以来24年ぶりに水俣病犠牲者慰霊式を水俣湾埋立地で開催。患者連盟・患者連合は百間排水口で、水俣病互助会は乙女塚で独自に慰霊祭を開く
1992年 平成4年12月7日
関西訴訟第83回口頭弁論で中田昭孝裁判長が職権で和解勧告。国、原告とも和解拒否
1993年平成5年1月4日
水俣市立水俣病資料館が開館(事業費6億1,000万円)
1993年 平成5年1月7日
福岡高裁、水俣病第三次訴訟で一時金を3グループ・13段階・200~800万円とするなどの最終和解案を提示
1994年 平成6年5月1日
水俣市、第3回水俣病犠牲者慰霊式を水俣湾埋め立て地で開催。患者連合、患者連盟の代表者が初めて参列。吉井正澄水俣市長が市長として初めて謝罪

 かつて被害者たちに敵意を剥き出しにして憚らなった暴言市長がいた時代から、市政上の意識変革が始まっていた。それはこの吉井市長と支持市民たちの運動の結果と言えよう。

1994年 平成6年7月11日
関西訴訟一審判決、チッソに総額2億7600万円の賠償を命じ、12人に除籍期間を適用して棄却、行政責任は否定。
 
 この法廷では国の責任は否定される傾向にある。前の年の京都訴訟では国と県の責任を認めたが、その「責任」の取られ方が補償金レベルにすり替えられてしまう。「責任」の意味と在り方を含めた判決でなければ、真の解決にはならない。そのことに、加害者はもちろん、司法でさえ向き合わないのだ。

1996年 平成8年5月22日
水俣病第三次訴訟・福岡訴訟・京都訴訟原告団、チッソと和解し、国と熊本県への訴えを取り下げ。一連の国家賠償訴訟は関西訴訟を除き終結

この報道でチッソ・水俣事件と無関係の大方の国民は、事件に一応、「片付いた」という印象を持ったに違いない。だがそれは「訴訟」と等の紛争的な一側面の仮ピリオドという意味でしかなかった。
 その証拠に、連立政権の意向に沿ったこの「終結」イベントに違和感を抱く被害者は数多くしたし、独自の訴訟闘争を展開している関西訴訟は続いていた。

1997年 平成9年5月1日
川本輝夫ら、「水俣病現代の会」結成、チッソの存続強化や総合対策医療事業の立法化など4項目の要望書を石井道子環境庁長官らに手渡す

この川本輝夫氏らの運動も、一時的なイベントではなく、加害企業の責任を問い続ける恒久的な問題提起活動であった。加害主体であるチッソを分社化という手段で消滅させ、補償金の支払い機能だけの「窓口」を事務的に残すという形で、チッソ・水俣事件を「終結」させようという国をあげての計画が進行していた。そのことに違和感と不信感、違和感を抱いての運動でもあった。

1998年 平成10年2月13日
「水俣市総合もやい直しセンター」(愛称「もやい館」)が完成
1998年 平成10年9月19日
日本精神神経学会、「1997年判断条件は科学的に誤りで、感覚障害だけで水俣病といえる」との見解を示す

軽症型「水俣病」の身体の感覚障害は、見た目も、日常生活上もなんの支障がないように見えることから、「ニセ患者」呼ばわりされる無理解と偏見と差別の対象であり続けた。
 このタイプの被害者の証言でも明らかな通り、誰にも理解されないところで、被害者たちは現実の日々の暮しにも困難を覚え、それに耐え続けて暮らして来ていた。
 その意味でもこの公的な指摘は有意義だった。

1999年 平成11年6月9日
水俣病に関する関係閣僚会議、チッソの公的債務を国が肩代わりする抜本的な金融支援の政府案を正式決定
2004年 平成16年10月15日
水俣病関西訴訟で最高裁、国と熊本県の責任を認め、賠償を命じる。水俣病国賠訴訟では初めての最高裁判決で、行政責任を明確に認める

  最高裁レベルの司法の場で、初めて「国と県」という行政の責任が裁かれた判決である。
 この時点前後から、改めて国と県とチッソの責任を問う形の訴訟、県が窓口場合、新たな認定申請、棄却された場合の行政不服審査申請などの闘争の形に変わってゆくことになった。

2006年 平成18年11月27日
国の行政不服審査会、緒方正実の認定棄却を取り消す裁決を下す

 裁判型の訴訟ではなく、補償金支払いの窓口が熊本県になり水俣病認定の申請を行う形になってから、申請を、被害者たちに対する差別的偏見の意識のままだった県は、緒方氏の例のように棄却し続けてきた。それから緒方氏のように行政不服審査申請をして、その本人が出席して、直接、県の担当者と向い合って、その手続きの欺瞞を暴く発言をできるようになった。
そのうちの一人、緒方氏は県の誤魔化し、不誠実な対応を証拠と資料をもとに問質してゆく闘争の末、行政不服審査会によって、県の不当な「任的棄却」を取り下げさせる判決を勝ち取り、翌年3月に認定された。

2013年 成25年10月7日 
「水銀に関する水俣条約外交会議」が熊本県(熊本市・水俣市)で開催 (~10/11まで)           
国連環境計画(UNEP)が「水銀に関する水俣条約外交会議」の関連イベ ントを開催(~10/11まで)         
2013年 平成25年10月8日 
政府、「水銀に関する水俣条約」への署名を閣議決定         
2013年 平成25年10月9日 
「水銀に関する水俣条約外交会議」において各国政府関係者ら約550人が 水俣湾埋立地での追悼式に参列、その後水俣市文化会館で開会記念式典を 開催           
「水銀に関する水俣条約外交会議」開会記念式典で、石原環境大臣、条約 早期発効に向けた途上国支援と、水銀対策技術や環境再生の取組に関する 水俣から世界への情報発信等を柱とする「MOYAIイニシアティブ」表明           
「水銀に関する水俣条約外交会議」開会記念式典で、蒲島熊本県知事、「水 銀フリー熊本宣言」を行う         
2013年 平成25年10月10日 
「水銀に関する水俣条約外交会議」において、「水銀に関する水俣条約」 と関連決議を含む最終議定書が全会一致で採択される。水銀の採掘から廃棄にいたる過程で、人や環境にたいするリスクを低減するための、水銀に関する条約。
2013年 平成25年10月11日 
「水銀に関する水俣条約外交会議」閉幕、91カ国と欧州連合が署名、参加 各国と国際機関代表が早期批准・発効への期待と財政支援求める声明発表         
2013年 平成25年10月26日 
「第33回全国豊かな海づくり大会」が熊本県で開催される(~10/27まで)
2013年 平成25年10月27日 
天皇、皇后両陛下、「第33回全国豊かな海づくり大会」に臨席するため水 俣市を初訪問。水俣病慰霊の碑に献花され、市立水俣病資料館を見学、語り部の会会長の講話を聞き、懇談される。
2014年 平成26年3月31日
熊本地裁は、第2世代訴訟一審判決において「暴露が高度で四肢末梢優位の感覚障害をはじめとする症候があり、他の疾患が原因と考えられない場合は水俣病」と判示した。
2014年 平成26年8月29日 
環境省、特措法に基づく水俣病被害者救済申請の審査結果を公表。熊本・ 鹿児島両県で45,933人が申請し、36,361人が救済対象となる
2015年 平成27年2月5日 
水俣市立水俣病資料館の来館者が90万人を超える

