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中嶋鬼谷個人紙「鬼瓦版」復刊第3号


 記事の「断章(一)」は複数の内容で構成されている。

第一話は、儒艮(じゅごん)の生態の記述から、辺野古の海を埋め立てて戦争の為の基地を建設する暗愚な一部の人類を対比させた独得の視点のエッセイと、自句、

      儒艮死す花咲く海藻夢に見て    鬼谷(『第四楽章』)

も添えての話題だ。その一節を引用する。
「儒艮は争うことが嫌いな生きもので、シヤチなどの攻撃をさけるため浅瀬に棲み、海藻を食べて悠然と暮らしている。立ち泳ぎしながら授乳する姿が人間に似ているところから「人魚」に喩えられもする。その儒艮が沖縄の辺野古の楽園を追われ、大海を彷徨い、その中の一頭と思われる儒艮か命を落とした。
「闘争は動物の本能」などと、かつて高名な俳人が放言したことがあるが、そんな俗説を儒艮の存在は否定し去った。儒艮は象の仲間で、陸上での争いを避けて浅瀬の海で暮らすようになったという。海藻を食べて暮らすので、他の動物を襲うこともない極めて平和な生きものである。その儒艮に敵が現れた。人間である。辺野古の海を埋め立てて戦争の為の基地を建設する暗愚な一部の人類である。」
 第二話は、芭蕉の門人の曲水(曲翠)の句

   おもふ事だまつて居るか 蟇   曲華(花摘続別座敷)

を引いての社会批判の随筆である。その全文を引く。
        ※       ※
曲翠は近江国膳所の本多家の藩士。芭蕉没後のことだが、藩の奸臣を誄殺し、自害した。
 句は「驀よお前はどんなに不満があってもただ黙ってこらえているようだが、本当はどうなのか」と問いかけているものである。
 加藤楸邨の、
  蟇誰かものいへ声かぎり   楸邨(『鮨風眼』)
 この句は、昭和十三年(一九三八)、日中戦争の泥沼化にともない、「国家総動員法」
が公布され、誰もものを言わなくなった頃の作。二句の時代は異なるが、人としての良心の苦悶を墓に託して詠んだ句である。楸邨句は曲翠句の本歌取とも思われるが、二句は時代を隔てて響きあう。
        ※       ※
 第三話は西田幾多郎の「国語の自在性」というエッセイ(「国語特報」第五号}九三六年刊掲載)を引いての俳句論である。西田の引用文を孫引きする。
《文化の発展には民族というものが基礎となり、言語がその最大の要素である。ギリシャ語は哲学に、ラテン語は法律に適すと言われる。日本語は何に適するか。一例をいえば俳句というものは、とても外国語に訳せないのではないか。それは日本語によってのみ表現し得る美であり、日本人の人生観、世界観の特色をしめしているともいえる。日本人の物の見方考え方の特色は、現実の中に無限を掴むにあるのである。》
 そして中嶋氏は月のように述べている。
「現実の中に無限を掴む」は、時代をこえて生きつづける俳句の本質であろう。
 西欧でも盛んに「HAIKU」が作られているようであるが、それらは日本の俳句とは別の短詩であろう。したがって日本語に訳せば外国語特有の韻は消え去る。」
 第四話は岩岡中正氏の時評を引いて、震災と俳句についてのエッセイだ。
 第五話は長距離トラックドライバーにして俳人との交流の話、第六話は、山口誓子の句を引いてのエッセイ。
  海に出て木枯帰るところなし  誓子(『遠星』昭和19年H月作)
 この句は元禄の俳人・池西言水の《凩の果はありけり海の音》の本歌取とも云われてきたが、誓子自身はこの句について、大蔵省機関誌「財政」(昭和32年5月号)に、「私は特攻隊の片道飛行のことを念頭に置いてゐた」と語り、『鑑賞の書』(昭和49年刊)でも、「特攻機を悼むこころを木枯に託したようである」と述べているという。
 この句を特攻機とは無関係とする説もあるが、中嶋氏は誓子の発言を信じたいという。そして茂吉の次の歌、
 真珠湾にくぐりてゆきし一隊の潜航艇は帰ることなし      (「あららぎ」昭和17年4月号)
を引いて、「誓子の木枯の句は茂吉の歌の本歌取とも考えられる」と述べている。
 
 最後の一枚は自句が掲載され、それを含むA4紙、三枚の個人紙だが、とても読み応えがある。
 最後に私が好きな掲載句を揚げる。

「花冷えの指」

朴咲きぬ花囃す風立ちにけり
雨晴の野川のにごり燕来る
小石拠れぱ糸遊の乱れけり
刻々と季逝きにけり蝌蚪の水
春荒れの騒立つ霧の蓮華なす
山擲躊素焼きの壷の冷めるころ
句を詠みぬ花冷えの指折りながら


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