 ※ 本稿は2015年3月に加筆した。



世界的な環境破壊の歴史と石牟礼文学の関係について

 

環境破壊という問題は、その保証闘争のような公害問題だけではなくて、漁師さんのように自然の中で、自然に対する畏敬の念をもって暮している方たちの敬虔な姿勢というような、本来の日本の文化の中にあった、精神文化そのものの破壊と、近代文明がそれを喪失してしまった、という、私たちを内側から生かしている文化の全的喪失の問題でもあります。そこで、石牟礼道子俳句のお話に入る前に、少々長くなりますが、前半部で、石牟礼道子文学と俳句の背景となっている、環境破壊問題と、文学的表現の歴史を振り返っておきたいと思います。

 

1 ロンドンの黒い霧

―環境破壊の世界潮流―それは産業革命から始まった

地球規模の環境破壊は、ロンドンの黒い霧という言葉で有名な、イギリスの産業革命時代の、工場排煙、家庭のストーブや調理具としての竈などの煤煙で深刻大気汚染が発生して、人体に影響が出たことに端を発しているんですね。

丁度その一九〇〇年から二年間ロンドンに留学していた夏目漱石が日記でこう書いています。

倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ。真黒なる塊の水に驚くべし。何百マンの市民はこの煤煙と塵埃を吸収して、毎日彼らの肺を染めつつあるなり。我ながら鼻をかみ痰をするときは気のひけるほど気味悪きなり」                ―漱石全集「漱石日記」から

対策として煙突を高くして街の空気をよくしようとしたのが、逆効果で、地球の大気圏全体を汚染し、後の光化学スモッグなどの害へと拡大していったのです。

 

2 アメリカの大気汚染と環境破壊

その後、イギリスを凌ぐ経済大国になったのがアメリカで、量産され大衆化した車社会が引き起こした大気汚染があります。

フォード社のヘンリー・フォードは「我が国の繁栄は農作物の収穫高ではなく、自動車の所有台数に比例する」なんて豪語したそうです。それに拍車をかけたのがGM、つまりジェネラルモーター社で、流れ作業というベルトコンベア式の生産ラインの効率化で、大量生産によるコストダウン、大量消費を爆発的に拡大していき、ますます大気汚染が深刻になるまで拡大していったわけです。それで大気汚染が深刻なって、一部の科学者がそのことに警告を発したのですが、フォードとGMは一部の科学者に裏金を払って、反論キャンペーンを張らせたんですね。

世界を席巻する大量生産と大量消費による環境破壊と、その告発と、企業側とそれに決着した当時の政府との対立と構図は、日本の公害問題に始まったことではなくて、ここに原型が発生しているわけです。

そして第二次世界大戦というのは、この産業力の発展の延長で戦われた、無差別大量殺戮戦時代の幕開けだったわけです。

戦後はアメリカの爆薬の製造会社だったデュポン社が、便利なプラスチックとその生産工程から発明された化学繊維のナイロンを開発したり、ノーベル賞を取った科学者が発明したDDTという、人体には無害で、有害な昆虫だけに有効だという触れ込みの物質を応用した農薬を大量生産して、害虫駆除に成功して農作物の収穫高が飛躍的に上がったのですね。日本では虱退治薬として人体に直接振りかける使い方をしました。

この公害を告発したのがレイチェル・カーソンという海洋生物学者で、そのことを調べることになった切っ掛けは友人からの手紙だったそうです。DDTが散布されると鳥たちが大量に死んでいるというのです。それで調査研究を始めて四年かけて本にまとめて出版したのですね。一九六二年のことです。邦題は『沈黙の春』(青樹簗一訳 新潮社新装版二〇〇一年刊)。その中でこう書いています。

動物実験により、化学物質の多くが体の組織に蓄積されることがわかっています。肝臓を害するものや、神経を壊すものもあります。いま化学物質を適切に管理しなれば、今後我々は悲惨な結果に直面するでしょう

川に魚の姿はなく、受粉するミツバチはいない。草木に白い粉がはりつき、土や川にしみこくんでいく。今日生まれた子どもたちは、生まれたときから、おそらく生まれる前から、化学物質にさらされていることを忘れてはならない

その本は政財界、一般人にも大反響を呼び起こし、政財界はその否定の反論のキャンペーンを行って封殺しようとしました。その先導をした科学者は、後の地球温暖化も根拠がないというキャンペーンを大企業から金を貰って行った同じ科学者です。その論争に終始符を撃ったのがジョン・F・ケネディ大統領で、カーソンの本に感動して、政府としての正式調査を命じて、カーソンの告発が正しいことを立証し、一九七二年にDDTに生産中止の命令を出しました。

カーソンはそれ以前に癌で一九六四年に亡くなっています。

その後も環境破壊は進行し酸性雨で森林や生産緑地が汚染されるという、農業にも影響が及び、地球温暖化という深刻な状態になっているのが、今現在だというわけです。

 

3 日本の環境破壊と石牟礼道子文学

そんなアメリカの真似して資本主義の工業生産によって経済発展を遂げた日本の話になりますが、ご存知のように大気汚染の三大公害がまず発生しました。一九六〇年代、石炭、つまり化石燃料を主エネルギーとした大気汚染ですね。製鉄所があった釜石、八幡、そして四日市です。アメリカが百年かけた産業の工業化を二五年で成し遂げてしまった日本の公害時代が始まります。わたしたち団塊の世代が思春期、青年期がこの汚れた大気が溢れたの経済成長時代だったわけで、そんな社会を好きになるわけがありません。

石炭から石油へのエネルギー転換で大気汚染は一層加速しました。河川と海の汚染が深刻なり、その過程でチッソという企業による犯罪である水俣病も、こんな世界的な環境破壊の潮流の中で起きたわけです。

政財界、一般市民の偏見と差別的な態度で苦難の闘争を漁師さんたちは行ったわけですが、その運動を根底で支えたの石牟礼道子と近代史思想家で評論家の渡辺京二です。

一九六九年に刊行された石牟礼道子の『苦海浄土』という本がベストセラーになり、石牟礼道子が支援したチッソとの闘争の困難さを世の知らしめたせいで、それまで被害者に冷酷だった政財界、司法界がチッソに批判的になっていきました。

アメリカのDDT汚染を告発したカーソン・レイチェルの著作と同じ、またそれ以上のインパクトがあった文学だったわけです。

『苦海浄土』が出版された後、政府も本腰で取り組まざるを得なくなって、一九七一年に環境庁が設立され、翌年の一九七二年には、国連人間環境会議がストックホルムで開催されるという流れになります。

次の文はそれに出席した大石武一環境庁長官の、新聞で報道されたスピーチ原稿です。

経済優先の政策が誤りであることに気が付きました。数多くの海岸が埋めつくれされコンビナートになり、緑豊かな自然が刈り取られて道路になり住宅になりました。環境破壊は人間の精神をもむしばみ始めたのであります

この視点は石牟礼道子の『苦海浄土』という文学がなければ、持ち得なかった社会的視座であることは間違いありません。石牟礼道子文学の主題は、大石長官が間接的に言及したように、環境の破壊だけでなく、人間の精神、心の在り方も破壊したという視座です。

『苦海浄土』はチッソという企業との保証闘争を描いたのではありません。その殺人事件としての事実と交互に、被害にあった漁師さんたちの、畏怖心をもって自然と向き合う敬虔な生き方、その文化が破壊されたのであり、それを許した経済優先人間の心の荒廃を描き出しているのです。そのことがほとんど理解されていません。

だが最近、アメリカのモリス・バーマンという評論家が『神経症的な美しさ:アウトサイダーがみた日本』(込山宏太訳 慶應義塾大学出版会二〇二二年十二月刊)という新しい本ですが、環境破壊は精神の空洞感と荒廃を齎したと的確に論じています。

文明の発展が善であるとする「常識」にみられるように、それが齎す精神的な問題は認識されることなく無自覚であった近代史で、そのことが認識されてゆく過程で、日本人の精神に何が起こっていたのか、それはどのように評されているのか。それを知るに恰好な書です。

モリス・バーマンは一九四四年、アメリカのニューヨーク州生まれで文化史家、社会批評家にして作家で、欧米やメキシコなど多くの大学で教壇に立った経験があり、『デカルトからベイトソンへ』などの哲学評論書があります。

『神経症的な美しさ:アウトサイダーがみた日本』でモリス・バーマンは近代化よりも古い、中世から近代への移行期に先進国のほとんどが精神的外傷を負ったと説いているんですね。

中世から近代への移行によって受けた傷は精神的・心理的なもので、現実の始原的な層(レイヤー)を押しつぶし、そこに代償満足を補填した――実に惨めな失敗に終わったプロセスである」/「そこには、実存ないしは身体に根ざす意味の欠如がつきまとっている

レジュメで引用したこの文章は少し難解ですけど、その「欠如」、精神的な空洞、空虚感のようなものが、物質的な豊かさを追い求める飢餓感となって作用した、とモリス・バーマンは診ているのです。

例えば消費行動における「速さ・安さ・手軽さ」などですね。だが所詮それは代替物であり、人々の根本的な精神的飢餓感が癒えることはありません。その空虚感のど真ん中にある問題が、実存の問題です。

実存の問題というのは、例えば、死とは何か、その手前にある短すぎる生、そのことにどんな意味があるのか、ないか。ないのなら、そもそも生きることとは何なのかというようなことですね。

無意味にしか思えない日々の暮らし、消費で気持ちを紛らわしている行動になんの意味があるのか。そこに消費代替行為の形を変えた、いかがわしい新興宗教に囚われる精神的な病も発生するとしています。

わたしが特に注目するのは、その視座からモリス・バーマンが、日本は近代化の時期に同じ精神的外傷を負ったと診て、次のように述べていることです。

日本はイギリスが二百年かけた近代化を、日本はその十分の一の二十年ほどで成し遂げようとした。それを成功させるには、自らの現在の全否定しかなかった。自己を捨て完全模倣するならば近代化は可能だ。古来より受け継がれた暮らしのあり方を捨て、西洋を模倣し続けた日本人。その精神は西洋への憧憬と反比例する精神の空洞化であった。

それは、かつて先進国が抱えた普遍的な問題でもあったが、日本はその十倍速の荒療治であったことが、傷を深くした。

このようにモリス・バーマンは診ているのです。

「魂の喪失と中心の虚空」を軸に、禅、工芸、帝国主義、甘え、序列、同調圧力、消費主義、オタク、引きこもりなど、近代化以降から現代に続く日本文化を俯瞰して、それらの文化事象を束ねて批評しています。

そして、ペリー来航から明治維新を経て近代化に向かう日本を扱い、日本人のアイデンティティの危機を描き出し、植民地主義、太平洋戦争、原爆投下から東京裁判と占領期まで扱っています。

日本的精神の代表として、西田幾多郎、田邊元、西谷啓治という京都学派の哲学者の思想を、歴史の文脈に置いて辿ることで、「日本的なるもの」を掘り下げています。その中核が禅の思想です。
 戦後の日本の歴史については、高度経済成長期から現代までを、アメリカ化する日本という観点から論じています。日本の禅的な、何もないという「空・無」を中核に置く精神が、そのままだったら、物資的豊かさより心の豊かさという精神性の「空や無」の精神なのに、アメリカ型の消費文化のおける空虚さ、心の荒廃に取って変わったことを論証しています。つまり経済優先の大量消費生活は、決して心が満たされない飢餓感の連鎖の中に人間精神を陥れてしまう、という主張ですね。

それが日本的文化の破壊と喪失として作用しています。

でも石牟礼道子文学を研究する国文学系統の思考をする私から見れば、その時間軸の設定は短過ぎると思うんですね。

バーマンは日本人が自国の文化に自信を持てないでいるのは、文字を持っていなかった時代に、中国から文化と律令制度などの社会的な仕組みを学んで、必死に日本化した亜流文化だと見做していることが深層心理にあるからだというんですね。

明治維新では科学による工業生産力と軍事力を学んで日本化して、このコンプレックスから欧米を敵に回して戦ってみるなんていう暴挙に出た。それも自分に自信ない精神の空虚さ故で、禅などの精神的深みこそ日本精神だという「空・無」という、本来なら命を内側から生かす思想を持っていたのに、特にアメリカの真似をして、アメリカそっくりの経済優先型の精神の、本当の内容がないという「空・無」に変貌した弊害が現われている、というわけです。

すべては「空」で「無」であるという思想は、物質中心主義の欲望の経済システムに歯止めをかける、生き方であったのに、戦前、戦中には、

心を虚しくして社会に奉公する点などが強調されて、滅私奉公の軍国主義に利用されてしまった弊害を、禅の研究の第一人者の鈴木大拙が戦後、反省している程です。でも戦後の高度成長の時代には、大企業が社員教育に禅を勧めたりして、実利的な間違った応用の仕方をしていると批判しています。彼には禅的思想が悪用されて、戦時中の滅私奉公、戦後高度経済成長期には、猛烈社員を鼓舞する道具にされているように感じているんですね。
 田中康夫が一九八〇年に発表した『なんとなく、クリスタル』は、東京に暮らす女子大生兼ファッションモデルの主人公生活を中心に、一九八〇年当時の流行や風俗を、東京で生まれ育った比較的裕福な若者しか理解できないブランドやレストラン、流行のブランド商品、ファッションなどの固有名詞がちりばめられた小説で、「頭の空っぽな女子大生がブランド物をたくさんぶら下げて歩いている小説」と酷評されて、文芸賞はとったのに、芥川賞は逃しています。嫌悪した選考委員がいたからです。でも、パーマンは実に的確に、戦後日本の、アメリカ人より精神の空虚になった世相を映し出していると診ています。

そのころには、空虚の極みに行き尽きつつあったアメリカでは、ビート世代などが、逆に日本の禅の思想に内面的充実を見出してブームなるという逆転現象まで起きていたんですね。

バーマンのこの指摘は、文字文化が以後の歴史に限っていえば、もっともな指摘ですが、バーマンが指摘するような日本の文化なら、喪失してもたいした問題ではないだだろと、私は思いますね。

私はそんなものが日本的な心、文化だとは思っていません。

文字文化到来以降、日本化されて熟成された文化は、たとえ一時的に喪失されたり、破壊されたりしたとしても、記録されて残っているわけですから、復元し修練して体得すれば復活が可能ですよね。

でも、石牟礼道子文学が語っているのは、文字文化以前にあった、話しことば、つまり語りの文化は、自然と共生する文化であり、そこで機能していた心と共に生きると言う思想の文化ですよね。

具体的に言えば水俣病の被害にあった漁師さんたちの前近代的、といいますが、超古代的な狩猟民族的な文化なのです。殺されてしまった私の母方の親族の暮しが、まさにそれだったわけです。

この文化はそれを使って生きていた人が死んでしまうと滅んでしまうわけです。そのことへの危機感と訴えが石牟礼文学の真の主題なわけで、時間軸がもっと壮大なんですよ。

文字がなかった長い長い時代、剥き出しの自然と向き合ってくらしてきた人々の、肉声の語りの文化の痕跡は、古事記や万葉集の中の刻まれているわけです。社会学派ではない、国文学派の私の視点では、古事記以前の、漁師さんたちのような心の文化の喪失の方が、それ以後の禅的な日本らしい文化の喪失なんかより、大問題だと思うわけです。

日本人の心、原点というとき、たいてい、文字文化到来以降の事象を指していますが、古代歌謡が好きな国文学派の私からみたら、古事記や万葉集などで、微かに文字表現として刻まれている、感性の在り方の方が本当の「やまとごころ」だと思いますね。

私の母方の漁師親族の暮しのあり方そのものが、そういう感性で営まれていたわけです。それが暴力的に滅ぼされた事件だった、というのが私の水俣病観であり、石牟礼道子文学の主題だと思うんですね。
 そういう意味でも、バーマンのこの素晴らしい最新の評論書も、その点が視座に入っていないのが、石牟礼道子文学に及ばない欠点だと思いますね。

『苦海浄土』にも、彼女の幼年期の随筆的物語『椿の海の記』(朝日新聞社一九七六年刊)にも、俳句にも、その失われた心のあり方と人々が大切にした文化が、克明に描かれています。彼女は近代文明の弊害を論じたのではなく、近代という暴力装置が、それを破壊していったこと、私はそれを「文明禍」と名づけていますが、その様を実感をもって描いた、世界初の文学であるわけですね。

バーマンの大量生産、大量消費の経済成は環境破壊だけしたのではなく、日本、アメリカ、遡ってイギリスに端を発する、心、精神の破壊だったという視点は、石牟礼文学の主題の在処を、ある程度は指し示し得てはいて、その点だけは評価に値する評論だと思いますね。

 

4 水俣病―「チッソ水俣事件」とは何だったのか

石牟礼道子文学が深く変わった水俣病とは何だったのか、ということを、準当時者の位置にいる私と私の親戚の話、そのことを文学に表現する困難について、この前置きの最後にお話しさせていただきます。私事ですが、実感していただくにはそれが一番だと思いますので。

水俣病の加害企業は一般にカタカナのチッソという名で呼ばれていますが、日本窒素肥料株式会社、そして新日窒、日窒、最後にカタカナのチッソと社名を変えてきた会社です。

創業者は野口遵(したがう=遵法・順法というときのジュンの字です)といって、一八七三年金沢生まれで、帝大(現、東京大学ですが)の電気工学科卒業の超エリートです。 窒素肥料を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた男です。明治後期に創業して、第二次世界大戦を挟んで発展した日本の化学工業メーカーです。戦時中は朝鮮半島に巨大ダムを建設して、その電力開発などの生産で、大陸進出した日本陸軍を物量的に支えた企業です。

敗戦でそれを全部失って、戦後は国内の化学事業で発展して、登記上の本店を大阪市北区中之島に、本社を東京都千代田区大手町に置いていました。旭化成、積水化学工業、積水ハウス、日本ガスなんかの母体企業でもあります。それが水俣病を引き起こしたせいで、二〇一一年三月三一日をもって事業部門を中核子会社となるJNC株式会社名前で新設した会社に移管して、水俣病の補償業務を専業とした事業持株会社となってしまいました。

水俣の工場で何を作り、どうして加害事件を引き起こすことになったかといいますと、窒素を空中から取り出して利用する化学肥料の方は害を出さなかったんですけど、日本で初めてアセチレンから塩化ビニル、―普通私たちはビニールといいますが、正式には塩化ビニル、と伸ばさないでいうのですね。その合成に成功して、その製品化事業が環境破壊を引き起こす原因になったのですね。戦後、爆発的に普及したビニール製品を生み出し、その利便性恩恵を受けてない日本人はいないわけですが、水俣病なんて自分とはなんの関係のないと、多くの人は思っているでしょうが戦後日本で、無関係な人などいないわけです。

その陰で漁師家族を始めとするたくさんの人たちが、死に至る深刻な被害を受けたわけです。

そのビニールを作るために、アセチレンの付加反応に金属水銀や塩化水銀を使うのですが、反応生成物を取り除いた後の工業廃水を無処理で水俣湾に排出したわけです。これに含まれていたメチル水銀―有機水銀ともいいますが、それが魚介類の食物連鎖によって生物濃縮して、これらの魚介類を汚染されていると知らずに摂取した不知火海沿岸、熊本県および鹿児島県の広域の漁師家族、その周辺住民が「メチル水銀中毒症」になって、これが水俣病と呼ばれるようになったわけです。

環境汚染の食物連鎖で起きた、人類史上最初の大規模有機水銀中毒ということで、世界的に有名になった事件なのですね。

最初は原因不明の疫病かなんかと怖れられていたのです。

水俣病なんていう名前で、公的には公害、おおやけの害と規定されて、まるで病気扱いされていますが、これは企業犯罪で、無差別大量殺戮、または殺戮未遂事件なんですね。

ずっと後になって、裁判で当時の工場長たちが業務上過失致死という判決を受けているように、殺人事件として確定していることはほとんど知られていなくて、本当は病気ではなく、企業による殺人事件なのですね。水俣病については、先ずそんな世間の誤解があります。

具体的にどういう殺人かというと、身体の神経系統が犯されて、激痛を伴う全身の痙攣の果てに、身体不自由になったり、もっとも過酷な場合は死んでしまうという被害です。

私の母方の一族が水俣より北部の、福の浦という湾の、大矢村の網元とその漁師一族で、初期の一番激しい被害にあって亡くなり、生き延びても身体不自由になった後、苦しんで亡くなっています。全滅です。

大矢村ごと壊滅するという被害に遭っているのです。今はもう海岸線に立派な道路が走って、かつての大矢村なんて影も形もありません。大矢という苗字が地名でもあるのですが、その内地図からも消えるでしょうね。

私の父はその加害企業チッソの工員でしたので、私の家には加害系と被害系がクロスする複雑な家庭だったわけです。

父は佐敷村という水俣より北部の農村出身で、広い農地山林を持つ庄屋、村長(むらおさ)の跡継ぎの長男で、漁村の網元の娘の私の母が、家柄の格が釣り合うという理由で、許嫁に指名されていて、結婚したわけです。漁村の生れなのに、農村の家に、家柄とかの関係で将来が決められていたわけです。母が父の元に嫁ぐ前に、母のことも可愛がっていたその農家の祖母がなくなって、後妻が迎えられて、次男が誕生していました。母が嫁いだ後、農村の方の祖父が亡くなると、後妻が母をいじめ倒して、父にも辛く当るようになって、目的はその家を乗っ取ることで、私の両親はその争いが厭になって、相続を放棄して水俣に出たというわけで、チッソが工場を拡大して若い労働力を募集していたので、チッソの工員に就職して、二人の水俣での生活が始まり、私たち兄弟が生まれたわけです。

この時、母が体験した農家における女性の地位の低さ、労働の過酷さ、それゆえの嫁いじめという、女性の問題を、石牟礼道子も農家の跡取りだった人と結婚して体験して、女性問題に目覚めています。

後に二人はその農家を出て、夫は教員になっています。

この農家を追い出されるように出たという所も、私の両親と共通しています。

漁師の家庭ではすべてが共同作業的で、特に女性だけが下位に置かれて虐げられるということはなかったので、母はその違いに戸惑って、精神を病みそうになったほどです。

だから父方の故郷とは縁が切れていましたが、母の郷里の漁村の方とは密接な親類としての繋がりがありました。

私がまだ小学校に上る以前、まだ大矢村が被害にあっていない頃、里帰りする母に連れられて数日の泊りがけで何度も言った漁村ですが、それはもう風光明媚な海と里山に囲まれたところで、大好きでしたね。

小さな漁村の集落の後ろは、よく手入れの行き届いた里山で、その奥が豊かな水の湧き出す深い山並みが続いていて、生活必需品はすべて自分たちの手仕事で生み出している村なんですね。リアス式海岸ですから浜辺が狭いので、陸側から海突き出している小さな岸壁沿いに、中規模の船をそのまま格納できる船小屋がいくつかあって、その後ろには魚介類を裁く共同の作業屋が並んでいるんですね。その後ろの方に網元の大きな屋敷、その周辺に分家、村人たちの家族のこじんまりした綺麗な家々が山際まで続いているという漁村の景です。

背後に山が迫っていますから、熊本の内陸部に行くには徒歩なら峠越えですが、舟なら近隣の漁村、水俣の湾に行くわけです。道路もバスも通っていない時代で、平野部がないからお米は作れなくて、魚を買い付けに小舟でやって来る行商人から買っていたわけですね。

舟が何隻も大漁旗を揚げて船小屋に帰ってくるのが、里山の畑で農作業している女子供にも見えるわけで、作業を放り出して、みんなで船小屋のうしろの作業屋に集まって、魚介類の水揚げ、仕分け、長期保管する作業、近いうちに食べるもの、米と引き換えに売るものなどに、仕分ける作業をして、自分の分け前をもって家々に帰るというような暮らしですね。だから水俣病の被害をもろに受けてしまったわけです。

その頃の水俣市内といったら、チッソ工場内に林立する煙突が吐き出す烟が常にたなびいていて、空が黄色で臭かったんですよ。私の家は市内を見下ろす丘の中腹にあったのですが、市内のその烟が層を成して棚引いているのが見えました。市内に降りてゆくとき、なんだかどぶ川に入っていくような心地がして、町に行くのは嫌でしたねー。

化学工場と言うのは本当に危険な職場で、よく爆発事故を起こしていたんですよ。ぼわんという音が響き渡って、工場の方を見ると小さいきのこ雲のようなものが上がっているのが見えました。

「酢酸課じゃない所みたいじゃね。また、何人、死なしたろうかいね。ぐらしかねー」と、そのたびに母が呟いたのを覚えています。酢酸課というのは父が働いていた箇所で、まさに水俣病の原因物質の生成と関連している工場ラインでした。「ぐらしか」というのは哀れで気の毒だという意味の水俣弁です。

その正反対のような母の実家の農村の海と空と里山の美しさときたら別天地でしたねー。そこの伯父さんや叔母さん、その子供たちも歓待してくれて、いい記憶しかない所だったわけです。それがみんな被害で苦しんで亡くなってしまったわけです。症状がひどくなってからは、だんだん連れていってもらえなくなって、何度も見舞いに行って、帰った度に母が涙ながらに話した、辛い記憶で埋められてしまったのですね。

工場の附属病院の院長たちの報告で、保健所の所長の研究チームは、は、猫を実験台にたした動物実験で、工場の廃液による海の汚染であることを突き止めていたのですが、病理学的に証明することが困難なのをいいことに、チッソは工場廃液説を認めず、風土病とか、第二次大戦中の不発弾の海水溶融の毒のせいだと、高名な学者とか、耳を疑うよう珍説を、権威ある地位の人に頼んで逆宣伝をし続けて、被害は拡大していったわけです。

やり口が実に悪辣です。そういう隠蔽体質のような企業体質のようなものは、今も亡くならず続いていますよね。チッソに限ったことではないわけです。旧日本軍からの体質だと論じた本もあるくらいです。

 母の実家の家族は、身体が不自由になっても、自分たちの日々の糧である魚介類に蓄積した有機水銀のせいだなんて、夢にも思いませんし、しかもチッソが責任を否定し続けたせいで、毎日、自分を殺す毒を食べて続けて、死に至ることになったわけです。

それでも、魚介類接種が原因のようだという風評は、ゆっくり拡散浸透していって、今度は不知火海で獲れた魚介類が売れなくて生活困窮してゆきます。体は不自由になるは、収入はなくなるは、と悲惨に悲惨を重ねた状態に陥っていったわけです。

それを見かねた母は、実家に頻繁に魚などを買いにいって、それが我家の食卓に頻繁に並んだわけです。我が家もその魚介類が毒だなんて知りませんから食べ続けたわけです。不知火湾の魚介類が原因じゃないかという風評を耳にするようになってからは、あまりいい気分の食卓ではなかったですね。

農家出身の父は元々魚類が嫌いで口にはしませんでした。母の実家から魚を買ってくるのはもう止めろと、父が母に言い始めたもんですから、家の中の空気が重苦しくなりましたね。

返して貰えないと解っている現金も持っていくものですから、我家の方の家計も苦しくなって、いっしょに貧困状態に陥っていくわけです。食べ物のことでは喧嘩なっても、お金のことでは父は黙認していました。父の気持は家族一番複雑だったでしょうねー。それは大人になってから、父も苦しんでいたんだと気づくわけです。

そんなふうに、私の家族の身体にも有機水銀は蓄積して、漁師家族よりは軽微ですが、さまざまな軽障害が出たわけですね。

農家出身で魚介類が嫌いな父は、魚介類が食卓に出たときは、一人で野菜を調理して食べていましたから無事で、母と子どもの私たちには症状が出ています。一番小さい頃から魚介類を食べた妹にはひどく症状が出て、結婚したあと短命で死んでいます。

どんな症状かというと、疲労すると体が痙攣して動けなくなるとか、指先などの感覚が鈍くなるとか、恒常的な耳鳴り、難聴、視野の狭窄とかです。逆の知覚過敏へと、ころころ体調で入れかわるような症状です。

私は今も居酒屋なんかの狭い所で大勢が一遍に話すような騒音に包まれると、頭痛がしてきて極度の難聴に陥ってしまう症状が出ます。似た音や声の違いが分かり難くて、単語が聞きわけづらいので、人が何を話しているのか聞き取れなくなってしまいます。

音楽家を目指すには、これは致命的な欠陥で、その道に進むのは断念ました。本当はフルートが輪楽器の笛、和笛奏者になるのが夢だったんですけどねー。

心臓の筋肉が充分に発育していないので、激しい運動をすると血流不足を起こして失神してしまうんですね。だから学校の体育の時間や運動会が嫌いでした。昔は朝礼なんて運動場に朝日が照り付けるなかで整列して、校長先生の話を聞かされるときも、毎回ぶったおれてしましたね。それは妹も同じでした。そんなふうに中枢神経障害が、他の臓器不全になって作用するんですね。

私たちが成人して判明した最大の被害は、男の私と兄には子供ができなかったことです。妻には自分の可愛い子を育てるという体験をさせてあげられなくて、寂しい思いをさせました。

結婚した姉と妹には子供ができたのですが、身体の弱い子供でみんな早死にしています。その姉も兄も妹も、もう亡くなっています。

一番病弱だった私が七十歳を超えて生きられているのが奇跡のようです。ですから、私の親兄弟の家系は私で途絶えてしまうわけですね。

こういう様々な、症状の原因を水俣病だと特定するのは困難ですから、石牟礼道子が初期水俣病闘争で支援した漁師さんたち家族のようには、訴訟闘争にもならない、多種多様の被害を抱えて生きている、私の家族のような被害者は、数え切れないくらいいるわけです。

母方の親族ように初期劇症型水俣病の被害者は、訴訟運動が起こる前に死んでしまっています。

レイチェル・カーソンに倣っていえば、沈黙の春ではなくて、沈黙の不知火海ですねー。

これが水俣病といわれるものの実態です。知らなかったでしょう?

人前でこんな羞恥心なしでは語れない個人的なことを話したのは初めてで、話すかどうか迷ったのですが、水俣病被害の実態をリアルに感じもらうには、この話が一番だろうと思って敢えてお話ししました。

聴いていた皆さんもきつかっただろうと思います。よく我慢して聴いていただきました。有難うございます。

石牟礼道子が支援した初期漁師さんたちは、今生き残った自分への補償を求めて立ち上ったのではないのです。自分の身内を亡くしていますから、その死者に、加害者の当事者が直接、膝をついて謝れっていうのが、本当の声なんですね。

その気持ちを具体的に実現させてあげたいと支援したのが、石牟礼道子と評論家の渡辺京二だったわけです。渡辺京二の為人については後で触れます。

今も続いている法廷闘争の水俣病闘争とは、性質がまったく違います。

死者を代弁する、ことばの闘いという側面に、親族を亡くしている私の気持が揺さぶられて、間接的な支援と、その文学の研究にのめり込むことになったわけです。
 石牟礼道子と渡辺京二が支援した漁師さんたちは、チッソと直接交渉をしたのですが、それ誠意をもって応じようとしないので、支援していた良心的な弁護士さんたちの勧めで、法廷闘争に移っていったわけです。熊本地裁が舞台になるので、この頃、渡辺京二が準備してくれた熊本の拠点に、石牟礼道子独りで移り住ます。

母、妻として務めをしてあげられなくて済みませんと、夫と子供に謝って、私を捨てて離婚してくれと懇願したのですが、家族はそれは拒否します。好きにやれと励ましもできず、複雑な気持ちだったようですね。でも結果的に別居したままでも、離婚したり、離散したりしないで、ずっと支援していますから、偉い家族ですよねー。

裁判闘争の方ですが、当時は法曹界も経済界も、水俣の市民もみんなチッソの見方で、四面楚歌状態の闘争だったわけですね。

当時の市長なんか、水俣の印象を悪くする闘争をしかけている漁民は、市民の敵だなんて、街頭演説で公言するような状態ですから。

公害の基になった塩化ビニールを開発した化学技術者の橋本彦七という人は、後に工場長、退職後は市長になっていますから、水俣は文字通り、チッソという企業城下町なわけです。

市長になった後、水俣市としての公害の慰霊の碑を建てた記念式典にも呼ばれたときも、自分の責任問題など一言も口にせず、謝罪するどころか、上から目線で漁民を見下して、この式典もチッソが支払っている税金で実施できて、こうして貢献できて嬉しいなどというスピーチをして、石牟礼道子を激怒させました。そのことを後で随筆に書いています。

チッソは漁民弾圧だけでなく、漁民支援に回ったチッソの労働組合を分裂させて、第二組合を作らせて、第一組合員の首切りをしようとしますが、父が所属した第一組合は総評という、今の「連合」の前進の団体の支援を受けて、長期ストを敢行して、その結果、首切りは回避しますが、関連企業への配置転換をして、組合の弱体化を図りました。

またチッソを支援する市民団体を作って、いろんな金銭的支援を公然と行って、市民の漁民離れを煽ったりしたわけです。

父は、そのことに心底腹を立てていましたね。

チッソの東京の丸の内の本社に、直接抗議のために、石牟礼道子と漁民と支援者が坐り込み活動に来たときには、直接その支援には加わりませんでしたが、ただひたすらカンパだけをするという無言無名の支援はしました。そのとき路上に坐り込んでいる彼女の姿を見ましたが、小さくて可憐な乙女みたいな人で、この人からあの燃えるような力が湧いてくるなんて信じられませんでしたねー。

実際に闘争の方を組織して、その卓抜な戦略を立てて、初期の水俣病闘争を実質的に支えたのが、有名な評論家の渡辺京二です。吉本隆明と谷川雁に影響を受けた社会活動家でもあった方です。

谷川雁は水俣の個人医院の次男で、長男は評論家の谷川健一ですね、谷川雁は詩人にして思想家で『原点が存在する』という詩集というか思想書などで有名ですが、彼が社会運動の一貫として「サークル村」というのを、熊本市内と、福岡の炭鉱村を軸に言論活動を展開していたのですが、渡辺京二もそれに参加していて、一時期、石牟礼道子もその活動に参加していて、それで知り合った仲なんですね。

渡辺京二は、大学卒業後は、図書新聞社に勤めていた時代があって、そのころ左翼系の知識人で圧倒的に牽引力を発揮していたのが吉本隆明で、思想的な影響を受けているんですね。

これは余談ですが、福島の原発事故が起きた後、原発バッシングが世の中で起きたとき、吉本隆明がそれを短視眼的だと批判して、科学力というものは肯定的な彼が、それを悪と決めつける思想は短絡的で危ないと批判したんですが、そのとき渡辺京二が「石牟礼さんは厳罰は必要悪だ言ってますよ」と言ったら、「彼女が言うのはいいんだ、俺も間違ってはいない」と笑いながら答えたと、渡辺京二が随筆で書いています。

渡辺京二は京都生まれなんですが、両親といっしょに中国大陸に移住した後、戦後、熊本にいろんな経緯があって移住していて、高校時代まで住んでいた熊本に帰ってきてからは、いろんな地方紙、思想誌を出して言論活動していた人です。

明治時代初期に日本を訪れた外国人が書いた日本見聞録というような本がたくさん残されていて、河合塾で永年英語の先生もしていた位、語学力があって、それらの本を熟読して、外国人にはこの日本の、江戸時代から明治時代への文化の変遷がどのように見えていたかということを論じた『逝きし世の面影』(平凡社二〇〇五年刊)という有名な本を書いた人です。日本近代史家でそのずっと前に書いた著作で、一九九九年度和辻哲郎文化賞などを受賞している人です。

『逝きし世の面影』の中で、日本文化は明治維新で死んでしまい、西洋の亜流文化というまったく違う文化の国になってしまったことを、丹念に事例を挙げて論証しているんですね。そんな彼の社会評論の視座と、石牟礼文学の主題はとても近くて、親和性があるわけです。それでお互いに気に入って、渡辺京二が刊行していた思想誌「暗河(くらごう)」という雑誌に投稿するように勧めたわけです。それで石牟礼道子は後に『苦海浄土』という本になる最初の、別名の随筆を書いたわけです。

それを読んだとき、渡辺京二は、これは世界を揺るがす大傑作になる可能性を孕んでいると直感したそうなんですね。でも物の書き方のイロハが解ってないと危惧して、以後、彼女がいろんな雑誌に原稿を書くときは添削指導と清書をしてあげたのですね。だから彼がいなかったら、石牟礼文学は世に出ていないわけです。

水俣病の闘争も、漁師さんたちといっしょに闘って欲しいと言われて、首を突っ込んだら、闘い方というものをまったく知らないな、という想いに駆られて、深入りしてしまったというんですね。

彼の戦略が実にユニークで、もちろんそれは、被害漁師たちとそれに寄り添う石牟礼道子の本当の願いに添った戦略だったんですね。

一言でいうと、実体を持たない観念語のチッソに対して、命の実感にそった「かたりのことば」の、直接的な対決の場を、世界に可視化して見せつけ、漁師たちが孤立している情況を逆転させて、チッソを世界から孤立させて、最後は勝利する、という戦略でした。

こういうと解りにくいでしょうが、チッソの幹部に直接会って、患者たちに心から謝罪させる、という闘争です。

チッソが雀の涙程度のお見舞金の提示という書面での回答で、のらくらと逃げ回るので拉致が明かないというので、支援の中の弁護士さんたちが法廷闘争を進言して、しばらくそれで闘争が進められた訳です。

それでもチッソは、たとえば、不知火海の魚介類に蓄積したというどういう物質が、風土病かも何かも解らないこの病気を引き起こしているか、病理学的に証明できない訴訟自体が成り立たないなどという、まさに言いがかり的、針の穴を通すような論証をしろという難題を吹きかけたりして反撃して時間だけが過ぎていったわけです。

その法廷には加害と被害の当事者でない、法律の専門家が、不毛な論争を繰り広げるという態のものになっていったわけです。

当事者同士が平等なテーブルで向かい合い、心のこもった声で、直接、患者に向き合い、謝罪か、謝罪ができないのなら、労りの言葉を、頭を垂れて行うべきだというのが、漁師さんたちの本当の気持なんですよ。

死んだ親族の命はもう戻らない。自分たちの失われた健康な体は元には戻らず、死ぬのを待つばかりだ。補償金なんかもらっても、なんの役に立つんだ、という気持ちですよ。

「わしらが聞きたいのは、わしらをこんな目に合わせた奴の声で、面と向かって謝ってもらいたいなんじゃ」というわけです。

ここに、観念的な軽い言葉で犯された現代社会の罪と、今ここに生きている命の実質性を伴ったことばで生きる人たちとの、修復できないほどの断絶があります。

これが現代日本の病の本質だと、いうのが石牟礼文学のもう一つの主題なんですね。それは文字文化到来以後の文化のことではないのです。万葉時代以前の、声の文化という直接性のあることばで生きている人たちの訴えですからね。

石牟礼道子はその本質を捉えて支援したのです。

その思いを実現させようと渡辺京二が編み出したのが、チッソの株の一株運動で、「水俣病を告する会」という被害者と支援者の会を立ち上げ、季刊誌を創刊して、支援金を伴う支援の輪を広げて、その資金でチッソの株を購入して、大阪で行われたチッソの株主総会に乗り込んで、壇上の社長を漁師さんたちが取り囲んで、位牌をかざして「この霊に謝れ、おれたちのこの傷付いた魂にあやまれ」と迫ったわけです。

これは録画されてテレビでも放映されましたから、反響が凄かったですね。社長が謝らないので、水俣の海で壜に汲んできた潮水を差し出して、「いっしょに、ここで飲もうよ、いっしょにあんたも水俣病になってみらんね」と鬼気迫る表情でせまったわけです。

社長はへたりこんでしまって。そのシーンは漁師さんたちの陰になって映っていません。そしたら石牟礼道子が

「もう、いいでしょう。水俣に帰りましょう。後は世間の方が裁いてくれなはるでしょばって」

と言うと、みんな頷いて巡礼姿のまま、怨の字を染め抜いた旗を畳んで、ハレバレとした表情で、株主会場を後にしたわけです。このシーンはやや省略された形で、改訂された『苦海浄土』の最後の山場として描かれています。

その後、裁判闘争を進めている弁護士たちから、さんざん批判されるわけです。なんて馬鹿なことをしたんだ、裁判に不利になる、むちゃくちゃな闘争だというのです。

この路線の違いで、石牟礼道子と渡辺京二が支援した初期水俣病闘争の漁師たちは、裁判路線の人から敵とみなされて、分裂してゆきます。石牟礼道子と渡辺京二も、その初期の闘争以後、手を引いています。その初期水俣病闘争を闘った漁師さんたちはもう亡くなっています。
 いくら批判されても渡辺京二はその路線を変えなかったんですね。

『苦海浄土』の後の方の、もうひとつの山場になりますけど、それが東京丸の内のチッソ本社ビル前の抗議座り込み、最後の社長室に踏み込んで一週間籠城して、暮から新年にかけてですよ、社長との直談判で直接的な謝罪を迫ったわけです。最後は社長が具合を悪くしたというので、救急車で運び出されたという顛末です。

このことが報道されるとマスコミ、国会でチッソの不誠実な態度が批判されることになり、真面目に被害補償に取り組みなさい、とチッソは政治的に指導を受けてしまい、渡辺京二が意図した通りに、今度はチッソが社会から孤立することになっていったわけです。

司法の世界も少しずつ患者側が有利になる判決や、調整案が出るように変化していったわけです。

その後、環境庁が発足したことは先に述べました。

渡辺京二と石牟礼道子にとって、このように初期水俣病闘争というのは、患者たちの実存の実質のあることばによる、資本主義社会を構成する実体のない、観念語世界への抗議活動であったということです。

ここにも、石牟礼文学の主題のひとつがあるわけです。

でも誰もそのように評する人はいなくて、ただの公害告発作家で、文学としては不備のある二流の作家だと見做されていました。

『苦海浄土』は最初、炭鉱村に拠点を置いていた上野英信という石牟礼道子の支援者の手で、岩波書店に持ち込まれていますが、断られているんですね。最後に講談社が出してくれたわけです。上野英信は岩波書店から本を出してもらった体験がありますから、当然、出してくれると思ったんですが、当時の編集者たちにはその価値が解らなかったのですね。どこか教条主義的な編集者たちで、これはドキュメンタリーなのか、フィクションの小説なのか判然としないし、ドキュメンタリーとしては事実の経過が解らず、小説としても今一、出来が悪いのでウチでは出せないなーと言われたと、上野英信が言っていますね。登場人物に現実のモデルがいますが、全部違う名前になっているんですよ。現実の資料を駆使して書いていますが、主題はどうみても文学的ですよ。それが解らなかったんでしょうね。

当時の大手出版社の編集マンにはエリート意識があるといいますか、作家に対しての態度が尊大なところがあったんです。今はそんなことはなくなって、対等な関係になったのか知りませんが。

近年、池澤夏樹が個人で世界文学全集を任されたとき、日本の作家として石牟礼道子だけを取り上げたのです。そこで改めて『苦海浄土』が若い読者にも知られて行って、さらに池上夏樹は日本前代文学全集の編集を依頼されたとき、『苦海浄土』以外の重要だと思う主要作品を網羅した本を出したのですね。

これが決定的でしたね。若い読者の熱烈な支持を受けたのです。石牟礼文学を日本が誇る世界水準の文学だと評する人が増えて、今日に至っています。

そのすべてのエッセンスが石牟礼俳句に詰まっているわけです。 

環境破壊という物理的な次元の問題だけではなく、人間精神と言葉、文化の荒廃、もしくは喪失の危機感として描く視点を持っていたのは、石牟礼道子だけだったわけです。

『苦海浄土』も加害企業のチッソとの闘争の面だけを読み取る人が多数だと思いますけど、漁師さんたちの暮しの姿を精密に水俣弁で再現している、たくさんの箇所にこそ、本当の主題があるわけです。

でもそういう読み方ができている評論家の文にまだ出会ったことがないんですね。不幸なことです。

 


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